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虞美人草|夏目 漱石|※ネタバレ注意※

「虞美人草」は夏目漱石の長編小説で、1907年に発表されました。この作品は、明治時代の日本を背景に、複雑な人間関係と道徳的ジレンマを描いています。主人公の小野清三を中心に、愛情、義務、そして個人の欲望と社会的責任の葛藤が展開されます。物語は、清三が幼なじみの藤尾に愛情を抱きながらも、亡き恩師の娘・糸子との結婚を約束していることから始まります。藤尾の兄である宗近は、妹の幸せを願いつつも、自身も糸子に好意を寄せています。一方、糸子の叔父である甲野欽吾は、甥の小野を後継者として期待しています。作品のタイトル「虞美人草」は、美しくも儚い花として知られ、登場人物たちの複雑な感情と運命を象徴しています。漱石は、この物語を通じて、近代化する日本社会における個人の選択と責任、そして伝統的価値観と新しい思想の衝突を鋭く描き出しています。


```mermaid
graph TD
    A[小野清三] -->|恩師の娘| B[糸子]
    A -->|幼なじみ| C[藤尾]
    D[宗近] -->|妹| C
    D -->|好意| B
    E[甲野欽吾] -->|叔父| B
    E -->|後継者として期待| A
    
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    style C fill:#BAE1FF
    style D fill:#FFFFBA
    style E fill:#FFE4BA
```

一:叡山登山と哲学的対話

一の一:登山の始まりと会話

宗近君と甲野さんは叡山登山を始める。宗近君は四角な体躯の持ち主で、計画性のない行動的な性格。甲野さんは細長い体型で、思慮深く哲学的な性格。二人は登山の道中で年齢や人生について冗談を交えながら会話を交わす。

宗近君は「随分遠いね。元来どこから登るのだ」と尋ね、甲野さんは「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」と答える。二人は叡山の頑固さや登山の方法について議論する。

道中、大原女や八瀬女と呼ばれる地元の女性たちと出会う。宗近君は「この辺の女はみんな奇麗だな。感心だ。何だか画のようだ」と感想を述べる。二人は女性たちの呼び名について議論し、雅号や社会の様々な呼称について哲学的な会話を交わす。

一の二:甲野さんの休憩と内省

登山の途中、甲野さんは疲れて休憩を取る。彼は仰向けに寝転がり、空を見上げながら哲学的な思索に耽る。「反吐が出そうだ」と言いながら、実際には深い内省に入る。

甲野さんは「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛の反吐皆動の一字より来る」と述べ、人間の活動と苦悩の関係性を示唆する。さらに、「遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え」と、理想を追求することの重要性を考える。

宗近君は先に進むことを提案するが、甲野さんは動かない。宗近君は「君は愛嬌のない男だね」と言い、甲野さんは「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃す柔かい武器だよ」と返す。

一の三:杉林の中の道

宗近君が先に進んだ後、甲野さんは一人で杉林の中の道を進む。古い杉の木々に囲まれた静寂な雰囲気の中、自然の美しさと荘厳さを感じる。

「二百の谷々を埋め、三百の神輿を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提の仏達を埋め尽くして、森々と半空に聳ゆるは、伝教大師以来の杉である」と、杉林の歴史的な重みと神秘的な雰囲気が描かれる。

甲野さんは杉の根が作る自然の階段を登りながら、「万里の道を見ず」「ただ万里の天を見る」と詠む。

一の四:山頂での再会と景色

山頂で宗近君と再会した甲野さんは、琵琶湖の絶景を眺める。宗近君は「善哉善哉、われ汝を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」と甲野さんを迎える。

二人は湖上の帆や遠くの島々について会話を交わす。甲野さんが「白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」と言うと、宗近君は「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ」と応じる。

景色の美しさに感動しながらも、哲学的な話題や歴史的な話題に話が及ぶ。将門の話や、竹生島の話が出る。最後に、人生や死について議論を交わす。甲野さんは「ただ死と云う事だけが真だよ」と言い、宗近君は「いやだぜ」と返す。甲野さんは「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気はなかなかやまないものだ」と続け、宗近君は「やまなくって好いから、突き当るのは真っ平御免だ」と応じる。

二:紫の女と詩人の駆け引き

二の一:紫の女の登場

春の昼下がり、紫色の着物を纏った美しい女性が登場する。その姿は鮮やかで、黒髪と黒い瞳が印象的だ。女性の肌は蒼白く、薄化粧が施されている。静かに本を読む彼女の姿は、周囲の空間を支配しているかのようだ。

彼女が読んでいる本には、墓の前で跪く人物が描かれている。その人物は、愛する者への思いを切々と語る。羅馬と埃及の対比、生と死の境界、そして永遠の愛を求める願いが綴られている。女性はこの物語に深く没頭している様子で、時折顔を上げては周囲を見回す。

二の二:小野と藤尾の会話

小野という男性と藤尾という女性の会話が始まる。二人はクレオパトラについて話し合う。小野は詩人らしく、クレオパトラの恋を「暴風雨の恋」「九寸五分の恋」と表現する。藤尾はその表現に興味を示しつつ、小野に対して挑発的な態度を取る。

藤尾は小野に年齢を尋ね、自身の年齢を「御婆さん」と冗談めかして表現する。さらに、清姫と安珍の話題に触れ、自分を清姫に、小野を安珍になぞらえる。小野は藤尾の言葉に戸惑いながらも、「私は安珍のように逃げやしません」と応じる。

二人の会話は次第に緊張感を増し、恋愛や嫉妬の話題へと発展していく。藤尾は24歳で未婚であることが明かされ、小野との年齢差や関係性が暗示される。

二の三:母親の登場と緊張の高まり

突如、藤尾の母親が帰宅する。三人での会話が始まり、母親は藤尾のわがままさを嘆き、小野に対して娘の教育を任せている様子を語る。母親は藤尾の英語の上達を喜びつつ、兄との関係や教育方針について話す。

藤尾は母親の言葉を気にせず、引き続き小野との会話に集中する。彼女は再びクレオパトラの物語を読み始め、その最期の場面に没頭する。母親は藤尾の態度を「気楽」だと評し、本の扱いに注意するよう促す。

場の雰囲気は徐々に緊張感が高まり、藤尾と兄の関係、特に兄の本を庭に投げ捨てた事件が明かされる。小野は話題を変えようと試みるが、場の空気は複雑さを増していく。

二の四:金時計を巡るやりとり

母親の言葉をきっかけに、藤尾は座布団の下から金の時計を取り出す。彼女は突然立ち上がり、小野の胸にその時計を掛ける。この予期せぬ行動に、小野は戸惑いを隠せない。

母親は時計が小野に似合うと評し、藤尾は「こうすると引き立ちますよ」と言って再び席に戻る。小野は状況が呑み込めず、「全体どうしたんです」と問いかける。藤尾は「上げましょうか」と流し目で尋ねるが、小野の沈黙を受けて「じゃ、まあ、止しましょう」と言い、時計を外す。

この一連の出来事は、三人の関係性に新たな緊張と可能性をもたらす。金時計は単なる装飾品ではなく、藤尾と小野の関係を象徴する物となり、場の空気はより一層複雑さを増す。

三:京都の宿での静かな対話

三の一:雨の日の宿での会話

京都の宿で、雨が降る中、宗近君と甲野さんが滞在している。部屋には紺の背広や黒い靴足袋、歯磨き粉や楊枝が置かれている。宗近君は銘仙の丹前を着て、箕坐をかいて外を眺めながら、京都の寒さについて甲野さんに話しかける。甲野さんは空気枕の上で寝ており、京都を眠い場所だと評する。

二人は部屋の様子について軽口を交わす。金紙を張った襖や、そこに描かれた筍の絵について議論する。甲野さんは寝ながら日記を書き始め、「一奩楼角雨、閑殺古今人」と記す。宗近君は椽側に出て、隣家の様子を伺う。

