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森へ

 芸術のことなんててんでわからないのに美術館に行ってみたり、楽譜すら読めないのにクラッシックを聞きに行ったり、そういう場違いな所に飛び込んでみるのが心底好きだ。誰かが素晴らしいと称えるものを、多くの人が絶賛するものを、ただ純粋な気持ちで取り込んでいると、その素晴らしさや豊さの片鱗を貰ったような気持ちになるから。

 美術館にはたいてい、出入り口の近くにちょっとしたカフェのようなものがあって、そこでお茶を飲んだり、ケーキを食べたりするのが私の定番になっていた。教育熱心そうな親に連れられた、ぼんやりした顔の子供や、上品な佇まいの老夫婦、美大生らしき風貌の若者、難しい顔をしたおじさん。色々な種類の人間が居て、そういうのを眺めているとほっとする。

 私が最初に律と出会ったのも、美術館の中のカフェだった。

   ぱりっとした白いシャツを着て、つまらなそうな顔で頬杖をついている、小学生くらいの男の子。律は美術館の中庭に咲くポピーの花をじっと見ていた。妙に品のある佇まいと、大人とも、子供とも言い難いような不思議な雰囲気が彼にはあった。
 紅茶を飲みながらしばらく眺めていると、綺麗な女性が近づいてきて、「律、行くわよ」と彼の手を引いて行った。律、と呼ばれた小さな少年は、うん、わかった、と軽く微笑んで女性の手を握り返した。けれど私はなんとなく、その少年が女性に触れられることを嫌がっているように思えた。
 少年が席を立ったその時、確かに視線が絡まり合った。紅茶のカップを片手に、間抜けな顔をしているであろう私に、切れ長の瞳が何か訴えかけるかのようにこちらを見つめていた。本当に意思の強い眼差しだった。思わず息を呑んでしまうくらいに。
 平日の昼間の美術館は、水槽の中のようにゆっくりとした時間が流れている。その波に攫われるように、律は行ってしまった。私はちょっとの間考え込んだが、目があったのはたまたまだろうし、妙に雰囲気のある子だったから、あまり気にしないほうがいいだろう、それよりそろそろ出ないとバイトに遅刻するなあ、とすぐに少年のことを忘れて紅茶をまた一口飲んだ。
 いうまでもなく、ぬるくなっていた。
 
 
 
 私はそれほど賑わってはいない、しかし近所の人たちに愛されてなんとか成り立っているようなタイプのゆるい和菓子屋でバイトをしている。幼い頃、よく母と一緒にどら焼きや、塩大福や、もなかを買いに来た。もう八十過ぎの老夫婦が経営している小さな店で、奥さん手造りの座布団が古い木の椅子に敷いてあったり、お店の中にお孫さんの写真が飾ってあったり、そういうどこか気の抜けたかんじがとても気に入っている。さらに、お客さんから注文が入ればその場で旦那さんがどら焼きの皮を焼いてくれるので、店内はいつもふんわりと暖かく、甘い匂いが漂っていて、私はいつも、ここは桃源郷か何かなんじゃないかと錯覚する。
 その日もいつも見慣れたお客さんに、いつものような品物を包んだり、ちょっと世間話をしたりして、何事もなく時間が流れた。もうそろそろ閉店かな、と思って暖簾を外しに外に出た時、常連のおじさんがパチンコで大儲けして上機嫌で来店したので、白あんいりのどら焼きと、ほうじ茶を出してあげた。話の内容は全然可愛くないのに、ほかほかのどら焼きを頬張るおじさんの姿がなんだか愛らしいような気がして、そのアンバランスさに笑みがこぼれた。
「緑ちゃんも今度連れて行ってあげるよ。俺が一緒にいるとよく出るよー。なんたって勘がいいんだから」
「村上さんこの間大負けしたって嘆いてたじゃないですか」
 私が言うと、おじさん、もとい村上さんは「いや、あのときは二日酔いで体調が良くなかったからさ」と言ってわはは! と大声で笑った。村上さんはいつもわはは、と笑う。漫画みたいに。その豪快さが、素直さが、私は好きだ。
 村上さんが帰った後、今度こそ店を閉めて、片づけをして、それが終わると奥さんが暖かいお茶をいれてくれた。お客さんに無料で提供しているのとは違う、少し高めの、良いお茶だ。私は食べ物や飲み物の良し悪しに鈍感な方だが、奥さんがいれてくれるお茶は、そんな私でもすぐわかるくらい良いお茶だった。
 売れ残りのきんつばを懐紙の上において、二人でつまむ。旦那さんは村上さんに連れられて飲み会に行ってしまった。
「いつもそう、きんつばだけ残るのよね。示し合わせているみたいに」
「でも私、ここのきんつば好きです。ずっしりしていて、食べ応えあって」
「緑ちゃん、それ、味のこと一つも褒めてないわよ」
「あ、確かに」
 奥さんは楽しそうに笑ってお茶を飲んだ。茶碗に添えられたしわだらけの手に、鈍く光る指輪が眩しい。上品な人の手だな、といつも思う。奥さんの手は、色々な辛いことや、悲しいことから、上手に自分自身のことを守りぬいてきた手、というかんじがするのだ。
「今日も美術館に行ってきたの?」
「はい。行ってきました。楽しかったですよ」
「美大生ってわけでもないのに、よく飽きないわね。今日はどんなものを見てきたの?」
「はまると結構楽しいですよ。それで、今日面白い作品があったんですよ。美術館の真っ白くて広い部屋の真ん中に、ぽつんと筒型の家? みたいなものがあるんです。人が一人入ったらいっぱいになるくらいの。木でできていて、扉が一つだけあって、窓とかはないんです。それで、おそるおそる入ると、中に大きな星があるんです。真っ暗な部屋に、星がひとつ、天井に浮かんで、恐ろしいくらい光っていて」
「なにそれ、なんか変なかんじね」
「そう、変なかんじなんですよ。でも私、その部屋に入ったとき、なんか、すごい打ちのめされたような気になったんですよね。なんだったんだろう、あれ……」
「あ、電球が切れそうだわ」
 奥さんは私の話を遮って、というより、本人はもうこの話は終わり、くらいの気持ちでいたのだろうけれど、私の後ろでちかちかと点滅する電球を指さした。私は奥さんのそのマイペースさに慣れていたので、さして気になりはしなかった。
 奥さんは三つ目のきんつばに手をのばしてもぐもぐと食べた。どちらかといえば小食なイメージがあったので、少し驚いて「お腹、空いてらしたんですか?」と訊いた。
「いや、なんだかね、このごろ、すごくお腹が空くのよね」
「へえ、そうなんですか。でも、良いことですよ。細すぎるくらいだし、ちょっと食べ過ぎなくらいがちょうどいいと思います」
「多分、私、もうじき死ぬんだと思うわ」
 明日は雨が降ると思うわ、くらいの軽い調子で言うものだから、思わず固まってしまった。奥さんはやはり上品な仕草でお茶を飲んで、それから、ぽかんとしている私の顔をみて「緑ちゃん、変な顔」と笑った。
「もうじき死ぬって……具合でも悪いんですか?」
「ううん、違うのよ。あのね、私が小さい頃、祖母がよく言っていたの。人は生まれてくる前に、両手に収まるくらいの量のお米を、神様にもらうんだって。けれどその量は人それぞれで、すごく少なかったり、逆に両手からこぼれそうなくらい多かったりするのね。お米の量が少なければそれだけ長くは生きられないし、多ければ豊かに生活することができる。それで、もうじき死ぬ人は、手の中のお米を全部食べきろうとして、ご飯をたくさん食べるようになる」
 静まり返った店の中に、奥さんの穏やかな声が奇妙なくらい静かに響いた。私は自分の手のひらを見つめて、その後奥さんの目をまっすぐに見た。薄茶色の瞳がきらきらと光って綺麗だった。とても近いうちに死ぬような人間には思えない。けれど、その時の奥さんの言葉は、まるですべてを確信しているかのような不思議な説得力があったので、私は何も言えなかった。
「あ、緑ちゃん」
「え、あ、はい。なんですか?」
「明日、お店お休みにすることにしたから、よろしくね。間違えて来ないようにね」
「なんでですか?」
「旦那とベイスターズの試合を見に行くの」
 うふ、と愛らしく奥さんは笑った。私は、もうじき死ぬ人がベイスターズの試合を見に行ったりするものだろうかと思いながら、奥さんのそのマイペースさに敬意を示すように微笑んだ。
 
 
 
 その少年と再会したのは、意外にも翌日のことだった。
 バイトが急きょ休みになって、暇になった私は、近所のホームセンターに日用品を買いに行きがてらぶらぶらしていた。同年代の友人は大学生だったり、もしくは既に社会人だったりするので、平日の昼間に呼び出して応えてくれそうな人はそういない。
 内設されているペットショップで子犬を眺める。可愛いとか、可愛くないとか、そういうことはぬきにして、なんだか妙な気持ちになる。子犬が入っている狭いゲージには、店員さんのかわいらしい文字で「やんちゃな甘えん坊さんです」と書かれている。ペットショップに来ると、いつも胸の奥が奇妙にざわつく。
「ヨークシャーテリアっていうんだよ、この子」
 だからいつの間にか自分の真横に小さな男の子が立っていることにも気が付かなかった。驚いてその子の方を見る。けれど少年の方は私の方を見ていない。ただじっと、ゲージの中の子犬を眺めている。その意思の強そうな瞳に、見覚えがあった。
 あ、昨日美術館にいた子だ。私が気づくと同時に、少年が「昨日、美術館にいたでしょう」と私に言った。
「うん、いたよ。君もいたでしょう」
「気づいてたんだ」
「まあね」
 私が言うと、少年はようやくこちらを向いた。大人びた表情をしていた。何が彼にこんな顔つきをさせているのだろう、と不思議に思うくらい。
「あのさ、俺、子犬が好きだよ。あなたは?」
「え? ああ、うん、好きよ、小さくてふわふわしたものは、たいてい好き」
「うん、その言い方、好きだな。俺も、小さくてふわふわしたものが好き。一緒だね」
 そこでようやく少年は少し笑った。年相応の、かわいらしい笑顔だった。私は少し微笑んで、「本当、一緒だね」と微笑み返した。
「昨日、あなたは美術館に何をしに来ていたの?」
「いやあ、何をって言われちゃうとちょっと困るんだけど……なんか、あの空気感が単純に好きなんだよね。いろんな人がさ、良いものを創ろう! って一生懸命つくったものが集められているってさ、冷静に考えて、すごいことじゃない? パワースポットといってもいいくらいだと思うなあ」
「ふうん……」
「君は、何をしに来ていたの?」
 私が言うと同時に、ゲージの中の子犬がキャン! と吠えた。それを見て少年が「吠えた、すごいなあ」と嬉しそうにした。
「俺は、お父さんの作品を見に来ていたんだ」
「へえ、お父さん、芸術家なんだ」
「うん、そうみたい」
 少年がなんとなくそれ以上喋りたそうにしていなかったので、私はもう何も聞かなかった。ただ黙って子犬を眺めていた。子犬は店員のお姉さんにゲージから出されて、腕の中ではしゃいでいた。子犬を抱えるお姉さんの、あまりに優しい表情に、私はなんだか嬉しくなった。同時に、胸のざわつきも少し薄れた。
「あの犬、あのお姉さんがすごく好きみたい」
 少年が言うので、私は「うん、そうだね」とだけ返した。
「あのさ、俺、律っていうんだ」
 少年は言った。私は一瞬何のことだかわからなかったが、ああ、名前か、と合点がつくと「そっか、律くんっていうんだね」と返した。そういえば、美術館のカフェで綺麗な女の人が律、と呼んでいたな、と思い出しながら。
「律くん、じゃなくて、律でいいよ。それで、あなたは緑さん。そうでしょう。違う?」
「え、あってるよ。びっくりした。どうしてわかったの?」
 私が言うと、律と名乗った少年は私の目をじっと見た。大切な何かを探すように、慎重で、けれどどこかわくわくとしたような表情で。
「あのね、俺、わかるんだ」
「わかるって、何が?」
「だから、そういうことが」
 そういうこととは? 私は首を傾げた。
「あなたがきっと、ここで犬を見ているだろうなってことも、わかった。だからここに来たんだ。あなたの名前が緑さんだってことも、社会人でも、学生でもないってことも、何かとても良い匂いのする場所で働いているってことも、なんとなくわかった。あのね、俺、少し変なんだって」
 律があまりにも急に饒舌になってそう言うものだから、私は「なにを言っているんだろう、この子は」とぽかんとしてしまった。昨日たまたま居合わせただけの子供が、ここまで私のことを知ることができるだろうか。
「なんとなくわかった、ってどういうこと? 直観みたいなもの?」
「うん、そう。波長みたいなものがね、緑さんとはぴったり合って、それで、色んな事が頭の中に流れ込んできたの。俺のイメージの中のあなたは不思議な場所に居て、なにかとてもおいしいものを売っていた。それで、あなたはそこにいるのが好きで、自分の立ち位置も、自分自身のことも、結構気に入っている」
「うわ、うん、だいたい当たってる」
「俺、見ちゃいけないかなって思いながらも、あなたの見たものとか、考えたこととか、覗いてしまったんだ。あなたはいつか見た森の中にある大きな木のことを、心底いいなあと思っている。それから、アールグレイの紅茶が好きで、あと、古い洋画を見るのも好き。特にミュージカル調のやつ。それから、最近家のバスマットを変えた。多分、水色のやつに」
「なんか、すごい偏ってるけど、うん、合ってるよ、うわあ、すごいなあ」
 私が心底感心したように言うと、律はちょっと得意げな顔をした。「緑さんは、」と話を続けようとするのを遮って、「緑さん、なんて堅苦しくよばなくていいよ」と言った。
「え……じゃあ、なんて呼べばいいの」
「緑ちゃん、かな」
 これには律はちょっと顔をしかめた。小学生の男の子からしたら、女の人をちゃんづけで呼ぶなんて恥ずかしいだろうか、と考えたが、どうやらそういうことではないようで、「年上の人をちゃんづけで呼ぶなんて、失礼じゃない?」と言った。
「ううん、全然失礼じゃない。その方が仲良くなれそうじゃない?」
「うーん、そうかなあ……じゃあ、緑ちゃん、はさ」
 緑ちゃん、という言葉を発すると、なんだか一気に年相応というかんじになって、とても可愛らしかった。
「嫌じゃない? 今みたいに言い当てられて」
「え? うーん……確かにちょっと恥ずかしいけど、でもべつに、嫌ではないかな」
「そっか」
 言うと律は安心したような顔をした。
 そういえば、今は平日の昼間だが、学校はどうしているのだろう。私がそう考えると、律は敏感にそれを察知したかのように「今日はもう、帰るね」と言った。
「それで、今度緑ちゃんのところに遊びに行っても良い?」
「私のところって?」
「良い匂いのするところ」
「ああ、バイト先か。うん、いいよ、おいで。場所わかる?」
「わかる」
 律は当たり前みたいにそう言って、「じゃあまたね」と去っていった。
 
 
 
 私が急きょバイトが休みになって暇だということを伝えると、それならばと誘ってくれる人物が一人いた。中学時代からの友人の由里は、黒のシャツに緑色のスカートを履いて、黒のエナメルのハイヒールを履いて来た。耳元で揺れるイヤリングが眩しい。由里は、体に穴をあけるなんて、考えただけでも恐ろしい! という理由で、絶対にピアスの穴を開けたがらない。
「お待たせ、緑。授業さぼってきちゃった」
「大学生ってほんと気ままね。羨ましいわ」
「気ままさでいえばあなたには勝てないわよ」
 嫌味っぽくない、からっとした言葉だった。私は由里のこういうところが好きだ。思ったままをそのまま言葉にしてぶつけてくる。由里のすごいところは、本心をぶつけられてもちっとも不快になったりしないところだ。
 私は店員さんを呼んで、自分の紅茶のお代りを頼んだ。紅茶が苦手だという由里は、ホットコーヒーを頼んでいた。
「まだ飲めないの? 紅茶」
「うーん、そうなの。なんか、紅茶って上品な味がするじゃない? 飲んでいて落ち着かなくなるのよね」
「なにそれ」
「その点コーヒーはわかりやすいもの。わかりやすいものって大好き」
 由里は笑った。大きな瞳がゆるやかな弧を描く。
 窓の外で下校途中の小学生たちが楽しそうに歩いていた。もうそんな時間になるのか、と腕時計を見ると、三時過ぎを指していた。
「相変わらずあの和菓子屋でバイトをしているの?」
「うん、そうよ。高校を卒業してからだから……もう二年になるのか、早いなあ。歳をとるわけよね」
「なに言ってんの。私たちなんてまだまだじゃない。私なんて今、毎日が楽しくて楽しくて、仕方ないくらいよ」
「なに、何か良いことでもあったの?」
 私が言うと、由里は待ってましたとでも言わんばかりの表情で「実はね、」と話し始めた。
「私今、付き合っている人がいるの」
「え! 聞いてない」
「今はじめて言ったもの。誰かに打ち明けること自体、はじめてよ」
 由里は子供みたいにきらきらした目をしていた。同性の私でも心が揺すぶられるような何かが、彼女にはある。特別美人というわけではないが、なぜか目を引く。話し方や、笑い声や、仕草や、あるいは持っているもの、使っているシャンプーやハンドクリーム、そういった細かい一つ一つのものが、彼女にあまりに自然に溶け込んで、人を引き付ける魅力になって全身から溢れていた。
「ユーイチさんっていうの、彼。小説家でね、世界中、色んなところを旅しながら本を書いているんだって」
「小説家なんて、どこで知り合ったのよ」
「渋谷のバー。映画をモチーフにしたカクテルが呑めるお酒なんだけど、私、映画ってあまり見ないじゃない? けれど興味本位で入ってしまったものだから、さてどうしようかと悩んでいたわけなのさ」
 なになになのさ、という口調が由里の昔からの口癖で、私はひそかに、その口癖を可愛いと思っている。
「それでね、そうしたら、横に座っていた彼が私に一杯奢ってくれたの。『ローマの休日』のカクテル」
「うわっ、キザ!」
「あはは、そうでしょ。私、ローマの休日なんてタイトルと、オードリーヘップバーンが主演だってことくらいしか知らないから、焦っちゃったわよ。でも、彼ったら、私に嬉々として話すの。あの時のオードリーの初々しい演技は最高だとか、アン王女のサンキューの言い方がすごく愛らしいとか」
「それで、あなたはどうしたの?」
「正直に言ったの。ごめんなさい、興味本位でお店に入ってしまっただけで、本当は映画なんて、ハリーポッターシリーズくらいしか真面目に見たことがありませんって」
 私は彼女のその潔い言い方がツボにはまってげらげらと笑った。お洒落なバーで、おしゃれなカクテルを前に、堂々と潔く謝る由里の姿を想像したら、自分の友達ながらに中々パンチのきいた奴だなあ、とか思いながら。
「そうやって笑っているといいわ、ここからがすごいんだから」
「なになに、まだ面白いことが起こるの?」
「ロマンスよ、ロマンス。そうしたら、ユーイチさん、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、それから今のあなたみたいに笑ったの。あ、うそ。今のあなたよりは控えめだったわ。それで、午前十時の映画祭ってご存知ですかっていうの。知りませんって答えたら、毎朝午前十時から、大きな劇場で古い洋画を中心に上映をしているんですって。それで、今はローマの休日が上映されていて、だから一緒に見に行きませんかって!」
「怒涛の展開ね」
 ふふ、と笑うと由里は興奮したように「そう、そうなの、なにもかもあっという間だったわ」と言った。その言い方が、なんだか少し大人びていて、ああ、私も彼女ももう、成人女性なんだ、大人なんだな、と実感した。
「それで、早速翌日一緒に見に行ったわ。私、モノクロ映画をスクリーンで見る日がくるなんて、思ってもみなかったわよ。でも、すごく面白かった。見たことある?」
「うん、あるよ。可愛いわよね、アン王女」
「そう、本当に可愛いの。すごく奇妙なんだけどね。なんだか、子供で居られる時間を奪われて大きくなった大人、ってかんじがして、あれを見た時、私、あなたのことを思い出したのよ、緑」
「え、私?」
「ええ。なんとなくだけど」
 由里はそう言ってちょっと視線を逸らした。会話の途中に運ばれてきていたコーヒーにやっと一口、口をつけて。
「古い映画って不思議ね。確かに画面のなかにいて、楽しそうに喋ったり、歌ったり踊ったりしている人が、この世のどこを探しても、もうどこにも存在しない、なんて。私、なんだか奇妙な気持ちになっちゃったわよ。変な世界に迷い込んでしまった、みたいな。あれ? ここで合ってる? みたいな」
「なんとなくわかる。でも私、その奇妙さが大好きよ。もうどこにもいない美しい人の歌い声って、なんだか妙に綺麗に聞こえるし、だから古いミュージカル映画が好き」
「緑のこと、前からわけわかんないやつだって思ってたけど、でも今回で少しわかった気がする。うん」
 なにそれ、と私が言うと、由里はこちらに視線を戻して、美しく笑った。外から陽が差し込んで、アッシュブラウンの髪がきらきらと照らされる。由里の髪色は会うたびころころと変わる。その飽きっぽさや、女の子、というのを体現したかのようなむき出しの愛らしさが、私はとても好きだ。
「彼ねえ、いつか私を、どこか綺麗なところへ連れて行ってくれるって」
「綺麗なところって?」
「わからないわよ、そんなの。でも、きっと素晴らしいところだと思うわ。飛行機に乗って、旅をするの。それで、必ずあなたに手紙を書くわ。そういうの、好きでしょう?」
「うん、好き、そういうの」
 私が笑うと、由里はやっぱり、と言って微笑んだ。
 綺麗なところ。由里はどんな場所へ連れて行ってもらうのだろう。あまり遠くじゃないといいな、寂しいから。そんなことを考えていると、「あまり遠くには行かないわよ、きっと」と見透かしたように由里が言った。
 
 
 
