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滑空しないグライダーを探す旅

振り返れば恋人との関係を始めて1年が経って、同じ場所で同じ人間と同じことをした。

春の気配を含んではいたが、冷えたスミノフを飲むには少し肌寒い季節。霞んだように薄くかかった雲からも感じる日差しなのに、しっかりと眩しい。隣の男と密着した皮膚は、いつも通り普段の自分よりあたたかい。

春は穏やかそうな顔をして、本当はそうじゃないと思う。風も強い、油断した頃に信じられない寒さを届ける、心地よく寝ている間に、きっと何かを奪われている気がする。でも、それでも穏やかな甘い春にいつも騙されてしまうし、それでもいいと思わせる。怖くてずるくて甘い。

家に泊まったある日の翌日、車を借りようかといつものように思いつきで恋人は言った。この男はやんちゃでスムーズな運転をする。相反するような言葉を並べているが、本当にそうなのだ。体感するとそうとしか言えないから難しい。意外と心地が良くて、恋人が車を運転するのを眺めるのは、とても嬉しい。

家からほど近いレンタカー店舗を2件訪れたが、あまりにもいい天気の休日だったから、目当てのクラスの車はなく、諦めた。

近所のおじいちゃんのような人が、レンタカーの空き検索をしてくれる。あまりにも笑顔で、あまりにも時間をかけて探してくれるものだから、私たちは少し期待してしまって、その長い長い待ち時間を持て余し、少し店の外に出た。

こんな大都会ではめずらしく、真っ白なグライダーが飛んでいた。グライダーはエンジンがなく、別の飛行機に引っ張り上げられ、ロープを外す。その後はじわりじわりと気流に乗って落ちていく。気持ちは良いものだろうが、こんな恐ろしいことよくやるなと思ったし、何よりもこんなビルが多いところでやって楽しいのだろうか。それは果たしてどこに着陸するのだろうと不思議に思う。

その、遠くから見る限りは優雅な速度で、少しずつ降りてくる鉄の物体を見ていたら、まるで私たちの関係のようにも思えて、何となく不吉だから見るのをやめた。あの時のグライダーは、果たして夢だったのか。そう思ってしまうくらい、不思議な存在だった。

忘れた頃に、近所のおじいちゃんがレンタカーは空いていない旨を、例の笑顔で告げる。もう半ば諦めていたけれど、軽やかなにこやかな表情で言われると、あれ本当は空いてるって言われたのでは、と頼りない視覚は勘違いしかける。

「車は次回にするとして、今日は電車で行こう。」
こういう、小さな「次回」の約束事を嬉しく思う。

ここまできたら流石に突然終わる関係とは思っていないが、小さな未来への約束を当たり前のようにする恋人を見て、安心する。まだグライダーは落ちきってはいない。そういう事を喜びたくなるくらい、自分の中にもこの男が好きであるという気持ちが根付いていて安心する。

ただ、その「次回」の約束を120%の切なさで静かに喜ぶようなことでもなく、今はちゃんとにこにこして嬉しいと伝えられるし、切なさよりもあったかくなれるようになったのは、この1年間の進歩か、退化かどちらだろうか。

初めて鎌倉に一緒に行った時は、この男は電車内でもサングラスをしていたと思い返した。今ではそういう細工をせずに、堂々と手をつないで一緒にいる。何も変わってはいないのに、より私たちがお互いにバカになった証拠だ。

実は海を見たときよりも、スミノフを同じように飲んだときよりも、今日の中ではこの電車のことが何となく頭に残っている。特に何か深い会話をした訳ではないはずだが、当たり前のように手を繋いで、コートの下にはお揃いのパーカーを着て、一緒にいるということがただ嬉しかったのだと思う。1年前の、彼の目を信じきれない自分とは、変わっていたことを明確に感じた。時間を重ね、そういう存在にお互いなってしまったことが嬉しくも少し怖い。

海に向かう前に、お互いの好きそうなお店でランチを済ませた。ビールを片手に由比ヶ浜まで歩き、霞んだ春の空を見上げた。海岸沿いに立つ電柱は、心臓の鼓動のように同じ距離を刻む。ここからは、終わりは見えない。

ちょうど少し先の電柱のてっぺんで、大きな鳥が羽を休めている。1年前の切なさは感じなくなったはずの心でも、鳥は自由でいいと感傷的になったりする。自由になれるとして、私はどこに羽ばたいていくのか、想像もつかない。適度な不自由は、悲しいことに、言い訳にもなる。

恋人からは、よく上を向くよね、と言われる。確かに空を仰いで身体中の空気を入れ替えるようなことはよくしている。
でも多分それに加えて、少し上を向いて涙を零さないようにしていることだってあることをいつかこの恋が終わる頃には伝えてやろうと思う。思ってるより、あんたの女は(これでも)我慢して一緒にいる健気なところがあったんだって。
でも、終わる頃にはそんな話なんてもうしないかな。


大人になってからする恋愛の終わりって、いつ来るんだろうか。

ある人は、好きって伝えた時点で終わってしまうと言うが、私たちの場合は好き同士と伝わった時点でしっかり始まってしまった。
ある人は、距離が離れると自然と終わってしまうと言うが、こんなに離れて、会えなくて半年経っても、会えるのがここから更に半年後だとしても、今の所終わりそうにない。
お互いにお互いの世界があるからこそこんな続け方ができるんだろうけれど、素直に終わりがどんなものなのか気になる。

終わらないものなんてないと知ったことが、大人になってからの関係をより大切にできるようになったことなんだろう。一度手放したら終わりだと、繋いだ手を何度か握って存在を確かめ、あたたかくなるこれからの季節を思ったのだった。

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