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オストラニェーニエとヴォルター・ザラーテ

 日本で高尚な文学として評価が高いのは、じつのところ、それらしいものだ。まあ、芸大の油彩を受けるなら、芸大っぽいパレットナイフのタッチがいいだろうし、師範大なら、師範大っぽい汚泥色の方がウケがいい。同様に、文学者として認められるには、いかにも文学者っぽい作品を書ける、ということが重要なようだ。

 しかし、この、日本の文学っぽい、というのは、世界の中では、かなりズレている。にもかかわらず、それが、日本の文学っぽい、と思われて、ウケている。しかし、その日本の文学っぽさは、日本らしいものではなく、むしろヨーロッパっぽいものを真似た結果であって、本来の日本らしいものとはかけ離れている。

 ようするに、日本は、日本だけは、なぜか古臭いロシア・フォルマリズムが残ってしまったのだ。大江も、村上も、それで思考停止してしまった。他の国が、その先へ突き進んでいるのに、いまだにヴァージニア・ウルフのような路線を保守している。ややこしいことに、これが、中国でもとっくに滅びてしまった禅文化に見た目が似ており、それでチヤホヤされて、勘違いがいっこうに直らない。

 その原理は、シクロフスキーのオストラニェーニエ(異様化)。シクロフスキーは、詩的言語の原理として、このオストラニェーニエによる語りの形式への啓発を説く。彼は、その例として、トルストイを挙げるのだが、その分析は、いかにも浅薄だ。それどころか、シクロフスキーの芸術的な無能さ、クリェイティヴィティの無さを露呈してしまっている。トルストイが、馬のようなアンリライアブル・ナレーターを利用する目的がまったく理解されていない。

 文学少年、文学少女のなれのはて、小説家のワナビとかが、人為的なオストラニェーニエを無理やりひねり出していたりするが、それは、技巧なんかでやることではない、そもそも、技巧なんかでできることではないのだ。本当に患ってしまったやつの、その病状がクリティカルなときの爆発的な饒舌は、とてつもない。たとえば、「兄はカネモチ、父はシリモチ、母はヤキモチ、みんなカケモチ、カサモチ、カバンモチ!」などと、ダジャレを叫びまくる。

 これを、ヴォルター・ザラーテと言う。オストラニェーニエと似ているが、萩原朔太郎だの、梶井基次郎だの、ジャン・ジュネだのの言葉の羅列は、こっちだ。オストラニェーニエは、シュールレアリズムのように、あえて統辞法の裏を探っていくものだが、ヴォルター・ザラーテは、むしろ言葉の範疇を無視した真実の概念の統辞法を、ダジャレのような形式の中にぶちまけていく。

 たとえば、先の例で言えば、兄がシリモチだったり、母はカネモチだったりしたのでは、言葉として意味をなさない。兄がカネモチで、父がシリモチで、母がヤキモチで、人々がカケモチ、カサモチ、カバンモチであることこそ、まさに彼を病ませた現実を端的に表現している。こんな芸当は、ちょっとやそっと頭がいいくらいでできるものではない。理知的な連想を越えた鬱屈たる深層の底流は、異化というより、床が抜けたときの噴出のようなものなのだろう。

11/03/2009


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