見出し画像

ズレを感じていた教員生活。やっと私が掴んだ感覚。

時間をかけて準備してきたスライドの半分は

使わないままに授業が終わった。

これからも使うことはないかもしれない。

そういう選択をできたことが

すごく嬉しい。



昨日の授業では、後半と前半で🐶くんが先日話題にしていたものを調べてスライドにしてきた。

前半楽しく授業を展開した後、後半のスライドにそのまま入ろうかと思ったけど、彼が途中にチラチラ見せてくてれていたカードが気になったので聞いてみた。

「後半のスライドを見るのと、そのカードのこと話すのとどっちがいい?」

すると、

「カードのこと」

と答えてくれた。

そこからは彼の最近ゲットしたカードについて話たり、スタンプをあれこれ押してみたり。

お母さんからは、今までで一番楽しそうに参加していたと言われた。



私はこれまで小学校の先生として

自分の用意してきたものの上に子どもたちをいかに乗せるか。

そればかり考えてきた。

導入を工夫したり、環境を整えたり、関係性を紡いだりとあれこれあれこれ試行錯誤しながら。

それでもどうしても乗ってこない子どもたちに、話を聞きなさいと注意したり、態度が悪いと叱ったり。

でもずっと違うと思ってきた。

子どもたちが悪いわけでは決してない。

話し方、授業の展開の仕方、もっと子どもたちが楽しめる形を私がとるべきだと思ってきた。

悪いのは私だとある時は責めて責めて、しんどくなったことは数えきれないほどある。

でも、今思えば悪いわけではなかった。

ただ、公立学校のあり方に即して忠実に仕事をしただけだった。



でも、私はそのようなことをしたかったわけではなかった。

初めから、ずっと。

でも、耐えてきたお陰で、苦しさをなんとかしようと本当にいろんなことを学んでこれたのは事実。

そうして、やっと。

自分が時間をかけて作ってきたものを、あっさりと手放すことができる自分でいられることに、喜びを感じることができる。

子どもよりも少し長く生きているからといって、偉いなんてことはない。

私はまだまだ学ぶことがある。

子どもが好きなことを追求した先に見える世界を一緒に見たい。

カリキュラムという名の道筋は、あらかじめ決まっているものなんていらなくて

たまたまそこにいる人々がたまたま出会ったその瞬間が生み出す軌跡が

後から見たら道に見えた。

そんなものがいい。

そんなものに私は魅了される。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?