内村プロデュース復活SP放送を終えて

内村プロデュースとは、2000年代初頭毎週放送されていたバラエティ番組である。2005年にレギュラー放送が終了、以降特番で復活が何度かあったが、それも数年で終了してしまっていた。

唐突だが、私は現在30歳である。内村プロデュースの最古参メンバーふかわりょう氏も今年芸歴30周年とのことで、何かシンパシーのようなものを感じてしまった。
そんな私は幼稚園生の頃から夏休みや冬休みといった長期休暇は2歳下の妹と一緒に、祖父母の家に預けられていた。祖父母の家は今でこそ本土から橋がかかっており車で行けるが、当時は橋もなく船が唯一島へと渡る交通手段であった。また、そこまで人口が多い島でもなく、娯楽はテレビ、叔母が祖父母の家に置いて行ったスーパーファミコン、数日遅れで店に入荷する漫画本といった物のみで、長い休みを友達もいない場所で過ごす私にとってはそれらがとてもキラキラしたものに見えていた。最も、現在ゲーム好きでTwitterで日々何かしら発信しているが当時祖父母の家にあったスーパーファミコンのソフトは「スーパーマリオコレクション」1本のみであり、操作方法を教えてくれる本来の持ち主もいない状況で1−1に出現するクリボーにアタックして死ぬだけのものと化していたため、長すぎる日々はテレビとお絵描き、お菓子作りに費やしていた。

最初のきっかけが何かは思い出せないが、小学1年生の夏休みごろから、夜更かしをしてテレビを見るようになった。母が「あいのり」が好きで、母のいない夏休みを過ごす私は月曜日の11時台に「あいのり」を見ていた。そのうち深夜番組は面白い番組が多いと私は気づく。あの頃好きだったのは「あいのり」、あとは「ぷっすま」の家の中で宝箱を探す企画が好きだった。あとは少し時間が経過、かつ特定の地域に住む方にしか伝わらないが「道楽のココロ」も見ていた。
それはさておき、小学2年生の頃だろうか、私は「内村プロデュース」に出会った。月曜日は「あいのり」と決めていたが次第に「内村プロデュース」を見る方が多くなった。いや、「内村プロデュース」しか見なくなっていた。
放送されない曜日はビデオに録画した過去の回を何度も何度も擦り切れるくらい見た。その中にはDVDに後年収録される秋の引き出し王決定戦や、他人のフィールド王決定戦などがあった。小学校低学年から見ていて「下ネタ」という概念も内Pで知った。インポテンツとはなんだ?その疑問は数年後に解消され、言葉を知るのが流石に早すぎないか?と思った。
ちなみに、私は女性である。年齢もあって友達に内Pを知っていた人もいなかった。それでもずっと、ずっと好きだった。
しかし、内Pは唐突に終わってしまった。もちろん一応事前告知もあったし、今思えばデスアクトなどは「終わり」を感じさせる物であったと、数年前「内村さまぁ〜ず」が終わってしまった時にも思った。
最終回は長期休み期間の放送ではなかったため、祖母に録画してもらっていたビデオで見た。卒業式の企画はいつも私が大爆笑していた内Pそのものだったが、終わりが近づくにつれ涙が溢れ「NO PLANの人生という名の列車」は滲んだ視界でまともに見えなかった。ちなみに何度見返しても何年経ってもやっぱり泣いてしまう。最近も(DVDは持っているが)TERASAで見て泣いてしまった。
最初は1ヶ月ですぐ特番があった。それが年始の特番に移り、毎年年始の新聞のテレビ欄で内村プロデュースの名前を探した。見つからなくても、次の年にはやっぱり探した。いつか、いつか見つけられる日が来るんじゃないか。ネット社会で情報はすぐ手に入るようになり、復活するならきっと事前に分かる。それでも、私が知らないだけでもしかしたら。そうやって、普段新聞もまともに見ることもなくテレビも見ない…というかこの数年自室にはテレビがあるがアンテナが壊れており完全にゲーム用と化している物しかない私が、毎年毎年年始のテレビ欄を必死で探し続けて、

気づいたら 2024年になっていた。

冒頭でも言ったが私は30歳で、気づいたら内Pが本放送を終了して特番なり復活を待っている期間の方が人生の多くを占めていた。小学生だった私は、結婚し一児の母となった。生まれた故郷から、夫の故郷に移り住んだ。祖母は健在だが、祖父は癌で亡くなった。夜更かしして昼夜逆転気味だった私を叱っていた祖父はもういない。一緒に祖父母の家に行っていた妹の他にもう1人妹ができた。
何もかも変わったけれど、相変わらず内Pは好きだった。当時発売されていたことすら知らなかった劇団プロデョーヌやNO PLANのライブDVDを買ったのもここ数年の話だ。
(俺チョイスや○○期のDVDは高校生で始めたアルバイト代で少しずつ集めていた)
内村さまぁ〜ずも全部の回を見て、内Pとは違うけどやはり面白いと楽しんだ。大自然クイズと健康診断が鉄板だが好きだ。内さまワールドの早々の終了は悲しかった。

