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何故、統一教会を辞めたのか?❺「アダム・エバ」問題(1)

「アダム・エバ」問題は、「アベル・カイン」問題と同じくらい信仰を続けていく上で大きな課題です。「アダム・エバ」問題を乗り越える事が出来ずに教会を離れていく人は多いです。

神はアダムとエバに「エデンの園にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけない」という戒(いまし)めを与えました。わざわざ聖書に書いているという事は、これはかなり重要な内容だと考える事が出来ます。

「善悪を知る木の実を食べると死んでしまうから」というのがその理由です。原理によれば「善悪を知る木の実とは聖書によく登場する比喩(ひゆ)で、エバの愛を意味する」と言っています。

エバは「善なる男性と交われば善の子女を産み、悪なる男性と交われば悪の子女を産む」という存在であるがゆえに、善悪を知る木と表現しています。

この事から、エデンの園には二人の男性がいたと推測出来ます。アダムは本来の夫ですから善なる男性です。では悪なる男性は誰の事を言うのかと考えますと、二人の教育係でいつも一緒にいた天使長ルーシェルしかいません。

ルーシェルは「知の天使長」ですので、人間の方が自分より神に愛されていると比較する事により「愛の減少感」を抱く可能性がありました。それによってアダムの位置を奪おうとエバを誘惑する危険性がありました。

神は人間を「万物の主管者(万物を治める立場)」に立てるために、人間にだけ責任分担を与えました。人間だけが、自らの力で完成するように創造したため、彼らの行動に干渉する事は出来ません。

ただ一つの戒めである「取って食べるな」という神のみ言葉を守る事により、たとえ誘惑されても神が結婚を許諾する日まで純潔を守る事を願われました。これが、統一教会が「純潔を守る」事を重要視する理由です。

ルーシェルは愛の減少感を抱きましたが、それだけでは罪にはなりません。よりもっと愛されたいという欲望が、成長のための向上心につながります。

ルーシェルがエバを誘惑した時の状況は次の通りです。「神が愛するアダムを神と同じ立場で愛する事が出来ず、彼を妬(ねた)んでエバを誘惑した」「人間の僕(しもべ)としての位置を離れた」

その結果、次のようになりました。「逆に人間をコントロールするようになった」「堕落したエバは罪を繁殖してアダムも堕落させてしまった」

本来アダムとエバは、それぞれが人格完成して神から結婚を許されたのちに関係を結ぶはずでした。教育係のルーシェルは神のその意図を知っていましたし、それを二人に教える立場です。

ルーシェルがいくら誘惑しても、エバが神の戒(いまし)めを守って相手をしなければ堕落しませんでした。原理で言うところの、相対基準を造成しなければ良かったのです。

私は、文先生の性格にかなり問題があったと思っています。また、統一教会自体も問題がありすぎて失敗だったと思っています。献金問題や二世問題で苦しんでいる人がいるわけですから、解散が妥当ではないかと思います。

一方で、統一教会の教えは素晴らしいと思っています。高度な教えであるにも関わらず、内部の人がそれを理解出来ていない事が残念でなりません。原理のみ言(みことば)通りに実践していたなら、こんな非人道的な組織にはならなかったはずなのです。

「アダム・エバ」問題に戻ります。人間には性欲があります。「男性であれば射精したい、女性であれば愛撫されたい」これは気持ち良くなりたいためですが、子女を繁殖すると言う神の創造原理に繋がっているため悪い欲望ではありません。

この欲望を正しく主管する(コントロールする)事が、人間らしい生き方です。このような事は、信仰を持っていなかったとしても社会の一員として生活するうえで当然の話です。

しかし、年を取ったおじいさんおばあさんならまだしも、若い青年たちには非常に難しい問題です。特に過去の統一教会では、男女が一つ屋根の下で集団生活をするのが当たり前でした。