 律はその翌日、早速バイト先にやってきた。私は実質三日連続彼に会っていた。朝の十時過ぎの、暇な時間帯に、まるでお店が暇だと言う事をわかっているかのような自然さで、その小さなお客さんは現れた。
「緑ちゃん、お客さんよ」
 奥さんがにこにこしながらそう言って、小さな律をお店の中の古い木の椅子に座らせた。来ることはわかっていたが、こんなに早く来るとは思っていなかったため、少なからず驚いた。
「本当に来たんだね」
「うん、迷惑だった?」
「ううん、全然。ただ、どうやって場所がわかったのかなって思って。それも勘?」
「勘っていうか、緑ちゃんの気配というか、そういうものを辿ってきたらここに着いただけ。そんなに難しいことじゃないよ」
「いやあ、それは中々難しいことだと思うけど」
 私が笑いながらそう言うと、律はそんなもんかなという顔をした。
「緑ちゃん、今暇だし、お話していていいわよ。お茶を出してあげる。それに、お菓子も好きなのを食べてね」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。その子、弟さん?」
「いいえ、違います。うーん、なんていうのかなあ……この間知り合った子なんですけど」
「律です、はじめまして」
 きちんと椅子から立ち上がり、行儀よく挨拶をした律。奥さんはにこにこしながら「律くんっていうのね。何が食べたい?」と優しく訊いた。
「えっ、でも……」
 ちらりとこちらに視線を送る律。困ったような表情をしていた。
「お言葉に甘えて好きなのもらいな。子供が遠慮してどーすんの」
「いいの……?」
 律はそのまま売り場の方に近寄って、きょろきょろとお店中を観察していた。
 美術館のカフェではじめて会った時の律は、その小さな背丈からは考えられないような、どこか大人びた表情をしていた。あの表情はなんだったのだろう。何が今の律と違うのだろう。何があの時の律にあんな顔をさせていたのだろう。
「じゃあ、どら焼きが食べたい、です」
 控えめに言うと、それを聞きつけた旦那さんが中からひょいと顔を出した。驚く律をよそに、もくもくと皮を焼き始める。ふんわりと暖かく、甘い匂いが店の中に溢れる。
 奇妙なくらいゆったりとした時間だった。平日の午前中、静かな和菓子屋に、どら焼きの甘い匂いと、鉄板の熱のせいでほんのりと暖かい店内と、それを見守る小学生。
 やがて皮が焼けると、旦那さんは律に「つぶあん、こしあん、白あん、うぐいす、どれがいい?」と訊いた。
「えっと……じゃあ、うぐいす」
「エンドウ豆をすりつぶしたやつだよ。食べられる?」
「うん。エンドウ豆好きだから、大丈夫」
 律が言うと、旦那さんはちょっと嬉しそうな顔をした。物静かで無口な人だが、子供が好きで、近所の子がおつかいに来たりすると、いつも何かおまけしてあげたりするような優しい人だ。旦那さんは、焼きあがったどら焼きを懐紙で包んで律に渡した。
「緑ちゃんはどうする?」
「え? あ、じゃあ……私もうぐいすで」
 結局二人してどら焼きを頬張りながら、席に座る。ごゆっくり、なんて言いながら奥さんが出してくれたお茶は、閉店後にいれてくれる高い茶葉のものだった。前にお酒に酔った由里が閉店間際に駆け込んできた時も、同じようにお菓子を出して、あたたかいお茶をいれてくれた。私は、この夫婦の、こういうとても上品な愛情のようなものがたまらなく好きだ。
「おいしい」
 小さな口でどら焼きを頬張りながら、律が言った。
「俺、うぐいす餡ってはじめて食べた。甘いのに、ちゃんと豆の味がする」
「おいしいでしょう。それに、色も綺麗」
「うん、綺麗な緑色」
 律は嬉しくてたまらない、というようにきょろきょろと店内を見回した。私は、なんとなく律の気持ちがわかるような気がした。幼い頃、あるいは、中学校や高校に通っていた時、学校に行かずにどこか他の場所で過ごしている時。なんとでもない景色でも特別に見えたし、何を食べても、いつもとは違う味がする気がした。
「緑ちゃん、俺のこと、学校をさぼって悪い子だって思ってる?」
 おそるおそる、というふうに訊いてくる律。私はびっくりして「まさか」と答えた。
「そんなこと思わないよ。少なくとも学生時代、学校なんてさぼってなんぼだって思ってたよ、私は」
「本当?」
「本当。大体、私が真面目に学校に毎日通うような子に見える?」
「見えない」
「即答されるとちょっとむかつくけど、まあ、そういうことだよ」
 言うと律は少しだけ微笑んだ。
「学校をさぼって映画館に行くのが好きだったな。見たい映画なんてなくても、劇場に入って、自分の席に座って、そこで二時間過ごせるってことが本当に魅力的に思えたの。映画の良いところは、見終わった後もその作品の余韻に浸れるところ。大きい画面で見たならなおさらね。一日中、その映画の残り香に浸っていれば、何も考えなくて良かった」
「何か考えたくないことがあったの?」
「そりゃまあ色々あったよ。モテたからね、緑ちゃんは。悩みが絶えなくて大変だったわ」
「ふうん」
「信じてないでしょ」
 笑いながらそう言うと、律はじっと私の顔を見て、「うーん」と言った。
「信じるけど、でも、全部が本当ってかんじはしない。今の言葉のなかに、ほんの少し嘘があったって気がする」
「占い師みたいなこと言うねえ、君」
「でも俺、こういうことを言うのはやめなさいって、言われてるんだ」
「こういうことって?」
「だから、なにかを言い当てたり、推測したりすること」
「誰に言われるの?」
「学校の先生とか、お母さん、とか」
 お母さん、という言葉のぎこちなさが気になった。言い慣れていない言葉を、無理して使っている感じがした。
「ふうん……ちなみに律、今何歳?」
「十一。あのさ、俺、学校ってあんまり好きじゃないんだ。優しくしてくれる子も、親切な子もたくさんいるけど、それはそれとして、同年代の子がぎゅっと一つにかためられて、そこで何時間も過ごさなきゃいけないってことが、たまらなく嫌なんだ。緑ちゃん、わかる? 息苦しくて、仕方ないんだ」
「あー……うん、わかるよ。懐かしい悩みだなあ」
 実際私には律の気持ちが痛いくらいわかった。自分では忘れていた感情だった。狭い箱のなかに、生まれも、育った環境も、性格も好みも何もかも違う、ただ同い年というだけの人たちが押し込められて、一日中そこで過ごす。私自身、そういうことがたまらなく嫌だった。嫌で嫌で仕方無かった。
 もちろん悪いことばかりではないことも私は知っている。そこで出会えた、由里を含め友人たちは私にとってかけがえのないものであると断言できるし、同年代の子から学ぶことも、励まされることもたくさんあった。そういう経験は人を強くさせたり、逆に弱くさせたり、優しくさせたり尖らせたりする。あらゆる意味でその人の人生をその人らしくさせる。
 けれどそんなことは、現時点で学校、という狭いコミュニティで窮屈にしている子たちにとっては何の励ましにもならない。そのことも、私はよくわかっている。
「俺、それで、学校にいるとなぜか眠くて、頭が重くて我慢できなくなってしまうようになったんだ。教室にいても、廊下を歩いていても、体育で校庭に出ていても、どこでも急に眠ってしまう」
「ええ?」
 私は、ナルコレプシー、という言葉を頭に思い浮かべた。確かそんな病気があった気がする。慢性的に眠気が襲ってきて、どこでも眠りについてしまう病気のこと。
「ナルコレプシーじゃないよ」
 律が見透かしたように私に言った。
「あのさ、君、ちょくちょく私の心を覗くけど、私ってそんなに感情読みやすい?」
「緑ちゃんの声、俺に聞き取り易い声みたい。でも、いつもわかるってわけじゃないよ。チャンネルみたいなのがあって、それがぴったり当てはまった時だけわかるんだ」
「へえー……」
「お医者さんが言うには、何かストレスによるものでしょうって。だから、お母さんは俺を学校に行かせないようにした。学校がストレスの原因なんだろうって思っているみたい。それで、なんとかして気を紛らわそうと、俺を色んなところに連れて行くんだ」
「この間の美術館みたいに?」
「うん。まあ、この間はお父さんの作品があったからっていうのもあるけどね。でも俺、それでもまだ眠くて仕方なかった。眠りにつくとね、俺はいつも、森のなかにいる。あのね、緑ちゃん、俺思うんだけど、神様って雲の上じゃなくて、森のなかに住んでいるんじゃないかな。いつも、夢の中でそういう気配がする。それで、森のなかは何かとても大きな存在がいるっていう緊張感みたいなものがあって、恐ろしいくらいなんだ。俺は、それが夢だってわかっているから、早く覚めろって思う。そうすると、刺すように眩しい木漏れ日が溢れて、思わず目をつむる。そこでいつも目覚めて、心臓がばくばくいってる。多分だけど、俺の直観みたいなのって、あの光のせいなんだと思う。あれをとり込んだから、誰かの考えていることがわかったりするんだと思う」
「そのことは、お母さんとか、病院や学校の先生には言った?」
「言ってない。多分変な顔されると思うから」
 律はどら焼きの最後の一口を食べ終えて、お茶を飲んだ。「このお茶、すごくおいしい」と感心したように言う。
「小学生なのにこのお茶のおいしさがわかるなんて、やるじゃん」
「お茶だけじゃなくて、このどら焼きもおいしい。お店の中、きらきら光ってるように見える。俺、ここが好きだな。いいなあ、って思う」
 私は律の言葉に促されるように店内を見回した。もくもくともなかに餡子をつめる旦那さん。手持無沙汰になって、店の奥に設置されているテレビを目で追う奥さん。並べられた色とりどりの和菓子。お団子、大福、ようかん、どら焼き、もなか、ういろう、きんつば。それらすべてが陽に照らされて、ぼんやり光って見えた。
「律、お母さんは何て言ってるの? 勝手に家を出てきて、心配されない?」
「図書館に行ってくるとか、散歩をしてくるとか、色々言って出てきているから大丈夫。すごく心配そうだけど」
「そっか。ならいいけど。律のお母さん、美術館でちょっと見たけど、綺麗ね」
「うん、俺もそう思う。お母さんは美人だよ」
「律もきっとかっこいい大人になるよ。背が伸びて、手が大きくなって、声が低くなって、知識や教養が今よりもっと身について、女の子が放っておかない男の子になる」
「そうかなあ。……あのさ、緑ちゃん。大人になるって、楽しい?」
 律は伺うような目でこちらを見た。彼にとってこの質問は、大きな意味を持っているのだろう、となんとなく私は思った。
「うーん……私もまだ二十歳なりたてだからわかんないけど」
「けど?」
「お酒は確実においしいし、一人でどこに行っても誰にも止められないし、夜中に散歩をしても補導されないっていうのは、中々良いものだよ。自由で」
 律は「なにそれ」と言った後、ちょっと安心したように笑った。
 そうこうしている間にお店が少しずつ賑やかになってきたので、律は「もう帰るね」と言って帰って行った。きちんと奥さんと旦那さんに「ありがとうございました」と頭を下げて。また来てね、とにこやかに送り出す二人に、嬉しそうな微笑みを返して。
 私は律の言っていた言葉を胸のなかで反芻して考えた。
 神様は森の中にいる。
 深い森のなかを、怯えながら進む小さな律のことを考えると、なんとかしてあげたいな、と思った。
 
 
 
 ムクドリが群れで飛んでいるのを見ると、春だな、と思う。入道雲が空に浮かんでいると夏を感じるし、長袖が恋しくなったら秋を思う。そして、吐く息が濃い白になったら、今年もついに冬が来たか、と嬉しくなる。私は、暖かい季節よりも寒い季節のほうが好きだ。寒いと自分の存在がはっきり浮かび上がるように思えるし、重たい灰色の空や、霜が降りてサクサクと音のする地面や、寒そうに丸くなる猫を見るのが好きだ。
 私の母は冬がよく似合う人だった。色白で、線が細くて、透き通るような声をした、日本昔話にでてくる雪女のようだった。
 気が弱い母はいつも父に罵られ、悲しそうに泣いていた。母は泣くとき声をたてない。しゃくり声すらあげない。ただ静かに、まるでしんしんと雪が降り積もるように、音もなく涙を流す。私は幼いながらに母の涙を美しいと感じていた。なんてきれいな人なんだろう、と思っていた。母の涙は宝石のようだった。悲しい人の涙は美しいものなのだなと思った。
   そしてそんな母の心はたぶん、というか確実に、なにがしかの、誰かしらの支援が必要な状態だった。けれど私は気づけなかった。
「緑、お母さんね、自分がまだ子供で、生理もきていないような時から、子供が生まれたら男の子でも女の子でも緑って名前をつけようと思っていたの。緑色はなによりも美しくて高貴な色だと思うから。この間、お母さんと二人で森を歩いたときのこと、覚えてる? 雨あがりの土の匂いと、ざわざわ騒がしい葉っぱの音と、小鳥の囀り。お母さんはね、そういうものを摂りこんでいないと、立っていられないの。もう、どうしようもならなくなってしまうの。美しいと思うものを、見たり、感じたりすることは、呼吸をすることと同じなの。吸って、吐いて、吸って……緑もそうしないと、生きていけないでしょう? それと同じなのよ。けれど、みんなはお母さんのことをおかしいっていうの。緑もお母さんのこと、おかしいって思う? お母さんのことが嫌い?」
 母はよく、涙を流しながら私に抱えきれないような思いを打ち明けていた。小さな私は母の腕に抱かれながら、「お母さんのこと嫌いじゃないよ、好きだよ、だから泣かないで」と自分が泣きそうになりながら答えた。母が悲しそうにしているのを見るのが、子供ながらに辛かった。
 私は母とよく散歩に訪れた森のなかにある、杉の大木がなにより好きだった。首が痛くなるほど見上げないと空が見えないような、とんでもない大きさをした木で、秋の終わりに落ち葉がひらひらと落ちたり、雪が積もって枝が重たそうにしだれていたり、そういう自然の優美さのようなものをその木に見出していて、とにかくとても魅かれていた。
 けれど四年前に母が亡くなってからは森に入ることなんて一度もなかったため、その存在自体を忘れかけていた。だからこそ律に言い当てられたときは心底驚いた。律の直観にもそうだが、それ以上に、私の胸のなかにまだあの大木が根を張っているのだと思うと、不思議な気持ちになった。私がほぼ初対面の段階で小学生の律の言うことを信用したのは、あの木を言い当てられたからといっても過言じゃない。
 母が死んだ日のことをよく覚えている。寒い雪の日だった。
「緑、お母さん散歩に行くけど、一緒に来る?」
 当時まだ中学生だった私は、「こんな寒い日に外に出るなんて、風邪引いちゃうよ」と注意をした。学生服を脱いで、部屋着に着替えていたので、もう一度外に出るなんて面倒だ、と思いながら。
「お母さん、今日はもう外に出るのはやめなよ。散歩なら明日の朝行けばいいじゃない」
「いいえ、今じゃないとだめなのよ。緑も来る? 来たいならおいで」
 母はいつも以上に顔が白く見えた。おいで、という言葉の奇妙さに、おかしな寒気を感じたのを覚えている。律のいう直観、というものを、あの時の私もきっと一時的に持っていた。おかしい、と思って、「お母さん、どうしたの」と言うと、母はふんわり、花のように笑った。本当に美しい笑顔だった。
「あのねえ、自分でもよくわからないのだけれど、最近、頭のてっぺんから引っ張られているような感じがするのよ。ここにいてはいけないって、間違っているって思うの。けれど、あなたと離れるのが、あなたと離れることだけが辛くて、だから、一緒にくる? おいで、緑。おいで」
 母はほとんど懇願するように私に言って、はじめて声をあげて泣いた。小さな子供のように大声を出して。当時両親は離婚して、母と私の二人暮らしだったため、頼れる人がいずに、私はうろたえた。母の何かに憑りつかれたかのように泣く姿を、恐ろしいと思った。
 唖然とする私をよそに、母はべそべそと泣きながら、雪が降り積もるなかを、傘もささずに行ってしまった。私は追いかけることができなかった。追いかけたら自分まで母の抱えている何かに呑まれてしまうような気がした。
 私は半分泣きそうな状態で父に電話をした。父は既に新しい家庭を持っていて、私からの連絡を受けて戸惑ったような声で答えた。
「大丈夫だよ、緑。アイツは昔からああいうおかしなやつだったろう。しばらくすれば戻ってくる」
 早く電話を切りたいという気持ちが、父の声から滲み出ていた。頼れる大人なんて父くらいしかいない私は、心細さにとうとう泣いてしまって「でも、いつもと様子が全然違ったの。お父さん、お願いよ、助けて」と懇願した。
 父は少し考えるように沈黙してから、「わかった、警察を呼ぼう」と観念したように言った。電話越しでも父の気難しそうな表情が見て取れるようだった。
 電話を切ってから、私はそのまま、蹲って泣いた。悲しみの波のようなものが押し寄せて、どうしようもならなくなってしまった。母がもう戻ってこないということが、何故だかはっきりと、残酷なくらいにわかった。母の匂い、纏う空気や、暖かさ、魂と表現されるようなものが、どこか遠くへ引っ張られているということが。
 母は私とよく歩いた森のなかの、なんとでもないような小道で倒れているのを発見された。
 私は父の電話を切って大泣きして以来、母の遺体が発見されても、お葬式でいろんな人にお悔やみの言葉をもらっても、母の体が焼かれて、骨になって、白くてつるんとした壺のなかにいれられても、その壺が土のなかに埋められても、泣くことはなかった。ただぼんやりと、これから自分はどうなるのだろう、とか考えて、ほんの少し憂鬱だった。
 母は何か、目には見えない何かに呼ばれていたのだろうと思う。世の中には、そういうものが確かに存在する。私はそれをよく知っている。
 父は罪滅ぼしのように私を新しい家庭に招いた。父の新しいお嫁さんは若くて綺麗でハツラツとしていて、母とは真逆の雰囲気を持っていた。私にとても親切にしてくれて、私も彼女の裏表のない上品さのようなものが好きだったけれど、やはりなんとなく居心地が悪くて、高校卒業を機に一人暮らしをすることにした。父は私に決して少なくない額のお金を援助してくれた。
 私は父のことがずっと好きではなかった。母をいじめる父のことを憎いと思っていた。けれど母と二人暮らしをして、母が死んで、父と再び暮らしはじめて、わかったことがある。
 父は母の病的な美しさのようなものが恐ろしかったのだろうと思う。多分、私と同じで、母に何か、ただならぬものを感じていて、そういう奇妙なものから自分を守ろうとしていたのだ。
 律を見ていると母のことを思いだす。小さな律が抱えているものが、恐ろしいものでなければいいなと心底思う。
 
 
 
 その日私は、行こうと思っていたジャズのコンサートが中止になり暇をしていた。グループ内でインフルエンザが蔓延し演奏できる状態じゃなくなってしまったらしい。ジャズの本場ニューオリンズからはるばる日本の東京まできてインフルエンザにかかるとは、災難だなあ、と思いながら、チケットを予約したサイトから送られてきた事務的なお詫びのメールを読んだ。
 またどこか美術館でも行こうか、と思ったが、どうにもそういう気持ちになれず、じっと三角座りをしてかれこれもう一時間になる。折角の休みだが、特にすることもない。洗濯も掃除も終わらせたし、家にある本はあるだけ読み切ってしまったし、DVDは昨日全て返却してしまった。本格的に手持無沙汰だ。
 立ち上がって、窓を開ける。春の日差しが目に眩しい。遠くで列車の走る音が聞こえる。それから、近くの小学校のグラウンドで、子供が笑い声をあげて走り回っている。鳥たちの羽ばたき、自転車のベルの音、車のエンジン音、赤ちゃんの泣き声。そういうものに耳を澄ませていると気持ちが落ち着く。誰かの日常と、自分の日常が、決して遠くない、けれど交わることはほとんどない、絶妙な距離感で隣り合わせになっている。そういうことにほっとする。
 よし、と呟いてから部屋に戻り、外に出る準備をした。折角天気が良いのだから、外に出ないともったいない。どこかで本を買って、カフェで紅茶を飲みながら読もう。気が向いたらケーキも食べよう。頭の中で予定をたてると、次第にうきうきしてきた。私は、自分のそういう単純なところを結構気に入っている。
 軽く化粧をして、服を着替え、外に出る。買ったばかりの白いハイヒールがきらきらと光って見えて、良い買い物をしたな、と嬉しくなった。そして、ああそうだ、新しいネイルを買いたいな、ついでにファンデーションも新しいのにしたいな、薬局に寄らなきゃな、と頭の中で一瞬で予定が増えた。
 平日の昼間の住宅街はしんと静まり返っていて、その奇妙さのようなものが私は好きだ。やっぱり外に出てよかったな、と思いながら歩いていると、前から見知った顔が歩いてきた。
 律だ。美術館で見かけた母親に連れられて、眠そうな顔をして歩いている。いや、むしろ意識が半分飛んでいるのを、ほとんど無理矢理引きずられているように見える。
「律、眠い? どこかで休もうか?」
 母親の問いかけに、律は夢うつつといった様子で頷いて、そのまま倒れ込んでしまった。私は、どうするべきか迷ったが、駈け寄って「あの、大丈夫ですか」と声をかけることにした。
 振り向いた律の母親は思わずどきりとしてしまうほど綺麗だった。意思の強そうな瞳が律によく似ている。けれど、やはり困ったような顔をして「すみません、この子、眠いのを我慢していたみたいで」と言った。
「家に連れて帰りますので、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「あの、よろしければ私の家すぐそこなので、休んでいかれますか?」
「え? でも、ご迷惑じゃ……」
「いいえ。用事を済ませて、家に帰るところだったんです。お子さんが回復するまで、どうぞ休んで行ってください」
 私が嘘を交えてそう言うと、律の母親はほっとしたように「助かります」と言って微笑んでから、細い体で律のことを背中に背負った。その手つきや、動作の手早さに、日常的にこういうことがあるのだな、ということが容易に伺えた。
 母親の背中で眠る律のことを横目で覗き見る。寝息はとても静かだ。今頃、森のなかを彷徨っているのだろうか。目に見えない何かに怯えて、はやく覚めろと願いながら。
 私は自分の部屋に二人を案内して、ベッドに律を寝かせてから、お茶を淹れることにした。律の母親は心配そうに律の寝顔を見つめていた。
 今朝掃除をしておいて本当に良かった、と思った。律の母親の厳格そうな立ち振る舞いを見ていると、散らかった部屋に通すなんて恥ずかしくてきっとできなかっただろう。
 お湯が湧きあがるのを待ちながら、あのお母さんに律と私の関係を言うべきかどうか考えた。律は私の元へ遊びに来る時、母親にそれを伝えていない。しかし仮にも成人済の大人としては、きちんと親に了承を得るべきだろうとも思う。
 けれど、なんとなく、そうしないであげたいな、と思った。律にとって私の元へ来ることは、親や、自分を取り巻く環境に居る誰かに知られたくないことなんじゃないだろうか。
 淹れたてのお茶をマグカップ淹れて出すと、律の母親は「すみません、どうぞお構いなく」と申し訳なさそうな顔をした。
「うちの子、律っていうんですけど、よくこうなるんです。寝不足ってわけでもないのに、急に眠ってしまう」
 存じておりますなんて口が裂けても言えない私は、「そうなんですか」と月並みな返事をすることしかできなかった。律の母親は「本当は、」と言葉を続ける。
「本当は、元気で学校に行ってほしいんです。友達をたくさん作って、毎日よく遊んで、よく食べて、たまには誰かと喧嘩してぼろぼろになって帰ってきたり、そういうこの子を慰めてあげたりしたいんです。勿論、必ずそうじゃなくても構わない。友達付き合いが苦手だったとしても、例えば面白い本をたくさん読んだり、映画を見たり、好きなことを見つけたり、そうやって自分の世界を広げてくれたら、それほど嬉しいことはありません。幸せでいてほしいんです。毎日楽しいって、笑っていてほしい。ただそれだけ」
 律の母親の横顔は怖いくらい真剣だった。私が唖然として黙っていると、「すみません、あまりこういう話できる人いなくて」と申し訳なさそうな顔をした。
「いえ、すごいなあ、って圧倒されただけです。愛情深くて、本当に、素晴らしいなと思います」
「思うことくらいしかできないので。けれど、日に日に眠ってしまう時間が長くなっていて、心配なんです。いつか、目覚めなくなってしまうんじゃないかって。夢と現実の区別がつかなくなってしまうんじゃないかって」
 眠っている律の横顔を、母親が本当に心配そうな目で見つめてそう言った。私は、律の母親の気持ちがわかるような気がした。私も、自分の母親に同じようなことを思っていたから。そして実際、母は遠くへ行ってしまった。
 何か気の利いたことを言うべきだろううか、と考えていると、律の母親のケータイが音を鳴らした。
「すみません、この子の学校からです。ちょっと外に出て良いですか?」
「はい。律くんは私が見ていますので、ごゆっくりどうぞ」
 律の母親は申し訳なさそうに頭を下げて、ケータイを片手に玄関の外に出た。話声が微かに聞こえる。私は、ドアが確かに閉まったのを確認してから、律の方に向き直った。
「もう起きていいよ」
「……よく気付いたね」
 律は少しバツが悪そうな顔をして起き上った。顔色がよくない。私は、お茶淹れてあげるから待ってな、と言って立ち上がった。
 片手にマグカップと、もう片方にお菓子の入ったお盆を持って戻ると、律は部屋をきょろきょろと興味深そうに見渡していた。
「つまんない部屋でしょ」
「ううん。でも、緑ちゃんの部屋ってかんじだね」
「どういう意味よ。はい、お茶。お菓子も食べる?」
「うん、ありがとう」
 律はベッドに腰掛けた状態でお茶を受け取って、ちびちびと飲んだ。テーブルに肩肘をつきながらそれを見守っていると、「ごめんね」と消え入りそうな声が聞こえた。
「なに、どうして謝るの?」
「迷惑かけた。緑ちゃん、今日お休みで、どこかへ出かける予定だったんでしょう」
 本当に申し訳なさそうに、どころかいっそ泣きそうな顔で律がそんなこというものだから、私は驚いてしまって「そんなこと気にしなくていいんだよ」と言った。
「出掛けるって言ったって近所に買い物行くくらいだったし。それより、体調は大丈夫なの? 顔色が良くないけど」
「うん、慣れてるから平気。それより、お母さんに俺のこと、言わないでいてくれてありがとう」
「本当は、良識のある大人なら言わなきゃいけないんだけど、緑ちゃんは良識のないワルだからね」
 私が言うと、律は少しだけ笑った。
 なんだかいじらしいな、と思った。律は、ずけずけ人の心を言い当てたりする豪快さはあるのに、変なところで遠慮しいだ。それがこの子の美徳でもあるのかもしれないけれど、でも、そういうものを身につけるには、まだ早すぎるんじゃないかとも思う。勝手かもしれないが、もう少しわがままになってもいいのに、と思う。
「緑ちゃんの部屋のカーテンが、白地に薄い黄色でたんぽぽの花が咲いてるって、俺知ってたよ」
「うわ、何急に、ストーカーみたい」
「失礼だな。でも、それ以外ははじめて知った。あ、バスマットが水色ってこと以外。テレビは置かないの?」
「うーん、本当は欲しいんだけど、パソコンがあればDVD見られるし、それで我慢してるの。でも、そろそろ潮時かなあ。今度買いに行くよ」
「買いに行く時、付いて行ってもいい?」
「べつにいいけど、面白くないでしょう」
「いや、面白いよ。電気屋さんって、俺、好きだよ。賑やかなのに冷たいかんじがして、不思議」
「そう? じゃあ、おいで。来週の金曜日あたりにでも行く?」
「行く」
 律は微笑んで、「楽しみだなあ」と言った。顔色がだいぶ良くなってきている。私はほっと胸を撫で下ろした。
 そうこうしていると律の母親が戻ってきて、目を覚ました律を見ると、驚いたように「顔色が随分良いのね」と言った。
「うん、そうみたい。だから、もう帰れるよ」
「そう? タクシー呼んだ方がいいんじゃない?」
「ううん、歩いて帰れる」
 律は立ち上がって、「帰ろう」と母親に言った。
 律の母親は心配そうな顔をしながらも、本当に健康そうな律の顔を見て安心したのかそれに同意して、歩いて帰る決心をしたようだった。
「どうも御親切にありがとうございました。後日改めてお礼に参りますので」
「いえいえそんな、お気づかいなく。困った時はお互い様ですから」
「お姉さん、どうもありがとうございました」
 律はわざとらしく私に頭を下げて、母親に見えないように陰に隠れながらにやっと笑った。私もわざとらしい頬笑みを返した。
 二人がいなくなった室内は奇妙なくらい静かに感じた。これが普通なはずなのに、不思議だ。私は、もう出掛ける気がなくなってしまって、服を脱いで部屋着に着替えた。
 律の母親は、少し堅すぎるような気もするが、愛情深い良い母親に見えた。けれどはじめて美術館で会った時の印象や、いつかの歯切れの悪い律の物言いがどうしても引っかかる。詮索すべきではないとわかってはいるが、なんだか妙に気になった。
 ベランダに出ると二人が歩いて行くのが見えた。なんとなく、その背中が小さくなるまで見送ることにした。遠い昔、母の横を歩いたあの頃の自分のことを思いながら。
 