甲野さんは日記に哲学的な内容を書き綴る。宇宙や人間関係を謎として捉え、それらを解く難しさについて思索する。宗近君は隣家から聞こえる琴の音に注目し、甲野さんに聞くよう促す。

三の二:隣家の琴の音と宗近君の興味

宗近君は隣家で琴を弾く女性に興味を示す。雨の中、琴の音が美しく響き渡る様子が描写される。宗近君は前日に見かけた女性の容姿について甲野さんに語る。彼女を「藤尾さんよりわるいが糸公より好い」と評する。

甲野さんは宗近君の話に冷ややかな反応を示す。二人は文学者と哲学者の違いについて冗談を交わす。宗近君は文学者を「霞に酔ってぽうっとしている」と評し、甲野さんは哲学者を「塩水の酔っ払」と返す。

会話の中で、甲野さんの表情に微妙な変化が現れる。その瞬間的な表情の変化を通じて、甲野さんの性格や人生が垣間見える様子が描写される。

三の三:甲野さんの家族事情

話題は甲野さんの家族事情に移る。甲野さんは家を継ぐことを拒否し、藤尾という女性に家を譲ることを考えている。宗近君は甲野さんの母親のことを心配するが、甲野さんは曖昧な態度を取る。

甲野さんは母親の意向に反して、家を継ぐことを拒否している。宗近君は甲野さんに結婚について尋ねるが、甲野さんは経済的理由で消極的な態度を示す。藤尾という女性の結婚についても話題に上がる。

会話の中で、甲野さんは宗近君の言葉に対して慎重に反応する。母親や家族関係について複雑な心境を抱えている様子が窺える。

三の四:亡き叔父の遺品

話題は宗近君の叔父(甲野さんの父)の遺品に移る。特に、ロンドンで購入された思い出の時計について詳しく語られる。その時計には柘榴石のついた鎖があり、藤尾が子供の頃から玩具にしていたという。

宗近君はその時計を譲り受けたいと申し出る。叔父が生前、宗近君に卒業祝いとしてその時計を贈ると約束していたことが明かされる。しかし、甲野さんは藤尾が既にその時計を持っている可能性を示唆する。

二人は時計にまつわる思い出を語り合い、亡き叔父への思いを新たにする。最後に、昼食に出された鱧料理について軽く触れ、京都の食文化についてのコメントで会話が締めくくられる。

四:過去と未来の間で揺れ動く小野清三

四の一:小野清三の生い立ちと現在

小野清三は暗い環境で生まれ育った。私生児とも噂される彼は、幼少期から友達にいじめられ、犬にも吠えられる存在だった。父親を亡くした後は人の世話になって生きてきた。水底の藻のように、周りの環境に流されるまま生きてきた小野は、ただ運命に従って生きるだけだった。

京都で孤堂先生の世話になり、小野は少しずつ自立の道を歩み始める。絣の着物を作ってもらい、年に20円の月謝も出してもらった。書物を教わり、祇園の桜や知恩院の勅額を見て回るようになった。

東京に出てからは、小野の人生が大きく変わる。周囲から秀才と評価され、教授からも有望視される。下宿でも重宝がられ、ついには陛下から銀時計を賜るまでになった。水底の藻が水面に浮かび、白い花を咲かせるように、小野は成功の道を歩み始めた。

四の二:小野清三の価値観と未来への期待

小野は世界を「色の世界」と捉え、形よりも色を重視する。彼にとって、世界の色は自己の成功とともに鮮やかになっていく。形式や道義にとらわれず、目の前の華やかな世界を楽しもうとする。

過去を振り返ることを避け、未来に期待を寄せる小野は、博士になることを目指している。藤尾という女性への思いを抱き、未来の自分を想像する。その未来には、博士号、金色に輝く時計、赤い柘榴石、そして藤尾の姿がある。

しかし、時折、自分の望む未来が手の届かないところにあるのではないかという不安に襲われる。未来を覗く「管」を通して見る景色が、時に暗く、不安定なものに変わることもある。それでも小野は、過去よりも未来に目を向け続けようとする。

四の三:孤堂先生からの手紙と小野の動揺

ある日、小野は恩人である孤堂先生からの手紙を受け取る。手紙を開封するのをためらう小野だが、結局読むことにする。手紙には、孤堂先生が娘の小夜とともに東京に転居する計画が詳しく書かれていた。

先生は20年ぶりに故郷を離れ、東京に移り住む決意をしたこと、荷物はなるべく少なくし、小夜の琴だけは持っていくことなどが記されていた。また、小夜の将来について小野と話し合いたいという意向も示されていた。

小野は手紙を読んだ後、過去の記憶が蘇り、不安に駆られる。これまで避けてきた過去が、突然現在に迫ってくる感覚に襲われる。部屋の中を歩き回り、落ち着かない様子を見せる。過去を忘れようとしていた小野だが、過去の方から近づいてくる現実に直面し、動揺を隠せない。

四の四:友人浅井との会話と小野の葛藤

小野が動揺している最中、友人の浅井が訪ねてくる。浅井は博覧会の話をし、小野を誘うが、小野は気乗りしない様子を見せる。

浅井との会話を通じて、小野は孤堂先生の娘との結婚話が進んでいることを知る。浅井は結婚を当然のことと考えているが、小野は結婚について消極的な態度を示す。「深い事情がある」と言って明確な返答を避け、先生には同情しているが結婚は簡単にはできないと述べる。

浅井は小野の銀時計に興味を示し、そのような栄誉ある物を持っていることが世間の評価を高めると言う。小野はそれを否定しつつも、内心では自分の立場の複雑さを感じている。

会話の後、小野は甲野の邸へ向かう。小野の中で、過去と未来、義理と自分の望みの間で葛藤が生じていることがはっきりと表れている。孤堂先生への恩と自分の将来の間で揺れ動く小野の姿が浮き彫りになっている。

五:保津川下りの旅

五の一:天竜寺の境内

甲野さんと宗近君は天竜寺の境内を歩いている。石畳の道を進むと、古き世の緑が左右から肩を襲う。本堂を見上げると、木賊葺の厚板が左右から内輪にうねり、大きな両の翼を険しき一本の背筋に集めている。その上にさらに小さな屋根が乗っかっている。甲野さんは本堂の構造がアリストートルの言う理想的な形に適っていると評し、夢窓国師の建築の素晴らしさを語る。

二人は蓮池のほとりで休憩し、欄干に腰掛ける。池には三寸の厚さの三階松が水に臨み、石には苔の斑が薄青く吹き出している。枯蓮の黄色い軸が去年の霜を弥生の中に突き出している。宗近君は煙草を吸い、吸い殻を池に捨てる。甲野さんはそれを咎め、夢窓国師はそんな悪戯はしなかったと言う。二人は日本の運命や人種間の戦争について議論を交わす。宗近君は日露戦争を例に挙げ、甲野さんはより広い視野で世界情勢を見るべきだと主張する。

五の二:嵐山への人々の往来

天竜寺の門前で、二人は嵐山に向かう人々の流れを目にする。世界を輪切りに立て切ったような山門の扉を左右に開いた中を、赤いもの、青いもの、女性、子供たちが次々と通り過ぎていく。京都の人々が春の嵐山を楽しむ様子を観察し、その美しさや優雅さについて語り合う。

甲野さんは「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」と言う。宗近君はそれを「小野的だ」と表現する。二人は京都の女性たちの装いについて議論する。甲野さんは女性たちが飾りすぎて人間の分子が少なくなると感じ、宗近君はその極端な例として京人形を挙げる。甲野さんは淡粧して活動する人が一番人間の分子が多くて危険だと述べる。二人は京都の人々の生活スタイルについて意見を交わしながら、停車場へ向かう。

