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映画とシュールの悪魔

 ゴダールの『週末』(1967)という作品がある。理性的に、わざと支離滅裂にした映画だ。この中に、エミリー・ブロンテが出てくる。場違いな英国風の服装で、自分で、エミリー・ブロンテだ、と言い、『嵐が丘』を読んでいる。だから、観客は、ああ、ゴダールは、この女優をエミリー・ブロンテということにしたいのだな、とわかる。が、見えているのは、エミリー・ブロンテではなく、ただの女優だ。

 で、主人公たちは、この女に火をつけて、燃してしまうのだが、当然、この女優を焼き殺してしまったわけではない。観客は、ああ、ゴダールは、このチンケな映画的トリック・シーンで、主人公たちが、その女優ではなく、エミリー・ブロンテを焼き殺した、ということにしたいのだな、と理解してくれる。つまり、映画における理解の破壊など、理解の破壊をしているということを理解してくれる観客の善意の上で遊んでいるだけだ。

 ところで、1973年に娯楽映画で大ヒットした『エクソシスト』だ。ウィリアム・ピーター・ブラッティという作家が原作を書き、脚本も書いている。というより、脚本家が原作の小説を書いたと言った方が正しい。根っからのカトリックで、徹底的に神学的な背景を持って作られている。商業的に成功しただけでなく、アカデミー脚本賞を取った。

 とてもよくできている。目で見えるものと、テーマになっているものがわざとずらしてある。表向きは、アフリカでの悪魔払いを根に持ったパズズ(アッシリアの悪霊)が、ジョージタウンの少女に取り憑いて、メリン神父を呼び寄せて復讐を企てる、という話だ。これは、世界征服を企む国際陰謀組織が、生田の新興住宅地の幼稚園バスを襲う、というくらい、くだらない。

 つまり、ちょっと考えれば、これがそんな話ではない、ことくらい、すぐにわかるように、あえて作られている。しかし、こういうわかりやすい筋は、よくわからん連中でも、最後までつきあわせる仕掛けになっている。そういう観客は、ほら、やっぱり悪魔の仕業だ、と言って、好意的に納得して、怖がって帰ってくれる。しかし、それが怖いのは、そういう説明を徹底して拒絶している現実そのものの悪魔的な悪意の方だ。

 この脚本家は、巧妙だ。目に見えるものは、まさに悪魔であるのに、繰り返し、この事件を、本物の悪魔であるのか、ないのか、絶対的にわけのわからないものとして描き続ける。たとえば、水道水でも、この悪魔は大騒ぎする。秘密を知っているようで、肝心のところで答えない。ちょこちょこっとラテン語を話すが、あとは英語の逆回転にすぎなかったりする。

 結局のところ、白い服の医者たちも、黒い服の神父たちも、そして、観客も、病気にせよ、悪魔にせよ、それをなにかとして説明しようとする、説明せずにいられないというところは同じなのだ。しかし、悪魔だかなんだかわからないこの事件は、そのような説明を絶対的に拒絶したものとして、そこにある。

 メリン神父がイラクの発掘現場で出会うのは、悪魔ではない。自分の老いだ。それが映像として悪魔の姿で映されるにすぎない。市場の喧噪と活気、そこから一人、疎外され、沈黙の荒野、すなわち死へと追いやられる。年をとったからといって、なぜ死ななければならないのか。どうせ死ぬなら、なぜ辛さの中を生きるのか。死は、そして、生は、不条理以外のなにものでもない。父親の不在、酒乱の恋人、母の病気、消せない過去、みなそれぞれに不条理を抱えている。それが、この映画の中では、あたかも悪魔の仕業に見える。

 映画のテーマははっきりしている。それどころか、セリフで、明確に語られさえしている。少女の母は女優で、現実と虚構の隙間にいると言う。カラス神父は、自分が本物の神父ではない、誰も救えない、母も救えない、と告解を求める。1970年代の信仰の崩壊の中、現実も、すべてが、それであるのか、ないのか、曖昧になる。つまり、神なき時代にあって、現実そのものが、悪魔的な二枚舌なのだ。

 最後には、カラス神父は、この悪魔の姿をした不条理をまるごと自分に受け入れ、ともに死のうとする。きわめて神学的な解決。イエス・キリストの救いとは、まさに世の人の不条理を自分がともに担うことであり、信じる、とは、テルトゥリアヌスが「不条理ゆえに我信ず」と言ったように、このイエス・キリストの救いに学ぶことだからだ。

 ゴダールのような、作りものの不条理など、子供のおもちゃにすぎない。映画には、そんなものはどうやっても映らない。むしろ、映画は、作りものの不条理(目に見える悪魔)の向こうにある、現実そのものの不条理の方が写ってしまう。そして、それと向き合い、立ち向かうことが作り手に求められる。

07/16/2009

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