 
 
 
 ユーイチさんに会ってよ、という由里の誘いに乗って、その日私は桜木町の飲み屋街に来ていた。夜の繁華街は既に出来上がったサラリーマンたちの笑い声に満ちて賑やかだった。指定された店を探してきょろきょろしていると、キャッチの若い男性に声をかけられたので、探している店の名前を言うと快く教えてくれた。
「二件目はぜひうちに来てくださいね!」
 と言いながらクーポン券のようなものまでくれた。
 人々がお酒を求めて集う街。大人だけが、まるで示し合わせているみたいに、夜になると集う街。私は、なんだかいいなあ、この感じ、と思った。赤や青の提灯がそこらじゅうにぶらさがっていて、夜の闇に奇妙なくらいマッチしていた。
 由里から送られてきた住所に沿って店を探し、見つけたそこは雰囲気の良いバーだった。店の扉を開けるとカラン、と気持ちの良い音でベルが鳴って、色とりどりの酒瓶が目の前で光る。
「いらっしゃい……ああ、君、緑ちゃんでしょう」
 カウンターの向こうに立ってグラスを磨いていた男の人が、にこやかに話しかけてきたので、私は驚いて「はあ」と間抜けな返事を返した。
「そこに座って。あ、俺はユーイチ。よろしくね。由里ちゃんから話、聞いてるかな」
「え! あなたがユーイチさんですか」
「そうそう。この時間はお客さん滅多にこないから、好きなものを驕ってあげよう。何がいい?」
 私は恐る恐るカウンターに座りながら、ユーイチさんのことを見つめた。若くも見えるがおじさんにも見える、なんだか妖怪みたいな雰囲気が彼にはあった。これ、私大丈夫かな、狐につままれているんじゃないかな、と本気で心配に思うほどだった。
「ええと……じゃあ、おすすめのやつをお願いします。あまり甘くないので」
 私が言うと、ユーイチさんはとても手際よく動きだした。
「由里ちゃんはちょっと遅れるって。彼女、いつでもちょっと遅れるんだよね。あれ、俺と約束している時だけ?」
「いえ、あの子はいつもちょっと遅れますよ」
 ユーイチさんは笑って、それから私の目の前に白と緑の鮮やかな飲み物を置いた。
「モヒートです。どうぞ、お嬢さん」
「あ、どうもありがとうございます」
「緑ちゃん、あまりにも俺の想像どうりだったからびっくりしたなあ。お店の扉が開いたとき、一発でわかったもん、俺。あ、緑ちゃんがきた! って」
「なんですか、それ。由里からどんな話聞いてるんですか」
「由里ちゃんは君のことを掴みどころがないと思っていて、そこをすごく気に入っているみたいだよ」
 まるで占い師みたいな口調で、ユーイチさんは言った。一瞬、頭に律がよぎった。ユーイチさんは、すべてをコントロールしきった律、が陽気になったバージョン、という感じがした。それはもはや律ではないが。
「掴みどころのない女の子って、最近減った気がするなあ」
「あの、私由里に、ユーイチさんは小説家だって聞いたんですけど、バーのマスターもやってるんですか?」
「そうそう、ここは俺の店。小説は昼間に書いて、夜はバーを開けているんだ。小説だけずっと書いていても頭が煮詰まってしまうからね」
「へえ……なんだか、凄いなあ」
「あれ……? 君、今俺から何か盗もうとしているでしょう」
 ユーイチさんは確信を突いたように私の目をまっすぐに見て言った。私は突然のことで何が何だかわからず首を傾げたが、同時に図星をつかれたような気持ちになった。
「盗もうとしているって? 私が、ここのお酒を全部抱えて帰ってやるぞ、って思ってるとか、そういうことですか?」
「違う違う、ごめん、言い方が悪かったね」
 ユーイチさんは笑って言った。
「俺と似ている人を知っているでしょう。それで、たぶんその人は俺みたいに、自分で言うのも何だけど器用じゃなくて、苦しんでいる、或いは悩んでいる」
 これには私は流石にハッとして、ユーイチさんの目を見た。
 そうなんです、と口を開こうとしたタイミングで、店の扉が軽快に開いて「うわー、もう飲んでる!」と由里が入ってきた。彼女はまず私に向かって「遅れてごめんね、緑」と言った後、隣に腰かけてから「あ、ユーイチさんも」と付け足した。その言葉にとても愛らしい甘えのような含みがあるのを感じて、私は自分の友達ながらに可愛いな、こいつ、と思った。私が思うくらいだから恋人のユーイチさんはもっと思っているだろう。
「別にいいよ。君が遅れている間に緑ちゃんと親睦を深めてたから」
「ちょっと、緑に変なこと吹き込まないでよ。ただでさえ変な子なんだから」
「誰が変な子よ」
 由里は笑いながら「この間作ってくれた白いやつ、あれ飲みたい」とリクエストして、ユーイチさんは頷いて手際よく動き出した。
「あ、そうだ、私が遅れたせいで変なかんじになっちゃったけど、一応。緑、こちらユーイチさん。ユーイチさん、こちら緑」
 その淡々とした紹介の仕方がいかにも由里らしくて、私は笑った。ユーイチさんは由里の前に白いカクテルを置いて「はい、ホワイトレディーです、どうぞ」と言った。
「ありがとう。ああ、おいしい! まいっちゃったわよ、帰ろうとしたタイミングで学生課に捕まっちゃってさ」
「何かあったの?」
「この間受けた資格試験の代金、未入金だったから怒られたの」
「そりゃ怒られるわよ」
「ね、私もそう思う。だから大人しく怒られてきた」
 由里は笑ってグラスに口をつけた。真っ赤な唇に透明なグラスが触れる姿はとても綺麗だった。
「で、二人で何の話をしていたの?」
 由里が言うと、ユーイチさんは私に話を促すように視線を送った。
「そう、私ユーイチさんに似ている子を知っているんです。ああ、いや、違うな、全然似ていないけれど、雰囲気というか、抱えている何かが似ているというか……」
 自分でも頓珍漢なことを言っているな、ということがわかった。けれど由里とユーイチさんは何も言わず、じっと私を見つめていた。あ、この二人、似ているな、付き合っているんだ、と私はその時妙にしっくりきた。
「その子は小学生の男の子なんですけど、何か抱えきれないものを無理やり背負い込んでいるような子で。どうにかしてあげたいとは思うんですけど」
「その子が緑ちゃんに、どうにかしてほしいって言ったの?」
「いえ、そんなことは全然言いません。凄くしっかりした子なので。自分自身のことを他人にどうにかしてもらおうとか、そういう甘えは見えないんですけど、でもとても困惑しているようで」
「困惑、かあ」
 ユーイチさんは、うんうん、と頷いた。
「あのさ、俺が小説を書き始めたのは中学生の時なんだけど、その時はもう、頭が冴えちゃって大変だったんだよね。脅迫観念みたいに、誰かが書け書けって言ってくるんだ。そりゃもう、困惑したよ。もしかして、程度は違えど、その男の子も同じような状況になっているのかもね。人はさ、多かれ少なかれ、そういう目に見えない何かに突き動かされてしまう時があるんだよ。勘が鈍い人はそういうものに気付かずに、あるいは気付いたとしても上手くいなしていけるんだけど、変に勘が鋭いとそういうものの声ばかりを拾ってしまうようになるんだ。その子、歳はいくつ?」
「え? ああ……確か、十一です」
「十一! いいなあ、まだまだ色んなものがこれからだ。その子、今度昼にここへ連れておいでよ」
「ちょっとちょっと、待ってよ。二人で私を置いて話さないで。緑、久しぶりにあなたの口から男の子の話が聞けたと思ったら、相手が小学生って、何?」
 私は由里の、本当に心外そうな顔が可笑しくて笑った。
「もう、笑い事じゃないわよ! 緑、あなた昔からよくわからない人に絡まれやすいんだから、小学生相手とはいえ気をつけてよ、お願いだから」
「よくわからない人に絡まれやすいの? 緑ちゃん」
「はあ、そうみたいです」
「あなたと過ごした学生時代、何度肝が冷えたことか!」
 由里が怒ったようにそう言い、グラスに入ったカクテルを一気にのみほして「違うやつ、今度は青いのちょうだい!」と言うものだから、その支離滅裂な可愛らしさに私とユーイチさんは笑った。
 確かに私はちょっと変わった人に絡まれやすかった。道端で知らないおじいさんに「どうか私の元に来てほしい。なに不自由ない生活をさせてあげるから」と本気で泣き付かれたこともあったし、綺麗なお姉さんに「あなたからはとても不思議な気配の何かが憑いています。ぜひ調べたいのでここに連絡をください」と怪しげな研究施設の名前の入った名刺を渡されたこともあった。挙げだしたらキリがないが、世間一般で不審者と呼ばれるような人たちによく声をかけられた。
 ただ、良くも悪くも私にそう言う風に声をかけてくる人たちは皆、とても自分勝手だったように思う。急に現れて、自分は名乗りもしないのに私の名前を聞いてくる。私の中にある何かを暴こうとするような、そんな探るような視線を向けてくる。私はその人たちの、そういう下品さのようなものがとても嫌だった。
 律にあのホームセンターで声をかけられた時も、頭の片隅で一瞬そういう嫌な思い出がよぎった。けれど律は、こういう言い方をするととても馬鹿にしているように聞こえるかもしれないが、良い子だった。良い子の律だから私は彼が遊びにきたりするのを拒もうとは思わなかった。
 いつの間にか由里が新しいカクテルを飲んでいた。深い青をした美しいお酒だった。
「会って間もない俺が言うのもなんだけどさ、緑ちゃんのどーんと構えた感じが、そういう不安定な人たちにウケるんじゃないかな。君は、実はすごく鋭いのに、そういう一面をいつも出しているととても疲れるってことをわかっているから、むしろ鈍いくらいでいられている。多分、無意識なんだろうと思うけどね」
「うーん、そうですかねえ。それは私を過大評価しすぎな気がしますけど」
「今度、本当に連れておいでよ、その子。うちはジュースもたくさん置いてるしさ」
「待って、それは私が居る時にして。私も会いたいわ、その小学生。緑が久しぶりに男の子を紹介してくれるんだもの」
「いいけど、私たちみたいな不真面目な大人と違って、まだ可愛い良い子だから、変な影響与えないでよね」
 私が言うと、二人はそれはどうかなー、という顔で笑った。
 私は母がいなくなって、自分を取り巻く周囲の環境が一気に変わり、憂鬱につきまとわれていた頃のことを思い出した。あの頃の私に今の私を見せてあげたい。友達と、友達の恋人とお酒を飲んで笑っている。それだけでじゅうぶんだ。私は私の生活をわりと気にいっていて、それなりに自由に生きている。
 世の中のほとんどの部分が自分ではどうしようもないことでできていて、それは一見してとても不自由なことのように思えるが、自分にとって価値のあるものを見極める力さえつければわりと親切な構造なんじゃないかと思う。他人が他人として、自分が関与しなくても勝手に生きてくれていることは、結構凄いことだと思う。
 そうやっていつの間にか、自分の知らないところで生きてきた人たちと、奇跡のように意気投合できることは、本当に素晴らしいことだと思う。いつの間にか二杯目のグラスを空にして笑う由里と、次は何を飲む? なんて優しく囁くユーイチさんの横顔を見ながら、心の底からそう思った。
 
 
 
 ユーイチさんの店でお酒をたくさん御馳走になって、ザル気質な私にしては酔ってふわふわした思考の中で、飛べてしまいそうなくらい軽やかな足取りで家路を目指した。ユーイチさんのお店で出るお酒は、安い居酒屋のとりあえずアルコールが入ってればオッケー、みたいなお酒とは全然違って、一口一口がずっしりと重かった。私は大衆酒場のチ―プなお酒も、コンビニで買って飲むほとんどジュースのようなお酒も好きだが、今日呑んだお酒はそういうものとは全然違った美味しさがあった。私は自分のことをもう大人だとばかり思っていたが、本当の大人はあんなに美味しいものを飲んでいるんだなあ……と妙に感心した。
 家に帰り、メイクを落としてシャワーを浴びて、部屋着に着替えると眠たくてたまらなくなってきた。翌日にお酒が残らないようしっかり水分をとって布団に飛び込むと、たちまち瞼が落ちてきて眠りについた。
 夢の中で私は霧深い森にいた。とんでもないくらい懐かしい匂いがして思わずホロリと泣いてしまうくらいだった。
 あ、これは夢だ、と直感でわかった。何故なら夢でなければ私が自分の足で森に立ち入るなんてことはないからだ。森の中は鬱蒼としていて、重々しい空気があった。まるで何かとんでもないものが眠っていて、それが目覚めるのを恐れているかのように。
 私は夢にしては妙にはっきりした意識の中で森を歩いた。気付くと私は五歳くらいの幼い子供になっていた。雨上がりの森の匂い。苔の生えた岩や歌うように鳴く鳥、虫の羽音、木漏れ日の暖かさ。そういうものが奇妙なほどリアルに感じられた。
「ねえ、こっちへおいで。ほら、もうこんなに藤の花が咲いてる。きれいね」
 その声を聞いた途端、私は全てを、いっそ鮮明すぎるくらいにはっきりと思いだした。それは母の声だった。
 母は父と喧嘩をするとよく私を外に連れ出した。母は森が好きだった。あおあおとした自然の中を歩くととても良い気持ちになれるのだとよく言っていた。
「ねえ、お母さんと一緒に行こうよ。お母さんの恋人はね、猫を飼っているの。ふわふわのやつ。お父さんみたいに猫アレルギーなんかじゃないんだから」
 その言葉に、もうどうにもならないくらいの悲しみややるせなさが溢れていることに気がついて、幼いながらに苦しくなったのを覚えている。本当は母だって猫なんてどうでもいいのだ、きっと。けれど母はもうどこにも戻れない人の顔をしていた。私は母の手をぎゅっと強く握った。
「お父さんとお母さんと、お母さんの恋人と私の四人では暮らせない?」
 私が言うと母は悲しそうな顔で笑った。とても残酷な質問だったと思う。母にとっても、私にとっても。
「ねえ、あなたのことが本当に可愛くてしょうがないの。食べちゃいたいくらいに。自分のことなんてどうでもいいくらい可愛いのよ。だからお母さんと行こうよ。なんだって買ってあげるから」
 母の冷たい手がそっと離れて、それから痛いくらいに強く抱きしめられた。甘くお酒の匂いがした。母はそれから、信じられないくらい大きな声でわんわんと泣いた。静かな森に、死んでしまいそうなくらいの悲しい泣き声だけが響いていた。
 母の涙は燃えるように熱かった。私は、このまま母と二人で森に住んだらいい、と思った。森の美しさや、母の暴力的なまでの悲しみの波がとても苦しかった。
「お母さん、本当はどこにも行きたくないの。けれどここにいるのも苦しいのよ。だから行かなくてはならないの。でも、あなたのことが、あなたのことだけが気がかりなの。ねえ、だから一緒にいようよ」
「うん、一緒にいよう」
 私たちは森のなかでしばらくそうして抱きしめあった。やがて泣き疲れて二人、ぐずぐずしながら家に帰った。そうだ、何故忘れていたのだろう。母は一度、恋人が出来て家を出て行こうとした。けれど出来なかった。母は父と離れることより、恋人と暮らすことより、私といることを選んだのだった。なんて可哀想なんだろう、と思った。あんなにどうしようもないくらい泣いていたのに、結局どこにも行けなかった母。今はどこにいるのだろう。
 
 
 目が覚めても時刻はまだ夜中の二時だった。起き上ると頬が湿っていたので驚いた。夢を見て泣くなんて初めてだった。
 窓を開けると夏特有の溺れそうなくらいの夜の匂いがたちこめた。冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、しばらく呆然と遠くに光る街頭の灯りを眺めた。
 母と暮らした十数年間のことがたちまち頭の中に溢れてきた。一緒に森を歩いたこと。父と離婚をしてからは、母がパートで働くスーパーに学校帰り立ち寄って、夕飯の材料を買うついでにお菓子を買ってもらったこと。スーパーのださいあずき色の制服が全然似合っていなかったこと。それを自分でも気にしていたこと。私の前では決してお酒を飲もうとしないくせに、酔うとしくしく泣きながら、眠る私の頭を撫でたこと。そういう弱さがあるくせに、変なところで意地っ張りで、私と言い合いになっても絶対に折れなかったこと。
 そういうことの一つ一つが、まるで強烈なパンチのように私を襲って揺さぶった。私は自分がこんなにも鮮明に母のことを思い出したことにただ困惑した。
 困惑。
 随分近いうちに使った言葉だなあ、なんて思いつつため息をつく。由里とユーイチさんがいた数時間前に戻りたかった。あの空間には安定感があった。何か大きなものに呑みこまれるなんてことは絶対にない、と言えるような、とても清潔で眩しいくらいの安定感。 
 このままここで一人でいてはまずい、と思って、私は立ち上がり、簡単に髪をゆわいてスッピンを隠すために眼鏡をかけ、ポケットに千円札をつっこんで外に出た。コンビニに行く時くらいしか履かないぶかぶかのサンダルをひっかけて、妙に足音を響かせながら街を歩く。
 夜の街は昼間とまったく違う顔をする。人のいない交差点で、それでもしっかりと点滅を続ける信号機をぼんやりと眺めながらそう思った。私は真夜中の交差点というものがとても好きだ。ずっと眺めていると、大げさに聞こえるかもしれないが、命を救われたような気持ちになる。
 すん、と鼻をならすと蒸したアスファルトの匂いが鼻をかすめた。そうだ、確か駅前にラーメン屋さんがあったよな、三時頃までやってるやつ、と急に思いだして、思いだしたらお腹が鳴ったので、自分のその単純さに笑いつつ駅を目指した。
 ラーメン屋の前について看板を眺めていると不意に後ろから声がした。
「こんな時間に、そんなもの食べていたら太るよ」
「げ、律」
「げって何」
 律はいつものぱりっとしたシャツを着ておらず、薄手のTシャツにスウェットのようなズボンを履いていた。少し眠そうに、けれどとても真剣に私の顔を見ていた。
 夜中の二時過ぎ。ラーメン屋の暖簾の下で真剣な顔の小学生に声をかけられるなんてもう一生ないだろうなあ、と思った。
「どうしたの、こんな時間に。小学生が一人で出歩いていい時間じゃないでしょう」
 言いながら、なんて白々しい台詞だろうと思った。
「うん。でも緑ちゃんの夢をみたから」
「私の?」
「ラーメン食べるの? 俺も食べたい」
「調子いいなあ。生憎今、緑ちゃんは千円しか持ってないよ」
「醤油ラーメン五百円だって。これなら二人とも食べられるね」
「調子いいなあ!」
 言いながら、律に会えたことでほっとしている自分がいた。知り合いと話すと自分のペースが戻ってくる。
 律が、何故私がラーメン屋にくることがわかったのかとか、そういうことはもはや気にならなくなっていた。そもそもホームセンターに来た時も、バイト先に来た時も彼は誰に何を聞くわけでもなく真っすぐ私のところへ来たのだ。
 二人でラーメン屋の暖簾をくぐると、感じのよさそうな男性の店員さんが空いているお席へどうぞ、とにこやかに声をかけてきた。私たちの他に、派手な服装の女の人二人組と、疲れた顔をしたおじさん一人がいた。私たちはカウンター席に腰掛けて醤油ラーメンを頼んだ。本当はとんこつが食べたかったが仕方ない。
 ラーメンが来るのを待っている間、いっそ体に悪いんじゃないかってくらい冷えたお冷を口につけた。律は眠いのかしばらく何も話さなかった。私も何も話さなかった。女性二人組が「ごちそうさまでーす」と明るく言いながら会計をして出て行った。続けておじさんも店を出た。閉店間際の店の中は妙に静かだった。
 私たちは黙々とラーメンを食べた。夜中に食べるカロリーの高いものは信じられないくらい美味しい。会計の際、消費税をいれると料金が足りないことに気付き慌てていると、店員のお兄さんは笑いながら「いいですよ、最後のお客さんだし、オマケしときます」と言ってくれた。それだけで、ああまた来よう、と思った。この店はこうやって続いてきたんだろうなあ……なんて考えてしまうくらい、真夜中のラーメン屋で感じ良く笑うお兄さん、というのは魅力的に見えた。
 膨れたお腹を撫でながら夜道を歩き、律を家まで届ける道すがら、おいしかったねえ、なんてのんびり言うと、それまで静かだった彼がおもむろに口を開いた。
「あのさ、俺、大きな杉の木の下にいたんだ」
 律は、夢うつつ、というような顔で言った。
「緑ちゃんの思い入れのある森の中だった。それで、小さい緑ちゃんと綺麗な女の人が歩いていた。俺は最初、緑ちゃんが連れていかれちゃうって思ったんだ。でもそうじゃなかった。これは緑ちゃんの思い出だってわかった。俺、見ちゃいけないって思ったけど、見てしまったんだ。ごめん。それで、小さい緑ちゃんは泣いてた。女の人も泣いていた。目が覚めた時、あ、緑ちゃんも今同じタイミングで目を覚ましたってわかった。きっと外に出るだろうなってことも、明るい場所に来るだろうなってこともわかった。今までで一番わかった。ものすごく冴えてたんだ、俺。それで、緑ちゃんに謝らなきゃって思った」
 律は俯いていた。私は、私と律を結び付けるものは一体なんなのだろうと本気で不思議に思った。実は生き別れの兄弟だったとか、そういうオチがあったりするのだろうか。いや、それにしてはあまりに似ていないか。
「気にしなくていいよ。私、律に会えて嬉しかったし、正直知り合いに会えてほっとした。こんな時間に出歩くのは危ないからあんまりしてほしくないけどね」
「緑ちゃんは優しいね」
「いい加減なだけだよ。あのね、律。きっと気になってると思うから言うけど、あの女の人は私のお母さんで、私が中学生の時に死んでしまったのよ、あの森のなかで」
 律は「うん」と頷いた。うん、ってなんだろう、と思ったが聞かなかった。
「もう自分のなかでは折り合いをつけたと思っていたけど、案外そうでもなかったみたい。なんだか凄く恋しくなっちゃったなあ。母が、というより母が居たあの頃の生活がさー」
「うん」
 律は俯いて泣いていた。私はぎょっとして少し屈みこみ「ちょっと、なんで泣くのよ」と聞いた。律は首を振って「わかんない」と小さな子供のように言った。
 真夜中、人さまの子供を泣かせてしまった。警察に見られたら一発で終わりだな、と思った。私のそんな心配をよそに、律はすぐに涙をぬぐい、いつも通りの妙に大人びた表情で「前までは嫌だって思ってたけど、今は早く大人になりたい」と言った。
「どうして?」
「そうしたら、何もかも自分で決められる。それに、今みたいな状況で、俺が送られるんじゃなくてさ、緑ちゃんを送ってあげられるようになる」
「なにそれ。可愛いこというじゃない」
 ただでさえ感じやすいこの子供に、変なことを言ってしまっただろうか、と心配になったが、律がいつも通りのトーンで「電気屋さんに行く約束、忘れないでね」なんて言うものだからほっとした。
「ああ、そうそう、君に会いたいっていう大人が二人いるから、今度会わせてあげるね」
「なに? どういうこと?」
「会えばわかるよ」
 頭上で燃えるように赤く火星が光っていた。人も動物も、死んだらどこへ行くのだろう。
 
