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終わり、そして始まり 8 (食事会)

芽衣と芽衣の家族、母の異母姉妹達の計9人。食事会を開いてくれました。
食事会の場所に早めに着くように、宿泊しているホテルを早めに出たのですが、夕方の交通渋滞に捕まってしまい、夕方7時に予定した集合時間を30分も遅れてしまった。

遅れて始まった食事会、そこでいろんな話を聞かせてもらいました。
しかし姉妹にとって母は異父姉で、おばあちゃんは前妻となり、そのおばあちゃんの前で話すのは、ちょっと話しづらそうな感じは受けた。
実際返り際に、母の異母妹はそう言っていた。

この食事会で聞いた父と母のエピソードの一つに、夫婦喧嘩の話を聞いた。
若かった父と母、結構仲がよかったらしいが、一度夫婦喧嘩して、「実家に帰らせてもらいます」って状態になったそうだ。
その時、「父が戻ってきて!」ってラジオ番組に投稿して、それが沖縄全島に放送らしい。

親父ならそういうことやりそうだなと、話を聞きながら思った。
そのラジオ番組に送った下書きと思われるハガキが今も残っていて、母の中学校卒業アルバムに挟んであった。名古屋に戻って遺品の母のアルバムを開いた時に見つけたのでした。

 私に兄がいたことは父から聞いていて、その兄の話もすこし詳しく聞くことができた。
昔に兄は私が生まれる前に高熱で亡くなったと聞いていて、高熱の原因はウイルス性か細菌性の何かかとばかり思っていたのですが、どうやら違うようだ。

 熱を出す前に餅を喉に詰まらせたという事を始めて聞いた。
その時は事なきを得たようですが、しばらくして高熱を出したらしい。状況からして誤嚥性肺炎と思われるが、話してくれた母の異母妹は、誤嚥性肺炎は違うと言っていました。
当時10代と若かった父と母、たぶん誤嚥によるもとは気付かなかったのだろう。1才の幼児に餅をあげる事態、もう既にあり得ないのですから。


 父と母が離婚した原因、それも全く違っていた。
宮古の親戚話では、母は男を作って出て行った。そう聞いていたが、実際は母の祖母に猛反対されたのが真相のようでした。
 父は母の家に行くたびに祖母から、「おまえ、まだ沖縄にいたの! 早く宮古に帰れ!!」、いつも罵倒されていたとのこと。
 話してくれた母の妹は、宮古の親戚の人達が毎晩のように家に来て、それに母の祖母は切れたと。その宮古島のカルチャー?についていけなかったと。

 母の妹はそのようなことを言っていたが、実は私は本当のところは違うと思っている。
母の祖母は、宮古島の人の血は決して受け入れない。子供も絶対に認めない。当時、宮古の人は沖縄の人から差別されていたことを聞いている。
 今の時代それは差別思想ですが、当時はそれが普通だったのだと思う。
今の価値観の物差しで昔を測ることはできないが、母に子を捨てさせた母の祖母に、やっぱり心穏やかではいられなず、

「子供がいたのに、離婚させ、子を捨てさせたのか!」

私はつい言ってしまった。


 そして、母の新しい出逢いも聞いた。
二回目結婚では、結婚祝いを三日三晩盛大にやったそうです。
母のお父さん(私の祖父)は、複数箇所で参加してた模合のお金を、その日の為に全て受け取って、お祝いの費用に当てたとのこと。

「〇〇家から初めてお嫁に出すから、三日三晩盛大に・・・、綺麗だったよ・・・」
親戚の言葉に、

(初めてお嫁に?)

”初めて”という言葉に心が引っかかってしまった。

(父との結婚は無かった事とに?)

 母の姉妹が話す言葉は、途中からあまり耳に入ってこなかった。
でも、娘を思うお父さんからすれば、今度は幸せになって欲しい、そう強く思ったのでしょ。

 食事会は2時間ほど終わった。お店の外に出て少し立ち話した後、お店の人に頼んで、皆の写真を何枚か撮ってもらった。
初めて一緒に撮った私と芽衣とその家族の写真。嬉しくて、ホテルに戻ってからも、何度もスマホ画面を開いて、その写真を何度も眺めた。


 そこ食事会での話で、心に深く突き刺さって残っているのが、私の父と母の結婚が無かったことにされていたこと。
祝福されず誰も祝ってくれなかったことが想像できた。子供の私としても、これは辛いのです。

だからね、ここで祝福の言葉を過去に母に送ります


未来の貴方の息子から、母になる前の貴方へ

結婚おめでとう





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