『記憶の絵』を読んだカフェ

 朝おきると地図を見て、今日はどこに行こうかな、と考える。それが予定のない日の私の朝の日課だった。
 ある日の私は、St-Paul方面へ出かけようと思い立った。目的は、駅近くにある「ホテル・ジャンヌ・ダルク」を訪ねることである。森茉莉が住んでいた同名のホテルとは随分離れた場所にあるので関係ないだろうとは思っていたが、ホテルを訪ねれば何か手掛かりを得られるのではないかと思ったのだ。
 メトロの5番線に乗り、バスティーユまで行き、そこで1番線に乗り換えると、ひと駅目がSt-Paulである。この5番線は、途中から地上に出てセーヌ河を渡るので、とても気持ちがよい。バスが大好きな私も、この路線に限ってはメトロを好んで利用した。
 駅を出て、セヴィニエ通りを歩き、そこから細い路地を右に折れたところに「ホテル・ジャンヌ・ダルク」はあった。こじんまりとしたホテルである。
 中に入り、コンシェルジュの女性に、リュウ・ド・ラ・クレにあった「ホテル・ジャンヌ・ダルク」を探していることを告げ、このホテルは昔からこの場所にあるのか、いつオープンしたのか、といったことを尋ねてみた。
 フランス語と英語というちぐはぐな会話だったが、ホテルは17世紀からこの場所にあること、リュウ・ド・ラ・クレにあったホテルとは全く関係がないということがわかった。やっぱりね。

 ホテルを後にした私は、セヴィリエ通りをブラブラ歩いてみた。すると、そこから10分ほど歩いたところ、ピカソ美術館の近くにすてきな雰囲気の小さなカフェを見つけた。
 そこはオーナーの男性が一人で切り盛りする心地のよいカフェで、私はすぐにそこの住人になることが出来た。
 エスプレッソを注文した私は、バッグの中から『記憶の絵』(森茉莉著 ちくま文庫)を取り出して読み始めた(筑摩書房編集部のKさんがこの文庫を巴里まで送ってくださったのだ)。森茉莉さんの濃密な文章に触れ、チョコレエトが溶け出すように深い思いがあふれて来たので、今度はバッグの中からアエログラムを取り出し、友人宛に長い長い手紙を書いた。
 何通かの手紙を書き終えた私を見たカフェのオーナーは微笑み、「このケーキをどうぞ」と、手作りのレモンケーキをプレゼントしてくれた。そのケーキはとてもおいしく、私は幸福なティータイムを持てたことに心から感謝した。
 メルシーとお礼を言い、立ち上がった私を、オーナーは優しくハグして、頬にキスしてくれた。私はもう一度お礼を言い、彼にキスを返した。
 ぜひまた、立ち寄ります、と伝えると、彼はにっこり微笑み、私を優しくハグしてくれた。
 巴里のカフェは、こんな風にいつも小さな幸福をプレゼントしてくれるのだった。


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