 
 
 それから一カ月ほど、律は私の前に姿を現さなくなった。元々しょっちゅう会うのが不自然な間柄だっただけに、来なくなったことについてはまあ当然かなと思ったが、あれだけ神出鬼没にちょこまかと動き回っていた存在がいなくなるのは寂しいもんだな、と感じた。
 その日私は律と来るはずだった電気屋さんに一人で足を運び、店員さんにおススメされた小さめのテレビを一台買って、休憩がてら喫茶店でアイスティーを飲んでいた。もしかして電気屋に行けば律がひょっこり現れるかもしれない、という私の淡い期待は見事に外れた。
 平日の昼間、ほとんど客のいない喫茶店にはほっとするほど穏やかな時間が流れている。気ままに本を読んだり、ただぼんやりしたりしている人たちは例え知り合いじゃなくても傍にいて心地よいものがある。
 買うわけではないけれど花屋の前を通る時に歩調を緩める人や、鳥が鳴いているのを見かけてイヤフォンを外す人、そういうふとした瞬間に柔軟に生きられる人が私は好きだ。そういう人を見かけると、いいなあ、と思う。知り合いじゃなくても元気を貰えることがある。
「あれ? 緑ちゃんじゃない?」
 なんて物思いにふけっていたら突然声をかけられて驚いた。顔を上げると穏やかな笑みを浮かべた女性が立っていた。父の再婚相手の茜さんだった。
「やっぱり緑ちゃんだ! うわー!」
「茜さん! お久しぶりです」
「うん、久しぶり! あ、ごめん、ちょっと待っててね」
 茜さんは急いでカウンターへ向かって「ケーキセットと、あとこのモンブラン単品でひとつお願いします」とテキパキ注文をして数分後に戻ってきた。
「はい、緑ちゃんモンブラン好きでしょう。あげる」
「え、ありがとうございます」
 茜さんはにこにこと人懐こい笑みを浮かべながら、当然のように私の正面に座って来た。人から拒絶というものをあまりされたことがない人の持つ遠慮のなさだった。私は茜さんのこういう大らかさのようなものが好きだ。安っぽい言葉に聞こえるかもしれないが、陽だまりのような人だと思う。
「もう二年近く会ってなかったんじゃない? 緑ちゃん、全然連絡してくれないしさー」
「すみません、でもお元気そうで良かったです」
 茜さんはにこにこしながらケーキを食べていた。本当においしそうに食べるものだから、私もつられてフォークをすすめた。
 茜さんはまだ三十歳そこそこの若くて綺麗な父の二番目の妻だ。はじめて父が茜さんを連れて私と母の住むアパートに来た時のことをよく覚えている。茜さんはとても堂々としていた。かといって、自分の旦那の元奥さんと子供に対して敵愾心のようなものを見せるわけでもなく、本当にとても感じ良く微笑んでいた。
 私は茜さんのその堂々とした笑顔を見たとき、あ、この人のことは嫌いになれないな、と思った。それは母も同じだったようで、父と茜さんが帰った後しみじみと「もっといろんな感情が渦巻くと思っていたけれど、あの柔軟剤みたいな笑顔を見ていたら力が抜けちゃったわよ」と本当に脱力した様子で言っていた。
 母が亡くなってからしばらくの間は父と茜さんの家に世話になっていたが、その時茜さんは私に母親ぶるようなことを決してしなかった。むしろ同級生のような気さくさで話しかけてきた。そのことは当時の私にとって本当にありがたいことだった。茜さんは、私が学校をさぼって公園でジュースを飲んでいるのを見かけても「うわあ! 緑ちゃん、いけないんだー!」と言いながら横で缶ビールを飲みだすし、たまらない気持ちになって夜中に家を抜け出し散歩しても「ついでに牛乳買ってきてー」とメールしてくるような人だった。茜さんはとても良い意味で義理の母親という言葉が似合わな過ぎていた。
「最近はどう? まだあの和菓子屋さんでバイトしているの?」
「はい、していますよ」
「いいねえ。ああそうだ、あの人緑ちゃんのことすごく気にしているみたいよ。私が、緑ちゃんは変に肝が据わってるけど、無茶なことだけは絶対にしない賢い子だから大丈夫よ、って言っても全然聞かないの。便りがないのは良い便り、って言葉知らないのかしら」
「父が、私のことを気にしているんですか?」
「そうよー。あの人ね、最近年をとったからか妙に気が弱くなってきて、あなたと、あなたのお母さんと暮らしていた時のことをよく話すの。でもね、ずるいのよ。あなたは悪くないわって言われるのを待っている話し方をするの。私は私自身が一番多感な時期に両親が離婚していたから、緑ちゃんが抱えたであろう憂鬱とかなんとなくわかるし、だから勝手に弱って勝手に許されようとする大人ってずるいなあ、ってすごく思ったわ。ただ、昔あなたたち家族がどういう形で暮らしていたのかはわからないけれど、今のあの人は本当にあなたのことを気にしているわ。そのことについて、だから受け止めてあげてとか理解してほしいとか一切言うつもりはないけれど、でもそういう事実があるってことだけはわかってね。それで、できたら私とだけは、たまにはお茶してね」
 私は茜さんのそのまっさらな言葉に胸を打たれて一瞬喉がつまった。茜さんがこんなに私のことを考えてくれていることに驚いたし、なによりその言葉の重みというか、エネルギーの濃さのようなものが、一朝一夕で出来るものではないと確信できるものだったので、そのことに多少たじろいだ。
「茜さん、つかぬことをお聞きしますが」
「うん、どうぞどうぞ」
「どうして父みたいな人と結婚したんですか? 娘の私が言うのもなんですけど、中々難しい人だと思うんですけど」
「うーん、なんでだろう。あの人はさ、確かに難しくて、どころかいっそ偏屈なくらいだと思うんだけど、傍にいる間に情が湧いてきちゃったっていうか」
「そんな犬猫みたいな……」
「あはは! でもどこの夫婦もそんなもんなんじゃないかなあ」
 茜さんはケーキを最後の一口まできれいに食べきって、ホットコーヒーの入ったカップに口をつけた。
「それでね、これはいつ緑ちゃんに言おうかってずっと悩んでいたんだけど、私今お腹に赤ちゃんがいるの」
 私は驚いて茜さんの目を見た。どこか誇らしげな顔で「ふっふっふ」と笑う茜さんはなんだか女子高生みたいで、ちっとも母親らしくなくて奇妙に見えた。
「おめでとうございます! うわあ、今どれくれいなんですか?」
「ありがとう。緑ちゃんなら喜んでくれるってわかってはいたけれど、やっぱりちょっと緊張したなあ。今はね、二か月くらいよ」
 ぽんぽん、とお腹を撫でる仕草が本当に優しくて、私は何故か泣きそうになってしまった。悟られないように笑顔を作って「結婚してもうずいぶん経ちますもんねえ」と言った。
「そうそう。ねえ、緑ちゃん、女の子と男の子、どっちだったら嬉しい?」
「どっちでも嬉しいですよ。でも、女の子だったら一緒に買い物に行ったり、年頃になったら茜さんに言えない恋の悩みを聞いてあげたりしたいなあ。うん、女の子がいいなあ」
「オッケー! じゃあきっと女の子を産んでみせるわ!」
「気合でどうにかなるもんなんですか?」
「わからないけど、でも念じることって大事じゃない? あ、でもさ、男の子だったとしても、かわいがってね」
「そりゃもちろん。うわあ、考えてみたら二十も年が離れた妹か弟ができるのかあ……」
「生まれてくる子、きっととんでもない甘えたになるわね。年の離れた家族に囲まれて、でれでれに甘やかされて」
 茜さんから生まれる子供だからきっと、素直で優しい良い子に育つだろうなと思った。そう思えることは幸せなことだった。
「こんなに大事なことなのに、ケーキ食べながら打ち明けたなんて知ったら、あの人きっと頭抱えちゃうわね。緑ちゃん、次あの人と会う時はさ、私はものすごく深刻な顔で、飲み物も飲めないくらい緊張しながら打ち明けてきたって言ってね」
 私はそのあまりの父好みのシチュエーションになんだか笑えてきた。そうか、茜さんは父と結婚したのだ、とその時はじめて妙にしっくりきた。
 父と茜さんも、生まれてくる妹か弟も、戸籍上は確かに私の家族だが、でもどこか遠いな、と思った。そのことに対して寂しいとか、あるいは疎外感のようなものをまったく感じないといったら嘘になるかもしれないが、でもそのへんてこな距離感の家族、いいじゃん、と思っている自分がいた。
 私は生まれてくる妹か弟を可愛がってやれる自信があるし、無責任に甘やかすだけじゃなく時には正してやれる自信もある。他人に対してはやろうとしても難しいようなことを、当たり前のようにしてやれる自信がある。それだけで充分な気がした。
「ねえ緑ちゃん、あなたさえよければ今度三人で食事をしましょう。ううん、むしろ三人じゃなくてもいい。緑ちゃんの友達を連れてきてもいいし、もしいるなら恋人を連れてきてもいい。緑ちゃんが自分らしく話せる状況を作って、それで話をしましょう。もし嫌なら断ってくれてかまわないわ。だって私ならきっとちょっと躊躇しちゃうもの」
「いえ、全然嫌じゃないですよ。それに、私も父とはきちんと話がしたいと思っていたので」
「本当? それならうんと高くて美味しいものを食べましょう。もちろんあの人の驕りで」
 私たちはそれからしばらくなんとでもないような話をして、とても穏やかな気持ちで別れた。茜さんは本当に名残惜しそうに「本当にちゃんとこまめに連絡をちょうだいね。それに、食事をするって話も忘れないでね」と真剣な顔をして言った。
 すっかり茜色に染まる道を歩きながら、私はなんとなく母の顔を思い浮かべた。薄ぐらい森を一人で歩く細い背中。そういえば、母とはあまり外食をしなかったな、とふと思った。
 ほんの少し前のことなのに、もう随分昔のことのように思えることがたくさんある。良いことも悪いこともごちゃごちゃになって、思い出と言う言葉に収束してしまう。生きていくうえで大切なことや、忘れたくなかったこと、きっとたくさんあったはずなのに、少しずつ落としていく。けれどそれでいいのだ、と思う。そういう、忘れたはずの大切なことを、ふとした時に思い出すと力が湧いてくる。人生を道に例えると、自分がどこを歩いているのかわからなくなったときに、ふと振り向くと何かが落ちている。とても遠くに。もう絶対に戻れないくらいの距離の場所にある。そういうことは、私をたまにたまらないくらい泣きたくさせるけれど、けれど自分がしっかり歩いてきた証拠だとも思える。
 燃えるように赤い夕焼けに染められて、街は炎をあげているように見えた。自分の影があまりに色濃く、妖怪のように見えて不気味だった。
 その時、どこかで嗅いだことのあるような懐かしい匂いが鼻をかすめた。顔をあげると道の先に誰かが立っていた。夕日に照らされて光るその影は、影はひらひらと手を振って向こうへ歩いて行く。
「待って」
 と思わず口に出していた。自分の声に焦りが含まれていることに気が付いて驚いた。
 気が付くと日が沈んであたりはすっかり暗くなり、懐かしいようなあの匂いももうしなくなっていた。消えた、という言葉が一番しっくりくるような、そんな喪失感があった。
 ああ、嫌だな、と思った。誰かがまたいなくなってしまった。母がいなくなった時と同じだ。目に見えない、それでいてどうしようもないくらいのエネルギーを持つ何かが近しい人を連れて行った。
 翌日の朝、和菓子屋の旦那さんから奥さんの訃報を聞いた時、ああ、あの時鼻をかすめた懐かしいような匂いは奥さんの割烹着の匂いだったのか、と思った。
「本当に急だったんだよ。水羊羹の入った番重に崩れ落ちたんだ」
 電話越しで淡々と語る旦那さんの声を聞きながら、私はたくさんの水羊羹が空中に舞う中、静かに倒れる奥さんの小さな背中を思い浮かべた。なんだか、とても美しい絵画のような光景に思える。
「緑ちゃん、そういうわけで悪いけどしばらく店は休みにするから、よろしくね」
「そうですか……わかりました。あの、何かお手伝いできることはありますか?」
「いや、娘と息子がきてくれて、ほとんどやってくれたから大丈夫だよ。ありがとうね。緑ちゃん。こういうことを今言うのも卑怯かもしれないけれど、彼女は君のことを本当の娘みたいに思っていたよ。もちろん僕もだけれど」
 もう勘弁してくれ、と思った。普段はあまりしゃべらない旦那さんが、奥さんがいなくなって、動揺からか、それともしっかりしなくてはいけないという責任感のようなものからか、とにかく饒舌に話はじめたことがなんだかとてもリアルで苦しかった。旦那さんの話し方は、悲しみに無理やりふたをしている人特有の、夜露みたいな落ち着きがあった。
「私も、奥さんのことも、もちろん旦那さんのことも自分の両親みたいに大切に思っていますよ。あの、きっとお店に和菓子とか出しっぱなしでしょうし、私今日片付けに行きますね。それで、戸締りとかもちゃんとして、しばらくお休みしますって張り紙も書いておきます。旦那さんの身の回りのこととか、それから何よりご自身の気持ちが落ち着くまで、どれだけ休まれてもいいようにしておきます。だからどうか、今はご家族で寄り添っていてくださいね」
 私が言うと、電話先で息をのむような気配がした後、押し殺したような声で「うん、ありがとう」と返事が返ってきた。
 電話を切った後、私はいつもより気合をいれて立ち上がった。そうしなえればいけない気がした。コップ一杯の麦茶を飲んで、パンと卵を焼いてもりもり食べた。
 自分の手のひらをふと見つめてみる。閉店後の和菓子屋で、切れかかった蛍光灯に照らされながら、売れ残りのきんつばを頬張る奥さんの姿を思い出した。あのときにはもう既に、そういう流れのようなものができてしまっていたのだ、きっと。
 いつもより少し早めに家を出ると小学生の登校班の波に遭遇した。ぼんやり眺めていると見知った顔と目があった。一か月ぶりに姿を見た律はなんだかやつれたように見えた。
 登校班、似合わないなあ、と思った。一人だけちぐはぐに切って貼られたようだ。律は私の目をしばらく見つめて、最後に一度頷いた後、本当に重そうな足取りで学校へ向かって行った。
 平日の朝、清潔な空気の中で、いつもとは違う気持ちで和菓子屋の裏戸を開けた。床に水羊羹が転がったままだった。賞味期限が今日までで、本当なら昨日のうちに売り切らなければいけなかった生菓子たちを処分しながら、私は、もうここに奥さんが立つことはないんだな、と思った。閉店後にお茶をいれて売れ残りの和菓子をつまみながら世間話をすることも。私は母親を二度失った気分になった。どうしても涙を流すのが嫌だったので、あまり感傷にひたらないよう努めて片付けを進めた。
 ひと段落して、埃がきらきらと陽の光に照らされて舞う店のなかで、それでも気にせずお茶をいれ、無事だった水羊羹を一つ皿に乗せた。
 ぼうっとしながら眺めた店の中は奇妙なくらいに美しく、いっそ神々しいと言ってもいいくらいだった。朝の十時半、奥さんお手製の、既にぺしゃんこにつぶれた座布団に座りながら、しばらく呆然とした。外には白々しいくらいの快晴が広がっていた。店の中は死の匂いが充満していた。奥さんが着ていた割烹着や使っていた茶碗を眺めながら私は、物も死ぬのだ、と思った。持ち主が死んで、物や道具に所有者がいなくなると、そのすべてはひとしく一度死ぬ。妙に余所余所しい店内でぼんやりとそんなことを考えた。
 遅かれ早かれ人は死ぬ。行きつく先は皆同じなのに、その道すがら色々なものを拾おうとする。何かを育もうとする。そうして何かを残したり、残さなかったりして消えていく。
 私は夕焼けに染まる真っ赤な道の先で、確かに見えた奥さんの影のことを考えた。あの時、もし走って追いかけていたら話ができただろうか。顔が見られていただろうか。
 そういうことばかりを考えながら店の片づけを再開して、気が付くと時計の針は十五時を指していた。昼食を食べていないことに気が付くと、それまでは平気だったのに急にお腹が空いてきた。単純だなあ、と思った。
 立ち上がり、しばらく訪れることはないであろう店の中を見回すと、まだ小さなお孫さんの写真が目に付いた。綺麗な着物を着てにこにこと可愛く微笑む女の子。この子がどうか、まだ幼く、悲しいという感情を知らずにいるといいな、と思った。
 店に鍵をかけて外に出るとあまりの暑さに立ちくらみがした。私は、しばらく呆然と立ちつくし、目の前を横切る人の波を眺めた。自分がいつか死ぬなんて夢にも思っていなさそうな人たちの横顔。いつもは私もああいう顔をしているのだ。身近な人がいなくなると、妙に死が近しく感じ、平気な顔して生活をすることが難しくなる。しばらくすると慣れてきて、また同じように良い意味で鈍く、柔軟に生きて行くことができる。そういうことの繰り返しで、いつか自分の番がくる。
「緑ちゃん」
 蚊の鳴くような小さな声が聞こえて、はっとして声のした方を見ると、落ち込んだような顔をした律が私を見上げていた。
「うわ、ランドセル似合わないねー」
 そのあまりのちぐはぐさに開口一番思ったことを口にすると、律はぱちぱちと目を瞬かせた後、「俺もそう思う」と少し笑った。安心したような笑みだった。
「緑ちゃん、すごいぼーっとしていたよ。大丈夫?」
「うん、大丈夫よ。久しぶり」
「うん、久しぶり」
 律は年相応に笑って言った。けれどやはり、一か月前よりもどこか元気がないように見える。私はユーイチさんと由里のことを思い出した。私自身、二人に会ってあの穏やかなパワーというか、清潔感のようなものに触れたかったので、律を誘ってみることにした。
「ねえ律、少し前にさ、あなたに会わせたい人たちがいるって言ったの、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
「その人たちのところに、今から行かない?」
 律は少し考えるような顔をした。気が重そうに見える。どころか、え、嫌だな、というような顔にさえ見えた。
「嫌なら無理しなくていいよ。ちゃんと言いなね」
「うーん。嫌っていうか……新しい人に会うのって、俺、すごくエネルギーがいるんだ。……でも、行く。行きたい」
「そう、わかった。あのさ、そんなに遅くまで連れ歩きはしないけど、でも一応お母さんに連絡だけはしておきな」
「なんて言うの?」
「うーん……友達と遊ぶから遅くなる、かな」
「友達。いいね、それ」
「嘘はついていないでしょう」
 律は愉快そうに笑って、似合わないランドセルの中から携帯電話を取り出した。律が母親に電話をしている間、私は由里とユーイチさんに今からこの間話した子をつれていきますと短くメッセージを送った。
 私たちは二人で夏の暑い日差しのなか、無言で歩いた。ユーイチさんのお店まではバスを使わなければ行けなかったので、クーラーのきいた車内で並んで座った。窓の外に流れる街並みを横目で一度見てから、律は何かを伝えたいような、けれど伝えるにはまだ力が足りない、というもどかしそうな顔をして「あのさ」と言った。
「あの和菓子屋のおばあさん、俺のところにも来てくれたよ、昨日」
「え……ああ、そう」
「すごく優しい光だった。俺、それであのおばあさんが俺の中にある重たいものを、半分くらい持っていってくれたのがわかった」
「え?」
 私は驚いて律の顔をまじまじ見た。どこか眠たそうだった。
「俺のほうに寄ってきて、それから、こんなものを持っているなんて、とでも言うように驚いた気配がして、それで、掬うようなかんじで両手が伸びてきて、確かに何かが俺のなかから消えた。半分くらい。凄く体が軽くなったんだ」
「そっか……奥さんらしいなあ」
「緑ちゃん、あのおばあさん、大丈夫かな。あんなもの持って行ってしまって、ちゃんとあの世にいけるかな。天国とかそういうものが、もしあればの話だけど」
 律は本当に不安そうに私の顔を見た。私はなんだか圧倒されてしまって、一瞬喉がつまった。あ、ここでミスをしちゃいけないな、と思った。ここでへんてこなことを言ってしまったらきっと、律はこの先ずっと、不安を抱えて過ごすことになる。けれどいざ何かを言おうとしても、呑気な考えしか浮かばなかった。
「うーん……奥さんはさ、けっこう後先考えずに行動しちゃうタイプの、お茶目な人だったから、律の持っていた何かを自分が持って行くことで、自分がどうなるとか、多分何も考えていなかったと思う。でも、あの人は律の言うように、本当に優しくて暖かい人だから。そんな人がちゃんといけないような場所なら、天国なんて大したもんじゃないなって思わない?」
 これで良かっただろうか、と不安になったが、律が俯いて「うん、」と一度頷いた後、
「本当にそうだね」
 としみじみ言うものだから、まあ良かったのかな、と思った。言葉って難しい。伝えたいことがいくつもあるのに、半分も伝わらないようなことが多い。けれどだからといって、伝えることを放棄してはいけないな、とも思う。
 そうこうしている間にバスは桜木町駅について、私たちは駅前の大きな広場で伸びをした。港町ということもあって頬を撫でる風はどこか湿っている。
「さあ行くよ」
「え、あ、うん。そっち側なの?」
 私たちは人で賑わう広場から逆方面の飲み屋街を目指して歩いた。まだ夕方ということもあり人は少ない。律は落ち着かなさそうにきょろきょろとしていた。私は、暗くなる前にこの街を出なければいけないなあ、と思った。律のぴかぴかのランドセルは毒々しい雰囲気の飲み屋街にちっとも似合わず浮いていた。
 ユーイチさんの店に着き、木でできた扉をノックするとしばらくして「開いてるよー」と声がした。扉を開くとユーイチさんがグラスを磨いて笑っていた。
「いらっしゃい。緑ちゃん、一か月ぶりくらいだね」
「はい。すみません、急にお邪魔してしまって」
「いや、いいんだよ。その子が例の小学生?」
 律は少し躊躇うように「律です、はじめまして」と頭を下げた。
「うん、はじめまして。君は、緑ちゃんのお友達なの?」
「え? あ……はい」
「奇偶だね! 俺も緑ちゃんの友達なんだ」
 そう言って笑うユーイチさんは本当に楽しそうだった。律が圧倒されて困っているのがわかったので、私は「とりあえず座ろうか」と促してカウンターに座らせた。
「二人とも、なに飲む? 緑ちゃんはお酒にする?」
「いえ、今日は大丈夫です。ジュースはありますか?」
「あるよー。律くんは何が良い? なんでもあるよ」
「えっと……」
「じゃあ、オレンジジュース二つください」
 私が言うと、ユーイチさんは「はい、かしこまりました」と言って足元の冷蔵庫からジュースを取り出してコップにいれた。ストローもつけてくれた。
 私たちの間に奇妙な沈黙のようなものが流れた。律は、ユーイチさんの正体を見極めるように目を凝らしていた。
「君のことは、緑ちゃんから少し聞いているよ」
「えっ……そうですか」
「うん、勘が鋭い子だって。それで、緑ちゃんが君のことを気にかけているみたいだったから、それならここへ連れておいでよって言ったんだ」
「あの……あなたは、なんだか、不思議な人ですね。俺、あなたみたいな人はじめて会いました。なんていうか……うーん、上手く言えないけれど」
 律はきょろきょろとお店を見回して、それからユーイチさんの方に向き直って「ここは、あなたのお店なんですか?」と訊いた。
「うん、そうだよ。気まぐれでしか営業してないけどね」
「あの、俺、少し変なんです。これも、上手く言えないけれど、何か感じ取ってはいけないものの気配みたいなのを感じられるし、そういうものに呑みこまれそうになることがある。それに、変に勘が鋭くて、知っちゃいけないなってこととか、勝手に頭に浮かんだりする。あの、あなたはもしかして、普段は全然ここにはいないんじゃないですか? ここ数カ月、たまたま居るだけで、決められた場所に居ることはあまりない。だってあなたからは色んな匂いがするし、なんていうか……」
「うん、いいよ、ゆっくりで」
 律がいっそ混乱したような口調でまくしたてるのを、ユーイチさんは穏やかに構えて聞いていた。父と子みたいだな、と思った。私は、今は自分が介入するべきではないし、二人の間で何か大きなものが繋がろうとしているという感じがしたので、黙って聞いていることにした。
「あの、あなたはどこかとても寒い場所の湖に何かを捨てましたか? それで、ほんの少しそれが気がかりで、でも拾いに行ったら自分がダメになると思っている。怖いとかじゃなくて、多分いっそ死んでしまうくらい密度の濃い何かを持っていて、自分では抱えきれないってわかっているから、わかっているからこそ捨てられた」
「うん、そうだね」
 律ははっとして顔を上げて、まずユーイチさんの目を見た。それから私に向かって、助けてほしいというような顔をした。律がこんな顔を見せたのははじめてだった。いつも、何か抱えきれないようなことを話すときでも、決して人にそれを押し付けようとはしてこない。けれど律は今、確かに私に共有して欲しがった。そういう甘さのようなものを初めて見せた。
「君は本当に鋭い子だね、それはもう個性だからどうしようもないと思うし、捨てようとしても捨てられることはきっとない。向き合っていくしかないんだよ」
「どうすればいいですか? 俺、どうにかしたいんです」
「そう思うことは立派なことだよ。諦めて受け入れすぎたり、逆に悪用してやろうって考える人も、世の中にはいるからね。あのさ、けれど君、今なんだかすごくちぐはぐじゃない? もしかして、持っていたものの何割か、誰かに渡した?」
 ユーイチさんがじっと律を見て、それから私に向き合い「もしかして緑ちゃん?」というものだから慌てて首を降った。
「私には二人みたいにスピリチュアルなパワーはありませんよ」
「どうかなあ。君は結構、スピリチュアルな娘だと思うけど」
 律は黙って俯いていた。苛立っているようにも見えた。
「ねえ律くん、もしも君が本当に辛いのなら、俺と一緒に旅行に行ってみる? 解決してあげられるかはわからないけれど、でも俺はそうやって鎮め方を知ったからね。世の中の色んなところに、自分の分身をおいてくるんだ。神社に絵馬を書いたり、砂浜に足跡をつけたり、もっといえばその土地でお金を使ったりするだけでいい。歩いた場所をあちこちに作ると、自分の中にあるエネルギーみたいなものもそれぞれ好きな場所にいってくれる。頭の中で、訪れた場所を思い浮かべるだけで、せめて心だけでも一か所に留まらないでいられる。案外大事なんだよ、知見を広げることって」
 ユーイチさんの提案は夢物語のように聞こえた。小学生の律を、見ず知らずの男性に託す親がどこにいるだろう。まして律の母親の厳格そうな立ち振る舞いを知っている私は、きっと難しいだろうな、と思った。
 子供って本当に不自由だ。その不自由さが本当に嫌で、私はかなりスレた子供だったと思う。けれどどうか、律にはスレてもいいが大人を嫌いになってはほしくない。一度大人という生き物に不信感を覚えると、それを拭うのは中々難しい。大人になるのが怖くなる。嫌で嫌でたまらなくなる。そんな憂鬱を抱えて過ごしてほしくない。
「俺、行きたいです、本当に」
 律が弱弱しく言うと、ユーイチさんは優しく笑って、
「ようし、じゃあ行こうか、本当に!」
 と言った。心の底から実現してやるぞ、という意気込みがひしひしと伝わってくる言い方だった。
「とは言え、俺と二人じゃ心許ないだろう。緑ちゃんも来ない?」
「え、私もですか?」
「うん。それに、由里ちゃんも誘おう。うわあ、なんだか変なメンバーだなあ。小説家と、大学生と、フリーターと、小学生」
「うわ、本当に変なメンバー」
 私が言うと、ユーイチさんは愉快そうに笑った。
「緑ちゃんも行こうよ。緑ちゃん、お母さんと面識あるでしょう。緑ちゃんが言えばきっと、許してくれるよ」
「えー。なんだか、律のお母さんを騙すようで悪いなあ。こんな百鬼夜行みたいな人たちと旅行に行くなんて」
「いいじゃん、俺、行きたい。美術館とか、博物館とかよりよっぽど」
 律の声に期待が含まれていて、子供にそんな風にねだられて、叶えてあげたいと思わない大人はいないよなあ、と思いながら、「わかったよ、今度説得にいってあげる」と腹を括って私は言った。
「ねえ、由里さんって誰? その人が、俺に会いたがってるって言ってたもう一人の人?」
「うん、そうよ。私の中学校からの友達で、ユーイチさんの恋人」
「緑ちゃんの友達で、ユーイチさんの恋人……」
「今、どんな変な人なんだろうって思ったでしょう」
 私が言うと、律は何も言わずに少し笑った。
 私たちはそれから三十分くらい話をして、陽が落ちる前に店を出た。
「由里ちゃん、今からくるって。待たなくていいの?」
「こんな繁華街にランドセル背負った小学生連れて歩けませんよ。律、今度はランドセルおいてこようね」
 私が言うと律は「そういう問題じゃないでしょ」と言いながらも笑った。よく笑うようになったなあ、と思った。出会った当初よりも少し明るくなった気がする。それはとても良いことだ。
 私たちは来た道をなぞるように帰路に着き、ぽつぽつとなんとでもないような話をした。
「あのさ、律、君この一カ月ちゃんとご飯食べてた?」
「なに、どうして?」
「なんだか痩せたみたいに見えたから」
「ご飯は食べていたけど、なんか、胸がざわざわしてて、頭痛が酷かったんだ、ずっと。だからあんまり外に出られなくて……あ! そうだ、緑ちゃん、テレビ買っちゃったでしょ」
「当たり前みたいに言い当ててくるねえ。うん、全然来ないから、もういいのかと思って買っちゃった」
「酷いなあ。買いに行くの、楽しみにしていたのに」
 道の端で野良猫が寝そべって眠たそうにしていた。私たちが近寄ると薄く目を開け、立ち上がりはしないが警戒の眼差しを向けてくる。
 時計を見るともうすぐ十八時になろうとしていた。まだ明るい夏の夜、空に浮かぶ大きな雲が妙に存在感を示している。部活帰りの中学生や、シャツを腕まくりするおじさん、軽装のおばあさんと、連れられた犬。そういうなんとでもないような人たちの合間をすり抜けて私たちは歩いた。
「ねえ緑ちゃん、俺も大きくなったらお店を開きたいな」
「店って、どんな?」
「なんでもいいんだ。自分のお店を持ちたいだけだから」
「うーん、目的がなく店を持つ人なんて、世の中にはあんまりいないんじゃないかなあ。でも、いいかもね。自分のフィールドで、全部自分の責任で、自分のやりたいように毎日過ごせたら、素敵かもね」
「あの和菓子屋さんも、ユーイチさんのお店も、俺、本当に魅力的に見えたんだ。俺も、ああいうのがやりたいな」
 律が、自分が大人になった時のことを前向きに語っていることが、本当にありがたいことのように思えた。思えば私は小学生の時、やりたいこととか憧れているものとか、なかったな、と自分に重ねてしみじみと考える。いや、もしかしてあったのかもしれない、忘れているだけで。
「私もお店が持ちたいなあ。なんかさ、自分の好きな本とか映画とかを置いて、誰が読んでも見てもいいようにしておくの。それで、やっすいインスタントのコーヒーを一杯百円で提供して、騒いだりしなければ誰がどれだけいてもいいよ、っていう場所をさ、作りたいな」
「うわあ! いいなあ、それ。俺もやりたい。一緒にやろうよ」
「一杯百円のコーヒーだけじゃ、生計が成り立たないだろうけどね」
「うーん、待ってね……あ、じゃあさ、古本屋さんも兼ねればいいんだよ。あとは、たまに気が向いたらお菓子とかも作ってさ、売ろうよ。それで、ユーイチさんに、お店を舞台にした小説を書いてもらおう」
「ユーイチさんなら本当に書いてくれそうだし、いいかもね」
 律は「早くやりたいなあ」と待ちきれないような顔をした。小学生の律にとって、自分のお店を開くなんて、とんでもなく未来のことに思えるだろう。
 何年か経って、律が今日の会話を忘れていたとしても、私は本当に一人でもそういうお店を作りたいなと思う。流石に百円のコーヒーを売るだけでは厳しいだろうけれど、もっと別の形で、カフェをやってもいいし、定食屋を開いてもいいし、奥さんと旦那さんが作りあげたような和菓子屋を開いてもいい。一朝一夕でできるものではないだろうけれど、でも、そういうことを夢見ていることは本当に楽しい。
 学校に行きたくない小学生も、親に殴られた中学生も、進路に悩む高校生も、仕事に疲れた社会人も、子育てを頑張っているお父さんお母さんも、なんとなくお喋りしたいお年寄りも、みんながいつ来ても、どれだけいてもいいよ。行き場がない時に映画館に逃げ込んだ、あの時の私が知ったら呆れながら喜んでくれるような、そんな場所を作りたい。
「俺、そういうことを本当に叶えるためにさ、やっぱりなんとかしたい。毎日、よくわからないものに怯えて過ごすのは本当に疲れるから」
 そう言って、俯いたりせずに真っすぐに前を見て歩く律の横顔は、決意した男の子の力強い眼差しをしていた。こんな目ができるなら、大丈夫だ。今はもしかして大変かもしれないけれど、時間が経てばなんとかなる、絶対に解決する。私はその時、妙に確信的にそう思った。
 律を家の近くまで送り届け、また近いうちに遊びに行くねと約束を取り付けられ、私は一人でもうすっかり暗くなった夜道を歩いた。夏の夜空は妙に明るく感じる。
 いつか、いつかを繰り返して、いつのまにかになっていたら嫌だな、と思った。私も向き合おう。好きに生きていくために、自由に生きていくために。
 
