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優しい世界

悩んでいる人には優しく寄り添うべき!というのが主流な中で、怒られるかもしれない記事です。
閲覧注意🤣

悩みというのは、ある問題について思いわずらっている状態ですね。
ある問題について、考えが巡って解決法を探しているけれど、見つからないから、悩みになるわけですよね。
「いらすとや」さんからお借りした画像だと、こんな感じです。



遊園地かどこかで巨大迷路に入るのであれば、出口があると知っているし、出口までのプロセスが面白いですよね。
あれ?また同じ行き止まりに来てしまった!とニヤけてみたりとか。

考えが巡って解決するのであれば、それは悩みにはなりません。
解決法が見つからないまま考えが巡り続けることが、悩みになります。
気づいたら、巨大迷路にどハマりしちゃっているわけです。

一緒に出口を探しましょう!というスタンスでサポートしてくれる人の存在が、ありがたいこともあると思います。
問題解決=巨大迷路でゴールと捉えるなら、一人で彷徨い続けるよりも、一緒に出口を目指してくれるサポーターがいてくれるだけで、心強いものですよね。

だけれども、優しさにも色々あると思うんです。
すみれいどは、優しく寄り添う系のアプローチでは、繰り返すのではないかな?と思ってセラピストをやめました。
セラピストが増えれば世界は優しくなる!というコンセプトに惹かれていた時期もあるのですが、セラピストがいらない世界こそが優しいのではないかな?と。
誰かをサポートする仕事は必要ですけれど、暇な方がよくありません?
なんでセラピストがこんなに増えてしまったんだろう?と12年ぐらい前に疑問に思いまして。
♫違う違う!そうじゃ!そうじゃなーい♫となったんですね。
クライアントさんがいた状況で、さてどうやって辞めようか?と思っていたら、妊娠したっていうミラクル✨

社会のために何かをすることが、ダメだと言っているのではありません。
社会の一員になることで生き残れるという思いから、何かを提供するのであれば、自分を満たすためにやっているのだということです。
それがダメなのではありません。
誰かのお役に立てたら嬉しい。
それはその通りだと思いますが、お役に立てない自分はダメだ!が潜んでいます。

側から見たらめっちゃ努力しているように見えるけれど、どこか軽やかな人というのは、お役に立ちたいからやっているのではないんです。
自己有用感を高めることを、求めていないんですね。
ただ、そうしたいから力を注いでいるだけです。
その力は、自分の力ではないということを、ハッキリ自覚しているか、自覚していなくてもどこかで知っている人です。
自分は底に穴の開いたバケツではないし、バケツを満たしたり穴を隠したり穴をポジティブに変換したりすることを目指して、何かをやっているわけではない、ということです。

「穴の開いたバケツ=ダメな自分」をなんとかしよう!とする観点にどハマりすると、いつまで経っても穴は埋まらないし、隣のバケツは青く見えるし、ダメな自分が主人公の人生物語の筋書きが気になって仕方ないし、本当の自分を探す終わらない旅が始まったりとか、するのも当然ですよね。

異次元や宗教や、良い人風味のカルトや、傷の舐め合いができる仲間や、何かを拠り所にして「今ここじゃないいつかどこか」を巨大迷路のゴールとして観てしまいます。
いつまで経ってもゴールには辿り着けません。
(宿り木が必要な時は、もちろん誰かを頼っていいんですよ。)

誰のせいでもありませんし、それが間違いだと言いたいのではありません。
巨大迷路でゴールを目指すことを楽しんでもいいんです。
でもね。
巨大迷路って、どこに存在しますか?
それは本当に問題ですか?

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