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再復帰までの道のり❸

再復帰に向けて、実家を離れて一人暮らしを始めるわけですが、この頃は変電施設で三交代の仕事をしていました。8時間、一人で計器とにらめっこです。異常な警報が鳴らない限り、特別やる事はありません。

この仕事の時、聖書をじっくりと読む事が出来ました。他に誰もいませんから「何を読んでるの?」と聞かれる事もありません。感動した聖句にマーカーを引きながら、旧約聖書の始めから新約聖書の最後まで読みました。

この時持っていた「聖書」「原理講論」「御旨(みむね)と世界」を毎日読んでいました。教会にいた頃は、朝から夜遅くまで活動していましたから、勉強する時間はなかなかありません。乾いた砂が水を吸うように、どんどん頭の中に入っていきます。

初期の先輩方は、自分で講義をして伝道されました。いつか自分もそういう日が来る事を思いながら、み言(みことば)に対して真摯に取り組みました。

それまでの私は、キリスト教の下地もなく統一教会に来たため、メシヤ(救世主)の必要性がよくわかっていませんでした。私にとって文先生は、世界平和を実現しようとしている強いリーダーに見えました。

争いのない世界、まさに地上天国を創るために先頭に立っている革命家。宗教家というイメージはありませんでした。統一教会が普通の宗教と同じだったら魅力を感じなかったでしょう。宗教をなくす運動だと言うから、人生をかけても良いかなと思ったのです。

ただ祈るだけでは、いつまでたっても世界は変わりません。口では良い事を言いながら、実行力のない宗教に良いイメージがありませんでした。だからこそ、統一教会が経済活動をするのは具体的に世界平和を進めているからだと、信じて疑いませんでした。

どのようにお金が使われているかなんて知る術(すべ)はありませんから、教会を信じるしかありません。教会では「一旦捧げたお金がどのように使われたとしても気にする必要はない。あなたの尽くした精誠は神が覚えている」と言います。とても便利な言葉です。

この言葉があるからこそ、幹部が公金横領したとしても目を瞑る事が出来ました。しかし、借金で苦しむ人や精神的に傷ついている人たちがとても多く、それに対してあまりにも冷淡な教会の姿を見て、この教会を存続させてはいけないと強く思うようになりました。

しかし、1986年当時の私は現在のような教会の現状を知る由もありません。み言(みことば)を読めば読むほど、「自分は戦場から逃げてきた臆病者だ」という罪悪感に襲われていきます。

特に私を悩ませたのは性欲です。イエス様は「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と語っていますが、いけないと思えば思うほど、そのような欲望が沸いてきます。

教会は団体生活ですので、ある意味常に監視されているようなものですから、性欲を誘発させるような情報に触れる事はありません。しかし、一人暮らしの場合は何をしようと誰にも知られません。それ故に、いけないと思いながらも誘惑に負けてしまいます。

教会を出て一人になって初めて、自分は救われないといけない存在なのだと思いました。原罪があるが故に果てしなく襲ってくる誘惑、それに打ち勝つためにメシヤ(救世主)が必要なのだと、この時強く悟ったのです。

この頃、霊の親から「月に一回は上京して一緒に路傍伝道をしましょう」と言われた私は、それを真剣に考えるようになります。そしてある時、意を決して「次の日曜日に東京に行きます」と電話する事にしました。

電話ボックスを探しながら駅に向かって歩いていた私の脳裏に、ふとある考えが浮かびます。「もし今日戻れなかったら、7年後になるかも知れない」

統一原理では「神は原理数で働く」と言われています。原理数は、基本的には「3,4,7,12」です。7の3倍で21,4の10倍で40、12の10倍で120という応用も出来ます。

李ヨハネ先生の本に「離れた食口は7数で帰ってくる」というお話があります。7か月後、7年後と考えると、その日がちょうど7か月目でした。午後7時を過ぎていたので、さすがにもう駄目だろうと思っていました。

駅前まで来て信号待ちをしていると、後ろから「こんばんは」と声をかけられました。誰だろうと思って振り向くと、男性が立っています。

「アンケートをお願いしているんですけど」

笑顔で首を傾げる彼を見て、私はすぐに食口だとわかりました。さっき「今日が駄目なら、7年後かな」と考えていた事が思い出され、心臓がバクバクしています。数字にこだわりが強い私が「原理数の神」に出会った瞬間でした。

それまで私は東京でしか活動していなかったので、地方の田舎でも伝道している事を知りませんでした。ですから、とても純粋に驚いて感動した事を覚えています。

「私も食口ですよ」と言いたい衝動を抑え、彼に促されるままビデオセンターについていきました。言われるままにビデオを見終えた後、隠している事に罪悪感を覚えた私は、話をするために座ったスタッフに打ち明けました。

12月20日に飛び出してから7か月後の7月20日、まさに今日ここに来た事。この強烈な神体験を証しするうちに、神様に会いたいと悶え続けた日々が思い出されて、涙がとめどなく流れます。

新約聖書「ルカによる福音書」15章4節から7節に、次のような聖句があります。

あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

あまりにも有名な聖句です。この聖句を思い出すたびに、私はこう思います。神は、幸せで満足している現役食口よりも、傷ついて離れていった元食口の事が心配なのではないかと。

ところが、私が現役食口の頃の教会内では、兄弟姉妹が去っていくと「あの人は(非原理に)落ちた」「あの人は信仰がない」「あの人は裏切り者だ」と言って非難する人が多くいました。

現在のネット上では、現役食口と元食口の罵り合いが氾濫しています。傷ついた二世の心情に寄り添う事なく、「私は優しい親に愛されて幸せだ」と主張する事を、神は望んでいるでしょうか?

「今の教会で幸せなんだから、私の幸せを奪わないで」と主張する現役食口の姿を、神はどんな思いで見つめているでしょうか?

信仰を失くした私が言う事ではないかも知れませんが、神と同じ立場に立って苦しんでいる人たちを救う事こそ、真の信仰者の姿ではないかと思います。

このようにして私は、強烈な神体験によって再びつらく苦しい信仰の道へと戻っていったのです。

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