何かしらのおまじないが必要な街

 日曜日の夜、夕食を食べるために、友人と二人、セーヌ河沿いにあるお気に入りのカフェへ行った。ドゥブル橋の近くにあるこのカフェの窓からは、ゴシック建築の最高傑作と言われるノートルダム寺院が見える。道往く人たちの多くはカメラ片手の観光客で、午後8時とはいえまだ明るい巴里の街は、ノートルダム寺院や橋を渡る人たちをロマンティックに映し出していた。
 私たちはロンドンから帰って来たばかりで、自分が思う巴里とロンドンの違いについてずっと喋っていた。
 友人は、ロンドンがどんなにすてきでも、このノートルダム寺院を見ると絶対に巴里だなと思うと言い、ロンドン贔屓の私も、街や建物はやっぱり巴里の方が優美だなと思うと言い、しばらくはこの話で盛り上がっていた。
「私はあなたが羨ましい。これからどんな人生だって選べるじゃない」
 食後のエスプレッソを飲みながらしみじみ私が言うと、
「私もいろいろなことをして、それはそれで満足しているけれど、そのために犠牲にして来たものもあると思う」
「たとえば?」
「たとえば、そうね、食事。ひとりの食事と引き換えにしたものもあるような気がするわ」
 私はひとり暮らしの経験はほとんどなくて、ひとりの食事はハレの部分でもあるのだが、逆に友人は、誰かと食事をすることがハレの部分なのだと言う。
 その頃の私はじゅうぶんに幸福で、特別な悩みは抱えていないような気がしていたが、アレコレ悩んだ日々はそれなりにあり、考えてみれば、たくさんの人生の宿題のようなものを見ないふりをしていて、そのことを思いながらエスプレッソを飲み、友人もまた、私とは別の宿題を心にかかえながら飲んでいたのだろうと思う。
 巴里は、心にシフォンのような魔法をかけてくれるけれど、一方で、エスプレッソのような苦い試練も与えるのだろう。ヘミングウェイがそうだったように、ポケットの中に何かしらのおまじないが必要な街なのかもしれないと思った夜だった。

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