これは経費削減のためでもあり、兄弟姉妹の情を復帰する(アダムとエバは将来夫婦になる予定でしたが、結婚前は兄妹のような関係でした)という目的もあったと思います。

日本では問題を起こさないように必要以上に厳しく分別(ぶんべつ)されていましたが、2年ほど過ごした韓国の教会では本当の兄弟姉妹のように近かった事を記憶しています。

しかし、いくら信仰しているとは言え、性欲がなくなるわけではありません。男性であれば射精してすっきりしたいと悶々としていたのは私だけではありません。それぞれの方法で処理していた事でしょう。

これは自分自身の問題なので、自己判断でどうにでもなりますが、問題なのは相手がいた場合です。教会の食口(シック・教会員の事)たちは「為に生きる」事を心がけていたので、優しい人が多いです。

伝道や献金の目標のためにアベル(上司)から追及され、時には激しく叱責される事もありますから、誰もが心をすり減らしていました。そんな時に異性から優しい言葉をかけられたら、好きになってしまいます。

神の愛をよりたくさん受けている存在は、輝いて見えると言います。ルーシェルがアダムとエバに対して嫉妬したように、容姿に関係なく神の愛に近い存在は魅力的に見えるのです。

これが、自分だけで一方的に思いを寄せるだけなら問題にはなりません。相手を「自分のものにしたい」と思うだけならまだ大丈夫でしょう。それを具体的に実行してしまうと一般社会でも犯罪ですし、教会内では「堕落」になります。

男性がアベル(上司)で女性がカイン(部下)のケースが多いようです。店長や部長と呼ばれる立場の男性は、リーダーシップがあり頼もしく見えます。部下の女性にしてみれば憧れの存在でしょうし、そんな人から誘われたら舞い上がって体を許してしまうのでしょう。

店長と食当さん(食事を作る人)の場合、他の人たちが活動で外出中に二人きりになる時間が長いからそうなりやすいと聞いた事があります。ある日突然二人でいなくなると「そう言う事か」と納得します。

私の直属の上司と、私の机の前に座っていた同い年の女性が、二人で駆け落ちしました。上司は妻と子どももいる先輩家庭、女性の方は独身でまだ祝福を受けていませんでした。

まだ赤ちゃんだった子どもがいたのにどうして駆け落ちしてしまったのか、私には理解できませんでした。彼女は上司を補佐する立場だったので、一日中一緒にいる事が多かったからでしょうか。

原理講論には「神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、その愛が愛らしく存在するためには、愛の力はあくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない」と書かれています。

惹かれ合うようになった二人を引き裂くのは簡単な事ではないでしょう。惹かれ合う前に、その想いを断ち切らないといけません。原理で言う、相対基準を造成しない事が重要です。

寂しい境遇の時に優しくされると、ぐっと心を引っ張られます。私自身がそうでした。祝福を受けた後、人事で韓国での活動となりました。韓日・日韓祝福を受けた人がメインですが、日本人同士のメンバーも加わりました。

韓国人と受けた人は相手が韓国にいますから、その気になれば会いに行けます。日本人同士のメンバーも二人で韓国に来ている人がほとんどでした。私のいた教会では、一人で韓国にやってきたのは私を含めて数人しかいませんでした。

活動が休みのたびにカップルで会っているのを見ながら、とても寂しく思っていました。まさに「愛の減少感」を抱いていたのです。そんな時、同じように一人で来ていた日本人女性に惹かれるようになりました。

目が大きな彼女はオリエンタルな雰囲気を持っていて、話しやすくて気が合いました。日に日に好きな感情が強くなっていきましたが、3歳年上の彼女は年下の私の事など全然気にならない様子でした。

手を伸ばせば届く感じでしたが、神の立場に立つ事で乗り越える事が出来ました。でももし彼女に誘惑されたら、乗り越える事が出来たか自信がありません。

アベル(上司)の位置を利用して、性的搾取をしていた人もいたと聞いた事があります。自己の欲望を満たすために女性を「モノ」としか見れない人が信仰者と言えるでしょうか。真面目な信仰者ばかりではなく、そういう人もいたのは残念な話です。

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