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キャラクターの自律

 夜、花火が終わった後の人混み。車でその中を進んでいく。途中、その人混みで急いでいるにもかかわらず身動きがとれずに困っていた見知らぬ連中を乗せてやった。しかし、三人は、たがいには知り合いではないようだ。そのうえ、その中の二人が、タバコを吸わせろ、吸うな、と言ってケンカを始めた。助手席のもう一人が一喝して収めた。

 私はそろそろ自分の目的地に着くのだが、助手席の男は、どうしてももっと先へ急ぐ、と言う。しかし、私の車だ。すると、男は財布から四、五枚のクレジットカードを取り出した。どれも、ゴールドやブラック、プラチナだ。そして、車は後でかならず返す、と言う。カードなど再発行可能だ、とは思ったが、その誠実さと真剣さを感じ、その男を信じることにした。

 というのは、すべて自分の夢の中の話だ。内容についての夢分析はともかく、こいつらは私の夢の中のキャラクターでありながら、私とは独立している。それどころか、私の考えよりも、先へ行っている。私だって、飲み屋のツケ代わりに会社の名刺を置いてくる、という話くらいなら聞いたことがあるが、クレジットカードを差し出す、などというのは、聞いたこともないし、考えたこともない。いったい、こいつらは、何者なのだろう。いったい自分はだれを信用したのだろう。

 小説においても、登場人物の練り込みができあがってくると、ある瞬間から、作者の意図に関わりなく、キャラクターたちがかってに動き出す、という話をよく聞く。実際、そうだ。連中は作者の思いもしないことを始める。作者は、それを追っかけていくだけで、せいいっぱい。それぞれがそれぞれにかってに同時に動くから、書くのが追いつかない。どう整理して、どの順序で読者に提示すればいいのかわからない、ということが起こってくる。

 フッサールは、第三段階の現象学的還元において、共同主観の問題を採り上げた。ようするに、社会を自己の中に取り込んで再定位させる、という話だ。つまり、自分にとっての他者とは、もともと本来の他者そのものなどではなく、それぞれの他者として再統合された自己の一部であって、試行錯誤で擬似的なコピーを取り込んで保持する。

 ユンクに言わせれば、こういう原型(アーキタイプ)が文化的にアプリオリ(非経験的、独断的)いくつかあって、その細分化によって、個別の他者像が形成される。この原型というのが、人類普遍なのか、個別文化なのかはよくわからないが、たしかに、それぞれの文化の物語コードはこのような原型を含み、そのさらなるプロトタイプは、人類普遍であるようにも思える。

 問題は、社会心理学において、このプロトタイプ、アーキタイプ、そして、個々のロールタイプが社会的に物語コードとして共有されていることだ。たとえば、警察官だったら、こうふるまうだろう、というような規約(コンベンション)ができあがっている。

 サルトルの言うように、人間は無であるべく呪われている。それゆえ、何者かであるフリをしている。つまり、物語の中以前に、現実の人間そのものがそうだ。アルバイトの店員はアルバイトの店員らしくふるまう。自分がこれまで客として接してきているので、店員というもののふるまい方をよく知っているから。

 ここで重要なのは、これは内面的なキャラクターではなく、ペルソナないしアクタントであって、とりかえ可能である、ということだ。実際、多くの人々は、個々の場面ごとに取り替えている。同じ人物が、母であり、娘であり、姉であり、妹であり、客であり、店員である、というようなことが可能であり、その都度、規約のセットを取り替えている。

 ロバート・マッキーは、このような外的なペルソナないしアクタントの集積としてのキャラクタリゼイション(人物設定)に対し、キャラクターを、危機的タッチストーン(試金石)によってのみわかるもの、としている。興味深いことに、『論語』における孔子も、人の仁に関し、同じことを言っている。仁は、見た目ではわからない。

 実際、マッキーは、まったく同じキャラクタリゼイションでも、まったく異なるキャラクター設定は可能だ、としている。無遅刻無欠席で定年まで勤め上げた、人望ある警察官であっても、その内面は闇だ。というのも、キャラクタリゼイションというのは、規約の問題だから。同様に、はちゃめちゃに規約を破る人物でも、その内面はわからない。内面まで破綻しているのか、それとも計画尽くの装いなのか。 

 しかし、おうおうに、人は型にはまる。そういう規約を守らなければならない、と思っているうちに、ほんとうにそういう規約を守るようになり、守らないやつを許せない、というようになる。それも、自分で選んだ型なら幸せだ。また、たとえ与えられた型でも、世襲その他で期待されるペルソナなら、幸せだ。

 だが、大半の人間はそうではない。屈折した人物たちによって、不利な役を押しつけられる。たとえば、東大コンプレックスの教員に、勉強のできない子は、罵られる。それは、その教員が、それによって、自分の得られなかったペルソナを回復する手段だからだ。

 曼荼羅をはじめとするトランスパーソナルな治療は、与えるペルソナたちを客観化することで、このように自分与えられてきたペルソナを溶解し、キャラクターないしネイチャーから再錬成する。

 しかし、これは、誤った人の下で行うのは危険だ。というのも、こうして殻を破っておいて,生のキャラクターに別のペルソナを植え付け、奴隷的にコントロールする、という手法が、今日、あちこちで用いられている。ここでは、人格統合の中心を盗み取られてしまう。その植え付け効果は、学校で「外側」からえばり散らす教員の比ではない。

 もうひとつの問題は、ペルソナそのものの欠如だ。戦後、反抗期にペルソナの型のすべてを拒絶し、群れをなしたり、引きこもったりすることで、それを実際に拒絶できてしまった結果、外郭を持たない人々が、現実に多く存在している。彼らは、外郭を持つ、装う、ということもできない。つまり、統合失調のマージナルな気質を示す。彼らは、社会的に安定した位置(心情)を持たず、あちこちのアニメや小説の中の世界を漂流し続ける。

 そこでは、どの登場人物も、恐ろしいまでに、みな同じ顔をしている。それどころか、こういう世界観が、外にまで流失し、他者と融合していく。しかし、それは真の融合ではありえないがゆえに、物語の神の地位を巡って、たがいに罵り合い、真の神である物語の作者を激しく崇拝/嫉妬することにしかならない。

 トランスパーソナルとしての自己定位と、ペルソナの欠如としての神とは、多くのペルソナを従える点において似ているが、根本が異なる。前者において、個々のペルソナもまた自由に解き放たれるが、後者においては、結局、自分とまったく同質のものを区画分けただけにすぎない、言わば究極的な自己愛だ。

 物語を制御するには、作者自身にペルソナを与えるものを現象学的にスイッチを切って、エポケーに持ち込み、そのことによって、与えられてきたペルソナの数々、与えられうるペルソナの数々のみを自己の内に再配置する。そのとき、それぞれは自分とは別のキャラクターとして育ち、それぞれが個別に統合して自律し、独立して動き出す。

08/30/2009

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