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パンダ燃ゆ 完全版

「あと5分で世界が終わるとしたら何がしたい?」

そしたら彼女は真剣な顔でこう答えた。

「パンダを燃やすわ」

パンダを燃やす?

「なんだいそりゃ?」

「あなたはパンダを燃やしたことある?」

「いいや。だいたいパンダは燃えるのかな?」

「そりゃあ、燃えるわよ。何? あなたその歳にもなってパンダも燃やしたことないの?」

「ないな。思いもつかなかった」

「あなたって変わっているわ。みんな、一度くらいはパンダを燃やしたことくらいあるものよ」

そう言うと、彼女は減滅したようにランチをつくり始めたんだ。

あれ?
この会話っていつのことだったんだろう?

パンダを燃やす?

これは小さな街の小さな奇跡の話だ。そして竜巻のような恋心とひとつの殺人事件の話だ。

でもそのひとつひとつの小さな出来事が今では、本当の奇跡、のような気がする。奇跡とは小さな積み重ねのことなんだよなあ。 

あれ、これって何年前だっけ?

第一部 みいちゃん

1

彼女との出会いは一風変わったものだった。

いつも行く定食屋さんで、僕はいつものようにランチを食べていた。客は僕ひとりだった。

そこへ彼女がやってきた。

彼女がバイトのあっちゃんと話し始めたので、ああ、あっちゃんの知り合いだな、と思いつつ、チャンポン麺を食べていた。

彼女はパンダが大きくプリントされたTシャツを着ていた。

季節は夏で、ひどく外は暑く、輝き、店のテレビでは高校野球が流れていた。

「最近、どうなん? あの彼は?」
と、あっちゃんは訊いた。

あっちゃんは細身でボーイッシュな顔立ちをして、この店のバイトを始めて、一年くらい経っていたかな。

彼女は席につくなり頬杖をついた。おそらく僕よりかなり若いんだろう。

「うーむ。どの彼のこと?」

「また変わったん? みい ちゃん」

「そりゃ変わるでしょ? 川は流れていくんだもの。男の人も流れていくのよ。火事みたいなものよ」

「おもろいなあ。みいちゃん は。何食べる?」

「隣のお兄さんと同じもの」

「アイアイサー」

隣のお兄さんというのは僕のことだろう。僕は彼女の横顔を少し見て、会釈した。彼女は僕のことなど無視して、高校野球を眺めていた。

お兄さんと呼ばれるほど僕は若くない。もう42だったし、どこにでもいる中年男だ。

どういうわけか、彼女の横顔を見ていると僕の心は軽く揺れ始めた。とても輝いて見えた。それがすべての始まりだったし、今となってはすべての終わりだったんだな。

「ねえ、隣の人?」

「何?」

「あなた、煙草を吸う人?」

「少しね」

「そか」

「それがどうかしたん?」

「私も煙草を吸う人。でも煙草って不思議なの。ある日、煙草を吸おうと思ったら、ライターがつかなかった。家にはいっぱい使った後のライターがあるの。でもどれを試してもつかないの。本当に煙草はあるのにライターがないの。そんな時、煙草に火をつける行為ってなんだろう、と思うの。こう、比喩的に」

「比喩的に?」

「そう。この世の中には、燃やすものと、燃やされるものがある。ライターと煙草」

「電子煙草が今は主流だけど」

「うむ。あれは充電しなきゃ意味がない。なにしろ燃えない」

「ん? 燃えることに何か興味があるってこと? 君は?」

「そう。煙草って美味しいと思わないんだけど、火をつけて、燃えていく時のあの、火種がチリチリっていう音がするでしょう。あの先端を見てると、落ち着く」

僕は微笑み、彼女はあっちゃんが作ったチャンポン麺を食べ始めた。あっちゃんが言った。

「喫煙室は店の奥にあるで。みい ちゃん」

「OK」

しばらく僕も残りのチャンポン麺を食べ始め、沈黙がやってきた。また彼女の横顔を見る。不思議な話をするみいちゃん 。とても細くて、背が高くて、横顔の綺麗なみいちゃんが現れた時から僕たちの竜巻のような不思議な恋が始まった。

確かに世界には燃えるもの、と燃や
されるものがある。

2

チャンポン麺を食べ終わると、僕たちは店の奥にある喫煙室に向かった。食事の後は煙草。

「煙草を吸う場所がだんだんなくなりつつあるね」

「本当ね。煙をみんな嫌がるんじゃない? 世界にはもはや煙草を吸う場所なんてないのよ、きっと」

「だからこのお店の喫煙室には人がいつもいる。この場所でいろんな人と知り合っていく」

「へえ」

「世界的に見ても煙草の吸う場所も少なくなってるし、ファーストフードやファミリーレストランまで全面禁煙だし、健康的にも悪いし」

「健康?」

そう言うとみいちゃん は、遠い目をした。みいちゃんの顔や表情はどことなく不安定に見える。綺麗な女性特有の何かの迷いが宿命的にある。完璧な美しさというより、何かが欠けているから、美しいものってある。三日月みたいに。

「火種が落ちかけているよ、みいちゃん」

「うん。知ってる。落ちるのを見てたいの」

二人で、みいちゃんの煙草の灰が落ちるのを待つ。灰が垂れ下がり、ポトリと灰皿に落ちた。

「私は28歳以上にはなりたくない」

「え?」

「今のは秘密の言葉。28歳以上にはなりたくないんだよね」

「みいちゃん、今は何歳?」

「28」

「時を止める方法なんてあるの?」

「あるよ」

その意味がわからないまま、みいちゃんは微笑み、僕のTシャツの袖をつかんで、軽く引いた。

「呑もうよ」

「まだ昼間やん」

「どこかで呑めるでしょ? お兄さんを見てると、いったいこの人は何者なんだろう、と思ったの。昼なのにチノパンだし、UNIQLOのUTだし」

「みいちゃんもパンダのTシャツだし、相当不思議」

「私は普通。世界がみんな間違いで、私だけ普通。まあ普通なんて言葉も意味がないくらいに普通」

僕はしばらく首を傾げた。みいちゃんは薄暗い喫煙室を見渡した。煙の行方を探すみたいに。

「大将のところでいい?」

「うん。煙草は吸えるの?」

「吸えるよ」

「世界の片隅はそこにもあるんだ」

喫煙室から出て、会計を済ませると、あっちゃんはみいちゃんに言った。

「キスでもしてたの?」

「うん」

「また燃やすの?」

「うん」

あっちゃんは僕たちを見送った。ひらひらと手を振った。

「大将のとこ、行ってくるよ」

「そかそか。けい君、燃やされるんやわ」

「何に」

「世界には燃えるものが、もうひとつあるやん?」

もうひとつ?

3

大将の店で酔ったみいちゃんは、カウンターでずっとブラジャーの話をひとりごとのように言った。

「フランスだったかなあ。あれは。女性解放運動が盛り上がっていた頃の話よ。デモとか集会があって、女性を締め付けているブラジャーをみんなが燃やしたの。大きな火のなかにブラジャーをみんなが投げて、燃やしたの。女性解放運動。燃やされた何千のブラジャー。その象徴として、なぜかブラジャー。ガードルでもなく、パンツでもなく、ブラジャーをみんなが燃やしたの」

「それは新品の?」

「そこが問題なの。新品はもったいないし、多分、使われたことのあるブラジャーなんでしょうね」

「とても不思議な話やね。ブラジャーって燃えるん?」

「燃えるわよ、そりゃ」

大将の店はお寿司屋さんだ。もちろんお寿司も食べることができるけれど、メニューは居酒屋のそれと混在していて、煙草も吸える。値段もリーズナブルだ。

「ここの大将とも、あっちゃんの定食屋の喫煙室で会って、会話したのが始まり。中学の先輩だってわかって、それで仲良くなったんよ」

「へえ、大将も世界の片隅の喫煙室にいるのね」

大将は聞こえていないふりをしている。でもどうしてこんなに可愛い子を連れてきたのか、それが不思議なんだろう。気を遣ってプライベート空間には口を挟まないが、たぶんみいちゃんが帰ると、問い詰められるんだろう。こんこんと。

「みいちゃん、出身どこ?」

「あら、加古川よ。この辺り」

「標準語で喋るやん」

「高校出て、すぐに東京に行ったから。まだ標準語のままなの。でも酔ったら、関西弁も話すの。けい君は?」

「同じだよ。若い時は東京で標準語で、こっちに帰ってきて、中学時代の仲間に会って、関西弁が混じった」

「青春も燃えるのよ。知ってた?」

「もちろん。この店は僕の中学時代の先輩や後輩がやってくるんよ。不思議な場所だよ。みんな時が経つのに、歳を取らないっていうか。そのままなんだよ。青春が燃えたあとも。確かに」

