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ウィッチザライン

 亜美は、庭に咲くヒヤシンスの花に群がる蝶を眺めながら、憂鬱な気持ちを持て余すかのように、縁側から投げ出された両脚をぶらぶらと揺らした。

 学校を休みだして、もうかれこれ一週間になる。

 ……ああ、これから私、どうなるんだろう? 

 中学校の、狭い教室の中で、ぽっかりと空いた自分の席を想像すると、胸にもやもやしたものが沸き上がってくる。
 きっとみんな、私のことを噂しているんだわ。それも、心配した風にじゃなくて、ばかにしたように笑ったりしながら好き勝手なことを言うんだろう。
 はーあぁ、と溜息をついて空を見上げる。どこまでも高く突き抜けるような五月の晴天が、なんだかうらめしい。流れる雲を見ながら亜美は、雲はいいなあ、と思った。ずうっとお空をさ迷って、色んなところへ行けるんだから。
 雲と違って私はきっと、このままずっと“シャカイフッキ”できずに、真世ちゃんの家で一生引きこもって暮らすんだ。うん。そうに決まってる……。
「朝っぱらから、なあーに辛気臭い顔してるのよ」
「……真世ちゃん」
「朝ごはん作るけど、あんたも食べるでしょ?」
 亜美は、うん、という返事のかわりに立ち上がり、自分の横を通り過ぎてさっさとキッチンへ入って行く背中を追いかけた。