五の三:保津川下りの開始

二人は亀岡駅で下車し、保津川下りの舟に乗り込む。舟は底が一枚板で平らかで、舷は水面から一尺ほどしか離れていない。赤い毛布に煙草盆を転がして座る。船頭は4人で、先頭は二間の竹竿、続く二人は右側に櫂、左に立つのも竿を持つ。櫂は粗削りに平げた樫の頸筋を太い藤蔓に巻いたもので、ぎいぎいと音を立てながら水を掻く。

川の流れは最初穏やかだが、すぐに険しい峡谷に入っていく。山城を囲む春の山々が聳え立つ中、舟は山峡に入る。保津の瀬に差し掛かると、水はごうと鳴り、舟は急流に突入する。宗近君は興奮し、この体験を夢窓国師よりも素晴らしいと評する。甲野さんは「自然は皆第一義で活動している」と述べ、二人は自然と人間の関係について議論を始める。

五の四:保津川下りの続き

川下りが進むにつれ、景色は刻々と変化する。大きな丸い岩が現れ、舟はその岩に向かって突進するかのように進む。岩は紫の裸身に水沫を浴び、舟は真っ直ぐにその岩を目指す。船頭の巧みな操縦で、舟は岩を避けて通過する。宗近君は「当るぜ」と身構えるが、舟は見事に岩を回避し、向こう側へ落ち出す。

上流に向かう空舟も見かける。その船を引く人々は、細引縄を肩から斜めに掛け、岩に飛び、岩に這って船を引き上げている。甲野さんと宗近君は彼らの仕事の厳しさを感じ取り、その日当について想像する。山の高い所では鉈の音が聞こえ、黒い影が空高く動くのが見える。二人はそれを見て「まるで猿だ」と驚く。

甲野さんと宗近君は自然の力強さや人間の適応力について話し合う。宗近君は急流を下る体験を愉快だと感じ、甲野さんはそれを「第一義の活動」と表現する。二人は自然と人間の関係性、第一義的な活動について哲学的な議論を交わす。甲野さんは「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳する」と述べ、宗近君は「肝胆相照らす」という言葉を用いて自然との一体感を表現する。

五の五:嵐山到着と偶然の再会

保津川下りを終え、舟は大悲閣の下に到着する。二人は松と桜の中を歩いて渡月橋に向かう。橋を渡る際、宗近君は以前琴を弾いていた女性を見つける。赤松の二抱えほどの木を背にした橋の袂の葭簀茶屋で、高島田の女性が休んでいるのを指さし、甲野さんに教える。

女性は瓜実顔で、薄く染めた綸子の被布を着て、正しく膝を組んでいる。甲野さんは女性の襟元から燃え出す半襟の模様に目を留める。宗近君はその女性が京都の人形ではなく東京からの来訪者であることを説明し、黒い羽織を着た人物が女性の父親らしいと推測する。

周囲は花見客で賑わっており、酔った男たちが「瓢箪に酔を飾る」ように腕を振って通り過ぎていく。甲野さんと宗近君は体を斜めにして、これらの人々を通す。嵐山の春の賑わいを目の当たりにしながら、二人はこの偶然の出会いに興味を持つ。

六:藤尾と糸子の対話、小野さんの介入、そして雨の到来

六の一:藤尾と糸子の対比的描写

糸子は丸顔に愁いを帯び、薄鶯の蘭の花の香りを身に纏っている。その印象は五本の指を同時に並べたようで、明確な特徴がない。足るとも云えず、足り余るとも評されない存在である。人に指し示す時、四本の指を折り、余る第二指だけで指すのが明確だが、糸子は五指を並べたような女性だと描写される。

一方、藤尾の指は爪先の紅を抜け出て縫針の先のように尖っている。見る者の目を一度に痛めるような鋭さを持つ。要領を得過ぎたものは欄干を渡り、水に落ちる恐れがあるとの比喩で、藤尾の危うさが示唆される。

二人は六畳の座敷で対話している。この会話は一種の戦いとして描写され、特に女性の会話は最も戦争に似ているとされる。

六の二:藤尾と糸子の会話の展開

藤尾は糸子に久しぶりの来訪を歓迎しつつ、外出しないことを指摘する。糸子は家にいる理由を父の忙しさと説明し、兄が結婚すれば出歩くだろうと答える。藤尾は春の一時性を強調し、糸子を外出させようとするが、糸子は家庭的な返答をする。

話題は糸子の兄の結婚相手探しに移る。藤尾は意図的に糸子を挑発するような言葉を投げかける。「あなたは私の姉さんになりたくはなくって」という藤尾の言葉に、糸子は思わず動揺を見せる。藤尾はそれを見て内心で冷笑する。

二人の会話は、表面的な親しさの下に隠された緊張感と駆け引きに満ちている。藤尾は言葉巧みに糸子を追い詰め、自身の優位性を示そうとする。糸子が無意識に言葉を漏らすと、藤尾はそれを捉えて更に優位に立とうとする。

六の三:小野さんの登場と会話の変化

小野さんが蹌踉としながら部屋に入ってくる。彼は過去に追われているような不安定な様子で、顔色が悪いことを藤尾と糸子に指摘される。小野さんは寝られないと言い、藤尾は論文を書いているのではないかと推測する。小野さんはこの推測に乗じ、論文を書いていると答える。

話題は京都に滞在中の宗近と欽吾に移る。藤尾は宗近からの手紙の内容を話題にし、京都の女性について語る。小野さんは京都の美人について、表情がなくあまり面白くないと評する。

藤尾は宗近の手紙の内容をさらに詳しく語り、自身の美しさを間接的に強調する。小野さんは藤尾の目と何度か視線を交わし、緊張感が高まる。

六の四:藤尾の想像力と糸子の現実主義、そして雨の訪れ

話題は京都の蔦屋という宿に移る。藤尾は京都の風景を詳細に想像し始める。裏二階から見える加茂川、遠くに煙る柳、東山、五重塔などを生き生きと描写する。しかし、糸子は現実的な指摘をして藤尾の空想を中断させる。

これにより藤尾は不機嫌になり、小野さんは二人の間で調停を試みる。小野さんは詩の真実性について語り、藤尾の機嫌を取ろうとする。

藤尾は再び想像を展開し、小米桜や隣家の庭、琴の音などを描写し始める。しかし、突然の雨の訪れにより、話は中断される。空が暗くなり、雨が降り始めると、糸子は帰り支度を始める。

最後に、雨がだんだんと激しくなる様子が描写される。細い雨糸が幣辛夷の花を掠め、次第に雨脚が強くなっていく様子が詳細に描かれ、章は締めくくられる。

七:夜汽車で交錯する運命の糸

七の一:春の京都から東京へ

春の京都を後にした四人の旅人が、東京行きの夜汽車に乗り込む。甲野さんと宗近君、孤堂先生と小夜子の二組が、互いを知らぬまま同じ車両に乗り合わせる。七条駅は活気に満ち、多くの乗客が博覧会見物のために東京へ向かう。駅のプラットフォームには黒山の人だかりができ、提灯の灯りが人々の動きを照らし出す。

汽車は闇を突き進み、乗客たちはそれぞれの思いを胸に秘めて旅路につく。車内は様々な世界が交錯する場となる。一人の人生には百の世界があり、それぞれが独自の中心を持ち、固有の円周を描く。怒りの世界は速く、恋の世界はゆっくりと回る。これらの小さな世界が、無関心な汽車の中で偶然に出会い、すれ違っていく。

七の二:甲野さんと宗近君の会話

甲野さんと宗近君は、車内で退屈しのぎの会話を交わす。京都の電車の遅さを揶揄し、「電車の名所旧跡だ」「電車の金閣寺だ」と冗談を言い合う。急行列車の快適さを語り、「第一義に活動している」と表現する。彼らは過ごしてきた京都の日々を振り返りながら、東京での新生活に思いを馳せる。

