本来の意味でのあきらめ。
二度目に娘が夢に出てきてくれたあたりから、えぐるような慟哭の発作は格段に減った。
会えた嬉しさというよりは、ようやく娘の死を受け容れたというか…諦めがついた感じ。
先日、別のSNSで流れてきた話に「あきらめ」とは本来、その事柄に対する本質を「あきらかにする」ということなのだ、みたいな話が流れてきて。
これまでは、娘が生き返ることも、時間が巻き戻ることも絶対ないのがわかっていながら、もしかしたら、なんか、どうにか、そんなことが起こるかもしれないような気分がうっすら頭の隅にあって、いつも「どうして! どうして!」と荒れ狂っていてそれで余計辛かったのだけれど。
時間が経ってようやく、そういう意味での「あきらめ」が付いたのだと思う。
今の自分の状態は丁度そんな感じで「娘はもう戻らない」「この手に触れることはできない」という事実に到達したようなのだ(と、いいつつこの一文を書きながらまた涙ぐんではいる)
突然、受け入れたわけではなくて、あの日からずっと、深い泥の中をかき分けて、かき分けて生き続けて、ようやく「コツン」と指が触れたような感じ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?