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時空を超えがちな毎日。

★写真は、息子が1歳半のころのものです。
家の近所にバッカル(パンや日常雑貨を売る小間物屋さん)があって
そこから買い物をして帰る方の近くにこうやって手を出してトコトコと寄って行くと、パンを千切ってくれたりお菓子をくれたり、握手してくれたり、高い高いしてくれたり、とにかく子供好きなトルコ人は何らかしらあやしてくれるので、それが楽しくて、やたら、こうやって人に寄って行ってた時期。別にお腹が空いてた訳ではないらしい。
見っともないから止めなさい、と言いつつ、お爺ちゃんお祖母ちゃんも、実は『いやん(/ω\)イヤンうちの子可愛いからぁ~、みんな実は構いたがって喜んでるぅ~。』とか言って実は煽ってた。
親ばか爺莫迦婆莫迦のトルコ人あるある。
(;^ω^)

今日は火曜日で間違いなく「おじゃぴぃZoomミーティング」の日でした。
昨日は曜日間違えたバナシを書きましたが、いや、ホントマジで最近時空が歪んでる。時間の縮尺が揺れている。

子供の頃の通学路って、随分長かったし、時間も掛かってたはずなんだけど
成人して同じ道歩いてみると、めっちゃ近いし、子供の足でも数分で行き来出来る距離だったな、と思う。
でも、なんで、子供ん時は長い道のりに感じてたか、と言うと
友だちと話したり、横丁覗いたり、なんか拾ったり、猫を構ったり、
歩いている最中も「情動」が忙しかったんですよね。
感性が刺激されていて、時間が「濃かった」から、長く感じたりしてたんだと思うん。
で、大人になって、更に歳取って生きてる時間軸で、表面的に見て判断出来る事が(情報処理出来る事が)格段に増えて、見てるようでいて見ずとも予測して流せることばかりになると、同じ時間でも「情動」の揺れが少ないから時間が「薄い」んじゃないかしら。
だから、ささーーーーっと過ぎて行ってしまう。

アラフィフなおじゃぴぃ的には
もう、年季の入ったお見過ごし年齢
本来なら、大体の事は「おそらく『そう』、多分『こう』」と
見切ってやり過ごせるはずなんだけど

それが、どうしたことでしょう。

コロナ禍の渦に巻き込まれて生きる、この数か月。
ただ、表面だけ見て判断出来ることがめちゃめちゃ減って
深追いすることも、感じとることも増えてきた。
アラフィフの「情動」がグワングワン揺れている。

一日のうちに、ああでもないかもこうでもないかしら、と
思考を巡らすことも多く

勢い、時間の「濃さ」が小学校時代くらいに回帰してる

んじゃないかしら?

昨日のことなのに、数日前に感じたり
今朝のことなのに、昨日の事に様に感じたり
逆にずっと先だと思ってたことが、実は明日の約束だったり

呆けてるだけよ、とは言いっこなしよ。

絶対、時空は歪んできてるって。
タイムワープしても、もう驚かないし
驚かないでね。

全ての友人たちに健康と幸運を!

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