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知識が苦しみになるのなら

意識(意図)が素粒子を現象化している、だから望む現実を創れるんだ!で、いける人はそれでいいんです。
どれが正しくてどれが間違い!というのはなくて、しっくりきているなら、なんでもいいんです。
唯一絶対の正解はないし、どれも正解です。

素粒子の望みは、ありとあらゆる現象として現れること、と言ってもいいかもしれません😁
現象は無色透明ですし、どれも価値は等しいと思います。
遺伝などで生まれ持った井戸(個人)の特性や、成長の過程で身につけた知識や経験が偏りとなって屈折して色として認識する、みたいなものだと思います。
自分好みの色を観たい!いう方向性と、無色透明だった!という方向性と、どちらが正しいわけではないけれど、ベクトルの違いがあります。
ここでは、後者系のことを書いています。
本日のネタは、やや毒舌注意です🤣

ワンネスなんですぅ〜統合しなければぁ〜そのためには波動を上げなければぁ〜という知識がある人が、好ましくない現象に出会って自責するって、一体何やってんだ?と思います🤣
ただ、幸せに生きたいだけなのでは?と。

分離している自分や、波動の低い自分にダメ出しして焦るぐらいなら、そんなことに囚われなくてもいいのでは?と思います。
波動を上げるグッズやすごい先生のセミナーにお金を注ぐことで、巨大マーケットが一つ現象化していますので、それはそれとしてアリです。
不安を煽って教祖が儲かる仕組みですけれど、楽しいならどんどんやっちゃってください😊
すみれいどの求めていることは、望む現実をクリエイトすることではなかった、それだけのことなんですね。

視覚を通して脳で映像化したり、言語で表現する時には、分離しているようにしか認識できないんです。
統合しようとする必要はなくて、分離しているようにしか認識できないだけなんです。
既に違う姿形で現れているのに、なぜ一つになる必要があるのでしょうか?
分離しているように認識しているもの同士を、ワンネスにしようとするのは、統合ではないと思います。
なんなら全体主義的になります🤣

素粒子は、現象化する前の無限の可能性みたいなものだと思っています。
相応しい条件が整ったところに現象化します。
井戸のために、現象化されるわけではありません。
井戸好みの現象をたくさん経験することが幸せだ!と捉えると、幸せな現象を起こすための条件を、整え続けることになります。
それが楽しめるなら、それもいいんです。

どうしたら幸せになれるんだろう?と考えてみたり、今にダメ出ししていつか辿り着けるであろう天国を夢見て現象化に勤しむより、今目の前に起きていることに、一つ一つ丁寧に取り組むだけで、十分だとすみれいどは思いますけどねー😊

玉ねぎを切る時には、ただ玉ねぎを切ることに仕えるんです。
玉ねぎと包丁とまな板と身体の動きに、分離はありませんよね。
それだけではなくて、床も家も地球も、宇宙も素粒子もエネルギーも、玉ねぎを育てた土や微生物や日光や雨や、農家さんや流通業者さんやスーパーの店員さんなどなど、その時に認識していないなんやかんやが総動員で、玉ねぎを切るという現象を成り立たせているわけです。
なんという奇跡でしょうか❤️

もちろん、常識ではあり得ない超常現象的な奇跡を起こしたいなら、それもアリだと思います。
それも楽しみ方の一つです。

暇な時は、暇しててもいいんです。
何かをしないといけないような罪悪感とか、退屈に耐えられないとか、誰かに必要とされないと価値がないような気がするのは、魔物(エゴ)の仕業だと思います。
社会の中では有益な井戸でないと存続できないぞ!という恐れが魔物にあって、あーだこーだ言ってくるって感じです。
本当にそうかどうか?を確かめたらいいと思うんですよねー。

例えばプンスカ怒っている人が目の前に現れた時に、自分の波動が低いからだ!自分の投影なんだ!という知識が、自責に走らせるぐらいなら。
自作自演だから原因が自分にある!という知識で、いつまでも原因を探したりダメ出しを自分にするぐらいなら。
そんな知識は、ほっといてもいいと思います🤣


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