「私も歳を取らない人やねん」

「あ、関西弁」

「そうやねん」

彼女がなぜ28歳以上にはなりたくない、なんて言ったのか、今ではわかる。どうやって時を止めたのかも今では知っている。みいちゃんは、いつも未来と過去を同時に生きていたんだろう。そんな気がする。

お互い学生時代の話をして、みいちゃんは半分くらい眠りながら、自分の部屋までの道を歩いた。僕たちは腕を組んでいた。

僕はあっちゃんが言った、世界には燃えるものがもうひとつある、という言葉を思い出していた。

「けい君、聞いて」

「何?」

「あんな、深い海の底に椅子があってな、それは私のために待っている白い綺麗な椅子でな、そこに座るために生きてるような気がすんねん。そこに少しでも座れたら浮上すんねん。浮上の火をもらうねん」

「誰から?」

「わからん、神様とか愛とかそういうの」

「愛? みいちゃんって男の人好きになったことないの?」

「ないねん。ごめーん。パンダを燃やしてばかり」

お互い手を振って、みいちゃんの部屋の前で別れた。みいちゃんは酔っていて、僕も酔っていた。

考えられないものが燃えていく。普通ではありえないものが燃えていく。僕の心の中だけでしか燃えないもの。

どうして僕はその手を離してしまったんだろう。

みいちゃんが消えてしまうその前に。

あんな、深い海の底に椅子があってな、それは私のために待っている白い椅子でな。。。

そうやってこの街の小さな事件は始まった。

4

時を止める方法について話をしよう。
どうやって、みいちゃんが時を止めたのか。

あっちゃんの定食屋でランチを食べていて、何度かみいちゃん と顔を合わせるようになり、携帯番号を交換したりするようになった。

あっちゃんの定食屋でランチを決まって食べるようになったきっかけはとにかく、あっちゃんはいつも笑顔で働くシャキシャキした女性で、その一日を笑顔からはじめたくなったからだ。

あっちゃんに笑顔がない時、二人で「今日はどんな話する?」と言って、バカ話やエロい話をして盛り上がった。それで、笑顔になると「よし、これがウチや」とガッツポーズしてまた笑顔になった。

「大将のところに子猫がおるん知っとる?」と、あっちゃんは言った。

「子猫? いつから?」

「2日くらい前。キジトラ模様でまだ一ヶ月の子猫」

「名前は?」

「それが、ミイちゃんっていうんよ」

「あの、みいちゃん と同じ名前やね」

「そやねん。偶然やねん」

 お寿司屋さんと子猫のミイちゃん。ずいぶんと不思議な組み合わせだな。でもお店の外で飼ってるし、夜は大将の家に連れて帰るらしい。

「けい君、ウチの友達のみいちゃん にもう燃やされた?」

「その燃やされたってどういう意味?」

「まあ、みいちゃん 、よく燃やすから」

「燃やすって、男の人のこと?」

「うん。そやで。パンダ燃やしてない?」

 パンダを燃やす?

「みいちゃんがけい君のパンダ燃やしてないってないってことは‥けい君大事にされとるかもな」

「そんなにすぐに男の人と恋に落ちるん?」

「恋ちゃうわ。だからパンダを燃やすのみ。そっか、けい君はみいちゃん に一目惚れしたか」

あっちゃんは僕の肩を叩いて微笑んだ。そして腕を組んだ。

「まあ、そうなんだけど」

「まあ、けい君見とったらわかりやすいわ。女の勘は鋭いで。でもほんまにダメなおっさんやな」

そこで、運命の携帯電話が鳴った。今となってはこれが運命のLINEだったんだよな、と今でも思う。

「ほらみてん」

「みいちゃんって何者なん?」

「さてな。女の秘密や。女の秘密は美しいものやからな、けい君。覚えとき。パンダが燃える時、秘密が浮かび上がる」

「秘密が浮かび上がる」

「そやで」

「あっちゃんは?」

「ウチ? ウチ彼氏おるやん」

そこへ新しい客が入ってきた。二人連れの男性で作業服を着ていた。しばらくしてまた女性の客。その三人で料理ができるまで喫煙室で談笑が始まった。そうやってこの定食屋は人が知り合っていく。

夜のドライブをしていた。助手席にはみいちゃん 。

車を港にとめて、ふたりで早朝の秋の海を見ていた。

音楽はスピッツ。

「あのね、けい君、自分が生きてる実感でどうやったら、掴めるかわからんかったの」

「うん」

「手術受けたことがあったの。そしたら、全身麻酔で、あれって心臓の音が手術室じゅうに流れてるの。自分の心臓の音。眠りに落ちる前、その音を聞いてる時だけ、私、生きてた」

「うん」

「そこから時は止まった」

「え? なんの手術?」

「あとで言う。今は秘密」

「みいちゃん、何か病気でもあるの?」

「ないよ」

その時、みいちゃんはなぜか涙を浮かべて、ぽろぽろと泣き始めたので、僕たちは初めてハグをした。みいちゃんは僕の胸で声もなく泣いていた。

「今日のみいちゃん はおかしいな」

「そう? けい君。本当に28歳以上にはなりたくないの。ごめんね、けい君、これで、私とは、さよならかもしれないの」

「どういうこと? 仲良くなったばかりじゃない」

「けい君、私のことひょっとして好き?」

「うん。そのままのみいちゃん が好きだよ。竜巻みたいに、最初から」

「そのままの私?」

「今のままのみいちゃん 」

「ひどいなあ」

その意味がわからない。わからなかったんだ。

みいちゃんが僕の手を取り、自分の心臓あたりにタッチさせた。僕はその膨らみに戸惑った。

「揉んでいいよ。気持ちよくなりたい」

「僕のこと好きでもないのに?」

「落ち着かせて、けい君」

僕はゆっくりと手を動かしはじめた。パンダが燃えようとしていた。好きでもない人とのセックス。そういうことだったんだな。

こんなに悲しい始まりと終わりは経験したことがなかった。みいちゃんを抱いている間、彼女が言った、「さよなら、けい君」と言う言葉。そして朝焼けのなかで、手を繋いで、港を見ていたこと。朝日が辺りを照らし出し、またスピッツを聞いたこと。

「夢追い虫っていう曲なの、これ」

「うん」

「君の全てが、途中から変わっても全部許してやろう、って意味の歌詞があるの。言われてみたいよ」

「僕は一目惚れだよ」

「私は変わるよ。明日。秘密の大きな手術。整形の手術をして、新しい顔と若さを手に入れる」

「整形? どうして? そのままで可愛いのに」

「もう頬に糸が入ってる。頬の肌が緩むことがないように」

「そのままでいいよ」

「だからひどいこと言わないで。一目惚れなんて言うから、もう会えなくなるの」

「みいちゃんこそひどいよ!」

「だから一回、ね」

言葉がなかった。全身が震えた。ざわざわしていた。次に涙がやってきた。次から次から涙は流れた。

みいちゃんとはもう会えなくなる?

僕の好きなみいちゃん の横顔。28歳のままでいたいと言ったこと。たぶん心の中では、海の底から浮上の火を探しているみいちゃん 。でも顔が変わっても、心の中まで整形できるんだろうか。整形したら急に性格や人生まで変わると聞いたことがある。

でも心の奥は?
海の底には白い綺麗な椅子がある。
それを思い浮かべる。

過去と未来が同時に存在していた夜。過去と未来を同時に生きる彼女のこと。

みいちゃんを駅まで送った。その後姿が消えていく。僕の記憶からも消えていく日が来るのかな。28。

「もう会えないよ、けい君」と車をおりる時、最後にみいちゃんは言った。

歩いていく後ろ姿を見ていた。どこか強くて儚い背中。明日になると時が止まると信じている背中。遠ざかっていく背中に、小さく手を振った。駅はまだほとんど人がいなかった。

僕はその後、車を走らせた。どこの道でもよかった。

さよなら、みいちゃん。

僕の走る車は未来にしか向かえないよ。車は未来に走っていく。

【第一部おわり】

第二部 ゆいか

1

みいちゃんがいなくなってからというもの僕はよく大将のお寿司屋さんに行って、子猫のミイちゃんと遊ぶようになった。

子猫のミイちゃんは僕のぽっかりとした心を埋めてくれるように僕に懐いた。ミイちゃんはいつも僕に抱かれると、ひとりで袖をよじ登り僕のセーターの首の後ろでじっとしていた。