会話は途切れ途切れに続き、夜の闇の中を走る列車の音だけが響く。二人は時折、車窓の外を眺めるが、闇に包まれた景色からは速度を感じ取ることができない。宗近君が「随分早いね」と言うが、甲野さんは「比較するものが見えないから分らない」と冷静に返す。

七の三:孤堂先生と小夜子の対話

孤堂先生と小夜子は、過去の思い出を語り合う。小夜子が京都に来てから5年が経ち、その間の変化を振り返る。孤堂先生は髭を引っ張りながら、小夜子が京都に来た時の思い出を語る。嵐山への花見や、亡き母のこと、小野という人物の話題が上がる。

小夜子は、心の中で明るい夢を抱きながら、東京での再会を静かに待ち望んでいる。彼女の夢は、5年前の鮮明な記憶と結びついており、それは「命よりも明かである」と表現される。小夜子は、この明るい夢を胸に抱きながら、現実との出会いを期待して東へと向かう。

七の四:富士山と朝の到来

夜が明け、車窓から富士山が姿を現す。宗近君は興奮して富士山の雄大さを語り、「人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」と感嘆する。一方、甲野さんは冷静な態度を崩さず、「叡山よりいいよ」と控えめに応じる。

乗客たちは朝食を取り、新たな一日の始まりを感じる。沼津駅で列車が停車し、孤堂先生は弁当を買い求める。小夜子はまだ食欲がないようだが、孤堂先生は長芋や玉子焼きを美味しそうに頬張る。甲野さんと宗近君は食堂車に向かい、ハムエッグを注文する。彼らは食事をしながら、再び隣の車両で見かけた小夜子のことを話題にする。

七の五:新橋駅到着と別れ

新橋駅に到着し、四人の旅人はそれぞれの道へと別れていく。甲野さんと宗近君は、小野という人物が駅で誰かを出迎えていたのを目撃する。彼らは小野が小夜子を迎えに来たのではないかと推測するが、確信は持てない。

四つの小さな世界は、大都市東京で新たな展開を迎えようとしている。それぞれが抱える思いや運命は、まだ明かされぬまま、互いに交錯しながらも別々の方向へと進んでいく。停車場に突き当たった四つの小世界は、しばらくの間ばらばらになり、それぞれの物語を紡ぎ始める。

八:家族の緊張と社交の対比

八の一:甲野家の母子の対立

甲野家の庭には浅葱桜が夕暮れに曇っている。部屋では甲野の母が座っており、藤尾が入ってくる。二人は緊張した雰囲気の中で会話を始める。母は息子の行動に不満を抱いており、卒業してから二年経っても何もしないことを批判する。藤尾は24歳になっても結婚していないことについて母から指摘される。

母は宗近の祖父が藤尾に金時計をやると言ったことを持ち出す。藤尾はその時計を欲しがっているが、母は藤尾には持てないと言う。藤尾は立ち去る際、その時計を小野に渡すことを示唆する。

二人の会話は、家族間の不和と緊張関係を露呈させる。母は息子と藤尾の将来について心配し、藤尾は兄を「男らしくない性質」と評し、糸子との結婚を提案する。しかし、これらの提案や批判は、家族の溝をさらに深めるだけのようだ。

八の二:宗近家での社交的な会話

場面は一転して宗近家の座敷に移る。宗近の父、宗近、甲野、糸子らが集まり、明るい灯りの下で賑やかに談笑している。彼らは叡山への登山体験について話し合う。宗近と甲野は山についての知識が乏しいが、宗近の父は叡山の歴史や僧侶の生活について熱心に説明する。

話題は東塔、西塔、横川といった叡山の区域や、伝教大師の誕生地、さらには現代の僧侶の生活習慣にまで及ぶ。宗近は時折冗談を交えながら会話に参加し、その度に笑いが起こる。

やがて話は修行の厳しさや結婚の話に移る。宗近の父は甲野に結婚を勧めるが、甲野は消極的な態度を示す。一方、宗近は外交官試験の落第を自嘲気味に語り、「のらくら以上」と自称して周囲の笑いを誘う。

この場面全体を通して、軽妙な冗談や笑いが絶えず、和やかな雰囲気が描かれる。しかし、その裏には甲野の結婚に対する消極的な態度や、宗近の将来への不安なども垣間見える。

九:小夜子と小野の再会

九の一:小夜子の心情と環境の変化

小夜子は京都から東京へ引っ越してきた。新居は粗末で、天井には雨漏りの跡が見られ、庭も狭く寂しい。この環境の変化に小夜子は戸惑いを感じている。過去の思い出、特に小野との思い出が鮮明に蘇る。五年前の小野との別れから、小夜子は変わらぬ思いを抱き続けていた。しかし、東京での再会を前に、小野の変化を予感し不安を覚える。

新橋駅でのプラットフォームでの出迎えの際、小夜子は小野の変化に愕然とする。金縁の眼鏡、背広姿、整えられた髪、そして口髭。小野の外見は完全に変わっていた。小夜子は自分が昔のままであることを意識し、劣等感を抱く。小野の丁寧すぎる態度に、小夜子は距離感を感じ、寄り付けない雰囲気に戸惑う。

九の二:小野との対話

小野が小夜子を訪ねてくる。二人は京都の思い出、特に嵐山の話をする。しかし、会話はぎこちなく、小野の態度は形式的で冷たい。小夜子は小野に近づきたいと思うが、うまく表現できない。小野は小夜子の変わらぬ姿に対し、自分の変化を誇るように語る。

小夜子は小野の態度に戸惑いながらも、昔の小野の面影を探そうとする。しかし、小野は早々に帰ろうとし、小夜子の引き留めようとする試みも失敗に終わる。小夜子が父の話を切り出そうとするも、小野は聞こうとせずに去っていく。再会は小夜子の期待とは裏腹に、二人の距離を確認する結果となる。

小野が去った後、小夜子は惘然として縁側に座り込む。春の光が差し込む中、どこからか琴の音が聞こえてくる。小夜子は京都での日々を思い出し、自分が時代に取り残されたような感覚に襲われる。

九の三:孤堂先生との会話

小夜子の父である孤堂先生が帰宅する。東京の埃っぽさを嘆き、京都を懐かしむ。座布団を買ってきたことを話し、小夜子に敷かせる。小夜子は父に小野の訪問について話すが、父は小野の変化を肯定的に捉え、小夜子の悩みを理解できない。

小夜子は自分が変わっていないことを告げ、その困惑を父に伝えようとする。しかし、父は小野の忙しさや学問への熱心さを説明し、小夜子を慰めようとする。博士論文の準備で忙しいこと、いずれ一緒に博覧会に行く約束があることなどを話す。

しかし、これらの言葉はかえって小夜子の孤独感を深める結果となる。父は小夜子の気持ちを理解できず、単純に時間が解決すると考えている。小夜子は自分の気持ちを理解してもらえない歯がゆさを感じながら、黙って父の言葉を聞く。最後に父は夕食の準備を促し、小夜子は重い足取りで台所へ向かう。

十:謎の女の訪問と兄妹の会話

十の一:謎の女の宗近家への訪問

謎の女が宗近家を訪れる。彼女は波を立て、炭団を水晶のように輝かせる存在である。禅家では柳は緑、花は紅と言うが、謎の女は烏をちゅちゅと鳴かせ、雀をかあかあと鳴かせるほどの影響力を持つ。彼女の誕生以来、世界は急に複雑になった。近づく人を鍋の中に入れ、杉箸で掻き回すかのように人々に影響を与える。彼女は金剛石のように多面的で、その光の出所が分からない。右から見れば左に光り、左から見れば右に光る。