 叔母の真世の家にやってきて、早一週間。

 亜美の母親の妹である真世は、亜美の家から車で一時間ほど離れた場所にある、小さな町で一人暮らしをしている。
 今回、急遽家に泊めてもらうことになるまでは、亜美は真世とまともに話したことがなかったので(なにせ真世は自由人で、親戚の集まりにもロクに顔を出しはしなかったのだ)、最初はそりゃ緊張したが、今ではもうすっかりここの生活に馴染んできた。
 それに、真世は豪快で大雑把な性格なので、気を遣っている方がばかばかしく思えてくるのだ。
 真世の家にはじめて連れてこられた時、亜美は、
「なんじゃここは」
 と、唖然とした。
 道を進むにつれてどんどん建物の数が少なくなっていき、がたがたと大袈裟に揺れる砂利の上を車は進む。やがて左右に竹藪が覆う小道が現れ、そこをなんとか通り抜けるとちらほらと民家が見えてくる。
 そして、そんな小さな町の中央に位置する、大きな湖のほとりにでんと構える古い一軒家が、叔母である真世の家だ。空き家を安く買い取って、修繕しながら暮らしているのだという。二階の何部屋かはまだ修繕前のようで、壁紙がはがれていたり、窓ががたついていて隙間風が入って来たりするそうだ。
「マヨネーズと、ハムチーズと、いちごと、マーマレードと、バターと、ツナマヨと、チョコバナナ、どれがいい?」
「ハムチーズ」
「もう一個選んで」
「そんなに食べられないよ」
「食べられるって!」
「……じゃあ、マーマレード」
 亜美の言葉に、真世は「ん」と頷いて、手際よく料理をはじめた。まあ、料理といってもトーストを二枚トースターに置き、そのうちの一枚にハムとチーズをのせて焼くだけなのだが。
 電気ケトルで湧かしたお湯で、パックのコーヒーを淹れて飲む。亜美の家は瓶に入った粉をお湯で溶かすタイプのコーヒーしかなかったので、一度粉を蒸らしてから淹れるタイプのコーヒーの味は新鮮だった。一度そのことを口にすると、真世は「ああ」と頷いてこういった。
「これ、結構高いのよ。六パックで三百円くらいかな」
「た、たかっ!」
「あはは! こんなの、本気でコーヒー好きの人に話したら笑われちゃうわよ。本当は豆から挽いたりしてみたいんだけど、あたしって面倒臭がりだから……」
 大人ってすごい……! 
 亜美はその時、マグカップに口をつけながらけらけら笑う真世の横顔を見ながらそう思った。六パック三百円もするコーヒーを、簡単に人に出してあげられるんだもの。自分だったら戸棚の奥の方にこっそり隠しておいて、一人になった時に自分だけで楽しんだりしちゃうだろう。
 そうこうしているうちにトースターがチン、と音を鳴らしたので、お皿に移して窓辺の小さな机へ持っていく。
「ああ、待って、亜美。天気が良いから庭に机を出して、外で食べましょう」
「え……わかった」
「卵焼いたげるから、準備していてね」
 珍しい。真世ちゃんが、フライパンを使うなんて。
 亜美は、そんな風に思いながらも素直に机を運んだ。白樺の木でできた、小さな机と椅子。薄緑色のテーブルクロスの上に、二人分のマグカップと、先ほど焼き上がったばかりのトーストが乗った皿を乗せる。
 しばらく庭先を眺めていると、真世がサンダルに足を引っかけて、ずるずると行儀悪く足を引きずるようにしながらやってきた。
「お待たせ。食べよっか」
「うん」
 いただきます、と二人の声が重なる。
 トーストにマーマレードジャムを塗りながら亜美は、ボーン、と居間の時計が鳴るのを聞いた。八時の合図だ。
 ……ああ、いつもなら今頃、学校へ行く準備をしている時間だ……。
 体は確かに真世の家にいるのに、心だけはいつまでもずるずると日常に置いてきてしまっていて、そのギャップというか、あべこべなかんじに、亜美はすっかり参ってしまっていた。
「うん、おいしーっ。卵って偉大だなあ。焼くだけでこーんなに立派なお料理になるんだから」
 ずうんと沈み込む亜美とは裏腹に、真世は呑気なものである。
 いいなあ、小説家は悩みなんてなさそうで……。
 亜美は、晴天の空と同じくらい、真世のことを恨めしく思いながらパンを齧った。
 真世はいわゆる“専業作家”というやつらしく、基本外に働きには出ずに家に居る。誰とも関わらずにお金を稼げるなんて、亜美には夢のような職業に思える。
 それに、最初こそ真世の暮らすこのおんぼろ一軒家を、お化け屋敷みたいで不気味だと思ったが、今ではそうは思わない。
 そこかしこに古めかしい本や、図鑑や、星の位置を示すポスターや、天井から吊るされたかぴかぴに干からびた花束や、変な臭いのする小瓶や、映画の中でしか見たことがないような蓄音機や、大きなカラスの人形や……、とにかく、部屋中に散らかるありとあらゆるへんてこグッズは、なんだか御伽噺から出てきたもののように思えて、眺めているだけでわくわくするのだ。
「食べ終わったら、夏野菜の植え付けを手伝ってくれる?」
「植え付けって?」
「夏に向けて、苗を植えるのよ。トマトにキュウリに……あとピーマンね」
「うげ、私トマト嫌い」
「あっそう! じゃあ今年の夏は、亜美の家にありったけのトマトを送ってあげよう。うっしっし」
 歯を見せて笑う真世に対して抗議をするように、亜美は頬を膨らませた。だけど真世はなんのその。涼しい顔でマグカップに口をつける。
 自由人でどこかとぼけていて、変なものに囲まれてこんな御伽噺みたいな家に住んでいる真世のことを、亜美は密かに魔女なんじゃないかと思っている。名前の響きも、どことなく魔女っぽいし。
 だけど、そんなことを口にしたらきっと、
「魔女? やだ、中学生にもなって、そんな可愛いこと言うなんて、亜美もまだまだ子供だねえ!」
 なあんて笑われるに決まっている。
「なに? 人の顔じろじろ見て」
「……なんでもない!」
 亜美は慌てて顔を逸らし、大急ぎでトーストを口に放り込んだ。
 朝食の時間を終えて、亜美は真世に言われた通り、夏野菜の植え付けを手伝うために裏の畑にやってきた。
 町には一応、小さなスーパーがあるのだが、真世は家庭菜園にはまっているらしく、旬の野菜だけは自給自足できるようにしているのだという。その証拠に、すぐにでも収穫できそうなえんどうの葉が、地面からにょきにょきと立派に生えている。
「亜美、帽子被んなさい」
「いい、いらない」
「だめよ! ただでさえあんた、日に焼けやすいんだから」
「あっ、ちょっと!」
 強引に麦わら帽子を被せられ、亜美はむっとしたが、渋々黙っておいた。どうせ何度脱いだってそのたびに被り直しさせられるのだ。大人しく従っておこう。
 それに、真世の言う通り日に焼けやすいというのも、亜美にとっては大変不本意だか事実なのだ。今まで何度も悩まされてきた、亜美の最大のコンプレックス。
 亜美の母は生粋の日本生まれ、神奈川育ちだが、父親は違う。カナダの、モントリオールとかいうケーキの名前みたいな場所で生まれて、大学生の時に日本へ来て、そこで亜美の母と出会った。
 黒髪の人種と金髪の人種が子供を産むと、その子供はほとんどの場合が黒髪で生まれてくるらしいが、亜美は違った。
 父親譲りのブロンドヘアに、白い肌。目だけは母親に似た薄茶色で、容姿だけは一見して外国人なので、よく初対面の人に「ハロー」と言われる。
 父親は流暢に日本語を話すから家庭で英語が飛び交うことはまずないし、つまり亜美は英語なんてからっきしわからないのだ。せいぜい喋れて「ハロー」「ナイストゥーミーチュー」「ハウアーユー?」「アイムファイン」くらいだ。いや、中学生になって英語の授業も増えたので、頑張ればもう少しいけるかもしれないが……とにかく、外見のせいで特別扱いをされたり、望んでもいないような噂話をされたりすることには、いい加減もううんざりなのだ。
「こらっ、そんな乱暴に植えない!」
 苛立ちを露わにざくざくと土を掘っていると、真世が亜美をぴしゃりと叱った。
「美味しくなりますようにって、まじないをかけて植えるのよ。土にも、水にも、苗にも、肥料にだって、命が宿っているんだから」
「まじないって」
「よく見てなさいよ。こうするの」
 真世はそう言って、畝をスコップで円形に数回掘り起した。それから、さっと肥料を混ぜて、先ほど掘り起こした土の一部だけを戻す。次に、穴に溢れるくらいの水をジョウロで注ぎ込み、苗をそっと埋める。再度土を撒いたら、まるで赤ん坊をあやすかのようにぽんぽんと優しく土を撫で、また水を撒く。終わり。
 こんな単純な作業に、まじないもなにもあるもんか。
 亜美はちゃっちゃと終わらせたくて、見た通りてきぱきと手を動かした。手順は完璧。何も間違っていない。
 しかし真世は、やっぱり顔をしかめて、
「だめよ、そんなんじゃ。緑の指を持たなくちゃ」
 と、へんてこなことを言うのだった。
「緑の指って?」
「植物を生き生きと育てる力を持つ、魔法の指のことよ」
「まほう」
 やっぱり魔女だ。
「そう、魔法。いい? 植物は皆、同じ種類同士で、土の奥深いところで世界中繋がっているの」
 真世は言った。つらつらと、何度も読んだ教科書のお話を音読するみたいに。
「例えば亜美が、道端に咲く花に心を惹かれるでしょう。心を惹かれれば、名前を知りたくなる。辞書や図鑑を引いて、花の名前を調べて覚える。すると、あらゆる場所に根を張るその花の全てが、亜美の知り合いになるのよ。いたるところで見知った顔に出会えるの。そうやって少しずつ見知った顔を増やしていけば、どこを歩いていても、迷わないでいられる。植物があなたの友達になって、導いてくれるの。それも、とびきり美しい場所へたどり着くようにね」
「はあ」
「うそだと思っているでしょ」
 うそだとは思っていないが、なんじゃそりゃ、とは思っていた。
 緑の指。魔法の指。
 そんなファンタジーなことを急に言われても、はいそうですかとは素直に言えない。
 でも、亜美が植えた苗よりも、真世が植えた苗の方が、心なしかきらきら光って見える。気のせい? それとも、陽の当たり方が若干違うからそう感じるのだろうか。
 苗を全て植え終えると、いつの間にかお昼時になっていた。
 お昼は袋麺にチャーシューとネギともやしを足しただけの、簡単なものを二人して食べた。硝子のコップに氷を二つ入れた冷たい麦茶を飲みつつ、庭の外でそよそよと春の風に揺れる月桂樹の葉を見ながら、亜美は「今頃四時間目の授業中だ……」と思った。
 畑仕事に熱中している時は学校のことなんてすっかり忘れていたのに、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、夜布団に潜り込んだり……とにかくそういう、日常の動作をしようとすると、どうしてもどんよりと重たい憂鬱が胸に蘇る。
「亜美、午後はどうするの?」
「……勉強する」
「あっそう。私、仕事部屋にいるから、何かあったら呼んでね」
「ん」
「それから、たまには外に出て散歩でもしてきなよ。正面の湖、素敵でしょう。周りを歩くだけでも、綺麗な気持ちになるよ」
 真世は亜美の憂鬱を見透かすようにそう言って、「食べたらお皿、ちゃんと洗うのよ」と言い残し、ぺたぺたと裸足で廊下を歩きながら二階の仕事部屋へ向かって行った。
 亜美は、はーあぁ、と深いため息をついて、またしても庭へ目をやった。
 恨めしい。
 五月の晴天も、庭に咲く木々や花も、ぴーぴー鳴くムクドリの群れも、ぜんぶぜんぶ恨めしい。
 私だって、好きでこんなに憂鬱を抱えているんじゃない。
 綺麗な気持ちでいられるものなら、もちろんそうしたい。
 立ち上がってお皿を洗う。冷蔵庫を開けると炭酸ジュースのペットボトルが入っていたので、勝手に拝借して縁側に持っていき、蓋を開けてごくごくと飲む。
「……私、なにしてんだろう。」
 月桂樹の傍には、鮮やかな赤色の花がいくつも背を伸ばしていた。あれは知ってる。ポピーだ。学校の周りにもうんざりするほど咲いている。……ああ、また学校のこと考えちゃった……。
 亜美は、頭の中で先ほどの真世の言葉を思い浮かべた。
 知り合いの植物が増えたなら、その植物たちが素晴らしい場所へ導いてくれる。
 ……本当に? 
 じゃあ、私のことも導いてよ。
「言い忘れていたけど」
 真世が、二階の出窓からひょいと顔を覗かせるようにして、亜美にそう声をかけてきた。亜美は慌ててジュースを背中に隠しながら、「な、なに?」と訊き返した。声はちょっと裏返っていた。
「ボート乗り場の近くにある、雑木林みたいなとこには近づかないこと」
「は? ……なんで?」
「ふっふっふっ……出るのよ」
「出るって、何が?」
「さあねえ」
 それじゃ!
 真世はそう言って、さっさと顔をひっこめてしまった。
「……やっぱり魔女だ」
 亜美は立ち上がり、ひらひらとカーテンの揺れる二階の青い窓枠を見上げながら、そう呟いた。
 