 
 
「あの、すみません、緑さん、ですよね」
 その日、私は律と初めて出会った美術館に一人で足を運んでいた。展示物が総入れ替えしたとのことだったので、どんなものかと様子を見に来たのだった。
 薄暗い部屋で、どこか知らない土地の子供の写真を見ていた時、不意に後ろから声をかけられた。振り向くとそこには意思の強そうな目をした女性が立っていた。律の母親だった。
「あ、こんにちは。この間の……」
「はい。その節はお世話になりました」
 律の母親は紺のワンピースを上品に着こなして、まるで世界の基盤であるかのように堂々とした出で立ちをしていた。私はだらしなくポケットにつっこんでいた両手をきちんと出して、それから「お久しぶりです」と微笑んだ。
「すみません、お礼に伺おうと思っていたんですが……」
「いいんですよ、そんなに気を使わないでください」
「あの、よろしければこの後お茶でも如何ですか」
 律の母親の目は真剣そのものだった。私はそのあまりの気迫に、律とちょくちょく遊んでいることがバレていて、「うちの息子をたぶらかさないでください」とか言われるのかなあ、と不安に思った。
「はい、是非ご一緒させてください」
「良かった……それで、あの、緑さんはしょっちゅうここへ来られるんですか?」
「うーん、まあ、たまに来ますね」
「画家とか、芸術家とか、そういうお仕事をされているとか……?」
「いえいえ、私はただのフリーターですよ。場所を移しましょうか」
 律の母親は、人に対する質問の投げかけ方が律にそっくりだった。伺うような、何かを探すような、そんな顔をする。
 私たちは壁一面に天狗のお面が嵌めこまれている奇妙な通路を抜け、子供が描いた落書きに見える絵画の前を通り、宙に吊るされたフランス人形の下をくぐってカフェに辿り着いた。平日の昼間ということもあって、まばらにしか客はいなかった。
 私はアイスティー、律の母親はホットコーヒーを注文して、中庭の見える席についた。周りから見たら私たちはどういう二人組に見えているのだろう。律の母親は小学生の息子がいるなんて見えないくらい若く綺麗に見えるし、姉妹くらいに思われるかもしれない。
「ここにはよく、主人の作品が展示されているんです」
 律の母親はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。外は焼けるように暑いのに、熱い飲み物を飲むなんて、と思ったが、その頑固さのようなものがいかにも律の母親らしかった。
「ご主人、芸術家なんですね」
 律から聞いていたのでなんとなくは知っていたが、そんなこと言って変な顔されても困るので、月並みな返事を返した。
「はい、そうなんです」
「じゃあ律くんもきっと、感性豊かな子に育ちますよ」
「あの、律の……息子のことについてなんですけれど」
 来たな、と思った。私は動揺を顔に出さないよう努めながら「はい、なんでしょう」と答えた。
「私も馬鹿じゃないのでわかります。あの子、緑さんのところにしょっちゅうお邪魔しているでしょう。本人は隠しているつもりなんでしょうけれど、ばればれなんです。あの子、爪が甘いんです。夜中に抜け出すにしても、こっそり裏口や窓から出たりしないで、靴を履いて、玄関から出て、ちゃんと鍵を閉めるんです。がちゃん、って大きい音が鳴るのに気付いていないんでしょうか」
 私は、笑ってはいけないと思いながらも、あの大人びた律の妙に子供っぽい失態の犯し方がなんだか可笑しくて、思わずふきだして笑ってしまった。律の母親は淡々と「緑さんの家にお邪魔した日も、妙によそよそしかったし、もしかして二人はすでに知り合いで、その上で私に黙っているんじゃないかと思いました」と続ける。
 私は、もう会わないでください、と言われるだろうな、寂しいな、とか思いながら律の母親の話を聞いていた。
「でも私、そんなことは別に構わないんです。あの子は私のことを、もしかして苦手に思っているかもしれませんが。本当に全然構わないんです。あの子が、何か抱えて苦しんでいることも、それを私に話してくれないのは、私には解決できないことだとあの子が判断したからだって、そういうこともわかっています。だから見守ることにしたんです。あの子がどう解決していくのか」
「律くんは確かに、私によく会いに来ますよ。けれど一つお伝えしたいのは、あの子は本当に良い子なんです。私、基本的に子供って苦手なので、良い子じゃなければとっくに見切りをつけていたと思います。あの、それで……これはちゃんと言わなきゃいけないことですね」
 私は両手を膝の上に置いて、頭を下げた。
「律くんと知り合いなのに、それを黙っていてすみませんでした」
「いえ、いいんです」
 律の母親は慌てたたような声を出した。
「私があの子の立場だったら、あなたのところにお邪魔していることは、きっとバレたくないでしょうし、あなたはそんな子供の幼い気持ちを大事にしてくれただけすから。むしろありがとうございます」
 私は驚いて律の母親の顔を見た。相変わらず厳格そうな顔立ちをしているが、わずかに優しく頬が緩む。
「あの、すごく失礼なことをお訊きしてしまうかとは思うんですけれど……」
「はい、なんでしょう」
「律君、なんだかお母さんのことを話す時にぎこちない感じになるんです。何かあったんですか?」
 私が言うと、律の母親は「そうですよねえ」と少し落ち込んだ顔をした。
「多分、嫌われてはいないと思うんです。賢い子ですから、私が心配しているってこともきっとわかってくれていると思います。あの、私と主人は二年ほど前まで九州のほうにいたんです。その間、律は私の母親と一緒に暮らしていたんですが、肺癌を患って、あっという間に亡くなってしまって……」
「その間、と仰いますと、どれくらいの期間ですか?」
「四歳から、小学校三年生までですね」
 なるほどな、と思った。律の母親に対するぎこちなさも、父親に対する関心の薄さも、全て合点がついたような気がした。いや、全てわかったなんておこがましいかもしれないが、なんとなく、輪郭がつかめた、という感じになった。
「あの、どうして律くんも九州に連れて行かなかったんですか?」
「連れて行きたかったんですけど、あの子が嫌がったんです、すごく」
「律が?」
 驚いて、思わず君、をつけるのを忘れてしまい、「あ、すみません」と言うと、律の母親はふんわり笑って「いいんです」と言った。
「律が、こんなに綺麗なお姉さんのお友達を作るなんて意外でしたけど、緑さんはなんというか、人を安心させるというか、引き付ける何かがありますね。あの子が懐くのもわかります」
「いえ、あの、そんな恐縮です」
「あの子、引っ越す前日の夜に、ものすごく大きい声で泣いたんです。世界が滅亡してしまうのを予知したみたいに、鬼気迫る勢いで。わんわん泣いて、僕はお父さんとお母さんと一緒に行けない、ごめんなさいって言ったんです。私も主人も、最初は環境が変わる不安から甘えているのかなって思ったんですけど、それにしてはどうも様子がおかしくて。結局出発を二週間くらい延ばしたんですけど、それでもダメで。主人の仕事と、私もすでに向こうで職を決めてしまっていたので、やむなく律を私の母に預けて出発しました。あの時は本当に辛かったです。一緒に残ってあげられたらそれが一番良かったんですけど」
 律が、まだ幼い頃から、何かに怯えるような子だったということに驚いた。それに、淡々と語ってはいるが、律の母親の苦悩もなんとなくわかるような気がした。多分、この良い意味でとても簡潔で、いっそわかりづらいくらいの温度が、律をぎこちなくさせるのだろう。
「こんなこと、本来なんの関係もないはずのあなたにお聞きするなんて、本当にお恥ずかしい話なんですけれど、あの子は大丈夫でしょうか? 私、怖いんです。あの子にわけのわからないものが憑りついていて、いつか憑り殺されてしまうんじゃないかって」
 私は一瞬、ここが美術館だということを忘れて、律の母親のその真剣さになんだか涙が出そうになって、そんな自分の情緒を不思議だな、と思った。
 なんだかこの頃は、母親という存在の偉大さを妙に考えさせられる。彼女たちはどうしてこんなに雄大なのだろう。子を思う母の顔。律の話をする律の母親の心配そうな顔、お腹を撫でる茜さんの愛おしそうな顔。そして、いつかしくしく泣きながら、寝ている私の頭を撫でた、細いくせに妙に大きな優しい手。
「律くんは、きっと大丈夫ですよ」
 私は、もうほとんど断定的な口調でそう言った。
「あの、それで、本当に差し出がましいんですけれど、お願いがあるんです。私の知り合いに、律くんと似たような子供時代を過ごした、ちょっと変わった人がいて、この間その人に律くんを会わせてみたんです。そうしたら、律くんを連れて旅行に行こう、って話になって……」
 私は律の母親の顔をちらりと伺った。ものすごく真剣な顔をして訊いていた。だから、ごまかしたりせずに、真剣に話さなければいけないな、と思った。
「あの、まずもし私がお母さんの立場だったらかなり不安だと思います。それで、もしかしたら断るかもしれない。けれど、律くんは行きたいって言っていました。ただ単に楽しそうだからとか、そういうことだけじゃなくて、なんとかしたい、って意味合いの言葉だったと思います。行くとしたら、その知り合いと、私の友人と、私と、律くんの四人で行こうって話になっています。絶対にどうにかしてあげられるなんて断言はできませんが、でもそういう、誰かが何とかしてくれようとしていて、それに縋ってみたり、素直に頼ってみたりすることって、大事なんじゃないかと思います」
 自分でも驚くくらいにすらすらと言葉が出た。私が言い切ると、律の母親はしばらく黙って、それからコーヒーを一気に飲み干した。その豪快さに驚いていると、自嘲するようなトーンで「悔しいなあ」と声が聞こえた。
「ええと、まず緑さんはどうしてうちの子にそんなに良くしてくれるんですか? 見ず知らずの子供でしょう。すごく冷たい言い方をすると、突き放すことだって簡単にできるはずだし、あの子は聞き分けがいいから、ちょっと迷惑そうな顔をしたり、そういうニュアンスの言葉を使うだけで、きっともう来なくなりますよ」
「まあ、そうですねえ……なんていうか、もう普通に仲の良い友達みたいになっているんですよね。友達に対して、損得勘定したり、普通しないじゃないですか」
「ご迷惑じゃ、ないですか?」
「迷惑なんて、そんな。楽しいですよ、それに、私も律くんに助けられたことがありますし、おあいこです」
 私は、あの真夜中のラーメン屋を思い浮かべた。あの時、律が現れていなかったら、きっと今頃まだ母の夢を引きずっていたと思う。知り合いに会って、話をすることって、本当に大事だ。
「……旅行の件なんですけれど」
 律の母親は本当に難しい顔をして言った。
「あの、絶対に私は、最終的にどうぞお願いいたします、と言うでしょう。けれど、もう少しだけ考えさせて下さい。ものすごく考えた後に、お願いしますと言いたいので」
 私はその真面目すぎる言い方が本当にかわいらしく思えて笑ってしまった。そして、本人の気持ちは確かめようがないことだけれど、律はこんなに愛情深い母親がいて、幸せだな、と思った。幸せだと決めつけるのはよくないことだから本人には言わないが、少なくとも私はそう思った。
「はい、どうぞゆっくり考えてください。私も、私の友人たちも、時間はある方だと思いますので、いくらでも待ちますよ」
「あの、それから、一つお願いがあります」
 律の母親は、とても丁寧に使い込まれているのがわかる鞄の中から携帯電話を取り出した。
「連絡先を、教えて頂けませんでしょうか……あの子が緑さんのところにお邪魔するたびに連絡をして下さいとか、そんなことは毛頭言うつもりはありません。けれど、あの子が突然倒れてしまったり、何か困るようなことがあったら一報頂きたいです」
「はい、もちろんですよ」
「旅行に行くことに、もしなったら、その時もご連絡をいただけますか? 一日の終わりに、無事です、とか、元気です、とか、それだけでいいので……」
「いえ、何かあるたび逐一ご報告しますよ。ご心配でしょうし。そんなに気を使わないでください、本当に、迷惑だなんて一度も思ったことはないですから」
「ありがとうございます」
 律の母親は、いっそ泣きだしてしまいそうなくらい細い声でそう言った。思うところがたくさんあるのだろう。子を思う母親の気持ちは、私にはまだ到底理解できないが、でも律の母親が律を思うときの不安な気持ちはなんとなくわかる気がした。
 いつか私も、こんな風に誰かのことを思うことができるだろうか。いつか、温かい家庭を作って、自分がしてもらいたかったことを、自分の子供にしてあげられる日がくるだろうか。
 なんとなく窓の外に視線をうつすと、相変わらずポピーの花が可愛らしく咲いていた。
 
 
 