一方、宗近家の大和尚は、このような女性の存在を知らず、唐木の机で法帖を乗せ、信濃の国に立つ煙、立つ煙と鉢の木を謡っていた。謎の女は徐々に近づき、真昼間に乗り込んでくる。彼女の鍋の底からは愛嬌が湧き出て、笑いの波が漾うという。親切の箸で攪き混ぜるとされ、その手つきさえ能掛のようだ。

十の二:謎の女と和尚の対話

謎の女は丁寧に挨拶し、宗近家への訪問が遅れたことを詫びる。和尚は暖かくなった天候について話し、宗近家の桜の様子を尋ねる。謎の女は浅葱桜の珍しさを褒め、和尚は桜の品種が百種以上あることを語る。

話題は甲野家の息子・欽吾の結婚問題へと移る。謎の女は欽吾が病気を理由に結婚を拒んでいることを説明し、藤尾に婿を取らせたいと欽吾が言っていることを伝える。彼女は欽吾の頑固さに悩み、和尚に助言を求める。

和尚は藤尾を一の嫁にする案を提案する。謎の女はこの提案を喜ぶが、欽吾の反応を懸念する。彼女は欽吾が今のような状態では藤尾を片付けられない理由を説明し、自分が生みの親でないため強制できないことも述べる。

和尚は困惑しながらも、一から欽吾に話をしてみようと提案する。しかし、謎の女はそれも難しいと考え、欽吾の病気が良くならないうちは藤尾を片付けられないと結論づける。

十の三:宗近一と糸子の会話

場面は宗近家の中二階に移る。兄・一と妹・糸子が会話をしている。糸子は裁縫をしながら、一と冗談を交わす。一は糸子の部屋の明るさや装飾について言及し、二人は互いを「馬鹿」と呼び合って笑う。

話題は甲野家の母の訪問、花見の計画、一の外交官試験の結果などに及ぶ。糸子は一に落第の理由を尋ね、藤尾が学問のできる信用のある人を好むことを示唆する。一は自分が学問ができず落第したことを冗談めかして認める。

糸子は一に、小野という優等で銀時計をもらい博士論文を書いている人物について言及し、藤尾がそういう人を好むと述べる。一は自分と小野、甲野を比較し、糸子に誰が好きかを尋ねる。

最後に、一は京都での出来事を面白おかしく語り、琴を弾く別嬪との偶然の出会いを話す。汽車で一緒に東京まで来たという話に、糸子は不信感を示す。結局、一がそれを作り話だと認めると、糸子はめでたく笑った。

十一:博覧会の夜景と人々の交錯

十一の一:博覧会とイルミネーションの描写

文明の刺激を凝縮した博覧会は、夜になるとイルミネーションで彩られる。人々は新しいものや刺激的なものに集まり、立ちながら食事をするほど忙しく、同時に無聊をかこつ。不忍池の周りには様々な建物が立ち並び、その姿を水面に映している。三菱館は冠に紅玉を嵌めたような形で、赤い屋根が目を引く。外国館や台湾館なども、それぞれ特徴的な外観で夜の闇に浮かび上がる。

イルミネーションは空を焦がすように輝き、水面にも美しく映り込む。池の水は昼でも死んでいるように静かだが、夜になると逆さまに映る光景が水面を彩る。橋の上には人が溢れ、歩くのも困難なほどの混雑ぶりだ。電飾で飾られた橋は、水面に映る光とともに幻想的な風景を作り出している。

十一の二:小野一行の博覧会体験

小野さんは孤堂先生と小夜子を連れて博覧会を訪れる。人混みの中を歩くのは大変で、特に橋の上では身動きが取れないほどだ。押し合いへし合いの中、三人は必死に一緒にいようとする。孤堂先生は東京の人出の多さに驚き、怖れを感じている。「怖ろしい人だね」と何度も繰り返す。小夜子は疲れを感じ始め、心持ちが悪くなり休憩を希望する。

小野さんは二人を気遣いながらも、自分が当世的であることに密かな誇りを感じている。多数の当世の人々の中で、自分がもっとも当世であると自負する。しかし同時に、時代遅れの「御荷物」を二人も背負っていることに肩身の狭さも感じている。三人は茶屋で休憩を取ることにする。

十一の三:宗近一行との遭遇

宗近、甲野、藤尾、糸子の一行も博覧会を訪れている。彼らもまた茶屋で休憩を取ることにする。宗近は小野一行の存在に気づき、甲野の袖を引いて知らせる。藤尾はすぐに気づくが、知らぬ振りをする。糸子は無邪気に小野一行の存在を指摘する。

茶屋の中で、宗近一行は小野一行の近くの席に座ることになる。藤尾は小野の存在を意識しながらも、平静を装おうとする。彼女の眼は怪しい輝きを帯び、頬の色は少し熱すぎるように見える。宗近は冗談を言いながら場を和ませようとするが、藤尾の態度は冷たいままだ。

十一の四:人々の会話と心理描写

茶屋での会話を通じて、登場人物たちの複雑な心理が描かれる。宗近は「亡国の菓子」という言葉を使って西洋菓子を揶揄し、孤堂先生の古風な考え方を話題にする。糸子は兄の言葉を訂正し、父の言葉を正確に伝える。藤尾は終始無言を貫き、窓の外のイルミネーションを見つめ続ける。

甲野は「驚くうちは楽がある。女は仕合せなものだ」と言い、藤尾の心を刺激する。この言葉は藤尾の耳に嘲りの鈴のように鳴り続ける。宗近は最後に「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と言い、藤尾の肩を叩く。藤尾の胸は紅茶で焼けるように熱くなる。

一行が茶屋を出る際、藤尾は女王の人形のように昂然とした態度を取り、小野の存在を無視しようとする。しかし、甲野の言葉と宗近の行動は、藤尾の心に深く刺さり、家に帰るまで彼女の心を乱し続ける。

十二:過去に追われる詩人と小夜子との再会

十二の一:小野さんの葛藤

小野さんは、文明の詩人として金銭的に恵まれない状況に悩んでいた。彼は文明の詩を実現するために財産が必要だと考え、藤尾との結婚を望んでいた。藤尾には中以上の恒産があり、欽吾は多病であることから、実の娘に婿を取る可能性もあると小野さんは考えていた。しかし、過去から逃れられず、京都の小夜子との関係に悩まされていた。

小野さんは、孤堂先生の世話をするためにも早く藤尾と結婚したいと考えていた。人の難儀を救うのは美しい詩人の義務であり、この義務を果たして濃やかな人情を現在に残すのは、温厚な小野さんにもっとも恰好な振る舞いだと彼は考えていた。しかし、何事も金がなくては出来ない。金は藤尾と結婚せねば出来ない。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。小野さんはこのような論理を展開していた。

十二の二:小夜子との再会

数日ぶりに小野さんは孤堂先生と小夜子を博覧会へ案内した。その後、小夜子が小野さんの部屋を訪れる。小野さんは藤尾のところへ行く予定だったが、小夜子の訪問に戸惑う。二人の会話は気まずく進む。小夜子は博覧会の感想を述べ、孤堂先生が雑踏を嫌がっていたことを伝える。

小夜子は父親からの依頼で、小野さんに買い物に付き添ってもらいたいと言う。しかし、小野さんは急いで出かける予定があると断る。代わりに、品物の名前を聞いて、帰りに買って晩に持っていくことを約束する。小夜子は悄然として帰り、小野さんは急いで表へ出る。

十二の三:藤尾の心境

藤尾は、小野さんが数日来ていないことに不満を感じていた。彼女は小野さんを自分の思い通りに操ることができる相手だと考えていた。藤尾の解釈した愛は、相手を玩具のように扱うものであった。彼女は自分のために愛することは理解するが、人のために愛することの存在を考えたこともなかった。