 
   *
 
 
 居間のテーブルで教科書を広げてから、しばらく経った。 

 ……ぜんぜん集中できない。

 スマートフォンに手を伸ばして、SNSのアプリを立ち上げる。当たり前だが、こんな平日の真昼間じゃあ、更新をしているような人はいない。
 クラスメートが写真を上げるのを見る度に、ドキンと心臓が跳ねる。そして、自分がいなくても、学校では当たり前みたいに時間が流れていて、世界はいつも通りに廻っているんだ……なんてことを考えてしまう。亜美にはなんだかこの頃、そういうことが空しくてたまらない。
「SNSなんて、やめちゃえばいいじゃない」
 と、以前真世はいとも簡単に言ってのけたが、これがそういうわけにもいかないのだ。
 だって皆、「昨日のナントカくんの投稿、見た?」とか、「SNSに上げる写真撮りに行こ!」とか、しまいには「仲良しの子しかフォローしないアカウント作ったから、フォロー返してね」なんて言い出す子までいる。
 朝から夕方まで、学校でずっと一緒に居るのに、どうして帰ってからも誰かと繋がってなくちゃいけないんだ、と亜美は思うが、話しについていけなくなったり、流行りに乗れないダサい子だと思われるのが嫌で、どうにもやめられない。
 でも、学校を休みだしてからは、更新はもちろん、他人の投稿にいいねをすることも控えていた。
 だって、学校に来ていないのに、スマホはいじるんだ、とか思われたらいやだし……。そうは言っても、癖で結局アプリを開いてしまっているのだから同じなのだが。
 立ち上がって縁側に出る。
 ちょっと背伸びをすると、広い庭を覆う生垣の先に、湖が見える。陽の光に照らされて、大きな宝石のようにきらきらと輝いて見える。
 ここへやってきてから亜美は、近所のスーパーへ買い出しの手伝いへ行くくらいしか外出をしていない。「外に行って勝手に遊んできなさいよ」と真世は言うが、狭い町なので、人と出くわして色々聞かれたり言われたり、じろじろ見られたりするのが面倒なのだ。
 でも、一週間もそうやって過ごしていれば、そろそろ外に出たくなってくる。真世の家は風変わりで面白いが、だからといってずっとじっとしていられるというわけでもない。
 散歩でも、行こうかな……。
 教科書を閉じ、ようやく重い腰を持ち上げる。ここでじっとしていたって、気分が落ち込むだけだろうし、お菓子でも買いに行こう、うん。
「真世ちゃん! 私出かけてくる」
 庭に出て、二階の窓枠に向かっておずおずとそう叫ぶと、白い腕だけがガラス窓の向こうににょきりと現れ、ひらひらと揺れた。
 庭用のサンダルから、買ったばかりの白いスニーカーに履き替えて、外へ出る。湖のほとりまでは、ちょっとした坂を下ればすぐにたどり着く。亜美は木で出来た簡素な階段を、ひょいひょいと跳ねるようにして下っていった。
 近くで見る湖は、なお一層光り輝いて見えた。
 すん、と鼻を鳴らすと潮の香りが鼻孔をくすぐり、目をこらせば対岸にあるパン屋がうっすらと確認できた。何艘かの小舟が錨をおろして入り江に横たわり、頭上ではウミネコたちが自由に飛び回っている。
 こんな、世界から切り離されたような場所、真世ちゃんはどうやって見つけたんだろう?
 それに、どうしてここに住もうと思ったんだろう? 
 亜美はそんなことを考えながら、湖のまわりを歩いた。たまにすれ違う人たちが、ここら辺では見かけない、明らかに部外者っぽい風貌の亜美のことを怪訝そうに見てきたが、声をかけられることはなかった。
 しばらくすると、ボート乗り場にたどり着いた。
 哀愁漂うボロボロの看板がどこか物寂しい。掘立小屋のようなものがあるが、人がいる気配はしない。
 湖に目をやると,何艘かの小舟が浮かんでいる。あそこにいるのがこの小屋の持ち主なのかもしれない。
 頼めば乗せてくれたりするのかな? それとも、お金が必要なんだろうか? 
 遠くに浮かぶ船を見ながら、亜美はぼんやりとそんなことを考えた。帰ったら真世ちゃんに聞いてみよう。
 すると突然、子供の声がして、亜美はびくっと肩を震わせた。「こっちこっち!」「あれえ? 誰かいる」なんて声も聞こえてくる。見ると、若い男女が一組と、その子供であろう、幼稚園児くらいの少年が二人、こちらに駆け寄ってくる。
 悪いことなんて一つもしていないのに、なんだか後ろめたいような気持ちになって、亜美はぐるんと回れ右をして、こちらへ寄ってくる家族連れと逆方向へ歩き出した。背後から「誰、あの子?」「さあ、外国からの観光客かしら」なんて怪訝そうな声が聞こえてくる。
 家族連れはボートに乗りにきたらしい。そのまま小屋へ入って行った。亜美はちらちらと後ろを振り向きながら、ホッと胸を撫でおろした。
 ……べつに、隠れることなかったな。
 学校を休みだしてからというものの、どうも胸の奥にずっと罪悪感が渦巻いていて、人目から逃げる癖がついてしまった。なんだか、これじゃあ泥棒みたい。亜美はため息をついて、ずんずんと歩みを進めた。
 そしてハッとした。
 いつの間にか、視界は一面緑色で覆われていた。考え事をしていたら、無意識に森に踏み入ってしまっていたようだ。
「うわあっ!?」
 バササ、とカラスが二羽、大袈裟に音をたてて飛び立っていって、その勢いに驚き、思わず飛び跳ねた。
 そして同時に、真世の言葉を思い出して、わずかに緊張が走った。
 この森には、出る……。
 何が、とは言っていなかったけれど。でも、出る、なんて言い方をするくらいだからきっと……。
 まだ真昼間だというのに、青々と茂る木々に遮られてわずかしか陽の光が入らない森の中は薄暗く、気味が悪い。
 もう帰ろう。帰って、勉強の続きをしなくちゃ。
 そう思って踵を返そうとすると、視界の端に金色の影がちらついた。見ると、森の奥へもう少し進んだ方に、アカシアの木が花を咲かせている。確か、ミモザともいうんだっけ? 亜美はそんなことを考えながら、遠くで光る花を見つめた。
 あれを持って帰ったら、真世ちゃん喜ぶだろうな……ドライフラワーにしたら、きっと綺麗だろう。

 ……ちょっとだけ、摘んで帰ろう。ほんの、少しだけ。

 不思議なことに、アカシアの木までの道沿いは、木々がアーチ状に連なっていて、まるで人が住んで手入れをしているかのようだった。木の根元にたどり着いて、亜美はそっと黄色い花に触れた。花は脆く、少し触れただけでぽろぽろと実が落ちて行く。
 そうっと、花を傷つけないように枝に触れる。顔を近づけると、どこかほっとする、古書のような匂いが鼻をかすめた。
 その時、ザァッ、と大きな春の風が吹いた。
 亜美の長い髪が宙に揺れる。思わず目を瞑り、砂埃に耐えるようにして、風が止むのを待った。
 やがて風は止み、そっと瞼を開くと、なんだかまるで、世界が一変してしまったかのような奇妙さを亜美は感じた。
 不思議だ。
 なんだろう、このかんじ。木々も、草花も、なにもかもがよそよそしいような……。