大将はミイちゃんを溺愛していて僕に懐いたものだから、ずいぶん嫉妬をして嫌味を言ってくるのだった。

「そんな煙草臭いおっちゃんがええんか。ほんま嫉妬するわ」

「長生きしてほしいですね。な、ミイちゃん、一緒におっちゃんの家くるか?」

「そりゃあかん。ミイちゃんはワイのもんや。な、ミイちゃん、ワイもあと15年生きるから、そしたら一緒に死ねるな。猫の寿命って15年なんやろ?」

「そうですよね。猫って毎日が濃い時間を過ごしてるんでしょうね」

子猫というのは驚くくらい早く大きくなっていく。日に日に動きが素早くなる。

ミイちゃんを抱いているとそのぬくもりが伝わってくる。子猫を抱くと確かに時間は未来に流れていっているのがわかる。

いなくなったみいちゃん の携帯に電話すると番号を変えていた。LINEもなくなった。あっちゃんでさえ連絡がつかない、と言った。部屋に行ってもいない。行方不明届けがだされていた。

そうやって季節は秋の終わりへと移っていった。

車で雨の中を走っていた。

加古川という街には市営のバスがある。加古川駅に行くためのほんの小さなバスである。

そのバス乗り場で気になる不思議な光景があった。

台風が近づいていたのでバスは欠便なのに、雨と風のなかで、車椅子の少女が傘もささずにずぶ濡れでバスを待っていた。

バスは今日は来るはずがない。だからその少女を見かけて、一旦は通り過ぎたけれど、ひきかえしてまたバス停に戻った。

まだ少女はバスを待っている。これはどうしたものかな。車を少女の前に停めて、少女を説得して、家まで送ろう。電動車椅子は後部座席に積んだ。こういう時、タント という車は役に立つ。積載スペースが大きい。

「家どこ?」

「近所です」

「送るよ」

「いえ。家には帰りたくないんです。だから逆方向にずっと走ってくれませんか」

「だって君、びしょ濡れだし」

「いいの。座席汚してすみません。でもずっと走ってくれませんか。お願い」

「家出でもするん? もしそうなら引き返すよ」

「いえ。ちゃんと帰ります。家に帰りたくないと言ったのは、嘘です」

「え?」

「私、ドライブってしたことないんです」

「え?」

「足が悪くて、外に出るのは禁止で、たまに病院と施設に電動車椅子で行くだけで、他はずっと自分の部屋にいるから」

「今日は?」

「冒険」

そういうことか。
少女の名前は、ゆいか。年齢は14歳。標準より背は低い。とても透き通るような白い肌と大きな瞳。

僕は結局彼女の冒険に付き合うことにした。

車を走らせると少女の瞳が輝き、ずっと景色を眺めていた。

「うわ。うわ。景色が流れるー」

「うん」

「すごい。すごいことが起こってるー。うわー」

「そりゃ車だもん」

「そうですね。でも、今、衝撃的で、私、心が張り裂けそう」

そうなんだろう。普通だと思っていることが普通ではない人たちもいるんだな。

「ゆいかちゃん、夢はあるん?」

「志望はまだありません。うわ。光が! 光が変わっていく!」

トンネルに入ったから、辺りがオレンジ色になり、少女は自分のまじまじと両手を見つめた。

「光って流れるんや! こんな色彩なんや! ほら、微妙に色合いが違いながら、流れていってますよ。禁じられた色彩ですよ!」

次にトンネルに並ぶライトを見つめ、そのひとつひとつを追うように首を動かした。

「うわー。夢だわ。こんな光の連鎖」

「ゆいかちゃん。海行く?」

「え、海? 見たい! 見たいです! 見せてくれるんですか?」

「うん」

「ほんとですか? 感動! そのかわりお礼します。なんでもしますよ」

「お金なんて言い出さないでね」

「お金なんてないです。そのかわり‥」

ゆいかは急に黙り込み、もじもじと言いにくそうにした。唾を飲み込み深呼吸した。

「どしたん?」

「私にできるのは、パンダを燃やすことくらいです」

「え?」

どこかでこの言葉は聞いたことがある。思い出すまでに時間がかかった。思いだせ。俺の頭。

「なんて言った?」

「パンダを燃やすことくらいしかできない」

何かと何かが繋がろうとしている。

2

的形という海の近くに車を停めた。
車内から荒れた海をゆいかと見つめた。まるで生き物みたいに波は激しく打ち寄せている。

「これが海。激しく生きてるんですね!」

「もうすぐ台風だから、こんな荒れとるけどね。晴れた日は静かな時もある。太陽が繰り返し寄せてくる波が光って綺麗だよ。晴れた日にまた」

「また? 晴れた日にまた連れてきてくれるん?」

「ええよ。また来よう」

「デート?」

「いやいや、僕はもう42だよ。ゆいかちゃんはまだ14歳だよ。こんなおっさんはただの運転手やよ」

「でも私はデートして、お弁当作って、二人で食べて、そういうのが究極の夢なものだから。擬似でもなんでもいいの」

「そういうのは将来好きな男の子が現れて叶えられるよ。僕は運転手。好きな男の子と叶えな」

「たぶんそういうの、ないもん」

「あるよ。ほらゆっくり海見とき」

海は黒くて、空も灰色で、獰猛な野生の様相で荒れている。ゆいかは目を丸くして、黙って微笑んでいる。ゆいかの瞳は海を見ているというより、死の先を見つめているようだった。いったいゆいかはたったひとりの部屋で何を考え、見てしまったのだろう。

夜が近づいてきたのでゆいかを家まで送り届け、僕も家路に着いた。

家には母親がいた。介護施設からのヘルパーさんが20時にやってきて母親に睡眠薬を飲ませる。そうしないと母親は夜に徘徊してしまう。

もう1年間そういう介護の日々が続いている。母親が真夜中にいなくなると、僕は自転車に乗って辺りを探しまくる。警察からもマークされていて、何度も真夜中に呼び出される。そういう日々。

その夜、僕はゆいかに、【おやすみ】とLINEを入れた。すぐに返信があった。

【ありがとうございました。奇跡的でした】

【よく眠りな。風邪ひくなよ】

【おやすみなさい。約束ですよ。デートですよ】

【運転手だよ。また連絡するねー】

僕はシャワーを浴びてから、しばらく仕事をした。仕事というのはデザインの仕事だ。パソコンを使って家でもできるのでその仕事をしてなんとか暮らしている。

明石に知り合いの出版社があり仕事をまわしてもらう。新刊本の表紙を作ったり、DTPもやる。要は本のデータをまるごと引き受ける。もちろん母親の介護もできるという理由もあるけれど、その仕事が今ところ気に入っている。もちろんヘルパーさんに助けてもらわなきゃすべては成り立たないけれど。

ベッドには入ったものの、なんだか落ち着かなくて眠れなかった。缶ビールを冷蔵庫から取り出して、ベッドに座って呑んだ。その時、ゆいかからLINEが入ってきた。

【私でもあなたを守れるもん】

ゆいかのことを思い出すと胸が痛む。ゆいかは必死に生きているんだよな。また海に行こう。でも、僕は何か忘れている。何かを聞きそびれている。何か大切なことを。

【起きてるの。ゆいかちゃん】

【眠れない】

【君は、パンダを燃やす、って言ったよね。あの言葉は誰から聞いたの?」

【パンダ燃ゆ、って詩小説から】

【ネット小説。携帯小説? 作者は?】

【如月みい。どうかしたの?】

【会ったことあるの?】

【うん。近いもん】

みいちゃんだ。直感でそう思った。心が張り裂けそうだった。朝が来るまでずっと眠れなかった。

だからネットで、「パンダ燃ゆ」を検索して、「カクヨム」というサイトに繋いだ。読んでみる。

「パンダ燃ゆ」

あなたパンダも燃やしたことがないの?
世界じゅうでパンダを燃やしたことがないのはあなただけ
これは私があなたへ送る手紙です
手紙はある日、あなたの家のポストに入ります
秘密の手紙なの
この心の中には秘密の気持ちがあるのです
でもその手紙は死んでいます
あなたは死んだ手紙を読むのです
便箋の文字はあなたが読み始めると消え始める
あなたが読み終える前に消えてしまう
もっと読ませて!
絶叫!
そうです
この物語は白紙
最初から白紙
消えていく文字の羅列
パンダを燃やしたことのないのはきっと世界中であなただけ
動物のパンダではありません
でもパンダが燃えるお話です
では始めましょう
孤独の証明を
白紙の証明を

そうやって物語は始まっていた。涙が溢れてきた。どこへ消えたんだ? みいちゃん。みいちゃんのぬくもりを思い出す。そのぬくもりにさえ、さよならを言えなかったよな。

早朝、急に携帯電話が鳴った。出るとあっちゃんだった。涙声。いつも笑顔のあっちゃんが泣いている。

「けい君、驚かないで」

「どしたん? あっちゃん」

「くんちゃんが‥」

「くんちゃん? あっちゃんの彼氏の?」

「うん」

「どした?!」

「死んでん」

「どして?!」

「殺された」

運命は回転する。
もう止まらない。もう止まらない。事件はいつも風船がはじけるように起こるのだ。

なあ、ゆいか。海行こうな。
必ず。

僕は携帯電話と財布だけ持って家を飛び出した。

3

早朝、台風の中、大将のお寿司屋に着くともはや、くんちゃんの友達が勢揃いしていた。午前6時ごろで、外は猛雨で、僕の心の中も動揺していた。

くんちゃんは僕の中学時代のひとつ後輩にあたる。とにかく口が悪くて、いつもケンカを起こす。そんな男だった。でもほんとに優しくて大将のお母さんを病院に連れて行ったり、困った人を助けたりもするような一面もある。

