わたしがブログを書く理由

よく喋る子どもだった。朝起きてから夜眠るまで、今日どんなことがあったか、その中でうれしかったことやかなしかったこと、すべてを話さないと気が済まない性格だった。おかげで母は、幼稚園や学校での出来事や珍事件など、他のお母さんよりも知っていただろうとおもう。大人になるにつれて、全てを話すことが必ずしも正しいことではないと気がついてきた。

高校生になるとブログで綴るようになった。それは25歳くらいまでつづいて、今日こんなことがあって、それで自分はどう感じたかを書いていた。誰に読ませたいわけでもなく、自分の備忘録として、本当にただの日々を綴るものだった。会社で嫌なことがあればブログに書いていたし、夢や目標なんかも書いていた。

30歳が近づくにつれて、ブログと距離ができるようになった。なぜかというと、まわりの人は高級ホテルに泊まったことを書くとか、なんだかとってもキラキラして見えたから。それは、わたしの何でもない日常が恥ずかしくなったのだ。憧れられるわけでもなく、ほんとうにただの日常だったから。今となっては、キラキラしたひとたちが「どうみられたいか」を意識して書くひともいた、ということがわかって背伸びしていたのか可愛いなあと思えるようになったけれど。

あとはブロガーというものが少しずつ増えていた。節約ブログを書いている人は節約方法を毎日書いていたし、おしゃれブログを書いている人は毎日まいにち自分の洋服のコーディネートを紹介していた。どこのブランドのもので、それがいくらで、こう言う洋服に合わせると細くに見えるとか、ワンポイントアドバイスも載っていた。なるほど!とか、へえ!とか情報量がおおくて、まるで雑誌を読んでいるようだった。(それなのに無料で読めてしまうブログはすごい)

そういうプロの人たちのブログは参考になった。それにくらべて、わたしのブログって、なんでつまらないんだろう。読んだあとに「なるほど」とも思わないし、憧れられる存在にもなかった。「ふうん、こういう人もいるのね」って思うだけだとおもう。それならまだしも、「で?」とか「オチは?」とか思われたら溜まったものじゃない。そんな気持ちになって、ブログから遠ざかってしまった。

それでもわたしは自分の感情を整理する場所がひつようだった。いつからか、ノートに書くことが習慣になった。子どもの頃に母にはなしていたように、今日あったこととどんな気持ちになったのか、なぜその気持ちになったのか、とか、今欲しいものとか、夢や目標、月初めには今月の目標、週初めには今週の目標まで書いている。わたしのノートは、わたしのことをよく分かっているとおもう。どんなことにしあわせを感じて、どんなことに腹を立てるのか、わたしのことはなんでもお見通し。たとえば嫉妬してしまった日のことも書いていた。そんな日はたいてい文字に元気がなかったり、殴り書きになっていたり、たまに落ちた涙のあとで紙がシワシワになっていたりもした。

自分のブログを読み返すときがある。ブログには「旅行の話」とか「おいしかったもの」とかジャンルごとに分けられていて、読みたいページにすぐにたどりつく。ノートとはちがう魅力だ。とくにおもしろいのは「日常の話」。自分でいうのもなんだけど、わたしはひとつの出来事にたいして、たくさんの感情がわきおこる。よくもまあそんなに「思うこと」があるわね、と未来のわたしが感心してしまうほどに。

わたしのブログってなかなかおもしろい。ブログの中の「過去のわたし」は、今とまるでちがう人で、「未来のわたし」は、他人の日常をみているようなきもちになる。人生をつづったブログは、ひとつの映画のようで、主役は「過去のわたし」なのだ。

「過去のわたし」がいろんな出来事に翻弄されて、笑ったり泣いたり疲れたり怒ったり、そんなふうに人生を楽しんでいる。ただひとりのひとの日常だけれど、十分にみごたえのある作品だとおもう。今こうして文字をつづっていることも、「未来のわたし」は微笑ましく見ているんだろう。

やっぱりわたしっておもしろいな!と、「未来のわたし」が楽しめるように、わたしはまた何でもない日常をつらつらとかきはじめようとおもう。

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