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寂しさをなんとかしなくてもいい

バケツの底の穴シリーズ続編🤣
「私は底に穴の開いたバケツのような、欠陥品かのような存在である」という激しい思い込みについて、です。

バケツの穴を、何かを為した達成感や満足感や、誰かからの賞賛や報酬で埋めようとしたり。
今は良くないから、良くなれば満たされると思って頑張ったり。
これ以上悪くならないように、穴を隠して偽ったり。
穴が気になりつつ見ないふりして、快楽や消費に走って誤魔化したり。
そんなことしなくても大丈夫ですよーという話です。

例えば、寂しさを感じたその時のそのままを、なんとかしようとしなくて大丈夫なんです。
寂しさというのは、快か?不快か?というと、フツーは不快な感情に判別されますよね。
それを私の不快な感情だ!とするから、埋めようとしたり隠そうとしたりなかったことにしたり快に変えたくなるわけで、「寂しさ」には問題はないんです。
ああ寂しいなぁ…で終わればいいわけですよね。

もし、世界は意識や波動次第!というのであれば、少し前の意識や波動が現象化しているということです。
はたまた、「寂しいなぁ」と言葉にするより前には、サーっと血の気が引くような、寒気に近いような、なんとも言えない身体的な感覚がありませんか?
そういう身体的な感覚を言語化すると「寂しいなぁ」になるわけです。
身体的感覚が、言語より先立っていることになります。

だったら、起こり終わった「寂しさ」にダメ出しするよりも、ただ経験してしまえばいいのでは?

経験するべくして、「寂しさ」が起きた。
その時には、それ以外に起きなかった。
その時世界は「寂しさ」で満ちた。
そうなるべくして、そうなった。
…いかようにも表現できます。

寂しさを感じた瞬間より前に「寂しさ」の認識を確定する要因(意識や波動や感覚)があったなら、今さら何をどうしろと?
その瞬間の完璧な寂しさを「不快な私の感情だ」とダメ出しする観点が、厄介なのでは?と思います。

現象を認識した時に起こり終わっているのであれば、快だろうが不快だろうが、手の出しようがありません。
既に過去なのですから。

私が経験する私のものが、不快であってはならぬ!という認識があるから、不快をなんとかしたくなるわけですよね。
それがダメだと言いたいのではなくて、その観点への囚われから解放されたらお気楽ですよーということです。

その瞬間に寂しいと認識した。
ただそれだけなんですね。

二度と寂しくならないように、あーだこーだする(バケツの穴をなんとかしようとしたり、波動や意識を学んだり、予定を埋めたり、食べたり買ったり…)ことを、散々っぱらやらかしたから、囚われているという自覚が生じたわけでして。
その時「寂しさ」は恩寵になり得ます。
矛盾しますが、なんとかしようとしまくったから、なんとかしようがないとわかったわけです。
色々やってみるのも、面白いと思います😁

いわゆるネガティブ全般に言えると思いますが、ネガティブにダメ出ししている判断は、起こり終わった現象を否認しているということです。
ネガティブを無自覚に否定する根底が観えるためのプロセスとして、癒しや赦しが必要なこともあると思います。
ですが、根底にある否定を上っ面だけポジティブ風味でコーティングするための対処なら、繰り返します。 
どうやって対処する?というHow?を追いかけると、ずーっと問題を解決し続けることになります。
問いを立てるならWhy?です。
ネガティブがなくならないのは、どうして?
ネガティブを避けてポジティブが欲しくなるのは、どうして?

そんなことをしている暇はないから、とりあえず対処!となる気持ちはわかります。
忙しい現代社会では、コスパよく!タイパよく!がまだまだ加速するんじゃないでしょうかねぇ。
どうやってコストを下げて利益を高くするか?
どうやって時間をかけずに効率的に多くの結果を得るか?
それでは、How?
お金や時間に追われるループに囚われて、回ってしまいますよねぇ。
それがダメとは言わないですし、対処することは対処しますが、少なくともここまで読み進めてくれたアナタは、うっすらと何かがおかしいのでは?と気づいているはずです。

寂しさを否定するより、寂しさにdiveするというか。
孤独な観点の自立した大人同士でこそ、本当の意味で多様性が認め合える社会になっていくのではないかな?と思います。
マイノリティにも権利を!とか多様性を認めましょう!とかいうスローガンを掲げて、なんとかしなくちゃ!どうしたらいいんだ!では、穴の開いたバケツに水を注ぎ合う無限ループで、グルグルするだけなのではないかしら。

私たちは、穴の開いたバケツではありません❤️

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