「けい君、あんたちょっと座り」

僕はおかちゃん、まえちゃん、とよくん、の座室に座った。おかちゃんが言った。ものすごく身体が大きい中学時代の番長だ。

「いや、不思議な話やねんよ。もう携帯のネットニュースにもなっとるわ。くんちゃんはデリヘル呼んどったみたいやな。それから中学校で死んどる。浜の宮中学。我らが母校よ」

「デリヘルに殺されたん?」

「わからん。でもくんちゃんのことやからいろんなことやっとったと思うよ。でも、けい君、くんちゃんって何者やったんやろ」

「ええ奴でしょ」

「わからんねん。くんちゃんって男が。俺はな。謎やな。いつもビールを車の中で飲んどるしな。それで免停になっても、まだ運転して、人身事故起こして逃げる。でもワシらぁだけや。くんちゃんのええところ知っとるんは。愛すべき奴やった。不思議やな。嫌われとるねんけど、愛さずにおられへん」

おかちゃんはそのあと不思議な話をした。

「デリヘル嬢は姿を消しとる。てもな、なんや引っかかんねん。デリヘルで遊ぶのはくんちゃんのことやから、ようあるんやけど、な、とよ」

とよさんが喋り始めた。煙草を吸いながら。とよさんはイケメンで中学時代からよくモテた。
 
「ちょっと前に人身事故、くんちゃんやりましたやん。それでパクられて裁判ありましたやん。その裁判は証言台にデリヘル嬢が証言したんよ。普通は一般の客の裁判の証言台にはデリヘル嬢は、断ったらええやん。引っかかんねん」

「同じデリヘル嬢かも。くんちゃん、そのデリヘル嬢と何か交流があったんかもしれん?」

まえちゃんが言った。まえちゃんは、コーヒーしか飲まないみんなの一番後輩で、運転手役だ。

「デリヘルか。デリヘルの誰かか」

そこで僕の携帯電話が鳴った。出るとあっちゃんだった。

「くんちゃんの遺体と会ってきた。今、病院の待合室。綺麗な顔しとったわ。くんちゃんが最後に行っとった場所きいた?」

「うん」

「最後に立ち寄った場所がラブホテル。相手はデリヘル嬢。ウチ、なんか今も泣かずにいつもの笑顔のままや。泣きたいのにな。明日も定食屋のバイトいくわ。来てな、けい君」

「大将の店には顔出せへんの? みんなあっちゃん心配しとるよ」

「ええわ。なあ、けい君、ウチもパンダやったんかな?」

パンダやったんかな?

「くんちゃんのとこをもしウチの友達のみいちゃん がとったんやったら、ウチやりきれへんでな。パンダはウチなん?」

「みいちゃん?」

「うん。みいちゃん、生きとった。今は違う顔になって綺麗やよ」

「ほんと?」

「よりによって初めて愛した男がウチの彼氏なんて。とんなドラマチックな展開やねん。みいちゃん」

みいちゃんが現れた?

みいちゃんが初めて愛した人?

明日定食屋に行く約束をして、あっちゃんの電話は切れた。

そうやってこの小さな街の小さな出来事は幸福も不幸も含めて積み重なる。その積み重なりが毎日をつくっていく。「黄金の日々」とは大袈裟なことではなく、小さなことを積み重ねていくことだったよな。

なあ、あっちゃん。

大将の店はそんな中年になった僕たちの終わらない青春があった。二度目の青春かもしれない。

時が流れるってなんだろう。

昼になってあっちゃんの定食屋に行く。そこでランチを食べる。あっちゃんはいつものように笑顔で「今日どんな話する?」言って、二人でバカな話をした。あっちゃんは、「よし、これがウチや」とガッツポーズして笑顔になった。

くんちゃんのお葬式が終わり、ある晴れた日に約束通り、ゆいかを海に誘った。

ゆいかは電動車椅子で穏やかな浜辺まで自分で行った。海は太陽に輝き、浜辺でゆいかの作ったお弁当を食べた。サンドイッチ。コーヒー。お煎餅。

ゆいかはパンダの着ぐるみのようなスウェットを着ていた。白と黒。フードにパンダの大きな顔がプリントされている。

「あまり喋らないね。けい君。デートの相手にそんな態度とってたらモテないよ」

「嫌いになっていいよ、ゆいか。ただ光った静かな海を見ていたい気分やわ」

「うん。これが海なんやね。それが波っていう奴やろ。そして砂浜。光の粒子が綺麗。絹のように見える」

「君はおじさん趣味でもあるの?」

「ないけと、私、この日が一生で今日だけやって知っとるねん。けい君は今日が終わったら私の前から消えるんやろ。いいや。最初からおれへんねん。夢を私は見てるやねん」

「夢?」

「私は今日もあの自分の部屋に本当はいるの。こんな奇跡おこるわけない。だからここにいる私は不在やねん。透き通った、あらかじめおれへん幻やと思ってたほうがなんとか傷は浅いねん」

「もっと近くまでいく?」

「どうやって?」

僕はゆいかをおんぶして、波際まで近づいた。ゆいかが背中で怖そうに「もっと近く」と言った。

「波打ち際の砂浜は黒いよ、けい君。うわ。けい君、靴脱がんでええのん?」

「いいよいいよ。波はいろんなものを連れてくるよ。貝殻とか、海藻とか、小石とか」

「あ、あれ、あの小石拾って」

それはほんの小さな白い石ころ。拾って、ゆいかに渡した。

「うわ。太陽に渇いてる。そして軽い。うわ。この石に名前をつけようよ、けい君?」

「存在」

「存在?」

「ゆいかはいるよ。ここにいる。幻なんて言うな」

「存在の石ころ」

車の中からまた夕陽に照らされる海をしばらくゆいかと見ていた。僕はいつのまにか流れてくる涙に困った。

「けい君? 泣いとる?」

「うん」

「辛いん?」

「うん」

「どうして? ダメなおじさん」

みいちゃんが現れたとは言えなかった。友達が死んだとも言えなかった。なあ、ゆいか。みいちゃんが初めて人を愛したとも言えなかった。

初めて人を愛したみいちゃん。
僕ではなく僕の友達。
あっちゃんの彼氏。
がんばれ、あっちゃん。

「私が大人になってもけい君を探さない。でもその時、けい君、どこで何してるんやろ。結婚してるかな。ハゲてるかな。お腹でてるかな。私はあの小さな部屋でこの石ころばかり見てるんやろな。存在の石ころ。海を渡って、深い深い海の底を旅して、今は私の手の中や」

ゆいかにLINEを送ることや、会うことはもうないかもしれない。そんな気がした。一瞬の気持ちが消えた。

「一億光年先あるあの一番星に行きたい」

ゆいかは一番星を見つけて掴み取ろうとする。

ゆいかを家に送り届けた深夜、LINEが入って来たけど、返せなかった。どうしても返せない。返せなかった。

【さよなら、ありがとう。石ころ、コロコロ。未来まで、石ころ、コロコロ。ゆいか】

どこまで人を愛せるだろう。
どこまで人に優しくできるんだろう。
優しくするって本当は冷たいのかな。

ゆいかも消えてしまった。
もう人が消えるのが嫌だよ。

4

僕はその夜、夢を見た。
知らない髪の長い女性が出てきた。
女性は自分の髪をハサミで切っていく。
落ちていく髪が花になる。
落ちていく髪は花になっていく。
どうして髪は花になって死んでいくのかな。
どうして髪は花になって枯れていくのかな。
女性はその花を集めると部屋を片隅に飾った。
見知らぬ女性。

見知らぬ女性が入ってきた。

席につき、カウンターに頬杖をついた。あっちゃんは、いらっしゃい、も言わなかった。

「ねえ、隣の人?」

「何?」

「何食べてるの?」

「チャンポン麺です」

ん? この女性が誰であるかでしばらく気づかなかった。綺麗な顔立ち。どこかのお店のホステスさんかな。

あっちゃんが言った。

「言いたいこともいろいろある。訊きたいこともいろいろある。でも今は営業時間。まだ穏やかな昼の始まりやで。揉め事はしたくない。だから料理ができるまで喫煙室に行っとったら?」

