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再復帰までの道のり❷

くたくたになるまで活動して、実績が出ない事を叱責される日々からようやく解放されたのだから、世間の若者と同じように過ごしたら良いのに、どうしてわざわざ苦労の道に戻ろうとしたのか、考えてみたいと思います。

自分を振り返ってみると、男らしさというものにこだわるところがあります。「男のくせに」という言葉を常に言われて育ったせいか、強い男に憧れてきました。

弱音を吐かない、困っている人を助ける、責任を取る、うそをつかない、人が嫌がる事を率先してやる、そういう男になりたいという願望がありました。誰かが犠牲にならないとしたら自分が犠牲になる、どうせ死ぬなら意味のある死に方をしたいと。

「武士に二言はない」と言うように、一度決めた事は最後までやり通す生き方に憧れていました。だから、献身した身でありながら楽に生きてはいけないという思いがあったのです。

文先生曰く「神は可哀相な神」なんだと。「可哀相な神を解放する」んだと。一般的に神は全知全能で不可能な事はないと思われていますが、人間が神の元に帰るには人間自身が責任分担を果たさなければならないと言っています。

可哀相と言われると、何とかしてあげたいと思ってしまうんですよね。大した事は出来ませんが、必要とされるなら、こんな私で良ければ力になりたいと思ってしまうのです。

こういう思いで入教した人は多いのではないでしょうか? 自分が救われたいから信仰するという動機で統一教会に来た人は少ないと思います。国のため、世界のためという大きな目標のために自分の人生を捧げようと思ったはずです。

だからこそ、世界平和のためにお金が必要だと言われれば、喜んで献金を捧げたわけです。いわゆる摂理献金です。摂理とは、文先生が地上天国実現のために「〇〇をしなければいけない」と指示した事を実行する事です。

大きな大会を開いたり、世界巡回したり、合同結婚式をしたり、世界各国のVIPを伝道したり、北朝鮮や中国に工場を建てたりするなど。その都度、高額献金が求められたりしますが、無理してでもやってきました。

それが今、大きな問題になっています。自己破産して生活保護を受けるようになったり、子どもの教育資金まで献金してしまって二世の将来を狂わせてしまったり。

かなりのお金が集まったにもかかわらず、有効的な使われ方をされなかったのが残念です。我が国の政治家や官僚にも言える事ですが、税金をもっと有効的に使っていれば、日本はこんなに落ちぶれなかったはずです。

自分の家の家計であれば、収入に対して支出を考えて使うはず。収入以上の贅沢をしてしまっては生活出来ませんから。ところが、自分のお金じゃないから「痛み」を感じません。財務省にいたっては「足りなければ増税」しか考えていません。

統一教会においても同じです。足りなくなったら「日本食口に言えば献金してくれる」としか考えていません。結局、日本食口の献金頼みの経済だった事が、現在の世論が要求している「家庭連合の解散」へと導いたと言えます。

「天の摂理」の一言で、いとも簡単に献金を集める事に慣れてしまいました。そのお陰で自己破産や多重債務に苦しむ食口の現状を知ろうとしなかった事が大きな問題です。

「摂理と言う大義の前には多少の犠牲は仕方がない」

私も以前はこういう考え方でした。まるで、太平洋戦争当時の帝国陸軍のようです。統一教会において「心身共に傷つかない者は非国民」と思っていました。犠牲が当然だと思っていたのです。独身で守るものがなかったから出来た事かも知れません。

結婚して、妻と子どもを守らないといけないとなってから、ずいぶんと考え方が変わってきました。独身の頃は「自分の事よりも教会優先」でしたが、可愛い子どもには辛い思いをさせたくなかったのです。

そうは言っても、親からもらった子どもの保険や定額貯金を解約してまで献金してしまいました。振り返ると、あの頃は相当追い詰められていたと思います。自営業なので、大学進学まではお金を作れるだろうと考えていたのですが、私の力不足で子どもたちには奨学金という余計な借金を負わせてしまいました。

神が助けてくれるに違いないと安易に考えていましたが、そうではありませんでした。奇跡はそう簡単には起こりません。そう悟ってからは、簡単には献金をしなくなりました。そして2015年の亨進様の内部告発を聞いてからは、信仰そのものをしなくなりました。公金横領する幹部のために献金する事が馬鹿らしくなったのです。

機関銃を抱え、弾を王冠にしている現在の亨進様の姿からは想像できないと思いますが、世界会長をしていた頃はとても素晴らしい方で、私はとても尊敬していました。その亨進様が語る言葉だからこそ信じる事が出来たのです。他の人に言われても、きっと信じなかったでしょう。

「神が共にあれば出来ない事はない」

これを実感するために、私は信仰を続けてきました。好奇心旺盛だった私は、この目で奇跡を見たかったのです。「嘘みたいな体験」をしたいがために再び信仰の道に戻ろうと思ったのが、1986年の事でした。

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