「……君は?」

 だからそんな風に、背後から声をかけられて、亜美は驚きのあまりぎゃっと悲鳴を上げた。

 驚きながら振り向くとそこには、深くフードを被った男の子が立っていた。
 
 
   *
 
 
 こんなに気持ちの良い春の日に、真っ黒いローブを着込んだ男の子が、鬱蒼とした森の中で今、自分を見ている。亜美は自分の心臓がばくばくと激しく脈を打つのを感じた。
 二人はしばらくの間、じっと黙って見つめ合った。
 どれくらいの間そうしていただろう? 先に口を開いたのは男の子の方だった。
「あの、もしかして口がきけないの?」
「……ちがう」
 おずおずと返事を返すと、男の子の口元がそっと緩んだ。深く被ったフードのせいで目元は見えないが、なんだか嬉しそうだ。
 男の子は亜美にそっと近寄ってくると、「君、学校は?」と訊いてきた。
 ……ウッ、痛いところをつかれた。一番訊かれたくなかったことだ。
 しかし、目の前の男の子は自分と同い年くらいに見える。この近所に中学校があるかどうかは知らないが、学生であることに間違いはないだろう。
 亜美はぐっとお腹に力を込めて、「そういうあなたは?」と訊き返して見せた。
「僕? 僕は……その、行きたくなくて」
「え」
「情けないよね」
 ザァッ、とまた風が吹いて、その勢いで男の子の重たいフードが持ち上げられ、素顔が露わになった。
 燃えるように赤い髪に、濃い睫毛と灰色の瞳。鼻のあたりにちょっとそばかすがある。
 亜美は咄嗟に、『赤毛のアン』の主人公の、アン・シャーリーという女の子を連想した。まあ、目の前に居るのは、見たところ男の子のようだけれど……。
 もしかしてこの子も、自分と同じで、両親の国籍が違う家の子なのかな? それとも、両親ともに外国の人だけど、生まれも育ちも日本、とか。日本語がすごく上手(というよりは、純日本人といっていいほど流暢)だし、きっとそうだ。
 亜美は、先ほどまでの不信感をすっかり取り払って、目の前の男の子に急に親近感が沸いてきた。学校に行きたくない、という点も、大いに共感できる。
「私、亜美。あなたは?」
「僕はエド。よろしくね」
「よろしく! エドは、どこの国で生まれたの? それとも、ご両親が海外の人なの? 私はお父さんがカナダ人で、お母さんは日本人なの」
「え……っと?」
 エドはちょっと困ったように表情を歪ませた。
 二人の間に、ほんの少し奇妙な間が流れる。
「僕は、生まれも育ちもこの森だよ」
 ややあって、エドは感じよく微笑みながらそう答えた。
「この森? 森の中に、家があるの?」
「うん、そうだよ。ほら、君の足元に」
「えっ」
 慌てて足元を見ると、そこには木でできた小さな扉があった。朱色の花の絵が控えめに縁を彩り、取っ手部分は鈍い銀色に光っている。
 さっきまで、こんなのあったっけ……? 
 亜美は混乱した。アカシアの木に夢中だったから気づかなかっただけ? いや、でもこんな目立つ扉、無意識に踏んづけたりするだろうか?
「この下に、家があるの?」
「うん、そうだよ。おばあ様と二人で暮らしているんだ」
「そう……」