 
 当日までは全然なんとでもないと思っていたのに、いざ約束の日になると急に憂鬱になって、鉛のように体が重くなる、なんてことはきっと誰しも経験するんじゃないだろうか。
 父と茜さんと食事に行く日の夕方、そろそろ準備をしなくちゃなあ、なんて思いながら立ち上がって、なんとなくベランダに出て、しばらく穏やかな街並みを眺めていた。
 どうしよう、行きたくない。体調が悪いと嘘をついてしまおうか。一瞬そんな考えがよぎったが、茜さんの顔を思い浮かべるとそんな不誠実なことはしたくないと思った。
 頭の中で、父の気難しそうな顔がよぎった。父と会ったらきっと、いろんなことを思い出し、考えてしまう。そのことがとても怖いような気がした。
 そんな時、家のチャイムが不意に鳴った。まさか、茜さんが迎えにきたのだろうかと思ったが、扉を開けると由里が立っていた。
「よかったー! 緑がいなかったらどうしたもんかと思ったわ。ねえ、今日泊めてくれない? 家の鍵忘れちゃって、タイミング悪く親もいないの」
 私は由里のその溢れるようなパワーに思わず縋りつきたくなったが、堪えて「べつにいいよ」と下手くそに微笑んだ。由里は少し驚いたような顔をして「ねえ、何かあったの? 顔色が悪いわ」と心配そうな声で言った。本当に温かい声だった。
「そう? 夏バテかなあ。あのね、泊まるのは全然かまわないんだけれど、私今から出かけなくちゃいけないから、留守番をしていてくれる?」
「出かけるって、どこへ?」
「父と、父の再婚相手の茜さんに会いに行くの。二人、赤ちゃんができたんだって」
 由里は顔をしかめた。付き合いが長い分だけ、私の家の事情をきっと私の知り合いの誰よりも知っている。多くは話していないが、察しが良くて、おどけたノリのわりにとても賢い彼女のことだから、思うところがいくつかあるのだろう。
「ねえ緑、じゃあ私も連れて行ってくれない?」
「え……」
「ね、ね、いいでしょう。おじさんとも茜さんとも一応顔見知りだし、連れて行って損は無いわ」
 その時私は由里のことが女神様のように見えた。本当に心強くて有難い。由里の、清潔で力に満ちたオーラのようなものが私を救ってくれる気がした。
「でも、きっと面白くないと思うわよ。人の家の話なんて」
「確かに、おじさん、ものすごく堅苦しい人だったもんね。でも私、茜さんに久しぶりに会いたいな。あ! ねえ覚えてる? 私とあなた、高校生の時にさ、夜行バスに乗って遠くへ行ったじゃない。どこだっけ、あれ?」
 由里があまりに優しく、いっそ諭すようにそう訊いてくるものだから、私はなんだか妙にほっとしてしまって、すらすらと言葉が出た。
「香川。テレビでおいしそうなうどん屋さんを見つけて、行ってみたいってなったのよね。日本家屋みたいな、綺麗なお屋敷で、庭に大きな藤の花が咲いていて、天国の食べ物みたいにおいしそうなうどんが映っていて……本当に単純だったなあ。たったそれだけのことのために、親に黙って家を出て、人生初の夜行バスに乗っちゃったんだもん」
「そうそう! 懐かしいなあ。ほとんど駆け落ちだったわよね、あれ。それで、私はもちろん親にものすごく怒られたんだけど、後日緑の家に遊びに行ったら、茜さんが『どうせ親に黙って家を出るなら、北海道の稚内とか、そういうもっと思い切ったところに行けば良かったのに!』って大笑いしていて。あれはさ、緑が血のつながらない子供だからとか、そういうの関係なく、本心というかさ、あの人の心で話していたというか……うーん、なんていうんだろう。とにかく、そういう上品さのようなものがあったのよね。私、茜さんのそういう綺麗なところ、好きだったなあ」
 由里と話をしているうちにだんだん気持ちが落ち着いてきて、さっきまでの憂鬱な気持ちはもうほとんどなくなっていた。自分のペースが戻ってきたという感覚がした。
「ねえ、本当はすごく憂鬱だったの。一緒にきてくれる? 由里がいてくれたら心強いわ」
「当たり前じゃない! それに、きっととても美味しいものを食べさせてもらえるだろうし。楽しみだなあ」
 私は由里のそのとぼけた感じが本当に好きで、友達になってよかったなあ、としみじみ思った。そう思えることは本当に素晴らしいことだ。
 由里と話しながら服を着替え、いつもより丁寧にメイクをした。好きな服を着ることも、自分自身を綺麗に飾り上げることも、自分自身のためなのだ。人に良く思われたいとか、そういう感情はいつも二の次な気がする。綺麗な格好をしていると自信がつくし、自信がつくと自分のことを好きになる。
「ねえ、少し早く家を出て、駅前のコーヒー屋さんに行かない? なんだか、最近新しいメニューが増えたみたいなの」
「うん、いいよ、そうしよう」
 由里は時折魔法使いなんじゃないかってくらい素晴らしい提案をしてくれることがある。もしかしたら本当に自分がコーヒー屋さんに行きたいだけかもしれないが、でも結果としてその提案は私の心を救ってくれた。由里は、そういう人をほっとさせる力がある女の子だった。
 私たちは二人で家を出て、それから駅前のコーヒー屋さんで一杯五百円するちょっとお高いコーヒーを飲んで、わかりもしないくせに「酸味がきいてておいしいね」なんてふざけて言い合ったりした。
「なんだか、私がいない間にすごく面白いことになってるんだって?」
「面白いことって?」
「旅行に行くだとかなんとか」
「ああ」
 私はコーヒーカップに口をつけながら微笑んだ。
「うん、そうなの。由里も来てくれるわよね?」
「そりゃまあ、行くけど。楽しそうだし。でも私だけまだ例の小学生に会ってないわけだからさ」
「そのうち会えるよ。神出鬼没な子だから。おいでって念じれば、なんなら今からでも来るかもよ」
「なにそれ。その子、超能力者か何か?」
「まあ、そんなもん」
 私が言うと、由里は呆れたような顔をした。
 私たちはそうしてしばらくお喋りをしてから店を出た。待ち合わせの公園に行くと、茜さんと、その傍らで背筋をのばして立つ父の姿が見えて、私は一瞬躊躇ってしまった。父は少し前に会った時より老けて見えた。人が生活していくうえで、当たり前のことかもしれないが、その事実は私の気持ちを揺るがせるには十分だった。
 母と私と、三人で歩いたこともある父が、今は新しい家族を守っている。私はなんだか奇妙な気持ちになった。けれど、私の横には由里がいる。その事実に背中を押されるように、足を踏み出した。
「あ! ほら、あなた、緑ちゃん来たわよ」
 茜さんが本当にうれしそうに手を振って笑いかけてきたので、つられて私も少し笑った。
「あれ? もしかして由里ちゃん?」
「はい。ご無沙汰しています」
「ええ! こんなに美人になって!」
 由里と茜さんが再開に喜んでいる間に、私は父と向き合った。父は相変わらず気難しそうな顔でこちらを見ていた。けれど頭には白髪が増え、心なしかしわも増えたように思える。まだ四十歳そこそこなはずなのに、なんだか妙に年をとって見えた。
「緑、お前、小学生の知り合いがいるか?」
 父に、開口一番そんなことを訊かれたものだから、私は驚いて「へっ?」と間抜けな返事を返した。父の顔は真剣そのものだった。
「えっと……どうして?」
「ここに来る前に、小学生の男の子とすれ違ったんだ。そうしたらその子が、すごい勢いでこっちを見て、『緑ちゃんを傷つけないでください』って」
「ああ……」
「心当たりがあるのか?」
「まあ、うん、あるよ」
 私は父が通り魔にあったかのように話すので、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
 十中八九律のことだよなあ、と思いながら、あの小さな小学生が、この鉄面皮に立ち向かうにはどれだけ勇気がいるだろうと考えた。それでなくても律は人見知りしそうな子供だし。私は、せっかく律が勇気を出してくれたのだから、私もしっかりしなくてはいけないな、と思った。一度そう思うと背筋がしゃんと伸びた。
「気にしないで。私の友達なの。それより、久しぶりね、お父さん」
 父はうなずいた。茜さんが様子を窺うようにこちらを除いてから、「それじゃあそろそろ行きましょうか」と言った。
 父と茜さんの後ろを、私と由里でついていく。なんだか奇妙な四人組だなあ、と思った。由里は、二人に聞こえないようにそっと小さな声で、「食事中に、気分が悪くなったら手を握ってね。話合わせてあげる」と言った。由里はたまにこういう王子様みたいなことを言う。私は由里の、豪快で、頼りがいがあって、それでいて女の子らしいところがすごく好きだ。きっと調子に乗るから本人には言わないが。
 父と茜さんの背中を見た。いつかの日には、ここに母が立っていたのだ。もうどこにもいないが。父が、茜さんというパートナーを見つけられたことが、本当に幸いなことのように思えた。もしも父が独り身で、そのうえで私とほぼ接点を無くしていたりしたら、私たちはもはや家族という言葉の片鱗すら似合わなくなってしまっていただろう。茜さんは私たちをぎりぎりで繋ぎとめてくれたのだ。そして、新しく家族を作ろうとしてくれている。前の妻の娘である私を、除け者にしたり、そういう冷たいことだってできたはずなのに、そんなことは一切せずに、食事に誘ってくれる。世の中に、茜さんのような人がいる、という事実は、私をとても安心させた。
 私たちは港の見えるお洒落なレストランに腰をおろした。窓の外に見える観覧車と、夜道を照らす街灯が美しい。
「二人とも、なんでも好きに頼んでね。お金は全部出すから。ね、あなた」
「ああ、好きに食べなさい」
 私より先に由里が「やった!」と言った。それから、メニューを持ち上げて「緑、なに飲む?」と私に訊いた。
「どうしようかなあ……じゃあ、シャンディガフで」
「私も同じにしようっと。おじさんと茜さんはどうします?」
「そうねえ……」
「茜さん、アルコールは体に毒だからやめておきなさい」
「やだ、わかってるわよ。あなたも車で来ているんだから、飲んだらダメよ。私たちはジュースにしましょう」
 父が茜さんを気遣う言葉を使ったのでなんだか少し驚いた。この人が、そういう他人を気遣う言葉を使っているのを、随分久しぶりに見た気がする。前に見たのはいつだったろうか。遊び疲れてうとうとする私の背中を優しく撫でる母に、なにかぼそぼそと、とても優しい声で言っていた気がする。もうおぼろげにしか覚えていないが、そういうことが確かにあった気がする。
「ねえ緑ちゃん」
 茜さんは、待ちきれない、といった顔で私に向かって言った。窓の外に広がる街灯の明かりに照らされて、大きな瞳がきらきらと光っている。
「前にも言ったけれど、私、お腹に赤ちゃんがいるのよ、今。それをね、ちゃんとした場で伝えたくて。あのね、もしかしたらあなたはそんなつもりないかもしれないけれど、私からしたらあなたも私の大事な娘だからね。お腹の子は、あなたの妹か弟になるのよ」
 一言一言を確認するように、あるいは、言葉に魂を乗せて飛ばすように慎重な口調でそう言った。私は、なんと返答したらいいか一瞬迷って、その誠実さは十分伝わりましたよ、という意味をこめて微笑んだ。私たちの間で、何かが繋がった、という感じがした。相手の言いたいことを、真の意味で受け止めることができた時の気持ちよさのようなもの。そういうものを確かに感じて、私はほっとした。
 テーブルにグラスが四つ運ばれてきた。美しい色をしたお酒と、リンゴジュースが二つ。私たちはひとまず乾杯をして飲み物に口をつけた。
 しばらくなんとでもないような会話をしていると、ずっと何かを言いたそうにしていた父が、何度か迷ったような顔をした後、決心したよに口を開いた。
「緑、お前はもう成人女性だから、こんなことを言うのも不自然かもしれないけれど」
 私は、なんだか妙に緊張しながら「なに?」と訊いた。
「もう一度、一緒に暮らしてみないか」
 父は言った。
「ものすごく虫の良い言葉だってことはわかっている。けれど、俺はお前の母さんが死んで、よく考えたんだ。お前は母さんによく似ているよ。母さんに似ていつもどこか寂しそうだ。お前のそういう寂しさのようなものを作った原因が、自分だってこともわかってる。だから今度はもう後悔したくないんだ。俺はあの人が少し怖かった。それに、あの人によく似たお前のことも、本心では怖かったのかもしれない。だから許してほしいなんて言うつもりはないが、でもどうか気持ちを伝えておきたかった。それで、お前が俺たちとまた暮らしてくれたらどんなにいいかと心から思う」
 私は本当に驚いてしまってしばらくの間何も言えなかった。私の記憶のなかの父では絶対に言わないような言葉の羅列に、この人は本当に父なのだろうか、と疑うほどだった。
 私はなんだかたまらないような気持ちになって、「ちょっとお手洗い」と行って席をたった。背後から茜さんに声をかけられた気がしたが、そんなことはもう全然わからないくらいに狼狽していた。
 一度店を出て、美しい夜景がひろがるテラスに出る。深呼吸をすると夏の夜の湿ったような風の匂いがたちこめて、少しほっとした。
 父と分かり合いたいと思っている。本心で、心の底からそう思っている。あんな風に私のことを思ってくれて心底嬉しい。けれど、その反面で、寂しくてねじ切れて死んでしまいそうだった学生時代の私が顔を出す。もうあんな思いはしたくないと泣いている。私はそれが制御できない。
 ユーイチさんの言葉が頭をよぎった。鈍感でいたいのだ。どんなことにも、柔軟に対応をしたい。なるべく怖いものに苛まれずに生きていたい。ただそれだけ。
「緑ちゃん」
 聞きなれた声がしたので顔を上げると、そこには律が立っていた。私はびっくりしすぎて、逆に冷静になって「なにしてんの」と声をかけた。
「だって、緑ちゃんがおいでって言ったから」
「そんなこと、言ってないよ」
「え! 言ったよ、ちゃんと思い出して」
 律がいっそ拗ねたようにそう言うので、よくよく思い返してみたら、確かに私は言っていた。由里と、あのコーヒー屋さんに居た時に。けれどそんなの、ほんの一瞬、それも冗談で言ったつもりだったのに。
「ばかだねえ、君。あんなの冗談だったのに」
「緑ちゃん、やっぱりあのおじさんに意地悪言われたの?」
「あのおじさんて。律、今日知らないおじさんに私のこと言ってくれたでしょう」
「うん。ねえ、あの人誰? 緑ちゃんのことずっと考えていたよ。どういう内容かまではわからないけれど。俺、それで変質者かと思ったんだ」
 律があまりにも真剣にそう言うものだから、私は可笑しくてたまらなくて大声で笑った。笑っているうちになんだか涙が溢れてきて、服が汚れるのも気にせずにその場で蹲るようにして座り込んだ。
「え、ねえ大丈夫? 何か怖いことされたの? 警察に行く?」
「ううん、違うの、大丈夫よ……ふふっ」
「なに笑ってんのさ」
 私は、もう大丈夫だ、と思った。もう大丈夫、歩ける、話せる、自分のペースで。立ち上がって目元を拭う。律が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「緑! ここにいた!」
 本当に焦った声が聞こえたので振り向くと、由里がきらきらとイヤリングを揺らしながら走ってきた。私に近寄り、まるで自分の力を注ぎこもうとするように手をぎゅっと握り、「もう!」と苛立ったように言った。
「心配したんだから! ねえ、もう帰りましょう。帰ってお酒を飲みながら鍋でもつつきましょう。それで、さっきおじさんに言われたことは、ひとまず今日は忘れちゃいましょう。いつか、もう少し時間がたってから考えればいいわ。ずっと先延ばしにしておばあちゃんになっちゃったっていいのよ。そういう権利が、緑にはあるわ」
 私は由里のそのパワーに圧倒されて、一瞬きょとんとしてしまった。それからまた笑いがこみあげてきて「駄目よ、大丈夫。戻りましょう」と言った。
「ごめんね、ちょっと混乱しちゃっただけだから、本当に大丈夫。ありがとうね、由里」
「本当に? 無理してない?」
「うん、無理してない」
 私が言うと、由里は「そう」と落ち着きを取り戻したようなトーンで言った。
「ねえ律、おいしいご飯食べたくない?」
「えっ」
 急に話を振られた律は心底驚いた顔をした。
「えっ! 緑、この子ってまさか、噂の超能力小僧?」
「超能力小僧ってなに」
 律は心外そうな顔をした。由里はしげしげと律を見つめて、それから「私は由里。よろしくね」と美しく笑った。
「律です。由里さんのことは聞いてます」
「私も、あなたのことは聞いているわ。ねえ、あなたはどうしてここにいるの?」
「緑ちゃんに呼ばれたから」
「緑、呼んだの?」
「うん、呼んだ呼んだ」
 私がそう言うと律は満足そうな顔をして、由里は顔をしかめた。
「律、一人で帰るのは危ないし、ご飯一緒に食べようよ。お願い。律がいれば心強いわ」
「ねえ緑、私は?」
「うん、由里もね」
 由里は律に対してしてやったり、という顔をして、律は鬱陶しいなあ、という顔をした。二人のやり取りがなんだか可愛らしくて、私は笑った。
「茜さんが今頃、おじさんに怒っているわよ。あなたは物事を急ぎすぎ! って」
「誰かに怒られてるお父さんなんて、想像できないなあ」
「お父さん? 緑ちゃんの?」
「うん。君が数時間前に不審者と間違えたのは、私のお父さんだったのよ」
 言うと、律はものすごくショックを受けたような顔をして「俺、すごい失礼なこと言っちゃった」と言った。
「大丈夫よ、気にしていないわ」
「そうかな? 怒られない?」
「怒られない怒られない」
 怯える律をつれて、私たちはレストランに戻った。案の定茜さんに叱られて落ち込む父の後ろ姿が見えて、私はなんだか笑ってしまった。
 もうあの頃の父はいないのだ。どこにも。あの頃の私だっていない。折り合いをつけるにはまだ難しい面もあるが、少なくとも、ああいう風に真剣に、何度も練習したような言葉を投げかけてくれたのだという事実だけは受け止めなければならない。
「ごめんなさい、戻りました」
 私が言うと、はっとした茜さんが「緑ちゃん!」と立ち上がった。
「ごめんなさい、あなたの気持ちを全然考えていないんだから、この人。ねえ、今日はもう帰る? 気分が悪いなら、無理して戻ってこなくてもよかったのよ。あなたは本当に良い子なんだから!」
 茜さんがいっそパニックになったようにそういうものだから、私は慌てて「いえいえ、そんな!」と言った。
「急に席を外してすみませんでした。あの、それでこの子も一緒にいいですか? 私の友達なんです」
 律は恐る恐るというふうに顔を出して、「どうも……あっ、律です、はじめまして」と頭を下げた。
「あ! あなた、さっきすれ違った子じゃない。緑ちゃんの友達だったのね」
「はい……あの、さっきは失礼なことを言って、すみませんでした。緑ちゃんのお父さんだって、知らなかったんです」
 父は律の方を見て驚いたような子をしたが、すぐに穏やかなトーンで「いや、いいんだ」と言った。
 私は店員さんに椅子を余分に持ってきてもらい、自分の横に律を座らせた。運ばれた料理はすでに少し冷えてしまっている。
「ねえお父さん、さっきのことだけど」
 私が言うと、父の背筋が伸びた。真剣な目をしていた。父とこんな風に向かい合うのは随分久しぶりだ。私たちはあまりに言葉が少なすぎた。伝えることを、放棄してはいけないのだ。
「私、もうきっとお父さんとは暮らせないわ。それは、お父さんのことを憎んでいるからとか、そういうことじゃなくて、私自身がもうそういうふうになってしまっているの。今の生活が好きなの、すごく。きっとお父さんと茜さんと暮らしはじめて、弟か妹が生まれてにぎやかになったら、とても楽しいだろうとは思う。でもね、もうそんなこと想像ができないの。私たち、きっともう完璧な家族になることは無理よ」
 父は本当に真剣な顔で私の話を聞いていた。不意に、母と三人で暮らしていた頃のことを思い出した。幼い頃はよく父が絵本を読んだりしてくれていた。楽しい話でも妙に堅苦しく読むものだから、全然面白くなくて、すぐに眠ってしまった。うとうとしながら薄目で父の顔を覗き見ると、眠る私にそれでもずっと読み聞かせをしてくれていたのを覚えている。私は、遠い昔のそんな思い出と、目の前でもう私以外に守るべきものができた父を重ね合わせて、なんだかまた涙が出そうになった。
「けれど、形は多少歪でも、私はお父さんと茜さんと、生まれてくる弟か妹を本当に大切な家族だと思っているわ。だから大丈夫。お父さん、もういいよ。もう責任を感じなくていいから、ちゃんと幸せになってね」
 言うと、父は黙ってうつむいて、しばらく動かなかった。少ししてから「ちょっと」と言って席を立ったのを、茜さんがしょうがないなあ、という目で見つめていた。私は父の背中をじっと見た。昔より小さくなった気がする。私が大きくなっただけかもしれないが。なんにせよ、私たちの間には、時間というものがどうしようもないくらいの速度で流れている。そういうことを、忘れないようにしなければならない。
「緑ちゃん、ありがとうね」
 茜さんは笑っていたが、声が震えていた。私たちはなんだかしんみりしてしまって、しばらくの間何も話せなかった。
 父があまりにも戻ってこないので、心配して様子を見に行こうとする茜さんを制止し、私は立ち上がった。一度店を出て、テラスを覗くと、飛び降りてしまうんじゃないかと心配になるくらい哀愁の漂う背中を見つけて、おそるおそる近寄った。
「お父さん」
 声をかけても父は振り向かない。ふう、とため息をついて、隣に並ぶようにして柵に手をかける。港の明かりと、遊園地から発せられる色とりどりの光が混ざって不気味なくらい美しい。
「俺は、本当はもっと違う名前にしたかったんだよ」
「え?」
「でもお前のお母さんは、お前を身ごもったことを知った瞬間から、あるいはもうずっと前からそう決めていたみたいに、お前を緑と呼んだ。女の子でも、男の子でも、この子は絶対に緑だって言ってきかなかったんだ」
「お父さんは私を、本当はなんと呼びたかったの?」
 父が少し笑って、それから間をあけて「なんだったかなあ」と呟いた。
「たくさん案はあったんだよ。知ってるか? 画数とか、字のバランスとかで運気が変わるんだ。そういうことが書いた本をたくさん買って、いろいろ考えたのに、全部ムダだった。お前のお母さんはどちらかといえば気の弱い人だったが、お前の名づけについては絶対に譲らなかったよ」
 私は母が私が入ったお腹を撫でる後ろ姿を思い浮かべた。直接見たことなんてないくせに、その光景は妙にリアルに頭に浮かんだ。父の記憶が流れ込んでくるかのように。若い母は髪が短く、細い首筋が光って見えた。
「お前、お母さんとよく森を歩いたろう。あの人が死んだのも森だった。だから、こんなこというのはもしかして馬鹿げているかもしれないが……気をつけなさい。そういう、因縁のようなものは世の中に絶対にある」
「うん、私もそう思う。ありがとう、お父さん」
 茜さんの、お腹のなかにいる赤ちゃん。私の弟か妹になるかわいい子。はやく産まれておいで、と思った。そう思えることの幸福さといったら、何事にも代えがたい。
 私は、根拠はないが、もう大丈夫だ、と確信的な気持ちでそう考えた。もう何かに揺らがされることはないだろう。あるいは、足元がぐらついたとしても、歩いて行ける。
 母と、あてもなく、ただなんとなく歩いた森を思い浮かべながら、そう思った。
 
 
 
 
 私がまだ律くらいの年の頃、気になる男の子がいた。好きとか嫌いとか、そういう極端な言葉で表すにはあまりに複雑な、憧れに近い感情でその子のことを眺めていた。名前は沢田くん。上の名前しか覚えていない。沢田くんはそういう子だった。彼のことをファーストネームで呼び捨てにするような人は一人もいなかったと思う。
 沢田くんはいつも静かに座って本を読んでいた。それは、年相応の冒険ファンタジーであったり、挿絵のたくさんついている絵本のようなものであったりもしたが、大抵は大人が読むような難しい本だった。
 私は沢田くんが本のページをめくる時の指の動きが好きだった。とても厳かで神妙に、一ページ一ページを宝物のようにめくる。それに、沢田くんが紙をめくると、ぺら、という不思議なくらい心地よい音がしたのだ。私も今ではわりと本を読む方だが、あんなに気持ちの良い音は出せない。きっと一生出せないんだと思う。あの音は、沢田くんの指でないときっと出せない。
 沢田くんは口数が少なく自分からは決して誰かに話しかけたりするような子ではなかったが、何故か皆に好かれていた。彼は人の陰口とか悪口を、言わない、とかいうレベルじゃなくて、そういう汚いものの存在を知らないかのようだった。そういう不思議な雰囲気が、沢田くんにはあった。だからきっとみんなは沢田くんのことが好きだったんだと思う。言うまでもなく、私も。
 
「もしかして、沢田くんじゃない?」
 暑い夏の日、ミンミンゼミの騒がしい鳴き声にかき消されそうになりながら声をかけると、その人物はゆっくりと振り向いた。少し長い髪を乱雑に一つにたばねて、私を見下ろす視線は世捨て人のようだった。
 彼は時間にして五秒くらい私のことをじっと見つめていた。私は、もしかして人違いだったかな、と思ってドギマギしたが、くっきりした二重の瞼がぱっと開いて「ああ!」と嬉しそうに「緑ちゃんだ!」というものだからほっとした。
「うん、そうよ、久しぶり。沢田くん、随分変わっていたから一瞬誰だかわからなかったよ」
「緑ちゃんも、随分変わったね。ていうか、緑ちゃん、なんて呼び方幼いかな? 緑さんって呼んだ方がいい?」
「いいよ、べつに。なんだかすごく懐かしいし」
「そう? 緑ちゃんは、まだこの街に住んでいたんだね」
「うん。沢田くんは? 今はどこにいるの?」
「ふふ、俺、今どこにもいないんだ。色んなところを転々としててさ」
「そっか」
 沢田くんは、辛いことを全部乗り越えて、何かを悟った人、という顔をして笑った。だから私も何も聞かなかった。
 
 昔、父と母が離婚したばかりの頃、母がパートで遅くまで帰らず、家に一人でいるのがなんとなくつまらなくて、よく夜道を散歩していた。そんなある日、人気のない静かな公園で、小さな背中を見つけた。その日は七月の頭で、蒸し暑いくらいだったのに、その人物は長袖の洋服を着て俯いていた。
「沢田くん」
 私が声をかけると、びく、と大げさなくらい肩を揺らしてから、ゆっくり振り向いて、何故か安心したように「緑ちゃんかあ。こんばんは」と笑った。
「うん、こんばんは。こんなところで何をしているの?」
「本を読んでいたんだ」
 そういう沢田くんの手には、読みこまれてくたくたになった一冊の本が握られていた。タイトルは覚えていないが、何かの童話集のようなものだったと思う。
「こんなところで? もう暗いのに、文字なんて読めないでしょう」
「今日は月が明るいから、けっこう平気だよ」
 ほら、と上をさしてにこにこ笑う沢田くん。七月の夜空は雲ひとつなく晴れ渡って綺麗だった。一切の不純物がないかのように、その時の私には見えた。
「天の川の西の岸に、双子の星があるんだ」
 沢田くんは言った。星空を詰め込んだようなきらきらとした瞳で上を見上げながら。
「その星はさ、毎晩二人で仲良く笛を吹いてるんだって。他の星たちの道しるべになるように。それで、俺は、その音が聞こえないかなって、いつも思ってる」
 こういう、聞く人によっては恥ずかしくなってしまうようなことを、沢田くんは大真面目に言う。その素直さが、まっすぐさが、私には眩しくさえ思えた。
「あ、ねえ沢田くん、じゃあさ、星めぐりのうたって知ってる?」
「知ってる!」
 ちょっとびっくりするくらいの声で、その時の沢田くんは答えた。本当に嬉しそうな顔をしながら。私は、いつもどこか大人びている沢田くんがはじめて見せた、小さな子供のような表情がなんだか可愛らしく思えて、くすくすと笑った。
「でも俺、知っているだけなんだ」
「知っているだけって?」
「だから、つまり、歌えない」
 私が驚いた顔をすると、沢田くんは恥ずかしそうにはにかんだ。物知りだと勝手に思っていた沢田くんでも、わからないことがあるのか。意外に思っていると、彼は「あかい目玉のさそり」と、教科書を読み上げるようにすらすらと言った。
 
