見出し画像

言霊の幸ふ国

昨日チラッと書いた、虚飾するという意味合いのwhitewashingの続き。

お年玉でもらった10000円と、時給1000円で10時間働いて稼いだ10000円。
給料日まであと10日!という時にお財布に入っている10000円と、給料日の10000円。
自分の好きなものを買う時の10000円と、道交法違反で納付する時の10000円。
新札の10000円としわくちゃの10000円。
なぜか価値が違うように感じるのは、10000円に物語がくっついているってことです。
事実をただ観るのではなくて、心象風景を観ているということです。

10000円は10000円です。
10000円には何の物語も、本来はくっついていないんです。
もっというと、これは10000円だ!という共通認識が社会の中にはあるから、取引が可能になっているだけのことです。
概念がない赤ちゃんや、他の生き物にとっては何の意味もありません。
意味がないということはくだらないという意味ではないですし、ダメということでもなくて、人間には物語を紡ぐ「はたらき」がありますよねーという話です。
概念の中で生きていますねーということです。
概念だと知って概念を扱うのと、概念に乗っ取られるのとでは、雲泥の差があります。

概念がダメなのではないし、物語を紡ぐな!ということではありません。
例えば社会人になったお子さんが、初任給から買ってくれた親御さんへのプレゼントなんて、もちろん格別なものだと思います。
お小遣いを貯めて、ずっと欲しかった何かをやっと買えた時の喜びの記憶なんかも、もちろんあっていいんです。
だけれども、物語に重きを置きすぎると色んなことが観えにくくなります。
一見するといいこと言ってる風味にwhitewashingされている言葉の、表面だけを観ると、誰かの作為的な物語に引っ張り込まれてしまうことになりかねない、ということです。

行間というか、意図というか、間(ま)というか、言霊というか。
ここで言う言霊というのは、言語化する前の精神のはたらきみたいなもので、ありがとうという波動がどうとかいう話ではないです。
(それがダメなのでもないです。)
例えば言霊「ウ」は、天之御中主神です。
昨日書いた、腹の声みたいなものです。
言葉になる前の思い、みたいな感じです。
祈ったらお願い事を叶えてくれるのが、八百万の神さまではありません。

言霊の幸ふ国と言われますが、全部言葉にして伝えなくても言霊を読み解く力が、母語が日本語の人にはあったんだと思います。
以心伝心と言いますが、皆まで言わずとも伝わってしまうものです。

これは日本語が優れているということではなくて、そういう性質の言語ですね、ということなだけです。
ついでに書きますが、最近一部界隈で言われている日本人すごいんだぜ!すごいお役目あるんだぜ!みたいなのは、大嫌いです🤣
選民思想かよ!と思います。
最初に発信した人にはそんな意図がなかったはずなのに、取り巻きが勝手解釈をして台無しにしちゃっているというか。
これも、物語の表面をなぞってしまっているだけだから、起きることなんだろうなーと思うんですよね。

意図を汲む力がないまま言葉尻だけを捉えて話し合っても、通じ合えるわけないやん!と思います。
虚飾に騙されるのも、そういうことなんだと思います。
腹を割って話すことを恐れずに、whitewashingせずに、そのままの思いをただ認め合うことができるとしたら、共感は得られなくても理解は起きると思います。

共感が欲しいのであれば、いいね!が欲しいのであれば、どんどん虚飾して心象風景の中で生きればいいと思います。
それがダメなのではなくて、その話はここではしていませんということです。

お好みでどうぞ❤️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?