 森の中。
 地面に扉。
 赤い髪の男の子。
 おばあさんと二人暮らし。

 これはなんだか特殊な事情がありそうだぞ……と亜美は思った。でも、口には出さずに黙っておくことにした。
「よかったら、うちへ寄っていってよ」
「え? でも、いいの?」
「もちろん! だって、君もサボりなんでしょ?」
 エドはそう言って、にっと歯を見せて笑った。亜美もつられて笑った。なんだか、共犯者ができたようで嬉しかった。
 エドが扉に手をかけると、蝶番がわずかにギィ、と音をたてて簡単に開いた。「さあ、どうぞ」という言葉に亜美は一瞬怯んだ。
 扉の向こうに待っていたのは、先の見えない真っ暗闇に包まれた階段だった。真世の家の地下室への入り口とそっくりだ。どうしようかと困っていると、エドは「ああ、ごめん。灯りがいるね」とそっと囁いて、両手を小さく、まるで神社で神様にお祈りをするように叩いた。するとどうだろう、左右の壁にひっかけられていたいくつものランプが、一斉に灯りを灯し出した。
「ついてきて。足元、気を付けてね」
「う、うん」
 ……音に反応する仕組みのランプなのだろうか? 
 亜美はエドの背中をおっかなびっくり追いかけながら、灯りをそっと盗み見るようにした。ガス灯っぽく見えるけど、どうなんだろう。
 階段を下りきると、木でできた扉が現れた。真ん中の辺りにぎょろりとこちらを覗くような碧い目玉の絵が描かれていて、なんだか不気味だ。エドは首に下げていた鍵を取り出すと、鍵穴にそれを差し込んだ。
「おばあ様、ただいま戻りました!」
 とたとたと、世話しなく足音をたてながら室内へ消えて行くエド。
 亜美は、ぐるりと部屋の中を見回して、ぱちぱちと何度か瞬きをした。
「……信じらんない」
 ここ、本当に土の中?
 可愛らしい、うす緑色の壁紙に、そこかしこに蔦が絡まってあらゆる花が咲いている。電気もガスも水道も通っているようで、入り口のすぐ左手に位置するキッチンらしき場所では、赤色のケトルがシューシューと音をたてている。
 火、消さなくていいのかな……? でも、どこにもボタンがない。心配になりながら辺りをうろついていると、やがて炎は何もせずともフッと鎮火した。
 不思議な場所。
 不思議で……綺麗な場所。
 亜美は、ほう、と感嘆にも似たため息をつきながらそう思った。
 天井からぶら下がる、やじろべえのような形をした、鈴のついた人形。見たこともないような文字が書かれた円盤。鈍い紫色に光る小瓶には、大きなドクロマークが描かれている。いかにも危険物ってかんじだ。編みかけのマフラーと、山の様に積み上げられた分厚い本。それに、何十もの試験管に入った石や草花たち。
「真世ちゃんの家みたい」
 いや……でも、まだ真世の家の方が亜美にも“わかる”。
 でも、この家の中にあるものは、なにがなんだか全然“わからない”。それは決定的な違いだった。なんだかまるで、違う世界の住人の家に迷い込んでしまったような――
「お客様がいらしたのに、置いてけぼりにするなんて、感心しませんよ、エド」
 その時、背後から声が聞こえて、亜美はハッとして振り向いた。
「いらっしゃい。この家に人が訪ねてくるなんて、随分久しぶりですね」
「あ、あの、私、」
「あなたのために湯を沸かしておきました。可愛らしいお嬢さん、紅茶はお好きかしら」
「……はい」
「あっ、おばあ様、僕が淹れます! どうぞ座っていてください!」
「いいえ、いけません。あなたの淹れる紅茶はせっかちな味がします」
 現れたおばあさんは、エドに対してぴしゃりとそう言い切ると(とはいえ、厳しいかんじの言い回しではなく、エドを可愛がっているということがよくわかる口調だった)、亜美の横を通り過ぎて、手際よくポットや茶葉を用意しだした。
「庭へ行こう」
「う、うん……庭?」
 ここ、土の中なのに?
 混乱しながらも、エドに導かれるままについていくと――そこには本当に、美しい庭があった。しかも、太陽(?)の光までで降り注いでいる。慌てて頭上を見上げると、プラネタリウムのような、真っ白いドーム状の天井が、ずっと高いところに広がっていた。
 一体全体どういう仕組みなんだろう? あのドーム状の天上から、お日様の光みたいなのが降り注いでいる、なんて。ひょっとして、前に両親に連れられて訪れた遊園地で見た、プロジェクションマッピングってやつだろうか……?
「え、エド。ここ、土の中だよね?」
「え? まあ、うん、そうだね」
「あれは……なに? どうやって光っているの?」
「ああ」
 エドは、えっへん、と誇らしげに笑った。
「おばあ様が作った魔道具だよ。蓋をあけて、陽の当たる場所にしばらく放置しておくと、光の欠片たちがくっついて小さな日照になるんだ。それを天井につるして……見てご覧、瓶のまわりに、オーロラみたいな薄いベールが見えるだろう? あれはオゾン層の役割を果たしていて、もちろんおばあ様が作ったんだけど……」
 ぺらぺらと、エドは話し出した。でも亜美の頭にはちっとも入ってこない。
 魔道具? なにそれ。文房具って言ったのを、訊き間違えたのだろうか?
 でも……随分へんてこな文房具だ。
「さあ、お茶が入りましたよ」
 ふんわりと良い匂いが漂ってきて、亜美とエドはパッと顔をあげた。
「おばあ様、椅子を」
「ありがとう、エド」
 エドは素早く立ち上がり、カップの乗ったトレーを受け取ってからテーブルに置くと、おばあさんの為に椅子を引いた。おばあさんが座ると、背もたれにかかっていた赤いブランケットをすかさず膝にかける。その一連の動作があまりにもスマートだったので、亜美は感心した。
「さあどうぞ。おいしいクッキーもありますよ」
「いただきます」
 亜美はおそるおそるカップに口をつけた。甘い甘いミルクティー。ほのかにはちみつの風味もする。
「……おいしい!」
「まあ、よかった」
 ほほ、と上品におばあさんは笑った。
 エドと同じ赤い髪だが、瞳の色は鮮やかな緑色だった。カップに伸びる腕は細く、今にも折れてしまいそう。
「それで」
 おばあさんはそっと、確かめるような口調で口を開いた。
「あなたは、どちらからいらしたのですか?」
「わ、」
 私は、と口を開こうとして、やめた。口の中にまだクッキーが残っていた。もぐもぐと咀嚼し、きちんと飲み込んでから、再び口を開く。
「私は、湖のほとりにある、叔母の家にしばらく泊っているんです。自分の家は、ここから少し離れた場所にあります」
「そうですか。……ああ、そういえば、あなたに似た女の子を知っています。特に目元がそっくりです」
「え……真世ちゃ……叔母をご存知なんですか?」
「ええ、ええ、もちろんですよ。懐かしい名前ですね。随分前に会ったきりですが。あの子は元気ですか」
「はい。じゃあ、叔母もここへ来たことがあるんですか?」
「そうですね。私が、まだあなたくらいの年齢の時に」
「え」
 それって、どういうことだろう?
 目の前のおばあさんの年齢がいくつかはわからないが……七十歳は過ぎているように見える。ということは、今の話が本当だというのなら、真世がここへ来たというのは、もう五十年以上前の話、ということになる。
 真世は亜美の母より六つ年下なので、確か今年三十一歳だったと思う。どう考えても計算が合わない。
 ……もしかして、誰かと勘違いをしている? 
 それとも、お年を召して、記憶があやふやになっているとか……。
「ほほ。あなたは正直ね。全部顔に出ていますよ」
「えっ!? す、すみません……」
「いえ、構いませんよ」
 おばあさんはそう言って、上品な手つきでカップに口をつけ、紅茶を一口飲んだ。
 亜美はなんだか落ち着かないような気持ちになって、テーブルの下で両足の爪先同士をもじもじと絡めた。ちらりとエドに視線をやると、ぱくぱくとクッキーを頬張ってはにこにこ笑っている。呑気なものだ。
「ああ、そうだエド。ロールにご飯をあげてくれますか。裏庭の方で丸まっているはずです。そろそろお腹を空かせているでしょうから」
「え……昼食を食べなかったのですか?」
「今朝、ソファで爪とぎをしているのを窘めたから、拗ねているんですよ。あなたの手からなら食べるはずです。お願いできますか」
「わかりました! 捜してきます」
 エドはさっと立ち上がり、ぱたぱたと世話しない足音をたてて裏手の方へ去っていった。
「さて、亜美さん」
「は、はいっ」
 返事をしながら亜美は、あれ? そういえば私、名乗ったっけ……? と疑問に思った。
「あの子には、私の跡継ぎになってもらうつもりなんです」
「え……そうですか」
「ええ。しかしあの子は、自分の将来はもう決まっているのだから、わざわざ学校へ行って学ぶ必要なんてない、と言うのですよ。亜美さんはどう思いますか」
「それは……やっぱり、良くないことなんじゃないでしょうか、一般的に」
「何故ですか?」
「え、だって、」
 亜美は思わず口ごもった。
 だって……学校って、行きたいから行くとか、行きたくないから行かないとか、そういう場所じゃないはずだ。
 行かなくちゃいけない場所。
 行く、義務がある場所。
 少なくとも亜美の周りの人たちは、亜美に対してそう言った。まあ、現状亜美は学校へ行かず、土の中で見知らぬおばあさんとお茶をしているわけだが……。
