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何故、統一教会を辞めたのか?❻「アダム・エバ」問題(2)血分けについて

1930年代の韓国では「再臨のメシヤが韓国に来られる」と天の啓示を受けた神霊集団が数多くありました。そこで血分けの儀式が行われていたと言われています。

救世主的指導者と性交する事によって、その女性を神の血統に浄化します。その女性と別の男性が性交する事により、その男性の血統も浄化するという考えです。

文先生が通っていた教会でそのような儀式が行われていたので、文先生も影響を受けたとされています。また、奥様である韓鶴子夫人は「両親が血分けの儀式をした私は生まれながらに無原罪だ」と七男の亨進様に語られたそうなので、韓鶴子夫人が信じていたと言う事は文先生も信じていたと考えてもおかしくないでしょう。

教会本部では血分けを否定していますが、多くの人の証言がありますし、七男の亨進様が「六マリアは事実」と認めていますし、文先生自身が「六マリアどころか六十マリアだ」と言っていたと聞きました。

私はその現場を見てきたわけではないので断言できませんが、おそらくあったのだろうと推測しています。私は、文先生が本当にメシヤ(救世主)なのかどうかはわかりませんが、メシヤになろうと本気で考えていたのではないかと思っています。

文先生は、大真面目に「自分が世界を救うのだ」と考えていたと思います。血分けによってサタンの血統から神の血統になると信じていたので、大真面目にやっていたのではないかと思うのです。

バレたら姦通罪で逮捕されますから、秘密が外に漏れないように当然口止めしていたはずです。しかし、文先生はこの血分け儀式によって何度も逮捕されています。

若くてハンサム、しかも「もしかしてこの人がメシヤ?」と思われるほどの人だったわけですから、その子種を是非もらいたいと思うのが女心ではないでしょうか。そして文先生にしてみれば「来る者拒まず」でしょうから、希望者は多かったでしょう。

つい「再臨のメシヤに抱かれた」と自慢したくなるに違いありません。そうして秘密裏に広まっていったと思います。ところが「私こそ一番愛されて当然」と、独占したくなるのが女性の性(さが)です。

女性側は「独占したい」と思い、文先生は「みんな平等」と考える、その違いから「思い通りにならない男に対する憎らしさ」が芽生えても不思議ではありません。まさに統一原理で言うところの「過分な欲望」です。

また、独身の女性ばかりでなく、夫がいる女性でも「神の血統に復帰してほしい」と希望したに違いありません。夫にバレなかった人もいれば、夫に知られてしまって通報された人もいたでしょう。

これは私の勝手な想像ですが、再臨のメシヤを待ち望んでいた女性たちの心情を考えると、反対派の人たちが言っている事も全部が嘘だとは思えません。「火のない所に煙は立たぬ」です。

男女が交われば、妊娠する可能性はあります。「六十マリア」の中にも当然、子どもが出来た人もいたに違いありません。事実、崔順花(チェ・スンファ)さんとその息子の朴峻頃(パク・サムエル)さんが教会を訴えています。

文先生が本当はどんな人だったのか、私にはわかりません。希代の詐欺師で性欲の強い人だっただけかも知れません。己の欲望を満たす事だけが望みだったのかも知れません。

教会を辞めて離れていった多くの人のようにそう結論づける事が出来るなら、どれほど幸せでしょうか。私自身そう思いたい一方で、また別の考えが頭に浮かんでくるのです。

「本当にメシヤかどうかはわからないけれど、メシヤになろうと努力していた人だ」と。「神のもとの人類一家族を実現するために、復帰の道を真剣に考えて行動していたのではないか」と。

旧約聖書に、タマルという女性が登場します。彼女は神の血統であるユダの長男の嫁になりますが、夫と死別します。その後次男と結婚しますが、彼も亡くなってしまいます。ユダに三男が成人するまで実家で待てと言われますが、三男との再婚の見込みがないと知ると、娼婦の格好をして舅のユダを誘惑します。

姦淫すれば死が待っているとわかっていましたが、神の血統を残すために彼女は命がけの行動をとったのです。これによって「胎中性別」の条件が立ったと言われています。

文先生はよく「男はどうでもいい、女の信仰が問題だ」と言っていました。「エデンの園でエバが神を裏切って堕落したので、復帰のためには神に捨てられたような立場でも神を信じなければならないのだ」と。

人類創造の前までは誰よりも神に愛されていたルーシェルが、アダムとエバの創造後は神から愛されなくなったと不満に思いました。「愛の減少感」を抱いたのです。それが堕落の動機となりましたので、「愛の減少感」を乗り越えなければ復帰の道を行く事は出来ません。

もし「六十マリア」の人たちが「愛の減少感」を乗り越えて、秘密の儀式を墓場まで持っていく事が出来たなら、韓国のキリスト教会が文先生を受け入れる事は容易だったと思います。

妊娠した女性たちや生まれた子どもたちに対して、周囲の女性たちが十分な愛を注ぐことが出来たなら、彼らが名乗り出る事はなかったはずです。

韓日祝福にしても、信仰のない韓国人男性を日本人女性が愛によって産みかえる事が出来たなら、今のような問題は起きていなかったはずです。しかし「主の国」韓国に対する過剰な幻想が日本人にはありました。

韓国側は「誰でもいいから祝福を受けさせろ」でしたし、日本側はそんな風に考えられていたとは夢にも思っていなかったのです。

全ては過去の出来事で、文先生の真意を確かめる事は出来ません。ただ、やり方が間違っていたのは確かです。もともと血分けをしなければ良かったわけですし、韓日祝福にしてももっと慎重に進めるべきでした。全ては失敗だったと認めて謝罪すべきだと思います。

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