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スリラーとホラーの違い

 学生たちと話していてよく問題になるのが、スリラーとホラーの違いについて。直感的には、両者が違うのはわかるのだが、説明するとなると曖昧で、実際、世間ではかなり混同されている。とくに、恐怖というと、英語では、ホラーのほかに、フィア、テラー、チラー、ディラー、ドレッド、フライト、オー、等々、いろいろあるが、そのニュアンスまで日本語では区別しがたい。

 ホラー、という言葉で有名なのは、言うまでもなく『闇の奥』、ないし、それを原作とする『地獄の黙示禄』だ。あの最期の言葉は、「ホラー」であって、絶対に「スリラー」や「フィア」ではない。ホラーは、身の毛もよだつ、というのが原義だが、たんなる恐ろしさではなく、忌まわしい、というような嫌悪感が伴っている。しかし、では、なにが忌まわしいのか。

 学生が直感的に言うには、モンスターや亡霊が出てくるのがホラーだそうだ。でも、マイケル・ジャクソンの歌は、スリラーじゃなかったか、と聞き返すと黙ってしまう。まして、欧米の映画では、悪魔、というやっかいなものが出てくる映画が多くあり、これはスリラーではなく、ホラーだ。他方、サイコパス(精神病者)が出てくるのは、サイコ・スリラーであって、サイコ・ホラーというのは、あまり聞かない。

 ハイデッガーは、恐怖と不安とを区別している。恐怖というのは、世界内のなにかに対する、つまり、特定の対象に対する恐怖だ。これに対して、不安というのは、恐怖の対象が欠けている。むしろある世界内に自分が存在していることそのものの恐怖だ。

 スリラーとホラーの違いも、ほぼこの区別に対応している。スリラーにおいては、モンスターにせよ、サイコパスにせよ、恐怖を与える対象が明確に存在している。しかし、ホラーは、それがまさに不明確であることが恐怖であり、不安となる。だから、闇の奥にあって、その底に沈みゆく男は、スリラーではなく、ホラーを恐れる。『シックス・センス』なども、数々亡霊の登場はスリラーにすぎないが、主人公自身の立場そのものに関わるがゆえに、ホラーとなる。

 で、JホラーやKホラーは、どうか。『リング』(1998)や『呪怨』(1999)など、たしかによくできている。が、正直なところ、ポスターを見ると、恐いというより、笑えるのではないか。子供が白塗りして、白パンツで、いったいどこが恐いのか。おまけに、『宇宙戦艦』でもあるまいに、続編に次ぐ続編で、テーブルにこぼれた酒の染みまでなめ尽くすようなマーケティング。

 とくにいけないのは、続編になるほど説明がくどくなることだ。亡霊が恐いのは、テレビの画面から溢れ出てきてしまう、とか、タンスの中に入っている、とか、常識的な物語コードを根底から突き崩すからであり、これに対して、説明は、むしろ逆に物語コードに載せ直すことだからだ。そして、物語コードは、時と場を限定して、亡霊をそこに閉じ込めてしまう。しかし、ホラーは、自分のホラーでなければ意味がない。いま自分がいる部屋の窓の外に立っているかもしれない、というのでなければ、ホラーにはならない。

 本来、極東ホラーは、物語コードからの溢れ出しを構造的な特徴としている。もちろん、そういうスタイルが欧米にないわけではない。『ファイナル・ディスティネーション』など、まさにこの物語からの溢れ出しがテーマになっている作品だ。しかし、無差別に化けて出て、なんでも呪い殺す、というのは、極東ホラーの特徴だろう。

 常識的に考えれば、亡霊は、怨みを持つ相手がいるわけで、その相手につきまとって呪う、というのなら、筋が通っている。例の東海道など、この典型だ。しかし、筋が通っているくらいなら、ホラーにならない。極東の亡霊の恐いところは、その亡霊がサイコパス(ようするに、気ちがい)化しており、無差別殺人を、それも超常現象によって犯すところにある。こうなると、逃げようもないし、そもそもだれにとりつくかもわからない。だから、スリラーではなく、ホラーになる。