「私、担任の山根先生に言われたんです」
 美しい緑色の眼差しを受けながら、亜美は口を開いた。
「社会に出たら、行きたくないから行かない、なんてそんな我儘は通用しないって」
「まあ、そうですか」
「だから、今の内から“訓練”をしておかないといけないって。立派な大人になるために」
 山根先生は四十歳くらいの女の先生で、甘ったるい話し方が亜美は苦手だ。
 前に一度、仮病を使って三日間学校を休んで登校した時、廊下で、それもとても大きな声で、
「体調が悪かったのよね? もう大丈夫なのかしら。一体どこが悪かったの?」
 と。そう呼び止められた時は本当に嫌だった。
 何が嫌って、周囲に生徒たちがたくさんいて、ちらちらと自分たちを覗き見ているような状況で話しかけてきたところだ。そんな状況では逃げようにも逃げられなかったし、まともに反論することもできなかった。
「もう大丈夫です」
「どこが悪かったの?」
 話を切り上げたくて、わざと短く返したのに食い下がられて、亜美は更に嫌な気分になった。
 しかも、言葉のわりに先生の口調は全然心配しているかんじじゃなくて、“いけないことをした悪い生徒に、間違いを認めさせてやろう”とでも言いたげな感じがして、そういうことにも心底げんなりした。
「お腹が痛かったんですっ」
 亜美は、もうほとんど投げやりにそう答えた。すると山根先生は、「まあ、そうだったのね。でも、三日間も痛かったの? それは大変だったでしょう」と話を続けた。演劇部の顧問だということもあってか、山根先生は妙に芝居がかった話し方をする。そういうところも、亜美はなんとなく嫌だった。
「あのねえ、社会に出たら、例えお腹が痛くても決してお仕事を休めないのよ。他の人に迷惑がかかってしまうでしょう?」
「はあ」
「多少の病気程度なら、薬を飲んで、無理をしてでも仕事へ行かなくちゃいけないの。だから、行きたくないから行かない、なんていうのは決して通用しないのよ。先生ね、今の内から皆に、そういうことをわかってほしくて。だってそうでもしないと、大人になった時困るでしょう?」
 それは暗に、“お前はずる休みをした”と言われているのと同じだった。
 この先生は、自分の言葉を、最初からまるきり信じてなどいないのだ。
 亜美は腹が立って、でも上手に反論できるだけの言葉を持ち合わせていなくて、ぎゅっと拳を固めて黙り込んだ。学年カラーの、わざとらしいくらい明るい黄色で縁どられた上履きが、なんだか憎らしく思えた。
 でも、山根先生と全く同じと言わずとも、亜美のお父さんもお母さんも、亜美に対して同じようなことを言う。
 社会に出たら、大人になったら、もっと大変なことが待ち受けているのよ……。
「訓練とは、中々良いことを言いますね」
 亜美はハッとして顔を上げた。いつの間にか黙り込んでしまっていたようだ。
「人は生まれてから死ぬまで、あらゆる人や物から教訓を得ます。生きるということは、不測の事態に備えて訓練をし続ける、ということでもあるのかもしれませんね」
「でも……そんなの、つまらない。だってそれって、常に何かから身を守らなくちゃいけないということでしょう。そんなの、息が詰まっちゃう」
「こんなことを言えば、あなたはがっかりしてしまうかもしれませんが……実は大人は皆それぞれ、そうやって生きているのですよ。自分で自分を守って生きていくしかないのです。でも、」
 おばあさんは、とびきりの冗談を披露するような顔で微笑んで、
「少なくとも私は、そういうことに喜びを感じています」
「そういうことって?」
「自身を守るだけの力が、自分にはきちんと備わっている、ということです」
 と、言った。
「いいですか、あなたの人生の責任は、あなたがとるしかないのですよ。他の誰もとってくれません。そのためには、あなたは周囲のあらゆるものから学びを得る必要があります」
「……じゃあ、やっぱり学校をさぼるのは悪いことだってこと?」
「いいえ、そうは言っていませんよ。あなた自身が決めたことなら、それも決して悪いことではありません。しかし、学びを得る大きなチャンスを逃すことにはなりますね。そしてその埋め合わせをするためには、大いなる努力が必要になります」
 大いなる、努力……。
 その言葉の仰々しさに、亜美は固まってしまった。
 自分には、そんな覚悟があるだろうか?
 亜美の表情が曇ったのを見て、おばあさんは「ほほ」と笑った。「年寄りのお喋りだと思って、あまり重く捉えないで下さい」なんて続けて言うが、妙に説得力のある言葉の数々を、そんな軽くいなせるような気には到底なれなかった。
「おばあ様! ロール、ご飯食べましたよ!」
 そうこうしていると、エドが嬉しそうに笑いながら戻ってきた。
「まあ、ありがとう、エド。助かりました」
「いいえ!」
 紅茶をすっかり飲み終わった亜美は、なんだかずうんと色んな事が胸に渦巻いてしまって、そろそろ帰ろうかな、と思った。そして亜美のそんな思いを敏感に察知したかのように、おばあさんがそっと笑って囁いた。
「亜美さん、よろしければまた明日にでも、遊びにきてはくれませんか」
「え……は、はい。私でよければ」
「よかった! ここまでの道順はわかりますね?」
「はい。アカシアの木の下ですよね。大丈夫です」
「迷うようでしたら、エドを迎えに寄越します。では、また明日。あなたのために、良いものを用意して待っています」
「良いもの?」
 聞き返しても、おばあさんは微笑みを浮かべるだけだった。明日になってからのお楽しみ、ということだろう。
「亜美、送っていくよ」
「え、いいよ、そんな」
「いいから。おばあ様、ちょっと外へ出てきます」
「はい、気を付けて」
 なんだか悪いな、と思いつつ、有無を言わさない口調のエドに圧されて、亜美は大人しく送ってもらうことにした。
 階段を上り、地上に出ると、本物の太陽がきらきらと輝いていて眩しい。
 アーチ状に連なった木々の間を抜けたところで、亜美はエドを振り返り「ここまでで平気だよ」と言った。
「そう? じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日。……ねえエド」
「ん?」
「あなたって……本当に存在しているわよね?」
 そう、出会った時からにわかに疑わしかったことを、亜美はおそるおそる尋ねた。
 だって、森の中の、大きな木の下に扉があって、そこで暮らす男の子、なんて……。
 けれどエドは、きょとんと不思議そうに瞳を丸くさせた後、「ふふ……ふふふ、あはははは!」と大笑いし出した。
「ちょっと! そ、そんなに笑わないでよ」
「ふふ……ごめんごめん。うん、僕はちゃんと存在しているよ。ほら」
 エドは亜美の手をそっととって、自分の右手首のあたりを掴むようにさせた。トクン、トクン、と脈が動いている。生きている証だ。亜美はなんだかほっとして、それから「変なことを聞いてごめんなさい」と謝った。
「ううん。僕も聞きたいんだけど……君って、本当に存在しているよね?」
 からかうようなエドの言葉に、今度は亜美が笑った。
 エドと別れて森を抜けると、何の変哲もない、ボート乗り場がそこにはあった。亜美はまるで、現実と別世界の間を往復したみたいな気持ちになった。
 なんだかすごく疲れたし、眠い。
 水泳の授業を受けた後みたいな、そんな気怠いかんじがする。
 家へ戻ると、真世が居間の机でパソコンを広げていた。仕事部屋で集中力が途切れたり、気分を変えたいときは今みたいに下に降りてきて作業をするのだ。
 そよそよと風に揺れる真世の短い髪を見ながら亜美は、今日起きたことを話そうか迷った。
 不思議なことに、あの森で起きた出来事の全ては、口に出したら最後、なかったことになってしまう気がした。どうしてだろう? こんな気持ちははじめてだった。
 時計を見ると、亜美の予想に反して大分時間が経っていたようで驚いた。昼頃家を出て、せいぜい一時間か二時間程度しか経っていないと思っていたのに、針はそろそろ夕方五時を指そうとしている。
「ああ、お帰り。遅かったじゃない」
 ぼうっと突っ立っていると、真世がパッと顔を上げて、亜美に対して微笑みかけた。
「どうしたの? 疲れた顔してる」
「真世ちゃん、あのさ」
「ん?」
「……真世ちゃんは、子供の頃、学校サボったことある?」
 それは、亜美から真世に対して投げかける、はじめての“意味のある質問”だった。
 亜美が学校へ行きたがらない、という相談を亜美の母から受けた真世は、それなら気分転換も兼ねて自分の家へおいでと誘ってくれたが、驚くことに今日まで一度も、どうして学校へ行きたくないのかとか、そういうことを聞いてはこなかった。そう、思わず亜美自身がやきもきしてしまうくらいには。
 亜美の質問に対して真世は、一瞬目を丸くした後、ふふん、と何故か偉そうに笑って、
「そりゃあるわよ! なにせ、学校なんてサボってなんぼだって思ってたからね、私」
 と、言った。
 その一言があまりにも真世らしかったので、亜美はちょっとだけ笑った。
 ふっと、心が軽くなったような気がした。
 