しかし、昨夜の博覧会で小野さんと小夜子を見かけたことで、彼女の心は動揺していた。藤尾は自分の気持ちを母親に打ち明けることはせず、小野さんの来訪を待っていた。彼女は小野さんに詫びさせようと決意し、同時に兄と宗近にも詫びさせなければならないと考えていた。

十二の四:小野さんと藤尾の対面

小野さんが藤尾の元を訪れると、藤尾は冷たい態度で迎える。彼女は昨夜の博覧会での出来事を匂わせ、小野さんを追い詰める。小野さんは言い訳を試みるが、藤尾の鋭い追及に対して適切な返答ができない。

藤尾は博覧会で奇麗な人間を見たと言い、小野さんを困惑させる。さらに、兄と一さんと糸子さんと一緒にイルミネーションを見に行ったこと、池の辺の亀屋の出店でお茶を飲んだことを告げる。小野さんは席を立ちたくなるほど追い詰められる。

最終的に、小野さんは京都から故の先生が来たという言い訳をする。藤尾はその説明を受け入れるふりをしながらも、小野さんへの不信感を募らせていた。彼女は京都の先生を亀屋に案内するよう提案し、自分も一さんに連れて行ってもらうつもりだと告げる。約30分後、小野さんは藤尾の家を後にする。

十三:甲野と糸子の静かな邸宅での対話

十三の一:甲野の訪問と邸宅の様子

太い角柱を二本立てた門を通り、甲野は大きな屋敷を訪れる。正面には芝生を土饅頭に盛り上げ、松を格子のように植えている。玄関の廂には浮彫の波が見える。座敷との仕切りには白襖に大雅堂流の草体で文字が書かれている。甲野は玄関で細い杖を鳴らすが、応答がない。屋敷は人の住む気配もないほど静かで、車の音の方が賑やかに聞こえる。

やがて唐紙が開く音がし、清を呼ぶ声がする。足音が近づき、障子が開く。糸子と甲野は顔を見合わせる。糸子は父が謡の会に出かけたことを伝え、甲野を座敷に案内する。座敷は八畳で、長押作りに重い釘隠しがあり、床の間には常信の雲竜の図が掛けられている。青磁の香炉を載せた紫檀の卓もある。

十三の二:昨夜の出来事を巡る会話

二人は離れて座る。書生の黒田が現れ、茶菓子を運んできて去る。甲野は昨夜の出来事について尋ね、糸子が疲れていないか気遣う。糸子は電車で往復したので大丈夫だと答える。イルミネーションが面白かったという糸子に、甲野は他に面白いものがあったか尋ねる。

糸子は小野が連れていた美しい女性について話題にする。甲野はその女性を知っているか問われ、顔は知っているが話したことはないと答える。糸子はその女性のことを面白かったと言うが、理由は明確にしない。二人の会話は要領を得ないまま続く。糸子の二重瞼に寄る波が、寄りては崩れ、崩れては寄る様子が描写される。

十三の三:庭の小さな花と人生観の対比

甲野は庭に咲く小さな花に気づく。鷺草とも菫とも片づかない、数少ない花だ。糸子はその花を見て驚く。甲野はその花を「昨夜の女のような花だ」と表現する。糸子の素直な反応に甲野は感心し、彼女の気楽さを肯定的に評価する。

甲野は「あなたは気楽でいい」と真面目に言う。糸子は「そうでしょうか」と真面目に答える。糸子は自分の性質は生まれつきのもので変わらないと言うが、甲野は父や兄の傍を離れれば変わると主張する。甲野は糸子の現状を「それでいい」と肯定し、変わらないでほしいと伝える。

十三の四:藤尾への憧れと甲野の警告

糸子は藤尾のように利口になりたいと言う。甲野は藤尾のような女性が多すぎると危険だと警告する。藤尾が一人出ると、昨夜のような女性を五人殺すと表現する。糸子はこの言葉の意味が分からず、怖がる様子を見せる。

甲野は糸子に、恋をしたり結婚したりすると変わってしまうと伝える。甲野は糸子の現在のままでいることが大切だと強調し、嫁に行くのはもったいないと言う。この言葉に糸子は動揺を隠せず、顔を赤らめて俯く。糸子の可愛らしい二重瞼が続けざまに二三度瞬く。最後に、庭の小さな花が依然として春を乏しく咲いている様子が描写される。

十四:小野清三の心の葛藤

十四の一:夕暮れの町の風景

夕暮れ時の町の様子が細かく描写される。赤い札を下ろした電車が通り過ぎ、町内の風を巻き上げていく。按摩が恐る恐る道を渡り、茶屋の小僧が笑いながら臼を挽く。旗振りの着ているヘル地の服は埃で黄ばんでいる。古本屋から洋服を着た人が出てくる。寄席の前には鳥打帽をかぶった人が立ち、今晩の演目が白く板に書かれている。空には電線が張り巡らされ、一羽の鳶も見えない。上空の静けさとは対照的に、地上は非常に雑多な世界である。

このような情景の中、宗近という男が大きな声で誰かを呼び止める。呼ばれたのは二十四五の夫人だったが、彼女は知らぬ顔で歩き続ける。宗近は胸を張って走り出し、その夫人の肩に手をかける。

十四の二:宗近と小野清三の出会い

肩をつかまれた人物は小野清三であることが判明する。小野は両手に何かを持っており、宗近に呼ばれても気づかなかったと言う。宗近は小野の歩き方が妙だと指摘し、小野は持ち物のせいだと説明する。小野が持っていたのは紙屑籠と洋灯の台だった。

二人は歩きながら会話を交わす。宗近は小野が昨夜イルミネーションを見に行ったことを知っており、同伴した女性について尋ねる。小野は彼女が故先生の娘だと説明するが、宗近は二人が夫婦のように見えたと言う。小野は困惑しながらも、話題を変えようとする。

宗近は小野に対し、文学者は美術品のようなものだと皮肉を言う。また、学者は本を読むだけで何も自分の滋養にならないと批判的な発言をする。小野はこれらの発言に対して適当に受け答えをしながら、心中では不安を感じている。

十四の三:孤堂先生の家での会話

小野は孤堂先生の家を訪れる。先生は体調が優れず、寝ていたところだった。小野が持参した洋灯の台を見せると、先生は喜ぶ。しかし、先生の様子は普段より弱々しく見える。

二人は小夜子の将来について話し合う。先生は小野に結婚の意思を確認しようとするが、小野は明確な返事を避ける。先生は小野の収入や生活状況について詳しく尋ね、早く結婚すべきだと促す。小野は学問や書籍購入にお金がかかることを説明しようとするが、先生にはそのような事情が理解できないようだ。

小野は二三日の猶予を求め、よく考えてから返事をすると約束する。先生はそれを了承するが、小夜子のことを早く片付けたいという思いを伝える。

十四の四:小野の内面の葛藤

小野は先生の家を出た後、月夜の中を歩きながら自分の気持ちを整理する。彼は頭脳や学問には自信があるが、気が弱いために困難な状況に陥っていると感じる。小夜子との結婚を期待される一方で、藤尾への思いも捨てきれない。

小野は自分が人情に絡まれ、意思が弱いことを自覚する。宗近のような気の毒気の少ない人物や、甲野のような超然とした態度を取れる人物であれば、この状況をうまく切り抜けられるだろうと考える。しかし、自分にはそれができない。

小野は利害よりも人情が自分を動かす第一の力だと認識している。しかし、この優柔不断な態度ではいけないと自覚し、何かしら決断しなければならないと考える。

十四の五:決断の先送り

小野は二三日の猶予を得たことで、その間によく考えた上で決断しようと決める。もし良い知恵が出なければ、友人の浅井に孤堂先生への談判を頼むことも考える。自分のような情に篤い人間には断り切れないと思い、人情に拘泥しない浅井に頼るしかないと結論づける。