あっちゃんは、女性を喫煙室へ向かわせる。女性は喫煙室に向かう。あっちゃんは笑顔がない。

「けい君、ウチが呼んでん」

「誰を?」

「彼女は、はるちゃん。遠野はる」

「うん」

「悪いけどけい君も喫煙室に行って。会っておいで」

事情はわからなかったが、僕は薄暗い喫煙室へ向かった。そこには、はるちゃんがいて、煙草を吸っていた。

「こんにちは。遠野はるさん」

「うん。今はその名前なの」

「え?」

「前は如月みい。けい君は変わらないね」

意味がわからない。はるちゃんは長い髪を掻き上げて、少し顔を上げた。僕はその時、見てはいけないものをみたような、一番見たかったものを見たような気分になった。

「みいちゃん?!」

「うん。でも今は名前を変えた。みいちゃんじゃない。遠野はる」

「遠野はる」

「けい君とは二度と会わないと思ってた」

「綺麗になった」

「ありがとう。綺麗になるより、もはや別人なの。私は遠野はる」

僕は黙って煙草を一本吸った。くんちゃんのことが脳裏をよぎった。たぶんあっちゃんが「あのこと」ではるちゃんを呼び出したんだ。

「今日はどうしたん? あっちゃんの定食屋だよ。あっちゃんに気まづくないん?」

「気まづくない。あっちゃんが怒るのも、気持ちはわかる。かつての友達としては」

「かつての?」

「私は今、遠野はる。海の底の小さな綺麗な椅子に座って浮上して、もどってきた。もはや遠野はる」

「愛の火は見つかった?」

「うん。一瞬」

そこへあっちゃんが入ってきた。お客さんが今はいないという合図だろう。僕たちはカウンターに戻った。あっちゃんは、はるちゃんの隣に座った。

「あっちゃんの負け」

と、はるちゃんが言うと、あっちゃんは、はるちゃんの頬を叩いた。

「いて」

はるちゃんは頬を抑えた。

「ウチの彼氏がよりによってなんで最初に愛した男なんよ! 友達ちゃうん、みいちゃん。なんで取ってまうんよ!」

「私はもうみいちゃん ちゃうよ」

「ようウチの店これたな。そんななんでもない顔して」

「そっちの方がはっきりするやろ。あっちゃんと勝負できるやろ?」

「何よ。勝負ならいつでも買う」

「果たしてくんちゃんは死ぬ前には誰を愛しとったん? あっちゃん知らん? それが知りたいねん、私なん?」

「みいちゃん、ちゃうのん?」

「違うよ」

「じゃ、遠野はる?」

「確かに私はくんちゃんに恋をしたの。だから‥」

「何?」

「生まれて初めて愛した男の人‥」

「あなたがくんちゃんを殺したの?」

「裁判の証言台に立ったわ。最後に抱いたのは私」

「殺したの?」

「違う。それをあっちゃんと探したいの」

「違う?」

「私じゃない」

「だとしたら、誰?」

「それをあっちゃんにはわかってほしいの。私ではない誰か。でもくんちゃんは私が生まれて初めて好きになった男の人」

「許さない。許されへん。絶対」

はるは席を立ち店を出て行った。扉を閉める前、聞こえた。

「バイバイ。ごめん」

はるの後を追いかける気もなく、あっちゃんの涙を見るのも嫌なので、喫煙室で煙草を吸った。煙が辺りを舞い上がるのを見ていた。

燃えていくパンダたち。
僕たちはパンダを燃やしていく。
燃えていく炎。

誰もが誰かを愛し、誰もが誰かを愛してなかった。

遠野はるが現れた。
僕は彼女を好きなのだろうか?
まだ好きなんだろうか?

竜巻のような運命の恋がまた始まろうとしている。

【第2部おわり】

第三部 はる

1

花と花が手をつなぐときがある。
たまに水滴がその重さで花弁から花弁からへ、渡る。
手をつなぐ花と花のように、たまに起こるコミュニケーションのように
奇跡は人間にもあるかもしれない。
偶然の恋人。
偶然の旅行者。

大将のお寿司さんの子猫のミイちゃんがいなくなった。お店から脱走して、どこかへ消えてしまった。

大将や店の常連客たちで探し回った。「子猫行方不明」と貼り紙をみんなで作って、辺りに貼った。インターネットの「加古川掲示板」にも書き込んだ。ミイちゃんはそれでも見つからなかった。

二週間が過ぎた頃、大将がお店で開店準備をしていた。大将はヒマを見つけては公園や川辺を探し回ったものだから、疲れて痩せてしまっていた。

のれん、を出している時、ふと道を見るとひょこひょことミイちゃんが歩いて戻ってきた。大将はそれを見て、ミイちゃん、だとすぐにわかり、駆け寄ってすぐに抱きしめた。

そうやってミイちゃんが帰ってきた。なんでもない顔をして。

大将はより一層ミイちゃんを大切に可愛がった。

【如月みいの詩小説】

私は絶対あなたを愛さないだろうし、
むしろ、あなたを傷つけるだろうし、
なんとも思わないだろうし、
すぐにあなたを忘れてしまうだろうし、
だからこれを書いておくんだし、
でも、なぜか今あなたが大切だなと思ってる。
雨の日のカフェをでて、ふと頬に当たった一滴

抜けない棘をしのばせろ。
あなたがこれまで生きてきたなかで、どうしても、抜けない棘があるでしょう。
あなたがこれまで過ごしてきた経験のなかでどうしても抜けない棘があるでしょう。
それは、痛いかな?
それは嬉しさ?
いつか愛?
まだ弱さ?
わたしはその抜けない棘です。
あなたの抜けない棘

1日のおわりと、1日のはじまりの
その間にな庭にある茂みに小さな小道ができるんやて。
明るい光のはじまりの道なんやで。
暗い世界の終わる道なんやで。
その明るさと暗さの間の道は、海まで続いていてな
そこまで歩いてきたい。
それから私の気持ちに気づきたい

あなたの人には見せない部分をなぜ私は知っているのですか?
私の人には見せない部分をなぜあなたは知っているのですか?
人には知らない涙をなぜパンダは知っているのですか?
なぜパンダを燃やすのですか?
人には知らない花を、なぜ夢のなかではわかるのですか?
私とあなたはパンダになる。
パンダが燃える時秘密は浮かびあがる。

水のなかに、部屋がありそこで私は踊っているんだ。
水のなかにだけど、苦しくはなく、息もしていない。
バレエを踊っている。
部屋にはソファがあって、そこの上で舞う私は、こんな素敵な部屋がどうして水のなかにあるのかを考える。
水のなかに、部屋があった。
舞い踊る。

傷を作っては、夢を見る。
傷を作っては、愛の夢を見る。
下手な夢だよ。
君は自分と世界を傷つけて、僕は世界と自分を傷つけて、何度も失敗して、下手な愛の夢を見る。
傷を作っては、あれ?と思う。
誰かの傷とよく似ているから、愛しはじめる

境界線など無視して、
あなたのココロの奥に手を突っ込み、
ぐっと掴み、
あなたを好きなんだ、と伝え、
これが禁止されている愛し方だと、
そういうココロの伝え方をしたい、
と思い、でも、そっと、あなたの後ろを歩いた。
夕方。

私の不在証明。
私は父親も母親もいない。
正確に言えば、私は出生の時、隣の赤ん坊と、親を間違われ、そのまま両親に育てられた。
6歳の時、病院のミスが発覚した。
赤ん坊を取り違えていたと。
もう一つの家族と話し合い、私はもう一つの家族と暮らすよう話し合いがついた。
まだ小さなうちにその入れ替わった子供をもとに戻す。
交換。

しかし事件は起こった。
子供を交換する前日、間違われたもうひとりの子供の事故死。
ふたつの家庭はお互い私を、いらない、と言い、私はいなくなった。
いらない子供になった。
どちらからも愛される資格なし。
それからも父親と母親と同じように住んだけど、私は消えた。
これが私の出生の秘密。
私はいない。

私は大人になり、はやく一人で住みたかった。
アパートを契約して、今までの家族の部屋を出ようとした。
家具が何もない部屋を振り返った。
夕方だった。
その部屋で好きなバレエを踊った。
私は踊ったんだ。
夕暮れの光の中で。
舞い踊る。
私は泣かない。
ただ舞い踊る。
それからそっと部屋を出た。

私は人を愛せません。
心にライオンを抱きしめています。
きっと誰かを好きになっても、その凶暴な爪で傷つける。
心にライオンを抱きしめて。
私は人を愛せません。
でもこの秘密を読んでくれる人はいますか?
心にライオンを抱きしめて。