「あかい目玉のさそり
 広げた鷲の翼
 青い目玉の子犬
 光の蛇のとぐろ
 オリオンは高く歌い
 露と霜とを落とす
 
 アンドロメダの雲は
 魚の口の形
 大熊の足を北に
 五つ伸ばしたところ
 小熊の額の上は
 空のめぐりの目当て」
 言い終わると、沢田くんは本をぎゅっと抱きしめた。まるでそれがとても大切なものであるかのように。
 思い出した、彼が持っていた本は、「銀河鉄道の夜」だ。私は、「そんなに完璧に暗唱ができるのに、なぜ歌えないの?」と純粋な疑問をぶつけた。
「歌はさ、歌ってくれる人がいないとダメでしょう」
「どういうこと?」
「本はさ、読めば一人で、理解できる。でも歌は、誰かにリズムを教えてもらわないとわからない。それに、誰かと一緒に歌えば、その時の思い出が色濃く残って、きっといつまでも忘れずにいられるだろうけど、一人で歌ったって、まあ覚えることはできるだろうけれど、でも、そこまでなんだよ。きっと、記憶には残るけれど、思い出には残らない。俺は、それがすごく寂しいんだ」
 私は、言っていることの意味がわからなくて首を傾げた。沢田くんはちょっと困ったようにはにかんだ。すごく不思議な笑い方だった。
 沢田くんは、寂しい、という言葉を持て余しているように思えた。夏の初め、すっかり暗くなった公園で、一人で本を抱えて、空を見上げながら、彼は何を考え、何を思っていたのだろう。
 私はその日、沢田くんに星めぐりのうたを教えてあげたかどうかを、残念ながらまったく覚えていない。覚えているのは、長袖から時折ちらつく白い肌に大きな青い痣があったことと、それから間もなくして夏休みに入っても、毎日同じ場所で空がすっかり暗くなるまで、同じ本を読んでいたということ。
 そして、寒さがちらつく十月の終わりに、どこか遠くの町へ引っ越してしまったということ。
 沢田くんがいなくなった後、クラスの子たちは数日の間は騒ぎはしたものの、しばらくすれば何事もなかったように生活をし始めた。沢田くんはそういう子だった。良くも悪くも、印象に残らない。
 けれど私は知っている。小さな背中が一冊のくたびれた本を抱えて、星々を吸い込まんばかりに必死に夜空を見上げていたことを。
 
「緑ちゃんは今、何をしているの?」
 はっとして顔を上げると、相変わらず大きな瞳が私を見下ろしていた。
「私は、これといって何もしていないよ」
「あれ? 学生じゃないの?」
「うん。別に学びたいことがなくって」
「そっかあ。じゃあ、俺と同じだね」
 そう言って笑う沢田くんは、なんだか本当に嬉しそうだった。こんな笑い方もできたのか。事情はまったく知らないが、あの頃の沢田くんはなんだかとても悲しい人という感じがしていた。
「ねえ、俺さ、今この街に戻ってきたのは本当になんとなくなんだ。今戻れば、何かものすごく良いことがあるって気がして、吸い寄せられるようにきたんだ。そうしたら、緑ちゃんに会った」
「ふふ、なにそれ」
「笑うなんて、酷いなあ。真剣に言っているのに」
 沢田くんはなんだかものすごくおっとりとした雰囲気を纏っていた。私は、ユーイチさんのいう鈍感さというものを思い浮かべた。沢田くんは、まさしく良い意味で鈍感になったという感じがしたし、何かとても優しい神様に守られているかのような、そんな穏やかな空気が漂っていた。
「私が言うのもなんだけど、何もしないで、どうやって生きているの? 何もしないをするには、何かしてお金を稼がなきゃいけないじゃない」
「うん、本当にそうだよね。俺、いろんなアルバイトを転々としているんだ。映画館だったり、図書館だったり、ジムで働いたりもしたし、あとは遊園地で着ぐるみを着たりもした。メリーポピンズって知ってる? あの映画みたいに、風向きが変わったら職場を変えてさ、過ごしてるんだ」
「自由なのね、今。それで、今の生活がすごく気に入っているのね」
 私が言うと、沢田くんは少し驚いた顔をした後、「うん、そうなんだよね」と笑った。
「でも、来月あたりに引っ越すことにしたんだ。知り合いが、喫茶店を開くっていうから、そこで従業員として働くことになってさ。すごく気立ての良い老夫婦で、俺のことも本当に息子みたいにかわいがってくれているんだ。だから、恩返しがしたくて。この自由気ままな生活も、いったん終わりにするつもり」
「へえ、そう。どこに行くの?」
「九州だよ。あ! そうだ、緑ちゃんもこない?」
 沢田くんは、本当に素晴らしいことを思いついた、という目で私を見た。幼い頃、夜空を見上げて星を眺めていた時の顔とよく似ている。
「どうしてそうなるのよ」
「だって、緑ちゃんも何もしていないんでしょう。ねえ、本当に良い考えだと思うんだ。その喫茶店、阿蘇の山々に囲まれた美しい場所に作るんだ。毎日、おいしいコーヒーが飲めるよ。うん、そうしようよ、一緒に行こう」
 驚くことに私は、私と沢田くんが美しい自然に囲まれて、優しい老夫婦と喫茶店を経営する様子が怖いくらいはっきりと想像できた。まるでそうなることが生まれる前から定められていたみたいに。
 けれど、あまりに突然の申し出だったので、はいそうですかと受けるわけにもいかず、曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。
「急に言われても無理よ。私たち、何年ぶりに再会したと思っているの」
「まあ、そうだよねえ。あ、じゃあさ、視察もかねて一度おいでよ。俺はもう何度か見に行っているんだけど、本当に美しい場所にあるんだ」
「うーん、そうだね、九州か」
 なんだか変な因果だなあ、と思った。幼い律が怯えて行けなかった土地に今、誘われている。神様というものが、面白がって私たちの生活を覗いているみたいに。
「あ、じゃあさ、何人か友達も連れて行っていい? 旅行に行く約束をちょうどしていて、まだ行き先を決めていなかったから」
「うん、いいよ。お店の宣伝にもなるし」
 沢田くんは本当に気立てよく笑った。小学生の時の、いつも何かに蝕まれて、どこか憂鬱そうに見えた彼はもうどこにもいなかった。
「緑ちゃん、なんだか本当に変わったね」
「え、そう? 私からしたら、沢田くんの方が変わったように見えるけれど」
「そうかなあ。なんだか、緑ちゃんはさ、いろんな大変なことから逃げずに、ちゃんと向き合ってきた人特有のさ、力強さというか、そういう生命力のようなものがすごく感じる」
「なにそれ。でもまあ、私だけじゃなくて、あの頃私たちと同じ教室にいた人たちもきっとそうだろうけれど、それなりに色々あったよ。私たち、前に会ったときはランドセルを背負っていたのに、今はもう成人なのよ。面白いね」
「本当にそうだね。俺さ、自分がこの年までちゃんと生きられるなんて、十代の頃は全然思っていなかったんだ。むしろさ、大人に対して、何か良くないイメージが多いような子供だったから、大人になるくらいならこのまま終わりにしたい、って思うようなこともあったよ」
 沢田くんが、面白い話を披露するような淡々とした口調でそう言うものだから、私は驚いて目を見開いた。彼は尚もにこにこしながら「でもさ、」と話を続ける。
「二十代になってみたらさ、案外なんともなくて。どころか、行ける場所が増えたり、やれることが増えたり、楽しいんだよね、今。大人に左右されずに、自分の人生を生きられるようになったことを自覚したとき、俺、嬉しくて泣いちゃったなあ」
「そっかあ。よかったねえ、沢田くん。本当によかったね」
「うん。よかったよ、俺」
 私はなんだか温かい気持ちになって、まじまじと彼の顔を見つめた。まだ幼さが残るはっきりとした顔立ちは、少し日に焼けていた。転々としてきたというアルバイトの名残だろうか。
 私は自分でもびっくりするくらい彼自身と、それから彼の申し出に惹かれていることに気が付いた。自分の中にこんな活力のようなものが残っているなんて、と信じられないくらいだった。
「俺、今からバイトだから、もう行くね」
「わかった。頑張ってね」
「うん。それでさ、さっきの話、真剣に、本当に真剣に考えておいてね。俺、だれにでも声をかけているわけじゃないよ。むしろ自分が誰かを誘うなんて考えてもみなかった。緑ちゃんがいてくれたら、上手くいくって気がするんだ。それは、君に頼りたいとか、そういうことじゃなくて。むしろ、君も俺と来れば全部上手くいくと思うよ。おこがましく聞こえてしまうかもしれないけれど、気を悪くしないでね」
「大丈夫、わかっているよ。ありがとうね、沢田くん」
 私はそのあまりの熱意に圧倒されてしまって、気の利いた返事ができなかった。
 連絡先を交換して別れた後、私は当初の予定だった和菓子屋に足を運んだ。旦那さんが久しぶりに店に顔を出すと言っていたので、何か手伝えることがあればと思ったのだ。
「久しぶりだね、緑ちゃん」
 旦那さんが私の顔を見るなり本当に優しく微笑んだので、なんだか少し戸惑ってしまった。私は、「はい、お久しぶりです」と微笑みかえして、奇妙なくらいにがらんとした店に足を踏み入れた。
「お茶をいれてあげよう。茶菓子がなくて申し訳ないけれど」
「いえ、お気になさらないでください。久しぶりにお顔が見られて嬉しいです」
「僕も、なんだか緑ちゃんの顔を見たらほっとしたよ。ずっと家族の顔を見ていたから、外界の人と関わらなかったんだ。葬式も、なるべく小ぢんまりと、身内だけでってことに決めていたし、その分密になっちゃってね」
「あの、お線香をあげてもいいですか?」
「うん、勿論、緑ちゃんがあげてくれたら喜ぶよ。二階の仏壇に骨壺を置いているから、よかったら話をしてあげてね。僕は下で掃除しているから」
「はい、わかりました」
 和菓子屋の二階が二人の家になっているので、私は木でできた古い、しかし手入れのよく行き届いいている階段を上がり仏間に入った。美しい菊の花に囲まれて、奥さんの写真と四角い骨壺が目に入った。
 写真のなかの奥さんは温かい笑みをたたえていた。少しすましたような着物を着ている。写真を撮った頃は、まさか遺影に使われるとは思ってもみなかっただろう。
 お線香をあげ、眼をつむって手を合わせる。奇妙なくらい静かな時間が流れていた。私は、骨壺なんて前にしたらきっと泣いてしまうだろうなと思っていたが、案外そんなことはなく、むしろ穏やかな気持ちで向き合うことができた。そうすることができるのはきっと、生前の奥さんがとても穏やかな人だったこと関係している。
 お線香の火を眺めながら、しばらくぼうっとしていると、不意にあたりが暗くなっていた。本当に突然のことなので驚いた。唖然としていると、移動した覚えなんてまったくないのに、私は一階の店内で、椅子を出して座っていた。あたりを見回すと色とりどりのお菓子が並べられていた。けれどどれも見覚えのないものだった。美しい虹色に輝く焼き菓子や、ビンに入った光の粒、淡い色をした雲のようなもの。私は、あ、ここは現実世界じゃないな、と肌で感じ取った。けれど不思議と怖いような気持ちはせず、どころか泣きたいくらいに懐かしい匂いがした。
「緑ちゃん、お茶をいれたわ。一緒に飲みましょう」
 奥さんがにこにこしながら現れて、お盆に茶碗を二つ乗せて私の正面に座った。お茶もきらきら光って、晴れた朝の湖みたいだった。私は、これを飲んではいけないな、と思った。
「奥さん、お久しぶりです。でも私にはそのお茶は飲めませんよ」
「あら、そうなの? もしかして、緑ちゃんにはこれが、全然違うものに見えているの?」
「はい。本当に美しく光って見えています」
「あ! 私、聞いたことがあるわ。夢で死んだ人に会ったら、その人が差し出してきた食べ物や飲み物に手を出してはいけないって。危ない、緑ちゃんを殺しちゃうところだった!」
 奥さんが本当に焦ったようにそう言って、急いでお茶を引っ込めたので、なんだか笑えてしまった。ここは私の夢で、奥さんは何かとても不思議な力を使って会いに来てくれた、のだろうか。目の前で妙にリアルに動く奥さんを眺めながら、そんなことを考えた。
「奥さん、急にいなくなっちゃうなんて、酷いですよ」
「ごめんなさいねえ。でも、本当に急にね、お迎えがきたの。びっくりしたわ。魂がひゅって上に引っ張られるの。釣り糸にかかる魚みたいに。それで、驚かせちゃうかなあなんて思いながら、いろんな人のところにあいさつに行ったの。たいていの人は気づかずに、あるいはちょっと何かを感じ取ったような、でも気のせいかな、みたいな顔をするだけだったけれど、緑ちゃんと、それから律くんは私のほうをはっきり見たわね。特に律くん、ばっちり目があったの。それで、一度会っただけだけど、お行儀が良くてとっても良い子だってわかっていたから、あの子の抱えるものをほんの少しもらっていくことにしたの。本当にほんの少しだけどね」
「律、気づいて心配そうにしていましたよ。あんなものを持って行って、ちゃんと天国に行けるかなって」
「大丈夫大丈夫。それにあの子、深刻に考えているみたいだけど、ちょっとしたきっかけさえあれば、全部解決すると思うわよ」
「どういう意味ですか?」
「うーん、なんていうか、コップの水があふれるくらい並々に注がれていて、それが少しでもこぼれるとあの子に影響を及ぼす、みたいな状態だったのよね。でも、まず私が少しもらって、それから、あの子自身の力で発散する力を身に着ければ、もっと確実に良くなる、と思う。溢れそうならどこかへ捨てればいいんだもの」
 捨てる。そういうことも、できるのだろうか。不確かで不明慮なもの、それでも今の律を作る大切な一部。
 私が難しい顔をしていると、奥さんが笑って「大丈夫。何かを失うことはマイナスなこととは限らないわよ。その分また違う何かを拾えるからね」と言った。
「ねえ緑ちゃん、それで、あなたのことだけれど」
「え?」
「あなたは、あなたのしたいことを、したいことだけをして生きてね。私、緑ちゃんのことを、本当に可愛く思っているから。死んでからこうして化けてでるくらいには、本当にそう思っているからね」
 私は、ああもうすぐ本当に会えなくなるのだ、と急に別れを察して大きな声で泣きたくなった。けれどそんなことはできなかった。奥さんの、誠実で穏やかな目を見ていると、あくまで和やかにお別れをしたいと思えたのだ。
「それじゃあね。私はもう行くけれど、あなたはあと何十年もあるんだから、何をするにもどしんと構えていればいいのよ。それで、これはただのお願いなんだけれど、時々でいいからあの人のことを構ってあげてね。強がりだけれど、本当はすごく寂しがりだから」
「はい、勿論です」
 それが最後だった。
 気が付くとあたりは明るく、夏の昼のまぶしい光が差し込んでいた。私はもう奥さんが本当の意味でどこにもいないのだということを察した。
 窓を開けると透き通るような美しい空が広がっていた。私もいつかあそこへ行くのだ。私だけじゃなく、どんな人も平等に。しばらく流れる雲を眺めて、気持ちが落ち着いてから下に降りると、旦那さんが茫然と立ち尽くしていた。
「さっきまでさあ、緑ちゃんとあの人が、そこに座って話していたんだ。俺はさあ、君たち二人が、閉店後の店内で、本当の親子みたいに和やかに話をしているのを見るのが本当に好きでさ。最後にもう一度それが見られて、胸がいっぱいになって」
 旦那さんが、その先を言わずに黙ってしまったので、私はお茶をいれて、テーブルに置いた。奥さんとよく話したこの椅子で、旦那さんとこんなにしんみりと向かい合う日がくるなんて、考えてもみなかった。
「緑ちゃん、店のことだけど」
 お茶を飲んでいくらか落ち着いたのか、旦那さんがゆっくり口を開いた。
「僕ももう年だし、それに、あの人がいないこの店を切り盛りしていく自信がないから、閉めようと思うんだ。いつも支えてくれていた緑ちゃんには本当に申し訳ない」
「いえ、そんな、気になさらないでください。十分すぎるくらい、お二人には良くしていただいて、本当に感謝しています」
「それで、もし君が良ければ、なんだけれど、うちの店を継いでみない?」
 私は驚いて固まってしまった。継ぐ、とは。私が店主になるということか。つい先日律と交わした会話を思い出した。自分の店を、どんな形でもかまわない、持つことができたらどんなに幸せかと思っていた。
「和菓子屋を続けてくれとは言わない。もちろん、もし緑ちゃんがそうしたいなら続けても構わないけれど。お店を改装して、全然違う場所にしてくれたっていい。とにかく、緑ちゃんのしたいようにしてくれたら、本当にうれしい」
 私は頭のなかでいろんな考えがぐちゃぐちゃに交差して混乱してしまった。
 沢田くんの笑顔がふいによぎって、私を躊躇させた。もし今日、彼とあの場所で会っていなかったら、私はどう返事をしただろうか。いや、きっと彼と会っていなくても混乱はしただろう。
 私が目を白黒させていると、旦那さんは気の抜けたように笑って「そんなに深刻に考えなくていいんだよ」と言った。
「断ってくれたって全然構わないんだから。ただ、そういう道もあるよ、って言いたかっただけ。君は、もしかしてそういうことをやりたいんじゃないかって思っていたから」
「あの、まず、お子さんがいらっしゃいますよね。その方たちはどうおっしゃっているんですか?」
「子供は僕の好きにしていいよって、そう言ってくれている。すぐに返事をくれなんてもちろん言うつもりはないし、むしろゆっくり考える必要があると思う。だってこれは本当に、君の人生を左右するような決断だと思うから。けれど、これは本当に、ただの一つの選択肢に過ぎないからね。君は優しいから、もしかして僕のことを思って、店を残すためにこの話を受けようとしてくれるかもしれないけれど、でもそういう気遣いは本当にまったくいらないから、君のしたいことを、したいことだけをしてくれればいいから」
 ついさっき奥さんに言われたことを、そっくりそのまま言われたので、なんだか泣きそうになってしまって喉がつまった。旦那さんのなかに奥さんがいるのだ。きっと、この先ずっと、片時も離れずに。
 私は、ようし、やってやるぞ、と思った。こんなに選択肢を迫られることなんて、きっと一生のうちで中々ない。今が私の気合の入れ時なのだ。
 私は妙に満たされた気持ちで旦那さんと別れ、来た道をなぞるように帰路についた。
 何もかもうまくいく。
 奇妙なくらい確信的な気持ちで、そう思いながら。
 
 
 
