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human being

「これは右手ですね」と右手を指して言われたら、「はいそうです」と肯定しますよね。
右手を指して「これは左手ですね」と言われたら「いえいえ、右手ですよ?」と否定しますね。
自分=ダメが本当なら、どれだけ罵られても自責しても、別に苦しくはないはずです。
「あなたはダメですね」「はい、ダメですけど何か?」と肯定しておしまいです。
本当はダメではないから、誰かにダメと言われたり、自分にダメ出しすることが、不快なんですよね。
自分≠ダメだと、どこかで知っているわけです。
「な?見てみ?ダメじゃないやろ?」と証明したくなるばかりか、素晴らしい自分を誇示したくなったり、ダメだと言ったアイツを見返してやりたくなったり、するわけですけれど。

自分≠ダメは、証明するまでもないんです。
自分はダメでも素晴らしくもなく、ただ自分なだけなんです。
フツーな感じだし素なんです。
フツーな素の感じって「一人の人間として存在している」ということです。
humanとしてbeingしているというか。
beingがhumanしているというか。
humanとbeingはニコイチってことです。

人間には無限の可能性がある!というよりも、beingには無限の現れ方があるんです。
地水火風として現れたり、iPadとして現れたり、美味しいー!って現れたり、ムカつく!って現れたりするんです。
それらを全てコントロールできると錯覚しているのが、humanつまり分離意識です。
分離から統合へ!では、決着しません。

高次元にいけばあの世にいけば、統合された素晴らしいところがあるのではなくて、天国や極楽浄土があるというテイで説明を試みた先人がいたんです。
死後は良くなるという望みを持たないとやっていけないぐらい、生きていくことが大変だった時代があった、ということだとも思います。
よくぞ命のバトンを引き継いでくださいました。
本当にありがとうございます。
ですが、地獄絵図さながらの大変な時代の教えを、今の時代にそのまま適応させることは、無理があります。

beingのことを、無条件の愛とか真我とか無我とか神とか空(くう)とか命とかサムシンググレートとか大いなる存在とか光とかいう言葉で、表現したんだと思います。
素粒子といってもいいかもしれないです。
無限の可能性を含んでいる、無色透明な、何者でもない感じ。
崇め奉ったり目指したり、するものでしょうか?
強いていうなら無条件の愛が主体で、全ての現象は客体です。
主客に分離は、そもそもないんです。
humanは、beingを忘れてしまっているんです。

空が無色透明だとすると、全ての現象は色です。
無色透明が認識されるためには、角度が必要です。
その角度というか偏りが、個性です。
光が、プリズムを通して色とりどりに見えるようなものです。
角度が変われば、色の現れ方が変わります。
プリズムも変わらないように観えますが、変化していくわけです。

激務から解放されて帰宅するとホッとしますが、家だって変化します。
人が住まなくなると、家の劣化が激しくなります。
人が生活してこその、家です。
掃除をしないと運気が落ちるとよく言われるのは、変化せず滞るということは、生命活動の終わりを意味するから、風通しよく流れている空間が大事ですよ!ということだと思います。
幸運のために掃除をするならば、今不幸だと思っているか、今ある幸せをキープするための、掃除になってしまいます。
ただ、掃除すればいいんです。
生きているということは、ちゃんと変化しているということです。
埃がたまることも、完璧なんです。

冒頭の文章を、より正確に表現すると、右手と左手があるのでもないんです。
辞書で「右」を調べると、東を向いた時に南にあたる方と書かれています。
「東」は、太陽が昇る方位。
「南」は、太陽の出る方に向かって右の方角。
右を説明するには南が必要で、南を説明するには右が必要です。
説明になっているような、いないような、あなややこしや🤣
関係性が生じるのが、色の世界です。

「足りない」というhumanつまり井戸の魔物が、錯覚を生じさせているっていうことです。
井戸が空っぽだと魔物が「足りない!」と何かで埋めようとするのですが、空っぽで満たされているから、別の可能性が生じてくるわけです。
不満不安不足不幸などの「足りない」をなんとか何かで満たすという、終わりのないゲームから、降りても大丈夫ですよ。
知足常楽、何はなくともハッピネス❤️

子どもにはこんな話はしませんが、人生折り返した自覚があるなら、こういう世界観もアリでは?という、ただの提案です。

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