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『今朝の月は細く弓形』

今朝の月は細く弓形、東の空に浮かんでいた。
日の出前、まだ薄暗い時分に家を出た息子の背を見送り、家の中に戻る。普段は布団の中にいるはずの夫が、囲炉裏の側で蝋燭を立て、草鞋を編んでいた。

「起きているなら、見送ってやってくださいな」

土間から上がり、語りかけるも、夫は仏頂面のまま手を動かし、こちらを見向きもしない。苛立っているのか、藁を目指す穴にうまく差し込めず、編み込みに何度も失敗している。ため息をつき、私は囲炉裏を挟んだ向こう側、膝を折って座る。

「桃には、あの子の好きな団子を作って持たせました。私とあなたから、と」
「儂はまだ認めてはおらん」

鼻息荒く、夫は言う。そんなことを言ったって、もう行ってしまったのだ。今さら駄々を捏ねる子ども振りに、怒りを通り越して呆れてしまう。

帝の使者が直々にここを訪れ、息子に勅令を下したあの日から、夫はずっと不機嫌であった。「どうして桃がいかねばならん」、「報労の銭などいらん、草鞋の稼ぎで十分だ」。ではお上に直談判なさったならいかがです、と水を向けると、「それができればやっている」とさらにむくれる。終いには、こうしてひとり息子が旅立つその日にすら、臍を曲げたまま立ち会うことをしなかった。

気持ちはわかる。老いを迎え、もはやと諦めかけていたところ、降って湧いた幸運のように授かった我が子。衰えつつある身体に鞭打ちながら、苦労して育てた可愛いあの子を、顔も見たことのない御方の一言で、いともたやすく巻き上げられた。貧しさの中、ようやく築いたしあわせが、抗えぬ力に奪われていく様は、理不尽と呼ぶに他はない。私とて夫と同様、憤りを覚え、絶望に苛まれた。

仕方がない、で割り切れるものではない。残りの人生すべての時間をかけたとて、おそらくこの気持ちに決着はつなかい。私がどんな想いで団子を練ったか。自分の癇癪を好き勝手撒き散らしているだけの夫が、腹立たしくも羨ましくも感じられる。

夫の手元を見る。かさついた指が摘む藁の先端。それがまた、通すべき穴を外れ、逸れた軌道を辿る。何十年もやってきた作業だろうに、気持ちひとつ乱れただけで、こうもうまくいかないものか。

「そもそもあいつは、何を退治しにいくんだ」

夫が言う。

「遣いの方がおっしゃっていたでしょう。鬼ですよ、鬼」
「鬼ってなんだ」
「わかりません」

わからんものに、息子を奪われるのか。

よくもそんなことがゆるせたな、とこちらを恨むような物言いに、つい頭に血が上った。

「いい加減になさってください。もう桃は行ってしまったのです。鬼だか何だか知りませんが、得体の知れぬ何かを退けるよう命じられ、いまだどの地図にも載ってはおらぬ、人知れぬ島へと向かい。帰ってくるとは限らない。帰ってこないかもしれない。それでも帰ってきてくれることを、ただ願い、祈るしかできないのです」

どうか一緒に願い、祈ってくださいまし。

溢れ出てくる涙を隠すように、指をついて頭を下げる。しばらく待つが、なんの言葉も降ってこない。顔を上げると、私のことになど構わず、夫はまた草鞋づくりに格闘している。

藁の先端を通そうとしては、しくじり。
もう一度通そうとして、しかし、すんでのところで諦める。

「あなた……」

さすがに異変を察し、呼びかけたところ、夫はわなわなと肩を震わせ、手を額に当て顔を上げた。

「もう目が持たんのだ」

立ち上がり、囲炉裏を迂回し、夫に駆け寄る。背中に手を当て、揺らぐ身体を押し支える。

「狭くて暗い。僅かに結ぶ像を頼りに、指の腹の感覚を信じ、ここしばらくは藁を結った。しかし、だめだ。その僅かな像すらもはや映らん」

桃が、あいつが帰ってきたとして。

「それは一体いつになる。明日明後日では決してあるまい。その日がくるまで、この目はどれだけの光を宿していられるか、それを考えるとただただ怖い」

もう、あいつの姿を儂は見られん。
それが何よりも口惜しく、怖い。

天を仰ぐ夫の眼から、一筋の涙が。私はその肩を抱き、「外へ」と夫を立ち上がらせる。抵抗する気力もないのか、力なく項垂れ、よろよろとした足取りで夫は従う。

戸を開け、二人で外へ出た。
先ほど息子を見送った薄闇が、ほんの少し明るさを増し、そこにある。

「ご覧ください。今朝の月を」

東を指差し、私は言う。夫は目を細め、そちらを。そして吐き捨てるように、答える。

「見えんよ。月など」
「私もです。とても細くて、頼りない」私は言った。「桃も、あの子もこの頼りない明かりの中、家を出ました。私の作った団子をしかと抱えて、心細さなど見せもせず。その覚悟たるや、と感心する反面、まだ若いこの子が、とどうにもやるせなかった。こちらの思い過ごしでしょうか、去りゆく背中にどこか強がりを感じ、つい私は問うてしまったのです」

桃、怖くはないか。

「あの子、なんと答えたと思いますか」
「……さぁ」
「『父上の草鞋を履いておるから、怖くはない』」

夫が息をのむ音が聞こえた。
私は続ける。

「あの子もまた、たたかっています。私たちもまた、たたかいましょう」

夫の身体が震える。咽び泣く声が聞こえる。激しくなる嗚咽の隙間、桃、桃、と何度も呟く。

「怖くはない。怖くはないぞ、桃」

お前がいる。
儂らには、お前がいる。

私のめからも、涙が流れる。無様には見えぬよう、顔を上げ、耐え忍ぶ。

潤んだ空に、細い月はもういない。
夜明けが、私たちの朝を照らし始めている。



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