小野はこのような思考を巡らせながら、静かで重い宵の中を歩き続ける。月は天にあり、星はかすかに輝いている。小野の周りの世界は、彼の心の重さを反映するかのように、静かで重い雰囲気に包まれている。

十五:家族の葛藤と結婚問題

十五の一:甲野欽吾の書斎と小野の羨望

甲野欽吾の書斎は南向きで、フランス式の窓から明るい日差しと温かい風が入る。緑の羅紗を張った机、洋卓、壁際の書棚など、洗練された調度品が配置されている。書棚には父が西洋から取り寄せた本が並び、金文字が美しく輝いている。

この書斎を見るたびに、小野は羨ましさを感じる。小野は、自分が立派な頭脳を持っていると自負しており、この環境で勉強や研究ができれば、博士論文もすぐに書けると考える。しかし、現在の下宿暮らしでは、周囲の騒音に悩まされ、過去の義理人情に縛られている。小野は、自分の才能を活かせる環境がないことを嘆き、甲野家の書斎を占有したいと強く願う。

小野は、甲野欽吾との学歴や能力を比較し、自分の方が優秀だと確信している。欽吾が何の研究もせずに書斎を占有していることに不満を感じ、自分がこの部屋の主人になれば、すでに相応の仕事をしているだろうと考える。小野は、この不公平な状況を天の配剤として忍んでいるが、いつか自分にも幸運が訪れることを願っている。

十五の二:甲野家の家族関係

甲野家の母と娘の藤尾は、日本間で欽吾の結婚問題について話し合う。母は欽吾に結婚を勧めたいが、欽吾は乗り気ではない。母は、欽吾の健康状態を心配しつつも、結婚が彼を元気にするかもしれないと考えている。

一方、藤尾の結婚相手として小野が候補に挙がっている。母は宗近家との関係も考慮しているが、宗近家の一が外交官試験に合格する見込みがないことを理由に、小野との縁談を進めようとしている。藤尾は小野との結婚に前向きだが、宗近家との関係を完全に断ち切ることには慎重な態度を示す。

母は、欽吾に藤尾の結婚について相談しようと決意する。家族間の複雑な事情や思惑が絡み合い、結婚問題をめぐる緊張が高まっている。母は、藤尾に小野と大森へ遊びに行くよう提案し、欽吾の反応を見たいと考える。

十五の三:欽吾と母の対話

欽吾の書斎で、母と息子が向かい合って話し合う。母は欽吾の健康を気遣いつつ、結婚を勧める。しかし、欽吾は応じず、代わりに家と財産を藤尾に譲ると言い出す。母は困惑し、それでは自分たちが困ると訴えるが、欽吾の意思は固い。

話題は藤尾の結婚に移り、小野と宗近家の一のどちらが良いかで意見が分かれる。欽吾は宗近家の一の方が母を大事にすると主張するが、母は藤尾の意思を尊重しようとする。欽吾は、父の遺品である金時計の約束を持ち出すが、母はそのような約束はなかったと否定する。

母は、欽吾が家を継がないことで、亡き父に申し訳ないと感じている。一方で、藤尾の将来を心配し、養子を迎える可能性も示唆する。欽吾は、母の本心を探りながら、冷静に対応しようとする。

十五の四:藤尾の意思表明

藤尾が書斎に呼ばれ、三人での話し合いが始まる。欽吾は藤尾に家と財産を譲ると告げる。藤尾はこれを受け入れるが、母の世話をする条件には特に反応しない。

藤尾の結婚相手について、欽吾は宗近家の一を推すが、藤尾は断固として小野を選ぶ。藤尾は小野を「詩人」「高尚」「趣味を解した人」「温厚の君子」と評し、欽吾には小野の価値が分からないと主張する。藤尾は、一を理解できる欽吾には、小野の価値は決して理解できないと断言する。

最終的に、欽吾は藤尾の意思を尊重し、小野との結婚を認める。藤尾は自信に満ちた態度で、小野との結婚を決意し、部屋を出て行く。この場面で、家族間の価値観の違いや、それぞれの思惑が鮮明に浮かび上がる。

十六:宗近家の家族会議と糸子の葛藤

十六の一:宗近家の父と息子の会話

宗近の父は黒八丈の襦袢姿で、新たに入手した骨董品の煙草盆を愛でていた。その盆は祥瑞の染付で、山や柳、人物が描かれ、金泥の蔓が這う独特な形状をしていた。そこへ宗近が活発に帰宅し、カシミヤの靴下袋を履いた姿で現れる。父は息子の急ぎ足を指摘するが、宗近は暑さのせいだと応じる。

宗近は外交官試験に合格したことを報告する。父は喜びつつ、息子の将来を案じて結婚の話を持ち出す。宗近は甲野家の藤尾を希望すると伝えるが、父は甲野家の複雑な事情を説明する。甲野欽吾が家を出る可能性があり、藤尾に養子を迎える必要があるかもしれないという。また、甲野の母が宗近の身分が定まってから改めて相談したいと言っていたことも伝える。

十六の二:宗近と妹・糸子の対話

宗近は中二階で勉強中の妹・糸子のもとを訪れる。糸子は読んでいた本を隠そうとするが、宗近に見られてしまう。二人は軽口を交わしながら、糸子の年齢や読書の趣味について話す。

宗近は突然、糸子に結婚の話を切り出す。最初は冗談めかして話を進めるが、次第に真剣な話し合いになる。宗近は自身の藤尾との結婚計画を説明し、それに関連して甲野欽吾との結婚を糸子に提案する。

糸子は動揺を隠せず、涙を流しながら結婚を拒否する姿勢を見せる。彼女は甲野が家や財産を捨てようとしていることに理解を示し、それが病気のせいではなく本心だと主張する。宗近は妹の気持ちを理解しようと努めるが、糸子の本心を掴むのに苦心する。

十六の三:糸子の心情と宗近の説得

糸子は結婚に対して複雑な感情を抱いている。彼女は「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」と問いかけ、現状維持を望んでいることを示す。糸子は父と兄のそばにいたいと言い、結婚によって人間性が変わることを恐れている。

宗近は妹の幸せを願い、甲野との結婑を勧める。彼は糸子に、結婚してさらに人間性が磨かれ、夫に愛されることの価値を説く。糸子が甲野からの求婚を疑問視すると、宗近は責任を持って話を進めると約束する。

最終的に糸子は明確な答えを出さない。宗近は外国へ行く前に妹の幸せを確かめたいという思いを伝え、甲野との結婚を実現させると誓う。しかし、糸子は依然として躊躇している。会話は父の謡が聞こえ始めたところで終わり、宗近は中二階を降りていく。

十七:揺れ動く青春の友情と恋

十七の一:小野と浅井の郊外での対話

小野と浅井は麦畑の中を抜けて橋まで来た。春の陽気に包まれる中、二人は会話を交わす。小野は井上先生との縁談を断りたいと考え、浅井に仲介を依頼する。小野は先生への恩義は感じているものの、結婚問題は人生の大事であり簡単に決められないと説明する。浅井は軽々しく引き受けるが、小野は彼の無責任さを内心危惧する。

小野は井上家への経済的支援は続けると約束し、破談の申し込みだけを浅井に任せる算段である。彼は翌日藤尾と大森へ遊びに行く約束があり、その後なら藤尾との関係を絶つのは難しくなると考えていた。浅井は宗近を訪ねる予定だと告げるが、小野はそこで井上家の話をしないよう念を押す。

十七の二:甲野邸での宗近の思いがけない来訪

宗近は突然甲野邸を訪れる。彼は外交官試験に合格し、近々欧州へ渡る予定だと報告する。甲野は無関心を装いながらも、宗近の様子を注意深く観察する。甲野の部屋の空気が悪いと感じた宗近は窓を開け、甲野が描いていた幾何学模様に興味を示す。

