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統一教会に入教❷

新生トレーニングが終わると、今度は実践トレーニングになります。新生トレーニングまでは「お客さん」でしたが、実践トレーニングからは違います。実際に伝道活動をしていきます。

ここからは組織の一員として数えられる形です。文先生は統一教会の食口(シック・教会員)を「天の軍隊」と考えていました。神とサタンの戦争に勝つために訓練するのです。

文先生のみ言(みことば)をまとめた「御旨と世界」という本の「一心不乱 一生懸命」に書かれている言葉を額にして毎日唱和していました。それは以下の通りです。

”世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。素晴らしい軍隊があるとしたら、素晴らしいほど訓練された軍隊である。それ以外にはない。例外はない。実践には例外がない。奇跡ということは例外の例外であって、それは、一時あった場合には千年の穴があく。我々はそれを知っている。訓練が必要である。でたらめな訓練ではない。計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画の訓練が必要である。 先生が好きなのは、「一心不乱、一生懸命」である。一生懸命、一心不乱に目的に向かって進め。”

この言葉を知っている方はかなり信仰歴の長い方でしょう。このように軍隊というイメージがありましたので、あまり宗教をやっている感覚はありませんでした。「革命に身を投じている」という感じでしょうか。

草創期の先輩方は、片道切符を握りしめて伝道の任地に向かい、40日間でそこに教会を建てるという事をやっておられました。お金もない中、住むところを確保し、食べるものを確保しなければ生きていけません。

そのような命がけの伝道をしてこられた先輩方の話を聞いて、「自分もそのように生きてみたい」と思いました。マタイによる福音書6章25節に次のように書いてあります。

「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな」「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」

神によって生かされている、そう確信出来るなら怖いものはないでしょう。人間の力ではどうする事も出来ない時に神に祈ってみる。そうして窮地を脱する事が出来たなら、もう神を否定する事は出来ないでしょう。

正直に言って私は、神は本当にいるのかいないのか、長い信仰生活でずっと考え続けてきました。今まで嘘みたいな体験を何度もしてきているのに、それでも「見えない神」を完璧には信じられなかったのです。

ですから、祈るという行為が本当に大変でした。祈るべき対象物が見えないので、頭の中でイメージ出来ません。髭もじゃのおじいさんを想像してみたり、光輝いているエネルギー体を想像してみたりしますが、やはりよくわかりません。

周りの人たちが一生懸命に祈っている姿を見て、とても劣等感を抱いていました。見えない神を信じるなんて簡単には出来ません。神が人間を創造したと言うなら、神は誰が創造したのか。初めから存在していたと言われても、全く納得出来ませんでした。

それで私は、文先生が祈る姿を想像しながら祈っていました。それが自然と人間信仰になっていった理由かも知れません。見えない神を信仰すべきなのに、見える人間を信仰してしまいました。

今考えると私の場合は、宗教を信仰していたと言うよりも、人間・文鮮明に惹かれていたのだと思います。

正直に言って私は、文先生が本当にメシヤなのかどうなのか、ずっと考えていました。絶対信仰と言われながら、どこかで「違うかも知れない」と疑っていたのです。

この時点で「あなたは不信仰だ」と断罪されても仕方がありませんが、事実そうなのです。「文先生はメシヤではないかも知れない」「稀代の詐欺師かも知れない」「原理は真理ではないかも知れない」という不安をずっと抱えていました。

私は元々、とても疑い深い人間です。表面上は「わかりました」とニコニコしていますが、腹の中では全く逆の事を考えています。「これが常識だ」と言われると反発したくなります。天邪鬼と言いましょうか。「変わっている」とよく言われますし、人と同じ事をするのが好きではありません。

そのため、「異端」とか「偽メシヤ」とか言われると反発したくなります。一方で、「真理」だとか「メシヤ」だとか言われると疑いたくなります。自分で確かめて納得しないと気が済まない性分なのです。

だから「あの人に言われたから」とか、「騙された」とかの言い訳はしたくありません。全て自分で納得して選択した行動であれば、責任は自分にあります。恨むとしたら、自分の無知を恨むしかないと思っています。

文先生は「神は悲惨な神だ」と言われました。栄光の神ではなく、可哀想な神なんだと。その神の心情を知るためには、自分も悲惨な立場に立たないといけない。伝道活動は神の心情を知るために最適でした。

もちろん、全体目的では「組織拡大のための人集め」という意味もあるでしょう。人が来ればお金も入ってきます。組織を運営する側の評価は「何人伝道したか」あるいは「いくら献金したか」という数字です。

そのため、各教会毎に目標(ノルマ)が与えられます。教会においては各部署毎に目標が割り振られます。それぞれの責任者にしてみれば評価してもらうために実績を上げたいと思うでしょう。

以前、懇意にしている教会長に聞いた話ですが、実績が悪かったので田舎の教会に左遷されたと言っていました。この実績と言うのはまさに「いくら献金したか」という話なのですが。

このような実績至上主義のおかげで、どんなに性格が悪くても実績さえ良ければ出世出来てしまうので、「愛のある組織」なんて夢のまた夢の話です。

昔よく言われたのが、「統一教会には愛がないんだから、あなたが愛のある人にならないといけない」と言う言葉。食口になるまでは至れり尽くせりだったのが、食口になった途端に否定の連続。

高額献金しているうちはちやほやしていたのに、お金がなくなった途端に見向きもされなくなると、誰かがツイートしていました。あまりに冷たい仕打ちに「愛がない」と言われても仕方ありません。

また、離れていった食口に対する対応もひどいです。昨日まで同じ釜の飯を食う仲間だったのに「あの人は落ちた」という表現をします。「落ちた」とは、原理圏から非原理圏に落ちたという意味です。

原理圏とは「神の愛の中」を意味します。原理圏にいる限り神に愛され、非原理圏では神に愛されないという事なのでしょう。非原理圏ではサタンが主人なので神は人間に手を出せないという考え方から来ているのですが、頭では理解できても心情的には納得できません。

マタイによる福音書18章12節から14節に「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」と書いてあります。

神は現役食口よりも、離れてしまった元食口の事を心配するのではないでしょうか。神の心情を携え、愛の心を持って、傷ついて離れてしまった元食口の言葉に耳を傾け、お互いを理解し合う事を神は願っているのではないでしょうか。それが原理で言う「アベルカインの一体化」だと思います。

この実践トレーニングでの一か月間は、私にとって思い出したくないほど苦しい日々でした。メンバーの中で私だけが、一人もコース決定出来なかったのです。22歳の隊長に毎日「〇〇さん、ゼロはだめですよ」と言われ続けました。

「ゼロ撲」と言う言葉を毎日言われました。ゼロ撲とはゼロ撲滅です。大学生の隊長は、ほとんど年上の人たちばかりなのに横柄な態度でした。「隊長」と呼ばれ、みんなが自分の指示に従うようになると勘違いしてしまうのでしょうね。中には素晴らしいアベル(上司)もいましたが、傲慢で残念な人が多かったように思います。

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