僕はそこまで読んで携帯電話を切った。僕はそのようにみいちゃんの心の中をほんの少しずつ知り、遠野はる、に心が近づいていく。

はるちゃん、今、君は何をしていますか?
初めて人を愛した、はるちゃん。
鼓動がはやくなる。

今度は顔ではなく、心の中への恋に気がつき始める。
君は君でしかない。

こんにちは、遠野はる。

2

くんちゃんの死の捜査は警察も進展している様子がなかった。

ある夕方、大将の店で、中学時代の番長の、おかちゃんが言った。
「くんちゃんの最後に会ったデリヘル嬢は裁判台で証言しとるやろ? だからその子ではないやろな。でもデリヘル嬢ってそのバックには怖ーいお兄ちゃん達がついとる。そいつらはヤクザとかと繋がっとる。警察が動きが悪いのはその辺ちゃう? ワシが思うには。ワシらで警察より先に犯人を見つけたる思とるで」

もちろんくんちゃんが最後に会った女性が誰であるかは言えなかった。何かの秘密がそこにはある。

僕は大将の店を出ると、花束を買って、浜の宮中学に向かった。曇り空でもうすぐ雨になりそうだった。

くんちゃんの遺体が見つかった場所だ。そこは体育館の裏側。季節は冬が始まっていて、その場所はもう影になっていて寂しい場所だった。

そう言えば中学時代は、ここで仲間達と煙草をよく吸ったな。若いカップルがいたこともあったな。二度目の青春を過ごす僕たち。おじさん達の嫌な部分と素敵なところだ。

その時、足音が聞こえた。こちらに向かってくる。僕はくんちゃんの死んでいた一角に花束を供え、手を合わせていた。

足音が止まり、ふとそちらに顔を上げると、そこにはひとつの人影があった。

遠野はる。
遠野はるが花束を持っていて立っていた。

「偶然ね。けい君、久しぶり」

「はるちゃんも?」

「そう」

はるちゃんも花束を供えると、手を合わせた。僕も並んで手を合わせた。同じ白いユリの花束が風に吹かれている。

はるちゃんは白いワンピースの上にカーキ色のダウンを着ていた。横顔は前とは違う反対側の横顔だった。それが嬉しかった。

「けい君。もう一目惚れだったなんて言わないでね」

「うん」

「またそんなこと言われたらまた消えるからね」

「うん。実は、はるちゃんのページ読んだんだ」

「ページ? 何それ?」

「ネットの詩小説だよ。【パンダ燃ゆ】。まだ途中だけど」

「どうして知ってるの?」

「ある少女から教えてもらった」

「ある少女?」

「車椅子の女の子」

「ゆいか!」

「そう。ゆいか」

「ゆいかの家庭教師が私よ。こんな性格だからすぐ辞めたけど」

そういうことか。
はるちゃんに、ゆいかとの出会いと別れを語った。心の交流を語った。輝く海を二人で見たこと。波打ち際までおんぶして波に濡れたこと。小さな石ころの話。

【私でもあなたを守れるもん】というLINEを思い出した。はるちゃんはそれを聞いて細い目をして僕を見た。

「この犯罪者。へんなことしてないでしょうね」

はるちゃんは肘で僕のお腹をこずいた。

「してない。してない」

「マジ? おっさん」

「マジで」

「あの子は私と同じ。人生をリセットするとするでしょ。そしたらその向こうの世界を見てしまうの。人生ってリセットやねん。ゲームでもなんでもリセットボタンがあるやん。そしたらまた次からなんでもなくゲームが始まるやん。その向こうへの視線があって、それを知っている人がいるの。ゆいかはその向こうを見てしまったの」

「はるちゃんも?」

「うん。そしてくんちゃんも」

僕はその話について考えた。リセット。その向こうで見てしまったもの。

「はるちゃんの心の中が少し知れてよかった」

「私には出世の秘密があるの。そしてあの人にもあった。それを聞いた時、私の愛の火が輝いた。胸がドキドキして、竜巻のように好きになった」

「あの人?」

「そうよ。パンダが燃える時、秘密は浮かびあがる」

「その話は僕には秘密なんだね」

「そう。竜巻のように秘密。竜巻のような恋ってあるわ。ね、けい君」

僕にとってはそれがはるちゃんだ。そう言おうとしたけど言い出せなかった。また何かが始まる。また何かが始まる。いや、始まってしまったのかもしれないな。

「今日は時間ないの? けい君」

「夜なら。一度、家に帰って母親の介護して、母親が眠ったら、時間はあるよ」

「いい場所かあるの。でも一人じゃ怖い。夜に連れて行ってくれる?」

「いいよ」

「じゃ夜に」

そう言って、はるちゃんは僕に名刺を渡した。東加古川のお店の名刺だった。

体育館を去る時、はるちゃんは僕の手を握った。そしてしばらく歩いた。

「まだパンダは燃やしてるの?」

「ううん。もうそんな人生やめたな。パンダはもう燃やさない。動物だもん。もともと燃えない。パンダは動物。デリヘルもすぐに辞めた。もう変わったもの。人生が!」

少し涙がはるちゃんの目に浮かび、また輝いた。

「ねえ、けい君、私、もう、生きて生きて生きまくるよ!」

「うん。生きまくろう!」

「生きて生きて生きまくるんだから!」

何度もそういうはるちゃん。ある細い道で、繋いだ手を離して、僕に手を振った。その時の元気のよさが僕を笑顔にさせていく。僕も手を振った。

「じゃ夜に!」

夕陽が輝き、遠ざかるはるちゃんを照らし出した。晴れてきた。晴れてきたよ。

生きまくろう。

3

家に帰ったら、母親の姿がなかった。
徘徊するのは決まって深夜だから最初は散歩に出かけているんだろう、と思っていた。
でも日が暮れ、だんだんと不安になってきた。

母親が徘徊する時はいつもだいたい同じだ。いつも同じ道を歩いている。なぜ同じ道なのかはわからない。

けれど遠くまで歩いて行ってしまうと、また警察沙汰になる。足も弱くなっているからどこかの溝で、転んで立てなくなってしまう可能性だってある。

ヘルパーさんにその旨を書き置きをして僕は自転車に飛び乗った。

お母さん!

自転車を走らせながら、はるちゃんの出世の秘密を思い出して切なくなる。親というものの存在。母親のことを考えると不安が増幅する。

国道250号線をひたすら走った。彼方に母親が手押し車を押して歩いているのを見つけて涙が浮かんだ。幸せでもあったな。

「お母さん! 何しとるん。家から出たらあかんやんか!」

「あら、けい君」

「とにかく帰ろう。また警察呼ばれるで!」

「警察の人、怖いのよ」

「どこ行くんよ! いっつもいっつも!」

それには答えない母親。痴呆が随分とあるけど、説得して、家へ引き返した。タクシーを停める。自転車はチェーン鍵をつけて、閉店している喫茶店に置いた。

タクシーのなかでも母親は黙っていた。母親の手を握った。ひどく冷たく、薄着だ。冷えただろう。

「寒くないの?」

「あんたこそ、そんな薄着で」

「お母さんがおれへんようなるからやん」

「電話が脳にかかってきたからね」

よく母親はそう言う。家の電話ではなく、自分の脳にも電話があって、いつもメッセージがあると。いつものことだったけど、この日は母親はにっこりとして言った。

「リハビリにおいでって」

「リハビリ? たずみ病院の?」

「そうや」

「お母さん、リハビリは火曜日の午前中だけ。夜になっても病院は開いてないし、北村先生もいないし、先生は奥さんにもうすぐ赤ちゃん生まれるから、迷惑だよ。連絡もつかないよ」

「そう赤ちゃん」

北村先生はまだ20代の若くて背が高く、とても親切で、母親は毎週先生に食べ物を買って行った。

母親が少女のように見える。きっとそうだ。80近くになっても女性は少女なんだ。26の若い先生に恋しているんだ。

老いた女性な一途な恋心。僕は微笑み、車窓から外を見た。小粒の雨が降っている。

家に戻り、ヘルパーさんに睡眠薬を飲ませてもらい、母親がぐっすり眠るまで、手を握りあっていた。この手を先生だと思いながら。母親が少女の顔になっていた。

竜巻のような恋心は誰にでも起こるよな。
なあ、お母さん。

少し遅くなった。
おまけにはるちゃんから貰った名刺の地図がわかりにくく、目的の店まで随分と時間がかかった。

店はカラオケ喫茶の「サニー」。
ドアを開けると、ママが明るく客の歌に合わせて踊っていた。しかしはるちゃんの姿はなかった。

ママに問うと、もう帰ったと告げられた。ママもはるちゃんの携帯番号は知らなかった。僕ももう通じない番号しか知らない。

「呑んでいけば?」

「いえ。ありがとうございます」

傘をさして雨の中を1時間ほど歩き回った。だから三角公園のベンチに座っているはるちゃんを発見した時は嬉しかった。はるちゃん、コンビニを袋を持って、ビールを呑んでいた。僕の顔を見ると微笑んで言った。