二人が庭に出ると、新座敷で小野と藤尾が親しげに談笑している場面に遭遇する。藤尾は小野の胸に金の鎖を掛け、よく似合うと笑う。この光景を目にした宗近は動揺するが、甲野は彼を制して書斎に連れ戻す。甲野は部屋の扉に鍵をかけ、二人きりになる。

十七の三:甲野の衝撃的告白と宗近の懇願

書斎に戻った甲野は、宗近に衝撃的な告白をする。甲野は家と財産すべてを藤尾に譲渡したと明かす。母親との複雑な関係や、家を出る決意を語る甲野に、宗近は困惑しながらも同情を示す。甲野は母親を「偽物」「謎」と呼び、自分が家を出ることで母や妹のために計らっていると説明する。

宗近は涙を流しながら甲野の決断を惜しむが、甲野は「要らないもの」を手放すだけだと主張する。途方に暮れた宗近は、甲野に自宅への同居を提案する。さらに、妹の糸公との結婚を懇願する。宗近は糸公が甲野の価値を真に理解している唯一の人物だと信じており、二人の結婚が甲野の救いになると考えているのだ。宗近は糸公を「尊い女」「誠のある女」と称え、甲野に彼女を受け入れるよう必死に説得する。

十八:小野の破談と甲野の出奔

十八の一:孤堂先生宅での対話

孤堂先生は病床に伏せており、小夜子が看病していた。宗近老人が訪れ、小野の破談について話し合う。孤堂先生は小野の行動に憤慨し、自分が馬鹿を見たと嘆く。小夜子のことを気遣い、無理に行く必要はないと慰める。宗近老人は事態を収拾しようと努め、息子が助力することを提案する。

小夜子は泣きながら諦めの言葉を口にするが、宗近老人は自分が来た意味を強調し、小野との再会を提案する。息子が事理をわきまえた人間であり、後々迷惑をかけることはないと説得を試みる。孤堂先生と小夜子は明確な返答を避け、場の空気は複雑さを増す。

宗近老人は小野自身が来て断るべきだと主張し、小夜子の気持ちを確認しようとする。しかし、小夜子は返事をせず、泣き声だけが聞こえる。この状況に、孤堂先生は娘を持つことの難しさを実感する。

十八の二:小野宅での宗近君の訪問

小野は藤尾との約束を気にしながらも葛藤している。宗近君が突然訪問し、真面目になることの重要性を熱心に説く。人生において真面目になる機会の重要性と、それがもたらす心の安定について語る。真面目になることで得られる自信や精神の成長についても説明する。

小野は自身の弱さを認め、生まれつきだからどうしようもないと告白する。宗近君はさらに、この危機的な時期こそ性質を改める好機だと諭す。勉強や学問よりも、真面目になることの大切さを強調する。

最終的に小野は心を動かされ、小夜子との結婚を決意し、藤尾との約束を破棄することを決める。自分の過ちを認め、これからは真面目に生きる決意を表明する。宗近君は小野の決意を聞き、次の行動について相談する。

十八の三:甲野家での騒動

甲野欽吾は突然家を出ることを決意し、父の遺影を持ち出そうとする。書類や日記を燃やし、部屋を片付け始める。母親は息子の行動に困惑し、雨の中での出立や藤尾への配慮を求めて引き留めようとする。

そこへ糸子が現れ、欽吾の出奔を手伝おうとする。母親と糸子の間で、義理や世間体についての議論が交わされる。母親は世間への配慮を主張し、出ていくなら出ていくように筋を通すべきだと主張する。一方、糸子は欽吾の気持ちを理解し、出たいならそのまま出るべきだと反論する。

欽吾は黙って二人のやり取りを見守りながら、自身は子供に戻りたいという願望を口にする。この議論は平行線をたどり、世代間や価値観の違いが浮き彫りになる。雨の音が激しくなる中、三者三様の立場が明確になっていく。

十八の四:全員の対面と真相の暴露

宗近君が小野と小夜子を連れて甲野家を訪れる。その後、藤尾も激しい雨を衝いて到着し、場は緊張感に包まれる。宗近君は小野と小夜子の関係を藤尾に明かす。藤尾は激しく否定し、小野との関係を主張する。

小野も自身の過ちを認め、これまでの軽薄な行動を謝罪し、小夜子との結婚を宣言する。新橋に行かなかった理由も説明し、許しを請う。藤尾は激怒し、小野から貰った時計を宗近君に投げつける。

宗近君はその時計を壊し、自身の真意を示す。この行動が単なる悪戯や時計欲しさではなく、より深い意味を持つことを主張する。甲野も宗近君の行動を支持する。一連の出来事に藤尾はショックを受け、その場に崩れ落ちる。この場面で各登場人物の本質が露わになり、関係性が大きく変化する瞬間となる。雨の音が激しさを増す中、物語は新たな局面を迎える。

十九:藤尾の死と甲野の思索

十九の一:藤尾の最期の情景

春の雨が一日中降り続いた後、梅、桜、桃、李の花々が散り果てた。藤尾は北枕で横たわっていた。友禅の小夜着には片輪車が染め抜かれ、その上には蔦が這っていた。黒髪は乱れ、紫の絹紐は取り除かれていた。顔色は変わっていたが、濃い眉はそのままで、母が丹念に撫でて眼を閉じさせた。

敷布の上には潰れた時計が置かれ、鎖だけが無事だった。銀屏風には虞美人草が緑青で描かれ、抱一の落款があった。小机の上には瓦器の灯火と白磁の香炉があり、線香の煙が立ち昇っていた。違棚には高岡塗の硯箱と書物が置かれ、「埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」という一句に印が付けられていた。

部屋は芭蕉布の唐紙で仕切られ、黒い縁が友禅の小夜着を斜めに切り取るように見えた。全体的に美しい光景が広がっていた。

十九の二:母と欽吾の対話

母は藤尾の死を嘆き悲しんでいた。欽吾は母を慰めつつ、今後の対応について助言した。欽吾は母に対し、これまでの考え方を改め、甲野を家族として受け入れるよう促した。具体的には、偽の子や本当の子といった区別をなくし、遠慮せずに平等に接することを提案した。

母は自分の不行き届きを認め、藤尾に家や財産を与えたかったこと、甲野を疑っていたこと、小野を養子にしようとしたことなど、これまでの策略的な行動を反省した。今後は欽吾たちの意見を聞いて改善していく意思を示した。

甲野も母を受け入れ、家に留まることを決意した。小野も到着し、一同で藤尾の死を悼んだ。

十九の三:甲野の日記

葬式から二日後、甲野は日記に深い思索を記した。彼は悲劇の偉大さについて考察し、喜劇と対比させながら論じた。

甲野は、悲劇が単に終わりを告げるだけでなく、忘れられていた死を突然思い出させ、人生の道義的側面を再認識させる力を持つと主張した。悲劇は個人に道義の実践を迫り、それが社会全体の幸福と真の文明につながると述べた。

日常の些細な問題(粟か米か、工か商か、どの女性を選ぶかなど)を喜劇とし、生死の問題こそが真の悲劇であると定義した。人々が日々の喜劇に没頭するうちに死を忘れ、贅沢になり、道義を軽視していくプロセスを描写した。

甲野は、人々が死を忘れることで道義の観念が衰退し、社会の維持が困難になったとき、突然悲劇が起こると論じた。この悲劇によって、人々は初めて生と死の関係を理解し、道義の重要性を再認識すると説明した。

十九の四:宗近への手紙

二ヶ月後、甲野は日記の一節を抄録して倫敦の宗近に送った。長文の思索に対し、宗近からの返事は「ここでは喜劇ばかり流行る」という短いものだった。この対照的な返答は、甲野の深遠な思索と、異国の軽やかな雰囲気の違いを浮き彫りにした。

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