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統一教会との出会い❷

12月になって、私は初めてビデオセンターを訪れました。カウンターがあって、とてもお洒落な雰囲気でした。言われるがままにビデオを見ました。題名は忘れましたが、問題提起のような内容だったと思います。

観終わった後にお話をしてくれたのは、6000双のお姉さんです。ニコニコしながらも圧が強い感じを受けました。好奇心旺盛で素直にハイハイと話を聞く私の事など、簡単にコース決定出来ると思った事でしょう。

隣で話を聞いていた霊の親は緊張した面持ちでした。伝道は霊的生命を産む作業です。出産が命懸けであるように、伝道も簡単ではありません。

事実私は、早く帰りたかったのです。ただで入会出来ると思ったらお金がかかるんですね。Aコース、Bコース、Cコースとありました。

AコースとBコースは修練会の費用を含めたもので、いくらだったか忘れましたが高かったと思います。貧乏な私はCコースの5000円でさえ悩みましたが、学ぶ事が好きで特に霊界について学べるならばと思い、受講する事に決めました。

笑顔で圧の強いお姉さんに「毎日通ってください」と言われ、仕事帰りに毎日通いました。毎日ビデオを観た後に感想を書いていきます。学校時代でも先生が喜ぶような文章を書いていたので、読む人が喜んでくれそうな感想を書きました。

後でわかった事ですが、どうやら年末年始の5日修練会(通常は4日修練会ですが、この時は5日修練会)に間に合わせたかったようです。12月8日に受講決定して12月30日の修練会に参加するなんて、今考えたらかなり無謀な話です。

そのために1日に2本のビデオを観たりしましたが、結局は8本までしか観れませんでした。そして一週間後の2日修練会に参加した後、そのままライフトレーニングに参加しました。

ビデオセンターではスタッフと一対一の関係でしたが、ライフトレーニングになると講師に加えて受講生仲間が増えます。この時点でまだ私は、神様の話をされているのに宗教だとは気づきませんでした。ライフトレーニングの最後に統一教会である事と文先生が再臨主だと明かされますが、それでもまだピンときていなかったのが本音です。

この時点で私はすでに、5日修連会の参加を決めていました。初めてビデオを観てから3週間くらいしか経っていないのにです。あまりにとんとん拍子に進んでいくので、スタッフの皆さんは驚いた事でしょう。

修練会は12月30日から1月3日までの5日間です。まとめて休む事が出来るのはその日しかなかったので、この機会を逃したら行けないと思いました。今考えても、どうして行かないといけないと思ったのかよくわかりません。

しかも、故郷の両親は私が帰ってくるのを待っていました。実はいろいろあって、お盆に帰っていませんでした。それで、どう言い訳しようかと考え、正直に「キリスト教の勉強をしている」と伝えました。

キリスト教と聞いた途端、母が「早く辞めなさい。全財産とられるから」と言いました。私はキリスト教についてよく知らなかったので、そんな馬鹿なと内心で思いましたが心配かけたくなかったので「わかった。辞める」と答えました。今まさに、全財産とはいきませんがかなり無くなってしまいましたが。

修練会に行くから帰れないとは言えなくなったので、友だちと旅行に行くという事にしました。母は残念がっていましたが、自分がやっている事は先祖や家族のためなんだと思っていたので、申し訳ないなと思いながらも譲りませんでした。

5日修練会で一番心に残っているのはイエス路程です。志半ばで死ななければならなかったイエス様の心情を講師が涙ながらに語るので、その場にいた多くの人が泣いていました。しかも次の日の朝に雪が降ったので「これは神様の涙か」と誰もが感動しました。

この修練会は「献身するかどうか」を決める修練会です。班長との面接でその事を聞かれ、私は献身すると伝えました。おそらく、悩んでなかなか答えを出せない人がほとんどだったと思いますが、私はすぐに決意しました。

もともとやりたい仕事をしていたわけでもなく、財産も特になかった私は、捨てるものがありませんでした。大学生だったりやりたい仕事に就いていたなら、そんなに簡単には決められなかったと思います。

生きる理由も特になかったので、誰かに必要とされるならその人のために生きたいと思いました。神と再臨主(メシヤ)が必要としてくれるなら、特に断る理由がありませんでした。

子どもの頃から「誰もやりたくないなら自分がやろう」という考え方でした。自分が犠牲になってみんなが喜ぶならそれが良いと。生きる事に執着していなかったのだろうと思います。

死に場所を探していたのでしょうね。塩狩峠で自ら機関車の下敷きになった長野政雄さんに憧れていました。どうせ死ぬのなら、誰かの役に立って死にたいと思っていたのです。

誰かにいじめられた経験もなく、親から愛されて育ちましたが、生きづらさをずっと抱えていました。「生きているだけで苦しい」これをどう表現したら良いのかわかりませんが、正直な気持ちです。

実はこの気持ちは未だにあります。「消えてなくなりたい」「楽になりたい」という気持ちです。ですから、誰かに必要とされている事が私にとっての生きる理由になります。

今で言えば「妻と子どもたちのために生きなければ」と。それから「仕事で必要としてくれる人がいるから」というのもあります。ですから、2012年に文先生が亡くなった時には、生きる目的を失ったように思いました。



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