「嬉しい」

「何が?」

「いなくなった私を探してくれたこと。ちゃんと見つけてくれたこと。けい君なら、ちゃんと私を探してくれると思ってたの。出会いに感謝してる」

「今日のこと?」

「わからん。さあ行こうよ。秘密の場所に」

「どこ?」

「ついてきな。パンダ君!」

はるちゃんは、立ち上がり歩き出した。僕はすぐ後ろを歩いた。秘密の場所はそこからすぐだった。

はるちゃんはとあるマンションの階段を登った。マンションと言っても小さな一軒家に見えた。3階建。

「不動産屋を回ってみて見つけてん。でも私はここに住むんじゃないの。ちょっと面白い物件だったから、不動産屋さんが鍵を隠す場所を見てたんよ。でも高いしなあ。ほら、あった。ガスメーターの裏。入ろ?」

「電気は?」

「ない。けど、蝋燭を隠してる。私、何度か侵入してるから」

ドアを開けてはるちゃんがなかに入った。僕も玄関まで入ったところで気がついた。

僕の今日の靴下には穴が空いている。だから少し恥ずかしくて立ったままいた。

「どしたん? けい君?」

「靴下に穴が空いてるから」

「何よそれ? そんなこと気にしとるん? 可愛いのー。暗くて見えんし、どーぞ」

それからはるちゃんは蝋燭を燭台に立てて、ライターで火をつけた。

二人で並んで空っぽの部屋の壁に持たれながらビールを呑んだ。コンビニの袋にはビールがたくさん入っていた。はるちゃんが言った。

「きっと運命。運命的な出会いは、部屋にもあるし、店にも、人にもある」

「あの人のこと?」

「うん。なんにも好きになれなかった私がいろんなものを愛し始めている。私、もうボロボロだったから」

「おいでよ。好きだよ。はるちゃんの心が」

「そんなこと今言われたら、けい君の胸に飛び込んでしまいそう。でもボロボロだから。ボロボロの私はひとりで、たったひとりで愛を探してたいんよ。私、踊りたくなった。見てて。子供時代のバレエ」

「子供時代も好きになれる?」

「なれない。だから、踊るの」

はるちゃんは立ち上がり、バレエを踊った。それはこれまでの人生で見てきた何よりとても美しい光景たった。何もかもを受け入れ、愛そうとしているはるちゃん。はるちゃんは踊り続けた。

それが運命一夜であることに僕たちはまだ気付いていない。

4

それからも二人で壁に凭れてビールを飲み続けた。はるちゃんは眠そうにしながら言った。

「海の底まで行ってん。そこにはな、綺麗な白い椅子があってん。それは私のために待っていてくれた椅子でな。そこに私は一瞬座ってん。そしたらな現れたのは神様じゃなくて、魚やってん。シーラカンス。シーラカンスは浮上の火をくれてん」

「うん」

「シーラカンスは古代の魚やねん。ちょっとだけ怖いねん。大きくてゆっくり泳ぐねん。私はシーラカンスの唇に近づいてしまった。あと、1ミリにあるシーラカンスの唇。どちらが先にキスをしたんだろう?」

「はるちゃん?」

「ううん。同時」

「お互いの愛が生まれたのも同時」

「僕は片思いやもん。パンダを燃やしてばかり」

「うん。けい君?」

「何?」

「待てる?」

「はるちゃんを?」

「そう。私を。くんちゃんのことも終わって、いろいろな壁を乗り越えて、心も新しくなったら、連絡する。きっと。わからんけど。それまで待てる?」

「うん」

「嘘よ。待たなくていいよ。きっと帰らない。今はあっちゃんを守ってあげて」

「うん。もう会えないの?」

はるちゃんはそれには答えず僕に微笑み、僕に言った。

「勃起してるの、バレてるよ」

そうだ。僕ははるちゃんを抱きたかった。竜巻のような愛が押し寄せていた。

「できないよ。生理だもん」

「うん」

それが嘘を言っているのはわかる。はるちゃんなりの傷つけない断り方だろう。

「ソイフレって知ってる?」

「いいや」

「セックスフレンドがセフレ。添い寝フレンドがソイフレ。わかる? 眠たくなった。一緒に添い寝しよう。ここで」

「うん」

「レイプせんといてな」

「わかった。横になって話そうか」

「この部屋はメゾネット。寝室は二階。マットレスと掛け布団を持ち込んでる。ここで何度か泊まるために」

階段を登ると寝室があった。蝋燭はリビングに置いてから、部屋は真っ暗だった。けれど、しばらくして月明かりに目が慣れてきた。雨が上がり晴れたんだろうな。

服を着たまま二人でそこで眠った。まるで夢を見ているような時間。でも指も触れないし、抱き合うこともなく、数時間眠った。

僕が起きるとはるちゃんは、僕のチノパンを下ろして、下着を下ろして、ペニスを優しく舐めていた。温かい唇。僕が射精してしまうと、はるちゃん、僕の顔を覗き込み、微笑んだ。

「けい君、これでいい?」

「でもよかったの?」

「けい君、勘違いしないでね。私は、けい君が、私のこと一目惚れだっていわなかったら‥消えなかったよ。ウザいの、そういう人。でも私、泣いたのよ。失ってしまった。普通の女性ならできる始まりをできなかったことに。今もそう。普通に始められない」

僕は思わずはるちゃんを抱きしめた。

「顔が変わっても、心が傷だらけでも、全部のはるちゃんが、好きだ」

「ありがとう。ウザいよ。さよなら、けい君。それから‥あなたはもっと自分の良さに気づいて」

「何? いいところなんてないよ」

「けい君は不思議な目をしているの。気がついてる? なんだか心には少年がいるのよ。ほんとに困ったことに。少年が見えるの」

「うん」

「不思議な人ね。けい君、と旅に出て、暴いてみたい。けい君、ひょっとして子供時代に何かあった?」

「うん」

「私が見たリセットボタンのその向こうの世界。くんちゃんが見たリセットボタンのその向こうの世界。本当は、ありえない世界。だから言わないでおきたかった。でも、私はけい君だけには言わずにはおれない。こんなシーラカンスの夜だもん」

「うん」

「うん、しか言わないね、いつも。ほんとけい君こそ変わってる」

シーラカンス?
誰が?

【如月みいの詩小説2】

6歳の頃、病院のミスで赤ちゃんの時の取り違えが発覚した。それによって、同じように間違われた6歳の子と交換して、新しい家族と私は生活するはずだった。

そうお互いの家族が決めた。でもその子は事故死してしまった。私は、どちらの家族にもいらない、と言われた。その事故死したお兄さんがいた。
名前はくんちゃん。

デリヘルやってた私。
くんちゃんは抜けない棘が人生にはあると言って、その話をしてくれた。とてもくんちゃんの心の中はその棘が取れなかった。不良もやったし、ボンクラやし、って笑ってた。

私は言った。
実はくんちゃんの妹さんと間違われたのは私。くんちゃんの見た世界と私が見た世界は同じだとわかった時、同時にキスをした。セックス禁止なのに、愛し合った。私が初めて愛のあるセックスをした。とても激しく愛し合った。愛する男の人とのセックスはとても素敵でした。

そうやって愛が始まった。

「嫉妬した?」

「うん」

「勃起しないでね」

窓が明るくなってきた。朝が来たんだ。はるちゃんは1本煙草を吸った。僕は訊いた。

「くんちゃんとは続いたの?」

「3度愛し合って、その時、私達が本番行為をしてることが私を雇っていた怖ーいお兄さんたちにバレた。くんちゃんは逃げた。その時、お酒も飲んでたから人身事故を起こして逃げた。被害者はたいした怪我じゃなかったけど、携帯電話のカメラでくんちゃんの車のナンバープレートを撮っていた。だからくんちゃんは警察に捕まった」