 
   *
 
 
 翌日、いつも通り午前中は真世の手伝いをして過ごし、麦茶を飲んでから、亜美はあの森へ向かうために支度をしていた。
「出かけるの?」
 散々家の中でだらけていた亜美が、二日連続外出をしようとしているのを意外に思って、真世がわずかに目を丸くさせて訊いてきた。
「う、うん。ちょっとね」
「ふうん。気を付けてね」
 どこへ行くのとか、誰かと会っているのとか、そういうことを聞かれずに済んだので、亜美はホッとした。
 真世にはそういうところがある。深く詮索しようとせずに、放っておいてくれる。亜美にはそれが、とても心地よかった。
 昨日と同じ道筋を辿って森へ向かう。
 ボート乗り場の付近に、男の人が一人立っていた。どこか遠くをじっと見つめて動かない。なんとなく物憂げだ。……小屋の持ち主だろうか。そういえば、真世に船はお金を払えば乗れるものなのか聞くのをすっかり忘れていた。
 森の中は、相変わらず鬱蒼としていた。
 姿の見えない鳥たちがどこからかピィピィと鳴き声をあげては、気まぐれに木の葉を揺らしている。すう、と肺いっぱいに空気を吸い込むと、体中に森の緑が染み入るような気がして気分が良い。
 濃い色の地面に複雑に絡まる木の根の間をひょいひょいと器用に歩きながら、黄色い花の咲くあの大きなアカシアの木を目指した。やがて昨日と同じように視界が開けてきて、その先に見知った背中を見つけたので、亜美は嬉しくなった。
「エド!」
 声をかけると、エドはパッと振り向いて、「やあ、亜美。こんにちは!」と笑った。被っていたフードをそっと剥がすと、暗い森の中には不釣り合いなほど燃えるように赤い髪が露わになる。
「何をしているの?」
「クラスペディアの花を摘んでいたんだ。乾燥させて部屋に飾ろうと思って」
「ふうん。こっちのやつは?」
「ベラドンナ。猛毒だけど、薬にもなるんだよ」
 籠いっぱいに草花を摘んだエドは、満たされたような顏で「さあ、おばあ様が首を長くして待っているよ」と言って足元の扉を開けた。
 自分には見当もつかないような草花の名前を知っていたり、丁寧な口調で話したりするエドの振舞いを、亜美はいいなと思っていた。
 学校のクラスメートたちは皆、自分のことでいっぱいいっぱい、という感じがする。でも、エドからはそういう余裕のない感じはしなくて、その穏やかな態度が、不思議と亜美をホッとさせるのだ。
「あれ? お客様かな」
 部屋に入ると、人の気配を敏感に感じ取ったのか、エドがちょっと緊張した声色でそう言った。言われてみると確かに、遠くからかすかな話声が聞こえてくる。
「……亜美、悪いけどここまで少し待っていて」
「え……うん。大丈夫?」
「うん」
 あまり、大丈夫ではなさそうな声色だった。
 亜美は心配になったが、待っていてと言われればそうする他ない。
 言われた通り、居間の椅子に座って大人しくエドを待った。ブリキでできた壁掛け時計のカチカチという音だけが辺りに響いている。
 そっと庭に目をやると、茶色い毛並みの小さな子猫が、亜美を見張るようにじっとこちらを見ていた。
「あなたがロール?」
 手持無沙汰だったので、思わずそう声をかけると、猫は愛らしい声ででニャオと鳴いて、軽々とした足取りで亜美にすり寄ってきた。首元で銀色の鈴がリンと鳴る。撫でようと手を伸ばすと、ぱしんっ、と前足でパンチを食らった。
「随分気まぐれね」
 爪をたてない優しいパンチだったので、決して痛みはしなかったが、亜美は叩かれたところをそっとさすった。猫は亜美をじっと見て、それからまるで、ついてこい、とでもいうように歩き出した。
「……あっ、ちょっと!」
 思わず追いかける亜美。
 猫は庭の裏手に亜美をつれていくと、そのすぐ傍にある小さな木製の小屋の前でまたしても鳴いた。 
 ここに、何があるというのだろう? 
 不思議に思っていると、わずかに開いた小さな窓から話し声が聞こえてきた。
「――この子には偉大な力があります。それを活用する道を、わたしなら示すことができる、と言っているのですよ」
「ええ、ええ、先生のおっしゃっていることは重々承知していますよ。ですが、他ならぬこの子自身が、学校へは行かない、行きたくないと言っているのです。一体全体誰がこの子の心を置き去りにして、意に副わないことをさせられますか。少なくとも、私にはできませんが」
 そこに居たのは、苔のような深い緑色をした、鍔の広い三角の帽子をかぶった美しい女の人だった。
 その人は、おばあさんに向かって厳しい眼差しを向けている。そして、二人の間でエドがおろおろと困ったような顔で立っている。
「とにかく、この子は連れて行きます。残念ながらこれは決定事項ですので、覆ることはありませんわ。エド、制服に着替えていらっしゃい」
「で、でも、僕は」
「……いえ、やはり構いません、このまま行きましょう。またしても逃げられたりしたらたまりませんからね」
「えっ、ちょっと! 嫌だ、おばあ様!」
 亜美はその時、信じられない光景を見た。
 部屋の隅に構える、大きな鏡。
 石でできたその鏡の縁には、たくさんの兎の彫刻が施されている。帽子を被った女の人は、エドの腕を掴んでずんずん歩き出すと、鏡の前でなにかブツブツと、呪文のようなものを唱えだした。
 するとどうだろう。
 何の変哲もないただの鏡が、墨で塗りつぶされたかのように鈍い黒色に染まりだした。
「駄目!」
 亜美はなんだか恐ろしくなり、咄嗟に大声を出して部屋に飛び込んだ。
「亜美!」
 エドの目が驚いたように見開き、それから助けを求めるように亜美に向かって真っすぐ伸びてくる。亜美もエドに向かって手を伸ばす。
 しかし――あと少しで二人の手が触れあう、というところで、亜美の手は空しく空を切った。
 さっきまで確かにそこに居たはずのエドが、消えてしまったのだ。
 帽子を被った女の人は、エドの腕を引いて、なんと鏡の向こうへ引きずり込んだ。奇妙に広がる真っ暗闇は、エドを飲み込むと役目を果たしたかのように元の姿へと戻った。
「う……うそ」
 亜美は泣きそうになりながら、エドが消えた鏡をぺたぺたと何度も撫でた。
 裏側に隠し通路があるのかと疑い、鏡の淵を引っかいて壁から引っぺがそうとしても、鏡はうんともすんとも言わない。
「おばあさん、エドが消えちゃった!」
「落ち着いてください。連れていかれてしまっただけですよ。消えたわけじゃありません」
「え……それって、」
「しかし……困ったことになりましたねえ」
 よいしょ、と立ち上がって、忌々しそうに鏡を見つめるおばあさん。亜美は、どうしてそんなに呑気でいられるの? と、不思議でならなかった。
「さあ亜美、こちらへいらっしゃい」
「え……」
「よく聞いてくださいね。世の中の、ありとあらゆる物事には必ず理由があります。太陽が毎朝昇るのも、月明かりが街を照らすのも、そんなに壮大なことではなくて、もっと身近なこと……例えば今、亜美が生きていることにも、きちんと理由があるのです」
 おばあさんの目は真剣だった。森の緑を取り込んだかのようなエメラルドグリーンの瞳で真っすぐに見られると、なんだか緊張してしまう。
「エドは、あなたという運命を手繰り寄せたのです。この理由がわかりますか」
「い、いいえ」
「あなたには魔女の素質があるわ」
 ……魔女? 
 亜美は目を白黒とさせた。
「古来魔女というのは、何も不思議な力を使う者ではなく、人に癒しを与える優しさや知識を持つ、賢い女性を指したのですよ。彼女たちは苦しんでいる人の声を聞き、的確にアドバイスをすることができました」
「あ、あの、今そんなことを話している場合じゃ、」
 ない、と言いかけたところで、亜美はハッと言葉を飲み込んだ。
 先ほどまで外の灯りが差し込んでいた室内はいつのまにか暗くなり、テーブルや椅子や本棚などの家具が消えている。それどころか、亜美は自分が宙に浮いている、ということに気が付いた。
「うそおっ!?」
 そこは、果てしなく続く暗闇に、いくつもの小さな光がちらちらと散らばる空間だった。
 まるで、宇宙そのものだ。
 亜美の横を、いくつもの灯りが通り過ぎていく。流星のように。赤や青や黄色や……絵の具のチューブを何色もぶちまけたかのように点滅を繰り返す光を唖然と見つめていると、亜美よりはるか上に浮かんだおばあさんが、いつものように「ほほ」と笑った。
「昨日約束した通り、あなたに良いものを差し上げましょう」
「あ、あの!? これはいったい、」
「ほほ。実は私、魔法使い向けに便利な道具を造って売るお仕事をしているのですよ。ここは私の工房」
 魔法使い? じゃあ、おばあさんは魔女? え? 魔女って実在したの? 
 亜美は混乱して、目を回してしまいそうになった。そうこうしているうちに、亜美の周りを多様な光たちがぐるぐると乱舞しだした。
「ズボンとスカート、どちらがいいですか?」
「えっ?」
「制服のことですよ。お好きな方を」
 制服? はあ、制服……。
 混乱した頭で、普段学校で来ている制服を思い浮かべながら、「スカート」と返事を返すと、光は亜美の胸に真っすぐ入り込んできて、全身を包み込むようにした。
「まあ! よく似合いますよ」
 いつの間にか、先ほどまでの不思議な宇宙空間は消えていて、亜美はぺたんと地面に座り込んでいた。
 ごわごわと、落ち着かない感触が全身を包んでいたので、視線を落とすと見慣れない服を着こんでいた。丸襟の黒いシャツに、ひざ下くらいまであるプリーツの少ない武骨な黒いスカート。胸元にはひょろり長いひも状の真っ赤な細いリボンが揺れている。
「亜美の髪色は恒星のようですし、黒い服を着るとまさしく星の子供みたいですね」
「あの……あなたは、魔女?」
「はい、まさに」
「じゃあエドは……魔法使い?」
「その通りです」
 くらくらした。
「亜美、悪いけれど、お遣いを頼めますか」
「お、お遣いって」
「あの子を連れ戻してきてほしいのです。それがあの子の望みのようですから」
「……魔法の世界から?」
「そう、魔法の学校から」
 夢でも見ているのだろうか? 
 頬をつねる。……しっかり痛い。亜美は頭を抱えた。
「エドのためだけではありませんよ。これはあなたのためにもなることです」
「……私のため?」
「ええ、その通りです。言ったでしょう。あなたはあらゆるものから学びを得る必要があります。そしてまさに今が、そのチャンスなのですよ」
 吸い込まれそうな緑色の瞳にそんなことを言われると、思わずうなずいてしまいそうになる。亜美はしばらく「でも」とか「そんな」とかもごもごと口ごもった。
「もしもエドを無事連れ帰ってくれたら、私があなたのお願い事を一つだけ、何でも叶えてさしあげますよ」
「え」
「どうですか。悪い条件ではないと思いますが」
 お願い事を、何でも叶えてくれる?
 ドキン、と胸が鳴る。
 もしそれが本当なら。
 あの日の、あの瞬間を、なかったことに――
 