話が逸れるが、ゲーム好きな私にはとても好きなゲームのキャラクターがいる。中学3年生の時に一目惚れをしてから、ずっと1番好きな男性キャラクターだ。次元が違ったら、私は今の夫とは結婚せずにそのキャラクターしか目に入っていなかっただろう。そんな彼の出てくるゲームは2006年に発売され、移植や続編、アニメ化もしてきたが、2012年以降はたまに移植されたりグッズが出たりコラボカフェをしたりと「完全オワコンにはならないが動きもない」くらいの期間であった。そんなゲームが今年の2月にNintendo Switchへの移植が発表され、無事8月に発売した。ちなみにその後続編の移植も発表された。また、中学2年生から好きなガンダムSEEDの続編映画が同じく今年公開され、図らずも私が好きでい続けたものが展開した年だ。あとは内Pもしてくれたら…待ち続けた期間の長さや、終了するきっかけとなった出来事に関する噂などで諦めてはいたが、ずっと願っていた。あの最終回に泣いた日から今までずっと願っていたんだから、これからだってずっと願い続ける。そう思っていた。

内村プロデュースのサイトが謎のカウントダウンを開始している、それを知った時、私は2024年ってもしかして、願ったことが叶う年なのかも。そう思った。イベントでも新グッズでも過去作のサブスク配信でも、なんでもいい。NO PLAN復活ライブとかでもいいし、とにかく内Pに関する何かが起きるならなんでもいい。カウントダウンが進む中で公式Twitterの写真の中に見える復活SPの文字に、ああ、やっぱり2024年は願いが叶う年だ。確信した。



次第に発表される出演者や内容。上映会は住んでいる県で対応する映画館がなく、出身県にはあるため、他県に嫁いだ事を真剣に後悔した。何度も後悔したが(義祖父母との確執など)、1番後悔したのは内Pだと確信できる。最寄りの上映する映画館に行くには海を渡る必要があるうえ、平日ということで泣く泣く諦めた。当日である今日は朝からずっとソワソワしていたし、公開されるツイッターの出演者の感想映像で泣いていた。地域の食事会が夜ある夫には、絶対リアルタイムで見たいから22時までには必ず帰宅するよう何度も念押しした。
22時テレビの前に陣取って待つ私の目は、あの頃と変わらない内村プロデュースが映っていた。開始数秒で泣いてしまったが、涙は次第に笑いへ変わっていた。時代の変化によるコンプライアンスなどもあるため100%同じではないが、同じ空気が広がっていた。私は久しぶりにテレビのバラエティで声をあげて笑っていた。やっぱり、内村プロデュースは面白い。
私が当時好きだったのは、大竹であった。あの独特な大竹ワールドがとてもツボにハマっていた。あとはレッドゾーンに突入するとか息ができないくらい笑っていた。今回久しぶりの内P、やっぱり大竹の回答は独特で面白いし、何故か本人そっちのけで大喜利でレッドゾーンに突入してヒィヒィ言っていた。
さがねやダンディのまさかの登場も激アツだし、ずん(ずんのやす!)やパラ部(燃えて散って花火♪)も出演こそ叶わなかったが言及があり嬉しかった。今はとても売れた有吉がとても楽しそうに猫男爵やだるまさんをしていたのを見て、私にとって内Pが大事だったのと同じように有吉も内Pが好きだったのを感じて泣いてしまった。数年前だったか、Twitterで有吉と三村が内P復活させようと話していたのを思い出して胸が熱くなった。

2時間は、すぐに終わってしまった。待ち続けた年月からするとほんの一瞬だった。でも、待ち続けてよかったと思わせてくれる2時間だった。
これからまた私はもう一度の復活をきっと待ち続けるんだろう。一回復活したから、意外とまたすぐかもしれない。それとも今回が本当に特別で、もう二度と復活はないのかもしれない。
どちらでも構わない。私はこれからだってずっと願い続ける。
あの頃から変わらず笑いをくれる彼らとこの番組が、これからだってずっとずっと大好きで、特別だから。


(出演者様を表記上呼び捨てにしており申し訳ございません。)



おまけ
今回1番笑ったのは、三村が森田の家のショーケースに「おしゃれ」って書いたところかもしれない(笑)

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