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現代社会が生き辛い理由

 先に断りを入れておくが、この記事は筆者である私が考える「生き辛さの要因」の一つとなっているであろうことに対して忌憚なく意見を述べ、考察していく記事である。私はどうも言葉の殺傷能力が他人に比べて少々高いらしく、人によっては不快な思いをする可能性がある。その点を承知の上でぜひ読み進めていただきたい。

 単刀直入に言う。生き辛いと感じやすい世の中になっていると考えられる要因の一つ、それは・・・










 「マイナスを0とする」ことを執拗に求める終わらない負のスパイラルが加速しているからである。
 (え、わざわざ勿体つける必要ない?それは失礼いたしました。)


 人間の性質から考えると、そうなってしまうのはある種当たり前ではあるのだが。良いところを探すより、悪いところの方が圧倒的に早く目についてしまう、そういうものである。メンタルコントロールのために「今日起こった出来事でどんな些細なことでもいいから良かったことを3つ挙げる」という訓練があるが、私はこれが大の苦手である。逆に今日起きた悪かったことを3つ挙げるほうが遥かに簡単だ。大人になってもそんなものなのだろう。毎日の業務は毎回毎回しっかりやっていても褒められず、むしろ当然のような顔をされ、ミスが出た瞬間にこっぴどく叱られる。社会というのはどうも0をプラスにする能力よりもマイナスを0にする能力を過分に重視するようだ。おそらく0からプラスを作り出すことが必要とされる職業はほんの一部で、世の中ではマイナスを0にすることが必要とされる仕事がほとんどなのだろう。そして、マイナスを0とする仕事は大概ブルシット・ジョブと言われている、そんなように思える。

 当然ながら、こんな世の中が生き辛いのは当たり前である。もちろんマイナスを0とする仕事は報酬がないわけではない。給料というしっかりとした見返りが存在する。だが、給料をもらえればマイナスを0とする仕事を全員が全員頑張れるわけではないだろう。人間の全員が全員拝金主義者ではないはずだ。というかこの世の全員が拝金主義者ならそもそも「拝金主義」という言葉自体が存在しないだろう。そうした人が、「ブルシットジョブ辛い」「こんなに頑張っているのに何で怒られないといけないんだ」と生き辛さを感じてしまう。そしてその生き辛さを晴らすためにどうなるか。己の生き辛さを嘆くだけならまだいいが、その生き辛さが攻撃性へと転化した瞬間、また新たな被害者を生む。パリ五輪の炎上問題などその最たる例だろう。本来アスリートというのはいくら自分の所属する国の代表であってもどこまでも突き詰めれば他人だ。選手が勝とうが負けようが、メダルを取ろうが取らまいが、マスコミに扱いが変わるくらいであって自分の人生が劇的に変化することはない。所詮他人事だ。なのになぜあれほど執拗なまでに負けた選手を叩くのか、正直憂さ晴らし以外の理由が考えられない。
 一人一人の言葉であればまだマシだったように思う。ただ、生き辛さを抱えた人間はもはや数えきれない。膨大な数の生き辛さを抱えた人間は、ひとたび有名人や大手企業などが些細と言えるほどの失敗をした瞬間、生き辛さを攻撃性に転化させて一斉に袋叩きにする。いや、もはや有名人に限らない。SNSの影響力は恐ろしいもので、どこの誰が投稿したか分からないものが突然バズるなんてことは日常茶飯事だ。私が書いたこのnoteだって、5年後とかにほじくり出されて突然一斉に袋叩きにされる可能性だって0とは言い切れないのである。
 そんな憂さ晴らしのクレームによって、許容されるマイナスの範囲はどんどん狭められる。そしてまた生き辛さを生み、憂さ晴らしのクレームが増え…その連鎖は止まるところを知らない。そして、自分に返ってきた憂さ晴らしのクレームはさらなる生き辛さを生むのである。

 そして、そんな生き辛さを抱えた人間が大量に生息しているコミュニティの中で自分の幸せを発信したらどうなるか。生き辛さを抱えた人間に他人の幸福を見守ってやるだけの余裕が存在する訳がない。結果として多大な嫉妬と反感を買うだけだ。生き辛さを抱えた人間が多いコミュニティでは、幸福自慢よりも不幸自慢が圧倒的に肯定される。恋愛対象が見つからない人間が幸福なカップルを見て「リア充爆発しろ」などと言っているところを想像すれば嫌でも痛感するはずだ(そしてそう言うことを言う人間だからこそいつまで経っても充実した恋愛生活は送れないのだということになぜ気づかないのだろうか、お前ら本当に彼氏彼女が欲しいのだろうかと密かに疑問に思っている)。だからこそ、幸福自慢は絶対的に減り、不幸自慢が増える。他人の不幸は蜜の味だからだ。あるいは、生き辛さを抱えた人間にとっては不幸自慢で同調されることで気分が紛らわされるというのもあるのだろう。共感してもらえることはやはり嬉しいものだ。

 ただ、残念ながら不幸自慢は何も生まない。ある程度生き辛さに対する慰めになる、それだけだ。対処療法的で、根本の問題は全く解決していない。そして、人間は欲深い生き物だ。ひとたび同調されると、より多くの同調や共感を求めるようになる。ただ、それにも限界がある。その限界が見えた瞬間、慰めとなっていた不幸自慢すらも生き辛さの種になってしまうのだ。

 ここまで膨れ上がってしまった生き辛さはこの負のスパイラルを脱却しない限り、どうしようもない。では、そのためには何をすればよいのだろうか。

 連続ドラマみたいで申し訳ないが、とりあえずキリがいいのでこの記事はいったんここで切る。次回の記事において、現代の生き辛さの解消法について考えてみたい。


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