右上のバツを押せずにいつまでも世界にしがみついている日々
2020/05/10 お別れの花
丸3年、いっしょに過ごした後輩が、この5月半ばで異動になる。
6つ年上の彼女は、わたしより1ヶ月あとにうちの事務所にやってきた。
小柄でちゃきちゃき動く姿や、年齢のわりに子供っぽい物言いが最初は気になったけれど、前職でも弁護士秘書業務を経験しており、プライベートでは3児の母という、うちの事務所にはいないタイプの頼もしい新人だった。
自分だって入所1ヶ月のわたしが、初めて教育係として受け持ったのも彼女だった。
いわゆる女に嫌われる女で、誤解を招きやすいキャラクターに加えて、数字に残る仕事に関して優秀だった彼女は、女ばかりの事務所では、たびたび嫉妬の的になった。
その度に、彼女の教育係のわたしのもとへ、ばかばかしい苦情のメッセージが日がな届いたりと、辟易するようなこともたくさんあったけれど、したたかで野心家の彼女をわたしはけっこう好きだったし、先輩後輩として助け合いながら、時には同期のように親しく働いてきた。
そんな彼女が、新設される事務所へ異動することが発表されて間もなく、得体のしれないウイルスで、日本はあっという間に送別会もままならない状況になってしまった。
今日は、その彼女が今の事務所に出勤する最後の日。
朝ふと、事務所近くの美容室の予約を取って、それを口実に事務所に寄って、彼女にお花でも置いてきてあげようと思い立った。
夕方、事務所を尋ねると、彼女は一人ぼっちで、大量の荷物と格闘しながら途方に暮れていた。
「まだ片付かないんだよ、泣きそう」と、力なく笑う彼女に、お花とお菓子を手渡すと、彼女はそのままよろよろと座り込んでしまった。
わたしは、あまりにも疲れた様子の彼女にかけるうまい言葉が見つからず、「5人家族だったよね?旦那さんと、ちびたちと…お菓子、足りると思うんだけど…」などと、無言にならないためだけに一生懸命しゃべった。
いつもはおしゃべりな彼女も今日は無口で、叱られた子供みたいに俯いていた。
別れ際、「最後に握手しよっか」とわたしが手を差し出すと、その手を力強く握って彼女は「わたし、大丈夫だと思う?」と尋ねてきた。泣いてるんだか笑ってるんだかよくわからない顔だった。
元気よく「大丈夫!」と言って送り出してあげたかったけど、「大丈夫じゃなくてもいいから、連絡はしてくるんだよ」などと、歯切れの悪いことをもごもご言い残して事務所を出た。
外は、今にも崩れそうな天気だった。
慌ててビニール傘を買って美容室へ向かった。
[お別れの花]
2020/05/11 買い物依存症
朝、昨日の夕方お別れをした後輩からLINEが来ていた。
昨日いただいたお菓子は、家族には内緒で一人で少しずつ食べますと書いてあった。
お好きにどうぞと返信し、そのまま起きてシャワーを浴びた。
週明けの今日は、ビデオ通話でのミーティングがあった。
わたしはこのためにちゃんとお化粧をし、上半身だけ完璧に着替え、その時を待った。
お昼前、ミーティングが始まると間もなく、「ピーンポーン」の音。
しまった、ミーティングのことをすっかり忘れて、今日の午前中指定にしていた荷物が届いたようだった。
荷物が届いたことをへらへら伝えて通話を切り、玄関へ急ぐと、頼んでいたヘアワックスだった。今じゃなくてよかったなあこれ…。
気を取り直してミーティングに戻ると、思いのほか盛り上がっており、なかなか終わらない。嫌な予感がしてきた。今日うちに届く荷物は、さっき受け取った1つだけではないのだ。
嫌な予感は的中し、その後ピンポンは2度鳴り、わたしはミーティングを2度中座した。
ミーティングはごく砕けたものだったので問題ないけれど、買い物依存症か何かを心配されているかもしれない。
先日の日記にも、お花を触っている写真を載せたけれど、最近、外に出るとよくお花を愛でるようになった。
[つつじを触る]
もともとお花は好きで、見るとつい立ち止まったり、触れたり、においを嗅いだりしたい方なんだけれど、最近は特に、外で地面から生えたお花を見ることがうれしくて、つい写真まで撮るようになった。
つつじのお花の根元には、かすかに甘い蜜がすこしだけ隠されている。
小学生のころ、それを舐めるのが流行った時期があって、みんな学校の帰り道で、つつじのお花を咥えて歩いた。
記憶の中の、お花を咥えた子供たちは、ぼんやり湿気を帯び始めた、梅雨入り間近の通学路を、走ったり止まったり、寄り道しながら帰っていく。うなじにうっすら汗を浮かべて。
部屋がじめじめと暑い。
記憶の中の小学生たちみたいに、わたしも汗ばんだうなじに張り付く襟足のおくれ毛を鬱陶しく思っている。
2020/05/12 架空の喪失感
今日も仕事は大忙しだった。
在宅勤務がはじまって以降毎日、なんとなくやりたかったことを2つ3つ残したままギブアップする毎日。
夕方、担当案件の関係でわからずやのお医者さんと電話でやりとりする必要があり、あまりのわからずや加減に目眩がするかと思った。
何度も、わたしの言い方に落ち度がなかったか自問自答したけれど、わたしが思う限りの丁寧な対応をしてきたし、やっぱり先方がヘンテコなんじゃん!と思うと腹が立ってきて、ついカッとなってアイスを食べてしまった。
自分に落ち度はなさそうだけれど、やっぱりひどいことを言われるのはつらかったし、アイスを食べてしまった口実にするくらいは許してほしい、が本音。
日中、郵便局へおつかいに行くついでに、以前からたまに覗いていた無人のお花屋さんの前を通った。
ぼろぼろの無人販売所で、お客さんがいるのなんか一度だって見たことなかったのに、今日はなぜか大繁盛で、自分しか知らない秘密の場所を一つ失くしたみたいな気持ちになって、とぼとぼと帰ってきた。
たまにこうやって、わたししか知らなかったはずの何かが、もう自分のものではなくなったような錯覚で、自分勝手にさびしくなることがあるけれど、これも大人げないから早くやめないといけない。
最近、長年手放せなかったカラーコンタクトをやめて、急にクリアコンタクトで生活しているけれど、とくに支障なし。
黒目が小さくなってもわたしの顔はわたしの顔だったし、盛れてないけど気分は晴れやかで、どうして黒目が小さくなることをあんなに恐れていたのか不思議なくらい、すんなり受け入れることができた。
しかし、自分の黒目の色をまじまじと見るのなんて、いつぶりだろう。
なんとなく、自分の中の一つの時代が終わったような気持ち。
今の生活になって、いろんなことを始めたし、いろんなことをやめていってる。
最後、新しい何かになれるだろうか。
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