 世間は既に夏休みに入っているようで、空港内はたくさんの家族連れでにぎわっていた。お盆休みを外したおかげで飛行機はすんなり予約できたが、航空代が通常の二倍近くに跳ね上がっていたため、少しでも安く済むようにと朝いちばんの便を予約した。
 私は、早朝の空港の空気が好きだ。これからどこかへ行く人、それを見送る人、あるいは、帰ってくる誰かを待ちわびている人。そういう人たちの横顔を見つめていると、なんだか居てもたってもいられないような気持になってくる。
 早朝から営業している空港内の喫茶店でぼんやりコーヒーを飲んでいると、トレーにアップルティーを乗せた律がやってきて、私の横に座った。私たちの座るカウンター席の正面はガラス張りになっていて、出発ロビーが見渡せるようになっていた。
「君、顔色悪いけど大丈夫かい」
 私が聞くと、律は紅茶を飲みながらかろうじて頷いた。律の顔色が悪いことよりも、小学生なのに紅茶なんて飲むんだ……とそっちに感嘆した。私が小学生の頃はオレンジジュース一択だった気がする。
「俺、怖いよ」
「何が?」
「わかんないけど……何か罠にかかっているような……飛行機落ちたり、しないよね?」
「どうかなあ、飛行機に訊いてみないとわかんないなあ」
「俺、本当は九州で育つはずだったんだよ。母さんから聞いてるだろうけど」
 律はほとんど虚ろな目でそう言った。何かにとりつかれていて、その何かが律の代わりに話しているみたいだった。私は律の横顔をじっと見つめながら話を聞いた。律は決してこちらを向かなかった。何かを悟られるのを恐れているみたいに。
「昔ね、夢で霧深い森にいたんだ。いくつも鳥居があって、のぼっていくと崖になっていて、そこから水が湧き出ている。ずっと、何年も何十年もそこにいた気がした。出ようとしても出られないんだ、閉じ込められているみたいに。父さんと母さんと暮らしたかったけど、でも一緒にいったらあの森が待ってるって、俺はっきりわかったんだ。だから怖くて行けなかった」
 私は律のいう森、というものがなぜだかはっきりと想像ができた。私自身もそこへ訪れたことがあるかのように。
「大丈夫よ、律。だって今回は私がいるし、ユーイチさんもいるし、なによりお化けとかそういう非科学的なものにビンタをくらわせられそうな、パワフルな由里だっている。怖いものなしだと思わない?」
 私が言うと、律はちょっと笑ってこちらを見た。
 この旅行で何か変わるだろうか。何かを変えられるだろうか、それも良い方に。
「緑ちゃん、知り合いに会いに行くんでしょう」
「うん、そうよ」
 沢田くんに会いに行くのだということは、あらかじめ伝えておいている。私の用事につき合わせしまうようで恐縮な気もするが、由里もユーイチさんも構わないというので、お言葉に甘えることにした。
 けれど律だけは何か言いたそうな顔をずっとしていた。本人が口を開くまでこちらから尋ねたりはしなかった。言ってこないということは、言ってこないなりの何かがあるのだろう。
「気に入ったら、あっちに行っちゃうの?」
「うーん、どうだろう。あのね、律には言うけれど、あの和菓子屋を継がないかって言われているの。他のお店に改装してもいいからって」
 言うと、律は心なしかきらきらした目でこちらを見た。
「それがいいよ。そうしなよ、緑ちゃん。それで、俺が大人になったら雇ってよ」
「うん、それもいいかもね」
 律のせがみ方がもうほとんど甘えのようなものだったので、あまりすべてを肯定しすぎないようにしないといけないな、と思った。私はやると決めたのだ。誰かにないかを言われて自分の気持ちを揺らがせたりはしたくない。確固たる自分の意志で選択をしていきたい。
 しばらくすると由里とユーイチさんがやってきたので、私たちは四人で搭乗ゲートへ向かった。手荷物検査を終えるとガラス張りの待合所から何台もの飛行機が見えて、そうか、これから遠くに行くのだ、と思った。このへんてこなメンバーで。
「私、飛行機乗るの久しぶり。前に緑と沖縄に行ったじゃない? あれ以来よ」
「ふふ、台風がきて帰れなくなっちゃったのよね」
「そうそう! でも楽しかったなあ。また行きましょうね」
「緑ちゃん、みて、バスが走ってる」
 律に言われたほうを見ると、滑走路に確かにバスが走っていた。本当だ、と物珍し気に見ていると、缶コーヒーを開けながらユーイチさんが「東京の空港は広いからね」と言った。
「離れた搭乗口までお客さんを乗せて行くんだよ」
「へえ……」
「りっちゃん、私たちもきっと今から乗れるわよ」
 由里が言うと、律は「りっちゃんって何」と不服そうにしながらも、バスに乗れるということに少しうれしそうな顔をした。
 由里の言う通り私たちはバスに乗って滑走路を移動した。周囲を巨大な飛行機が行きかう中、バスに乗って潜り抜ける。なんだか小人にでもなった気分だった。
 由里とユーイチさんの後ろに、私と律で座る。律は心なしか緊張しているように見えた。飛行機に乗ることに対してだけではないような感じがした。
 離陸してみればなんということもなく、飛行機はいともたやすく私たちを遠く離れた地、九州に導いた。降り立った空港は小ぢんまりとしていて、けれどとても清潔で穏やかな空気をしていた。
 来たことなんて一度もないはずなのに、強烈に懐かしさがこみあげてきた。不思議だ。
 由里が律の手を引いてお土産屋を見ている。「荷物になるから帰りに買いなよ」「でも今日ホテルで食べたくない?」「じゃホテルの近くで買いなよ」「売ってないかもしれないじゃない」「絶対売ってるって」なんて会話が聞こえる。小学生に諭される由里、という構図があまりに完璧な気がして、思わず笑みがこぼれた。
「僕たちで先にバスのチケットを買いに行こうか」
「はい、そうですね」
 私とユーイチさんは和やかに笑いながら土産売り場を後にし、チケットを買いに空港を少し出たところにあるバス停へ向かった。バスは三十分後のものを逃すと次は四時間後だった。
「なんだか、絵画のなかみたいだね、ここ」
 ユーイチさんが、遠くに見える山々を見ながらしみじみとそういった。「あれが、額縁みたいでさ」
「小説家っぽい表現ですね」
「なにそれ、そうかな」
「はい、素敵だと思います」
 私は遠くの山々を見ながら、なんだかとても良い気持ちで深呼吸をした。ここが好きだな。とても素直で、澄んだ気持ちでそう思った。
「緑ちゃん、なんだか燃えているね」
「え?」
「こっちに来ないか、誘われているんでしょう、お友達に。いいね。選択肢を与えてくれるお友達は、本当に素晴らしいものだと思うよ」
「はい。色々迷ってはいるんですけれど、ちゃんと選択したくて。あの、今回は私のわがままでお付き合いいただいて、ありがとうございます」
「いや、いいんだよ、全然我儘なんかじゃないよ。君たちと旅行ができて、俺は嬉しいよ」
 そんな風に話していると、由里と律がやってきて、しばらくしてからバスに乗った。
 沢田くんの働いている喫茶店までは、空港からバスで一時間、そこからさらにタクシーに乗って二十分ほどのとても静かな場所にあった。
 大型のマイクロバスには私たち四人の他に、おばあさんが一人しか乗っていなかった。窓の外に流れる濃い緑を眺めていると、私はなんだか胸がいっぱいになった。何故だかわからないけれど、とんでもなく懐かしい匂いがして、私におかえりと言っているようだった。
 なんでだろう、という気持ちで胸がいっぱいになった。わけがわからないくらいに懐かしくて恋しくて、気がつくと涙が溢れていた。
 せっかく空いているのだからと四人ともバラバラな席に座っていたので、泣き顔を見られることがないのは救いだった。早朝の飛行機に乗ったので、由里と律は疲れて眠っているようで、さっきまで騒がしく聞こえていた声はすっかりやんでいる。
 私はなんだか本当に悲しくて、胸が張り裂けそうだった。こんな気持ちははじめてだった。ただ、窓の外に見える美しい風景を眺めていると、ずっと自分から分裂していた体の一部と再会を果たしたみたいな気持ちになって、胸がいっぱいになった。
 きっとここへ、きたことがある。もうずっと遠い昔に。
 私はもうほとんど確信的な気持ちでそう思った。そうして、何か奇妙な縁のようなものが、因果、あるいは因縁といってもいいような大きな何かが私を呼んでいる。
「いいところだね、ここは」
 少し離れた席からユーイチさんの穏やかな声が聞こえてきて、私はハッとした。慌てて涙をぬぐい「はい、本当に」と返す。
「俺はさ、前にも少し話したけれど、一度自分の一部を捨てたことがあるんだ。あれは北欧の、凍えるように寒い湖だったな。でも、実は律くんに指摘されるまで、そんなことほとんど忘れていたんだ」
 景色が開けて、阿蘇の山々が一気にその全貌を現した。山の麓で静かに根づく稲や、ぽつりぽつりと点在する民家、そして目がちかちかするほどあふれるような一面の緑色。夏の青くて広い空の下で、そういうものが当たり前みたいに息づいている。私はそんな、いっそ目に毒なほど美しい景色を眺めながら、ユーイチさんの穏やかな声を聞いていた。
「多分、本当に悲しかったり辛かったり、そういう思い出とかってさ、人はなんとかして積極的に忘れようとしてしまうんだ。けれど、何年か経ってそういう痛みを思い出した時って、忘れていた自分に腹が立ったり、どころか、なぜか昔に戻りたくてしょうがなかったり、そういうどうしようもない気持ちに苛まれる。律くんが抱えているものの正体はきっと、そういう、人の無意識の領域に踏み込むことが人一倍に長けた才能だよ。俺はそう思う。ちょっと、いやかなり非凡ではあるけれどね」
 ユーイチさんがあまりにしみじみそういうものだから、私はなんだか何も言えなくなってしまった。
 しばらくしてバスが目的地に到着し、私たちは小ぢんまりとした木造の駅舎の前に降ろされた。古い扉を静かに開けると、中は薄暗く、けれどとても清潔に保たれていた。その土地の名産品やキャラクターのグッズが多種多様に陳列されている。
「――緑、これ買ったげようか」
 美しく透き通った、懐かしい声が頭上から聞こえた気がしてはっとして顔を上げた。きょろきょろとあたりを見渡しても、自販機でジュースを買う由里の姿しか見当たらない。律とユーイチさんはお手洗いに行ったようだ。
「なに、どうしたのよ、緑」
 私の落ち着きのなさを不審に思った由里がそう訊いてきた。私は、自分のなかで少しずつ忘れていた思い出が蘇ってきているのを確かに感じながら、それでもなんとか微笑んで「ううん、なんでもない」と言ってみせた。
 駅舎をぬけてホームに出ると美しい空がどこまでも広がっていて、その果てに大きな山が見えた。額縁みたい、というユーイチさんの言葉が蘇る。確かに、ここは美しい絵画のなかのようだ。
 ポケットのなかにいれていたスマートフォンが振動したので取り出すと、沢田くんから電話がかかってきていた。
「はい、もしもし」
「緑ちゃん、バス、駅にもうついた? 俺駅の横の駐車場に今車とめてるんだけど、みんなどこにいるの?」
「え、迎えにきてくれたの?」
「うん、そうだよー。タクシー代もったいないでしょう」
 駅のホームは横の駐車場とつながっていて、好きに行き来ができる構造になっていたので、私はきょろきょろとあたりを見渡しながら沢田くんを探した。
 彼は相変わらず少し長い髪を一つにたばねて、白いTシャツにジーパン姿で立っていた。私に気づくと嬉しそうににこにこ笑って、そんなに大きな声を出さなくてもじゅうぶんに聞こえるのに「おおーい」と言って手を振った。
 沢田くんの顔を見たら私はなんだか急にほっとしてしまって、気づくとぼろぼろ泣いていた。由里の前では我慢できたのに、なぜか彼の大らかな笑顔を見ていたら、何かをしたわけでもないのに許されたような気持になって、すっと肩の力がぬけたのだ。
「えっ! どうしたの? 具合悪いの?」
 沢田くんは本当に焦ったように駆け寄ってきて、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「あのね」
「うん」
「私、ここ、来たことある。知ってる。もうずっと忘れていたの」
 言うと、沢田くんは少し黙ってから「そっかあ」と言って、それからとても優しい声色で、
「じゃあ、緑ちゃんはこの場所に愛されているんだね。忘れないでって、呼ばれたんだよ、きっと」
 と言った。私はなんだか、こんなに遠くの土地にきて、つい先日再会したばかりの同級生に諭されているのが可笑しくて、気づくと笑いがこみあげてきていた。笑っているうちに落ち着いてきて、顔をあげると美しい山々を背景に、沢田くんが本当に優しく微笑んでいた。
「緑、ここにいたの?」
 由里がこちらに寄ってきて、沢田くんを見て不思議そうな顔をした。
「由里、こちら沢田くん。車で迎えにきてくれたの」
「ああ、あなたが! はじめまして、緑の友人の由里です」
「はじめまして、俺も、緑ちゃんの友達の沢田です」
 二人が話している間に、律とユーイチさんもやってきて、私たちは沢田くんの車に乗って目的地まで向かった。どこを見ても一面山や田んぼに囲まれている。
 車のなかで、話に花を咲かせる由里やユーイチさんや沢田くんと違って、律は無言だった。顔色が悪い。私は心配になって「律、大丈夫? 水飲む?」と言ったが、首を振ってうつむいてしまうだけだった。
「この辺りは、少し前に野焼きをしたんだよ」
 沢田くんが言うと、由里が「野焼きって?」ときいた。
「木々や草を焼き払うんだ。ほら、あそこだけ黒くなっているでしょう」
「どうして木を焼いちゃうの?」
 律が、青い顔をしながら顔をあげて声をだした。どこか焦ったような声。
「枯れた草を焼くことで、新しい芽に栄養がいくようにするんだよ。ふつうは春先に行うみたいなんだけど、今年は時期が遅かったみたい」
「そう……」
 言ったきり律はまた黙ってしまった。美しい草原に囲まれて、一か所だけ穴が開いたように黒く染まる場所はなんだかとても不気味だった。
 車窓から一瞬見えた八百屋さんで、大きなスイカが水にぬれてキラキラと光って見えた。車が進むにつれどんどん民家が少なくなってゆく。そのかわりとでもいうように、大きな山や深い森がどしんと構えて私たちを見下ろしていた。
 しばらくすると温泉旅館の看板が見えて、沢田くんはそこの広大な駐車場に車を停めた。ついたよ、と言われたので車から出ると、木でできたかわいらしい家が目に入った。
「ここが俺が働いている喫茶店。まだ準備中だけどね」
「温泉が近くにあるのね」
「うん、そうなんだ。喫茶店の店長がここの旅館に泊まりにきたとき、まわりの景色をとても気に入って、それでここに店を建てようって思ったんだって」
 私はその小さな木の家をぼんやり眺めて不思議な気持ちになった。テラスには白いパラソルと小さなテーブルが置いてあって、そのまわりにたくさんの花が咲いている。天国みたいに見えた。
「律くん、大丈夫かい?」
 沢田くんが心底心配そうに律の顔を覗き込んでそう訊いた。年の離れた兄と弟のように見える。律がかろうじて頷いたので、沢田くんは「おいしいお茶をいれてあげよう、おいで」と言って律を店内へ連れて行った。
 由里とユーイチさんも話しながら沢田くんについていって、私はなんとなく足が進まず駐車場で少しの間ぼやっとした。空気がおいしい、ってこういうことをいうんだなあ、と思った。
「森の神様は子供が好きなのよ」
 また声がした。母の声だ。私は母の顔を思い浮かべようとしたが、なぜがうまくできなかった。そうだ、母は私によく、森の神様、という言葉を使った。詳細は思い出せないが、確かにそういう話をよくしていた。どうして忘れていたのだろう。
「緑、なにしてるのよ」
「ごめん、今行く」
 不思議そうな顔をした由里に呼びかけられて、私はみんなの後を追った。
 お店の中は外観から想像できるように可愛らしく、おとぎ話のなかのカフェのようだった。観葉植物が多くおかれている。律があいかわらず青い顔をして紅茶を飲んでいた。
「あ、金井さん、緑ちゃんきましたよ」
 沢田くんの声がして、それから気難しそうな顔をした、髭面のおじさんがぬっと出てきた。私はちょっと驚いたが、その人の外観がなんだか熊のようで愛らしく見えて、また悪い人、というかんじが全くしなかったのでほほ笑んだ。
「はじめまして」
「ああ、話は訊いているよ。うちで働いてくれるんだろう」
「いえ、まだ決めかねているんですけど……」
「そうか、じゃあ、ゆっくり決めるといいよ。ここは何もないところだし、若い人にはつまらない場所だからね」
 その人は武骨な手でコーヒー豆をとって、無言で挽き始めた。私は呆気にとられて「……はい」と間の抜けた返事しか返すことができなかった。
 奥さんの趣味なのだという可愛らしいレースのカーテンから、外の山や森がよく見えた。
 私たちは試作途中なのだというお茶やケーキをごちそうになりながら、沢田くんと、金井さんの話をきいていた。途中から奥さんが紙袋いっぱいに布やレースを買い込んで帰ってきて、私たちを見ると焦ったように「こんなに早く来るなんて、お茶やお菓子の用意をしていないわ!」と言った。
「水江さん、私がもうお出ししたから、君はその荷物をおいてきなさい」
「えっ! ごめんなさい、仁一さん、私がやるって言ったのに……」
「いいから。それで、荷物をおいたらクッキーを出してあげなさい。君のはとてもおいしいから」
 旦那さんが言うと、水江さんと呼ばれた奥さんは花のように笑って頷いた。
 私はなんだか和菓子屋の旦那さんと奥さんのことを思い出して胸がつまった。それくらいに、金井さんご夫婦の穏やかなやりとりは、私が心から愛したあの二人によく似ていた。
 水江さんがいそいそと戻ってきて私たちにクッキーを出し、雑談をしながらそれをごちそうになった。お二人はもともと鹿児島のほうに住んでいて、たまたま旅行で訪れたこの土地をすっかり気に入ってしまったらしい。
「子供たちももう一人立ちして、親の役目はひと段落したから、好きなところに住んで、好きなように暮らしましょうってなったのよ」
 この人たちが、こういうふうに好きに暮らせるようになるまでには、きっとたくさんの大変なことや、やりたくないことも乗り越えてきたのだろうな、とふと思った。そういうことの積み重ねの先で、自分の本当にやりたいことを見つけられたらどんなに素敵だろう。
 私たちは夕方近くなるまで穏やかに話をして過ごした。そろそろ行こうか、というユーイチさんの言葉に、名残惜しくなりながら立ち上がると、夢うつつというような顔で、律が口を開いた。
「俺、ここに残る」
 私はやっぱりきたか、と思った。律はこの山々を見てからずっと死んでしまいそうな顔をしていた。何かが起こるだろうと覚悟はしていたが、いざ目の前で今にも眠ってしまいそうな、そんな朦朧とした様子の律を眺めていると、私はなんだかくじけてしまいそうになった。
 けれど、しっかりしなくては。屈みこんで律に「どうして?」と訊くと、律は私の目をゆっくり見て、
「緑ちゃんが」
 と言って黙ってしまった。私が、なんだというのだろう。不思議に思っていると、水江さんが心配そうに「顔色が悪いし、うちで一晩泊まってくれるのはまったく構わないわよ」と言った。
「すみません、じゃあ、差し出がましいようですけど、私もいいでしょうか。この子一人じゃ心配なので」
「もちろんよ。二階に空き部屋がるから、そこを使ってね」
「ありがとうございます。由里とユーイチさんは予約していた市内のホテルに泊まって。全員でキャンセルするとご迷惑だろうし。それで、明日必ず合流しましょう」
 由里は本当に心配そうな顔をして私を見た。こういうときの由里は本当に鋭く、私の気持ちを察してくる。私が今、不安だと思っていることも、その反面、なんとかしてやるぞと思っていることも、すべてわかったうえで、
「危ないことはしないでね」
 と言った。
 沢田くんの車に二人が乗り込むのを見守っていると、ユーイチさんが私の目をまっすぐに見て、それから本当に穏やかに微笑んだ。大丈夫だよ、という意味の笑みだったと思う。だから私も微笑み返した。
 律を連れて喫茶店に戻る。あたりはもう日が傾きかけて薄暗い。夜の山や森は輪郭が消えて大きな壁のように見えた。その恐ろしさから逃げるようにカーテンを閉める。
 律はそのあともずっと無言だった。
 水江さんお手製の夕食を食べ、お風呂からあがって客間に戻ると、律の姿がなくなっていた。開けっ放しの窓から夜の風が吹いて頬を撫でる。
「緑、森の神様は子供が好きなのよ」
 母の言葉がまた聞こえて、はっとして顔をあげる。
 私は慌てて階段を下ってカフェスペースに降りた。出入口が開いている。
 空いた扉の先に、小さな後ろ姿が見えた。
「律!」
 慌てて店を出ると、さきほどまで確かに見えた小さな背中がどこにも見当たらない。私は一度戻り、てきとうに靴をひっかけて外に飛び出した。夏といえど夜の森は肌寒い。不気味なくらいに。しばらくあたりを見回すと、左右に石でできた灯篭がいくつも、どこまでも先につながっている不気味な石段が現れた。
 夜の闇のなかで、それでもはっきりと霧深いその場所は、よく目をこらすと石段のずっと先に鳥居のようなものが見えた。
 私は泣きそうになりながら階段を上った。てきとうに履いていた靴は仁一さんのものだったらしく、サイズがあわず転んで膝をすりむいた。
 遠くに小さな背中が見えた。律だ。はやく連れ帰らなくては。絶対に、無事で返さなくては。私は律の母親の不安そうな顔を思い浮かべながら立ち上がった。
 鳥居の下までたどりつくと、その先に小さな家のようなものが見えて、灯りがついていた。上を見上げるとずっと先のほうに洞穴のようなものが見えて、ごうごうと風を吸い込んでいる。
「緑、森の神様は子供が好きなのよ」
 母の声が聞こえて、私は律が連れ去られてしまう、と怖くなって足を踏み出した。
 その時だった。
「緑ちゃん!」
 痛いくらいに腕をつかまれて、驚いて振り向くと、瞳に涙をいっぱい溜めた律が、息をきらして立っていた。ぐい、と私を引っ張って、私は強制的に一歩下がる形になった。
「え、律……」
「帰ろう! ここを下るんだ! 後ろを振り向かないで、まっすぐに、それで、帰りたいってずっと唱えるんだ。心の底から」
 律は小さな手で私を引っ張って、ぐいぐいと石段を駆け抜けていった。
 言われた通り、帰りたい、という言葉を胸のなかで反芻した。本当にそうだろうか? 母の声がずっと頭のなかで響いている。母に会いたい! と思った。振り向いたら会える。律の手を振り払って、あの鳥居をくぐれば絶対に会える。私は確信的な気持ちでそう思った。
 けれど、頭のなかに由里とユーイチさんの姿が浮かんだ。本当に心配そうな顔をしていた大好きな親友の顔。それに、いつの日かあのレストランで、私のことを家族だと、言葉にして伝えてくれた茜さんと父の顔。生まれてくる妹か弟のこと。
 私はもう帰れないのだと思った。母と暮らしたあの小さなアパートに。もう戻れないのだとわかってしまった。母がいたあの生活に。
 顔がぐしゃぐしゃになるくらいに涙がとまらなくて、手の甲でそれをぬぐった。石段は永遠のように続いていた。私は律の小さな背中を眺めながら、帰りたいな、と心の底から思った。
 思ったとたんに道が開けた。私も律も全身ぼろぼろで、木の葉や土が体中について擦り傷だらけだった。
 息を整えてから顔をあげると、律がわっと大泣きしながら私に抱き着いた。
「緑ちゃん、俺が何回呼びかけても全然返事をしないで、急に家を飛び出したんだ。何度も名前を呼んだのに」
 泣きじゃくる律を唖然と眺めて、私は恐ろしくて腰がぬけてしまった。それから、無事でよかった、と本当にほっとして再び涙が溢れた。安堵の涙だった。
 私は律を強く抱きしめた。ずっと、この子をなんとかしてやろうという気持ちでいたが、逆だったのだ。優しい力を持ったこの子が、危うい私を助けてくれた。私はなんだか情けないんだかありがたいんだか、いろんな感情がごちゃまぜになって、大きな声を出して泣いた。
 私たちは美しい自然に囲まれながら、しばらくそうして泣いていた。憑き物を落とすように。
 そうだ、母がよく言っていた。森の神様は子供が好きだから、一人で足を踏み入れてはいけないと。今思えば幼い私が危ない目に遭わないようにという忠告のつもりだったのだろう。そうして、この地にきてからもずっと見守ってくれていた。あの鳥居の先にいたのは母でないほかの何かだったろう。けれど、私は母の愛情を確かに感じ取った。それから、母にとって私は、いつまでたっても子供なのだということを思い知って、なんだかとても寂しくて恋しくて、胸が締め付けられた。
 しばらくすると、車の灯りが見えてきて、本当に焦った顔をした沢田くんが私と律を回収した。私たちはあの喫茶店から五キロも離れた場所にいた。そんなに移動したつもりはまったくなかったので驚いたが、体が鉛のように重く、なんだかとても眠たくて、私と律は身を寄せ合って車のなかで目を閉じた。
「ねえ緑。もう大丈夫よ。もうなにも恐ろしいことは起きない。あなたにも、あなたの大切な人たちにも。怖いものは、私が全部持っていってあげる」
 
 
 
 
 
 
 
 目が覚めて起き上がると全身が痛くてびっくりした。いたるところに青あざや擦り傷ができていて、そういうものを眺めているうちにだんだんと昨夜のことを思い出した。
 ぼうっとしていると扉が開いて、同じく全身怪我だらけの律が私を見下ろしていた。なんだかとても顔色がいいように見える。
「もう三時になるよ」
「えっ! そんなに寝ちゃってたの?」
「うん」
 律は私の横にすとんと座って、それから「怪我、大丈夫?」と訊いてきた。
「私は大丈夫。それより、巻き込んじゃってごめんね。怪我もたくさんさせちゃったし……」
「ふふ。俺、こんなに怪我したのはじめて。外で遊んだりしない子供だったから」
 今でもじゅうぶん子供でしょう、と思いながら、私は「そう」と頷いた。
 窓の外から心地よい風が吹いている。相変わらず美しい景色が目にまぶしい。
「律はずっとわかっていたのね、あの場所のこと。それで、きっと私に惹かれたのは、私があの場所と繋がりがあったから」
「そうかもね……緑ちゃん、ここにきたことがあるでしょう」
「うん、もうずっと昔にね」
 母の実家がこの近くにあったので、幼い頃に一度来たことがある。祖母が亡くなったときにだが。母はこの地をあまり好きではなかったようだった。母には母なりに、何か思うところがあったのだろう。そういうことを、一つも聞けずに別れてしまったが。
 私は胸のなかで、昔母と暮らしたあの街にある森の、大きな杉の木を思い浮かべた。そうするとすっと気持ちが落ち着いて、なんだか急にお腹が空いてきた。
「あ! 緑ちゃん、起きたんだね!」
 沢田くんが、よかったー! と笑いながらそう言って、「ごはん作ってあげるから、下においで」と優しく言った。
「うん、ありがとう。それに、迷惑かけちゃって、ごめんなさい」
「いや、いいんだよ。無事だったんだから。でも、夜中に出歩くのは危ないからやめたほうがいいよ。俺昨日、君たちを見つけた時、肝が冷えたよ」
「本当にそうね」
 金井さん夫婦にも謝罪をして、私と律はその日の夜、沢田くんの車に乗って由里とユーイチさんのもとへ戻った。ご夫婦は本当に心配そうに、しばらく休んでいったほうがいいんじゃないか、とか、何か悪い人に酷いことをされたなら話を聞く、と言ってくれた。その真摯さが、丁寧さが、本当にありがたくて、別れ際私は泣いてしまった。
 熊本駅について、人や建物の多さに圧倒されていると、沢田くんがこう言った。
「緑ちゃん、俺、緑ちゃんがどういう選択をしてもいいよ。なんだか俺、君をあの場所に連れて行って、役目が終わったような気持ちになったんだ。何かと決別したような顔をした君を見た時、ああ、俺のやることは終わりだなって思った。でも、君のことがとても好きだから、もし一緒にきてくれたら嬉しい」
「うん、ありがとう。優しいのね」
 沢田くんは照れたようにはにかんで「そうでしょう」と言った。
 由里は私を見るなり大泣きしながら飛びついてきた。転んじゃって、というと、転ばないでよ! と言うので、そのまっさらな言葉が可笑しくて、愛おしくて、私は心の底から笑った。
「律くん、もう大丈夫でしょう」
 ユーイチさんが律にそんな風に言っているのが聞こえる。けれど律がなんと答えたのか、私には聞こえなかった。
 
 
 
 
 それからしばらくして、私は母とよく散歩をした森のなかを一人、歩いていた。
 ざわざわ騒がしい葉っぱの音と、小鳥のさえずり、少し湿った土の匂い。目をつむってそういうものを感じていると気持ちが落ち着く。
 私はきっと、そういう星の下に生まれたのだ、と思う。一面を覆う緑色に包まれながら、いつの日か私の名前を宝物のように呼んだ母の姿を思い浮かべる。
 私は結局沢田くんの誘いも、和菓子屋の旦那さんのお誘いも、どちらも丁重にお断りし、森や山などの自然を守るための勉強をするために大学に入ることにした。はじめて明確に、やってみようかな、と気持ちが傾く分野が見つかり、なんだか気持ちが満たされていた。
 もしかしたら途中でまた揺らぐことがあるかもしれない。けれどいいのだ。これから先、結局沢田くんのもとへ行くことにするかもしれないし、あの和菓子屋が恋しくて店を継ぐことになるかもしれない。もっと突飛なことに、全然知らない誰かと結婚したりするかもしれないし、不慮の事故であっさり死んでしまうかもしれない。
 選択できることはきちんと選んでいきたい。なにかに惑わされても自分の意志を保っていきたい。
 森を出て、街を歩くと小学生の下校時間だったようで、色とりどりのランドセルを背負った子供たちが楽しそうに目の前を横切った。
 律はもうすっかり何かに悩まされたりすることはなくなったようで、少し感が鋭いくらいの普通の小学生になっている。前より会う機会は減ったが、それでもたまに顔を見せに来てくれていて、出会い方こそ奇妙だったものの、大事な友人の一人だ。
 いつか私も母のもとへ行くだろう。どういう形であれ、行きつく先はみんな同じなのだ。
 けれどその道すがら、どうか一つでも多くのもの拾うことができますように。
 
 私は、森のなかを歩くように慎重な足取りで歩みながら、そう思った。

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