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『今宵Σと砂時計』

夏は夜とか言わないで欲しいです。

世間様は、花火大会やら縁日やらひと夏の恋やらでお忙しいのでしょうが、今年の私はそうはいきません。高校三年生の私は受験生で、たまやと叫んだりわたがしを頬張ったりたまたま親戚の家に来ていた男の子と仲良くなったりはできず、汗ひとつかかない冷房の効いた部屋で、机に齧り付き、数学の問題を解くしかゆるされない身分です。

夏の大三角形よりサインコサイン。
ブルーハワイより帰納法。
「やば、間接キスしちゃった」より総和記号Σ。

このΣというのが厄介で、厄介というのは難しいという意味ではなく、端的に言って書きづらいです。3を左右反転させ、丸みを角に変えてカクカクさせ、出来損ないの砂時計のようなフォルムに留めるこの記号を、私たち受験生は紙の上に量産し続けなくてはなりません。まったく、一体誰がデザインしたのでしょう。美大を出たアーティスト気取りが手がけた日用器具のよう。顧客のユーザビリティガン無視です。売れない。売れないよΣは。

それでも私はΣを書きます。夏の夜、花火大会も縁日もひと夏の恋も我慢しながら、カクカクカクカクカク、といくつもいくつも認めます。このΣひとつひとつが、夢のキャンパスライフに私を導いてくれると信じて。カクカクカクカクカク。カクカクカクカクカク。

ヴ。

机の上、ノートの端に置いてあるスマートフォンが震えました。お友だちからメッセージのようです。
ヴ。ヴ。画面上に通知が重なります。勉強中はスマートフォンを見ない自分ルールですが、こうも連続していると、もしかしたら何か緊急事態なのかもしれません。ヴ。ヴ。悪の組織に捕まり、助けを求められているのやも。ヴ。ヴ。もしやモールス信号?

そんなわけはありませんでした。通知をタップし、メッセージアプリを開いた私の目に飛び込んできたのは、浴衣姿で夏祭りを楽しんでいるクラスメイトの皆様でした。同じクラスというだけで特に親しいというわけでもなく、クラス替えがあった当初なんとなくの流れで作ったグループチャットに加入しただけの私は、彼女たちからお誘いがかかる間柄でもございません。当然一緒に行けなかったことを羨ましがるでもなく、この方々は勉強をしなくて大丈夫なのでしょうか、と要らぬ心配を抱くばかりです。

ヴ。ヴ。ヴ。
写真やメッセージの投稿は続きます。スマートフォンを脇に置き、私はΣで応戦します。

ヴ。ヴ。ヴ。
カクカクカクカクカク。
ヴ。ヴ。ヴ。
カクカクカクカクカク。

もはや計算式など存在もせず、ただひたすらにノートの上、大量生産されていくΣ。出来損ないの砂時計が出来損ないであるままに、紙面を覆い尽くしてまいります。これが本当に砂時計なら、時を測るべきその砂は、A4サイズのこの紙には収まりきらぬほどであり、机の上にまで溢れ出していることでしょう。

ヴ。ヴ。
時を浪費しているのは、彼女たちであるはずなのに。
ヴ。ヴ。
時の砂を持て余しているのは、私の方であるという皮肉。

カクカクカクカクカク。

本当にそうでしょうか。

私は手を止め、出来上がった最新のΣを眺めます。
砂を留めておけないこの時計のように、時を持て余しているのではなく、時を手放しているのではないでしょうか。
私には、私の中には、測るべき『今』がないのではないでしょうか。

ヴ。

「うるさいな」

ふいに生まれた空虚と、それを直視したくない恐怖から、私はスマートフォンに向け八つ当たりをします。溜まりに溜まった通知をタップし、トーク画面を表示。写真の数々、絵文字と浮ついた文句の羅列。その一番真下、最後の『ヴ』を鳴らした投稿に私は目を留めます。

『これ、クラスLINEでやらなくてよくない?』

続いてもう一撃。

『悪いけど内輪でやって』

投稿したのは誰でしょう。アイコンと名前だけでは判断がつきません。突然現れた勇者の存在に、私は胸の内で歓喜します。

『通知切ればよくない?』

どなたかが応戦します。お黙りなさいスライムが。なんでわざわざこちらが通知のオンオフの手間をとらなくてはならんのか。けしからん。勇者様、成敗を。

『あぁ、そうか。ありがとう』

引き下がる勇者様。

場が白けたのか、それっきりトーク画面は静かになりました。私は暗くなったスマートフォンの画面と、Σで埋め尽くされたサイコなノートを見比べます。

再び襲いくる、空虚。

ただ純粋に、鳴り響く通知がうざったかったのであろう勇者様と、夏祭りの写真や盛り上がりを恨めしく思っていた私の違いに気付かされ、ちょっぴり悔しい気持ちが込み上げ。

「むむぅ」

まったくもう。

こんな気持ちになるから。
こんな自分を知ってしまうから。

夏は夜とか言わないで欲しいのです。


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