「だとしたら、その怖ーいお兄さんたちがくんちゃん殺しの犯人なの?」

「違う」

「はるちゃんは犯人を知ってるの?」

はるちゃんは首を振った。

二人で部屋を出る。鍵を元に戻す。東加古川の駅前のイートインのパン屋さんで、朝食を食べる。その間、たわいもない会話で笑う。

あれはいつのことだったろう。
忘れてしまっていること。
君が綺麗だったこと。

今でもあの後ろ姿を忘れない。
東加古川駅から神戸に向かうと言って駅に向かうはるちゃんの後ろ姿。
強い後ろ姿。
その強い後ろ姿だけ朝日に輝いていた。

なあ、はるちゃん。
遠野ハル。

どうして僕は彼女を救えなかったんだろう。

どうしてその手を離してしまったのだろう。

君が消えてしまう前に。

【第三部おわり】

エンディング

1

ある中学生グループがあった。

そのひとりはくんちゃんが人身事故を起こした被害者の息子だ。かなりの不良少年という話だった。

ある夜、大将たちがその中学生グループを取り囲んだ。ケンカがはじまり、元番長のおかちゃんが被害者の息子を問い詰めた。息子は頷くしかなかった。

「単なる遊びやん。おっさん達もやろ」

くんちゃんは保釈されても、相変わらずで、ビールの飲み過ぎで、路上に倒れていた。

それを見つけた浜の宮中学の不良グループが見かけ、お金を取ろうとした。

けれどくんちゃんの財布には500円しかない。
リンチが始まった。

バットで殴られては笑い転げた。死んでしまうとは考えもしなかった。だから何度も遊びでバットで殴られ笑い転げた。

血だらけになったくんちゃんは、500円でビールを買い、浜の宮中学の体育館の裏までふらふら歩き、そこで空を見上げた。

パンダが燃えるよな。
なあ、はるちゃん。

「リセットやな。はるちゃん。俺が見た妹の事故死。その時な、何にもない先を見てもた。白紙の世界やな。俺がほんまの俺なんか。ほんまの俺は妹なんちゃうんか。はるちゃんが見たそれからの世界は俺にはわかるで。時が止まった世界もわかるで。時が進むのが許せなかったんやろ。そんな自分も許されへんかったんやろ。そんな世界はあるで。確かにな。俺もそんな世界にずっとおるねん。それが俺や」

くんちゃんの遺体は傍らのビールが飲み干されて発見された。

そうやっていろんな場所でいざこざがあり、逮捕された被害者の息子のグループと浜の宮中学の体育館の裏手で仲間達の決闘が始まった。

白黒つけようじゃないか?!

素手でみんな殴り合い、最後には中学生グループが逃げていった。けれどバットを隠していた中学生が仲間達を襲撃し、骨の折れた仲間達は、夕暮れの体育館の裏手でみんなで仰向けになって倒れた。

おかちゃんや、とよさん、まえちゃん、大将、僕、あとみんな仲間達がボロボロになって倒れたまま空を見上げた。

おかちゃんが笑い始めた。

「久しぶりやな、この感覚。この場所もな。なあ、くんちゃん? ここでよう煙草吸ったな。悪さもしたな」

倒れながらみんなで煙草を吸った。そして笑い転げた。

大将が言った。

「あれから何十年や。吉野家食いたいのー」

いつまでも笑い転げた。そうやって皆が時間が過ぎていく。

2

半年後、ゆいかから久しぶりに長いLINEが来た。それを僕は早朝のベッドに座って読んだ。

【けい君。お久しぶりです。

これを伝えるのは、とても悔しいです。

私の一生はこの小さな部屋だけで続くと思っていました。

海の底を転がる石コロのように、その遥か向こう側の世界を見つめるだけで終わるのです。

そんな日々は冒険もなく、二人で見た海のような輝きももう二度とないのです。

たまに施設と部屋の往復だけの外出で、けい君の言う好きな男の子なんか現れるはずはありません。

私は悔しいけど、今でもけい君を守りたいし、私でも守れるもん、と思っています。

愛情はどんなかたちにもなれるのですもの。

そのはずでした。

ところが同じ施設に通う言葉の喋れない、同じように足の悪い男の子と出会い、手紙を貰いました。

私はどうやらその男の子が好きになっていくのが悔しいのです。

けい君はただのおじさんです。笑

私はどうやら女の子です。

男の子が好きです。

好きになっていくただの女の子になってしまいました。

けい君のことなど忘れます。

忘れていきます。

存在の石コロありがとう。

みいちゃんはあれからも私とずっとLINEをしてくれていました。

けい君、みいちゃんの【シーラカンスの夜】を読んでみてね。

じゃあ、未来へ行きます。

君のいない未来へ!

ゆいか】

僕は携帯で小説投稿サイトを検索して【シーラカンスの夜 如月みい】に繋いだ。

【靴下の穴が空いてて、部屋に入るのを恥ずかしがったシーラカンスの夜。

靴ひもがほどけていて、部屋から出るのを恥ずかしがってたシーラカンスの君。

入り口と出口。

シーラカンスの唇に近づいてしまった。

あと1ミリにある君の唇。

よく眠ってたね、シーラカンスさん。

私は悪いけど、そこに黙ってキスをしました。

それでも起きないシーラカンスの夜のこと。

人を愛する力を持ってしまったこと。

いつかあなたに会いに行きます。

その資格が今はありません。

シーラカンスの夜。

シーラカンスの朝がくる。

道を歩いていると、若い頃の自分がいた。確かに服装も若い時の自分だし、顔も若い時の自分だ。
若い時の自分は、時がたった今の自分をわからないらしい。靴ひもがほどけていますよ、と私は若い自分に声をかけ去った。
雑踏の中にあの頃が消えていく。
靴ひもがほどけているよ。

私は波だ、と思う。
同じようによせたり引いたりしているようで、実は飛沫の上がり方も、ひとつひとつの重なりも同じではない。
私の感情も、波だ。同じようで、変化し続けている。存在も、世界も、波だ。一瞬一瞬が違う。
照らす光。

私は世界の片隅にひっそりと存在しています。
私は世界の片隅にひっそりと存在しています。
もし変わるのなら小さな月です。
小さな目立たない曇り空の月です。薄くて誰の目にも見えないような月です。
小さな月です。

3

確かにあれは黄金の日々。

それは、本当に小さい。

なんでもなく、大袈裟じゃなく、ほんの些細な積み重ねで、いつもそこにあること。

大将が言っていた。

「おっさんになるとなぜか優しくねるねん、みんな。涙もろくなったなあ。それでワイもパワーになるんちゅうかな。ワイにとっては今もええで。時が経ってもな」

母親は痴呆が酷くなり、今では入院している。僕は洗濯物を取りに行き、また洗濯物を返しにいく毎日。でも健在だ。

それからも半年はあっちゃんの定食屋でランチの時間を過ごすことが僕の日課だった。

あっちゃんはバイトでそこにいて、いつも笑顔でいて、一日を笑顔で始めるというのが心地良かった。

あっちゃんは時々悩んでいても、笑顔になると「よし、これがウチや」とまた笑顔に戻った。

「今日は何話す?」と、くだらないことをたくさん話して、笑った。

僕はどれだけ、あっちゃんの笑顔に救われたんだろう。

「よし、これがウチや」と聞くたびに、僕も自分自身を取り戻せた。

黄金の日々って、そういうことじゃないのかな。

小さな、なんでもないあのランチの時間をたぶん、僕は「心の中の小さな箱」に入れて時を重ねるのだろう。

あっちゃんが、バイトをやめる最後の日が来た。

あっちゃんにも新しい仕事もけんちゃんいう彼氏もできていた。でもくんちゃんのお墓参りは欠かせないと言った。

みいちゃんのことも以前ほどには憎んではいない。逆に心配している。

「ええ奴やったな。みいちゃんはおもろかった。なんとなくみいちゃんの詩読んだら、くんちゃんの気持ちもわかるからな。それがウチや」

僕はいつものように笑い、最後のランチを食べながら「奇跡って本当はこういうことじゃないのかな」と考えていた。

大袈裟なことじゃなく、なんでもなく過ごしたランチ。

「けい君、またLINEいれるわ」

「なんて?」

「私こそ助けられててんで。一生もんの友達や」

「言うてもたらあかんやん」

「それがウチや」

二人で笑い転げた時、店の電話が鳴った。あっちゃんは何気なくとると、驚いた様子で、僕に言った。

僕は話の内容がわからなかった。ただあっちゃんがこう言った。

「みいちゃんが現れた。みいちゃん、今、けい君を港で待ってるよ。行く? けい君?」

「会いたいな」

「じゃあいけ! 走れ!」

僕は店のお勘定も払わずに外へ飛び出した。

夏だった。

突き刺すような光へと僕は走った。

港に近づいて来た時、彼方から走ってくるみいちゃんが見えた。

みいちゃんも走ってくる。

だんだんと距離が近い。

竜巻のような感情が舞い上がる。

僕も走る。 

みいちゃんが近づく。

港の真ん中で出会い抱きしめあった。

「ここまでの道長かった」

「遠いよ、駅から」

「私達、グズだから時間がかかった。でも戻って来た。海の底から。これがパンダじゃない、私そのものよ。名前は如月みいと言います。よろしく。横顔も、正面も、心の中も、少し太っちゃた体も、気持ちも、時間も、私そのものです」

「日常のはじまりやね」

「よかった。小さな日常をはじめよう、これから。ゆっくり。これは白紙の物語だもの。白紙から」

「はじめようか、物語を」

はじめようか、物語を。

未来へ!

【おわり】

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