 この根には、殺人というものが、悪意の単独犯によるのではなく、じつは社会もまた共犯であった、という極東社会の独特の原罪意識があるように思われる。その殺人は、社会的に事前に防ぎえたにも関わらず、それを無視し、放置し、事件に至らしめてしまった。その原罪意識がホラーを反転させ、亡霊を無差別呪殺に走らせる。自分がどこで逆恨みを買っているかわからない。実際、そういう逆恨みが社会に蔓延している。

 この特徴は、『ハロウィン』(1978)、『13日の金曜日』(1980)、『エルム街の悪夢』(1984 )などと比較してみるとよくわかる。誤解されがちだが、マイケルやジェイソンは、すくなくとも第一作では、生身の人間で、怨みに狂った殺人鬼だ。(フレディだけは、亡霊で、悪魔によって蘇り、人の悪夢の中に出てくる。)しかし、いずれにせよ、彼らは、かならずしも無差別に人を殺すのではなく、自分を不当に扱った(と彼らが思い込んでいる)家族や関係者への復讐を目的としている。したがって、彼らは、つねに冷静にこの自分の目的に向かって突き進むのであり、だれになにをするかわからないサイコパスではない。(もちろん、この目的遂行の途中で、標的外の人々も事件に巻き込まれてしまうのだが。)

 一方、JホラーやKホラーは、確かにホラーだ。というのも、不特定多数を怨んで何をするかわからない、死せるサイコパスが不特定多数、そこら中に存在していると思われているから。この世は、覚えのない怨みに満ちている。こういう独特の不安な宗教的世界観を抜きに、Jホラーをハリウッド翻案しても、亡霊スリラーにしかならないのではないか。

 一方、欧米の悪魔はどうか。『エクソシスト』『エンゼルハート』など、悪魔そのものは、正直なところ、やはり、さして恐ろしくもないし、モンスターや亡霊のように追いかけて来たりもしない。それどころか、見た目は滑稽ですらあり、むしろ物静かだ。なのに、おそろしい。というのも、自分の確信を根底から突き崩してくるから。

 ウィーン世紀末のフロイト主義者アルトゥル・シュニッツラーは、1926年に『夢小説』を書いた。これはキューブリックの『アイズ・ワイズ・シャット』(1999)の原作として有名だが、その前にも『夢小説』(1969)や『オープン・ヨア・アイズ[Abre los Ojos] 』(1997)としても映画化されている。ここには、悪魔さえも出てこない。『戦慄の絆』とか、『モーニング・アフター』もそうだ。

 イングリット・バーグマン主演の『ガス灯』(1944)は、1938年の『エンゼル・ストリート』という舞台が原作で、1940年にも映画化されている。そして、ここから、ガスライティングというホラーなトリック・プロットが生まれた。ところが、これは、ミステリの中だけでなく、現実においても、政治的工作として用いられる。どこぞの事務所が、ライバル事務所のタレントを、ぷっつん女優とか言って、あることないことを週刊誌に流し、潰すのも、このやり方だ。

 しかし、困ったことに、ある種の統合失調症(いわゆる精神分裂病)もまた、この種の陰謀妄想を抱く傾向にある。自己に焦点を結ばず、自己に及ぶ諸力の方が、見えない組織ないし特定の個人として、人格的な統一性を構築してしまう。となると、なおさら、ガスライティングなのか、ほんとうに狂っているのか、判断が付かなくなってくる。その陰謀が実在するならスリラーだが、実在しないならホラーで、ここでは、観客にとって、スリラーだかホラーだかわからない、宙づりのサスペンスが成り立つ。

 それゆえ、悪魔が画面に出てくるかどうかにかかわらず、『エクソシスト』や『シャイニング』『エンゼル・ハート』『シークレット・ウィンドウ』のような悪魔的なホラーは、スリラーのフリをしている。そして、スリラーのフリをしているからこそ、それはあくまでフリにすぎず、じつはスリラーではなく、底知れぬホラーそのものなのだ。この方が、ホラーらしいホラーよりも、深い。

 この欧米型ホラーは、極東型ホラーのように、溢れ出し、自分を埋め尽くすような不安ではない。そうではなく、まったくなにも起こっていない平穏無事な現実そのものを不安に陥れる。平穏無事、ということ、ないし、目に見える、対象のある恐怖、スリラーという方が、すべてウソなのだ。恐怖は自分自身そのものとして起こってきている。だから、見えないし、そこから逃げることもできない。これが悪魔的なホラーだ。

08/25/2009

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