宇宙戦艦ヤマトとアニメブームの周辺(その2)

テレビの放送終了から二年たった1977年夏。

ブームはついに爆発し「社会現象」という活字が新聞に躍った。

劇場版『宇宙戦艦ヤマト』が封切られたのである。

最初の上映は東京でのみ。

しかも、四館だけであったのだが「社会現象」と呼ばれたブームの爆発を受けて、全国主要都市の巡回興行と全国の東映系洋画館でロードショーされることになる。

いまではごくふつうにおこなわれている声優の舞台挨拶やセル画とロビーカードのプレゼント(配布)といった

これまた劇場版アニメの初日定番行事も、このときにはじまった。

映画館の周りには徹夜の若者たちがひしめき合い、長蛇の列が取り囲んだ。

このあたりが社会現象といわれたのである。

当時中学生だったわたしは、親にチケットを手に入れてもらって見に行った。

繁華街(なんば)の映画館に男子とはいえ中学生が足を運ぶこと自体がほめられた行為ではないが

映画館が父の仕事場に近かったことや繁華街に顔見知りの年長者が働いていたことなどもあり、実現したことだった。

(当時ヤマトを見に行った劇場はどちらもいまはない)

実は劇場版宇宙戦艦ヤマトの公開の前年にも、映画「ミッドウェイ」を同じ方法で見に行っているし、直前には「遠すぎた橋」を見に行っているのだから、わたしとしてはごく普通のことだったといっていい。

このブームの嵐は、年が明けてもやむ気配はなく、それどころか新作が作られる、ということで、ますます煽られていく。

ヤマトの旅はイスカンダルで終わった

とか、

沖田艦長がいないヤマトに何を求めるか

とか、

あんな短慮な古代にヤマトが任せられるか?

とか、

わたしの周囲の(主に年長のヤマト仲間の声)いろいろ意見はあった。

だが、そんなものはごまめの歯軋りで、1978年夏、華々しく新生ヤマトはふたたび発進する。

それが『さらば宇宙戦艦ヤマト ―愛の戦士たち―』であり、この新作映画自体に賛否両論あった上に、主題歌が沢田研二だったのである。