目を瞑っても開いても、そこにあるのは目だった。

 誰かが覗いてる訳でも、直視している訳でもなく、ただそこには人間の眼球のみが静かに落とされていた。

 僅か数十センチの距離。腕を伸ばせば簡単に手が届く距離に目玉が転がっているのに、初めに驚いたのはこの状況ではなく冷静な自分に対してだった。

 一体誰の目なんだろう。

 周囲を一瞥しても、白い空間ばかりで、何者かがいる気配は全くない。

 まさかと思い、自分の目に手を伸ばす。が、しかし、手はぴくりとも動かせられない。体全体が床に張り付けられ、沈み込んでいるようだった。その目が自分のものだと考えると、動きもしない体が小刻みに震えるのだった。

 本当に何もなく、何の音もせず、僕と、目だけ。

 僕は段々、目の前のそれは自分のではないと思えた。

 その目の潤いは、心を奪うような瑞々しさだった。

 この部屋の光という光を集めて、その瞳を輝かせている。むしろ自ら光を放っているようにも見えた。人となりなんだろうか。内側から滲むものなんだろうか。とにかく、僕の目と違うのはそういうところであった。

 しかし、その時間は短く、その目はじくじくと潤いを失おうとしていた。終わりの見えないこの空間で、唯一時を感じさせる現象だった。

 じわじわと、徐々に風化していく。その間、僕はその目に睨まれているような気がした。目蓋も眉もないけれど、どうしてか睨んでいると思った。しっかりと僕を捕えて、ゆっくりと怒りを埋め込んでくる。眼球は更に乾きだす。光を、潤いを失うのは一瞬だと分かっていた。

 思い返せば、マグロの目は奇麗だった。簡単にくりぬけたその目は脆く、しかし剥がした網膜は黒くシルク布のようにつるんとしていた。確か中学の理科の実験の時のことだ。解剖って、こんなに美しくていいのだろうか。と思っていた。

 忘れていた一部が思い出され、というより、忘れたことに気付かされて、自分がとても現実逃避をしていたことを思い出す。先ほどまでの目に惹かれていたのは、羨ましかったからでもあるのだろうか。

 やはり目は、乾いてしまっては美しくない。

 目にしろ花にしろ人間にしろ、いつだって光があり瑞々しい、そうした物体こそ求められ、奇麗なのだから。

 だから今目の前で風化してしまった眼球には惹かれない。僕が目を怒らせているのかもしれない理由はそこにある。同じ目をした、僕みたいな人間に侮辱されたのが嫌だったのか、そうだよなあ。そう反省したのを悟ったのか、埋め込まれていた怒りはすっと消えた気がした。

 だが、今度は目笑してきた。

 嘲られる理由がありすぎて、何を笑われているのかが定められなかった。

 目はもうからからに乾いていた。

 それはもう、触れれば灰になって消えそうなくらいに。

 僕らはずっと見つめ合っていた。理由を考えることもないくらいに見つめ合っていた。それはこの上なく奇怪でロマンチックだった。その間に目が何を考えていたかは知りもしない。乾き壊れかけるその目にはすでに意思などなかったとも思える。でも本当のところ、相手が何を思っているのかなんて分からないのだ。目を見ても微妙な感情が把握できるだけで、たとえ口があっても何も本当のことなど知ることはできない。だけど、

「痛っ」

 目を閉じると、右目に針が刺さったような激痛が走った。それほどまでに瞬きなんてしてなかったらしい。

 再び目を瞑り、眼球を回して涙を行き渡らせる。

 そこで僕は、やっと空洞に気付いた。

 目を、目を丸くして見ると、また笑ってきた。紙粘土みたいで、もう本物の目だったのかわからないくらいだ。

 僕はまだやり直せるだろうか。

 目は僕を見ている。

 僕が僕をこうやって切り離してしまったから、夢とか希望とか灯していた目は、こうなってしまった。けど、まだ、奥底は諦めてなんかいなくて。

「馬鹿だなあ……」

と漏らしたとき、僕は目を覚ました。




 真っ暗な部屋の中で最初に見たのはテキストの山だった。

 シャーペンとノートもそこにあって、体を起こすと、僕はどうやら試験勉強途中に寝てしまったらしかった。

 ミシミシと痛む腰と肩を押さえながら洗面台に行き、冷たい水で顔を洗い、そして鏡を見る。

 両目はちゃんとあった。昨日大学4年生になった僕が映っていた。

 大丈夫だなんて、そんな目算はないのだけれど。


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