 ――亜美の裏切者!

「亜美?」
 声をかけられてハッとした。顔をあげると、おばあさんが心配そうにこちらを見ている。
「ご、ごめんなさい。ボーッとしていました」
「いえ……大丈夫ですか?」
「はい。あの……でも、魔法の世界なんて、私、当たり前だけど行ったことないし……」
「そんなに気負わなくて大丈夫ですよ。心配しなくても、ちゃんと上手くいきますし、あなたは立派にやり遂げます」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「そう言い切った方が、元気が出るでしょう」
 そう言って、しわしわの手でぎゅっと両手を握られ、手のひらに何かを掴まされる。こわごわ手のひらを見ると、そこには黒い布でできた巾着袋があった。
「幸運のキャンディーです」
「これも魔法道具?」
「そうですよ。口の中で転がしている間は、嬉しい気持ちでいられます」
 ……つまり、ただの飴玉じゃないか。
 亜美は手のひらに乗る、小さな巾着の口をそっと開けた。透明なフィルムに包まれた黄色いキャンディが、たったの一つ入っている。
「エドはこの飴が一等好きなのですよ」
 そう言って微笑むおばあさんの横顔は、本当に優し気だった。亜美は俯いて、ぎゅっと巾着袋を握りしめる。
 ……エド。
 私に向かって手、伸ばしていたな。
 ぐるぐると、胸の中に思いが渦巻く。にこにこ笑って、亜美を歓迎してくれたエド。学校へ行っていないのだと話すと、じゃあサボり仲間だと言ってくれたエド。
「あの……おばあさん。わ、私にできるのなら、エドを迎えにいきます」
 亜美は、胸のリボンをぎゅっと握りながら、おそるおそるそう言った。
「まあ、本当!」
「でも、一体どうすればいいんですか?」
「大丈夫。お供をつけてあげますからね。ロール、いらっしゃい!」
 おばあさんが呼ぶと、窓枠のあたりで丸くなっていたロールがぎょっとした風に飛び上がり、渋々と近寄ってきた。
「亜美をエドのところまで連れていって頂戴」
 ニャオ、と鳴き声。
「あら、そんな可愛い子ぶってもむだですよ。しっかり挨拶なさい!」
「えぇ~……! こんな子供のお守をさせるなんて、酷いですよお……」
 ぎょっとした。
 少し舌ったらずな、幼い男の子の声が聞こえたと思ったら、ロールがひょいと机に飛び乗り、「どうも、こんにちは」と亜美に向かって挨拶をしてきたのだ。亜美は驚きのあまり言葉が出ずに、ただぱくぱくと口を開閉させた。
「なんですか? 喋れないんですか?」
「しゃ、喋れるわよ!」
「ああ、そうですか、それはよかった」
 ぺろ、と前足を嘗めて顔を洗うような仕草をするロール。こうしてみれば普通の猫だ。でも、普通の猫は人の言葉を話さないし……。ぐるぐると目を回しそうになる亜美に、おばあさんが「ほほ」と笑った。
「大丈夫。この子はちょっと天邪鬼なだけで、とても善良な子ですよ」
「は、はあ」
「鼻が良いので、エドの匂いを辿ってくれるはずです。ロール、あなただって、エドがいないと困るでしょう」
「困りはしませんが……あの子が不本意な思いをしているというのなら、それは確かに放ってはおけませんね」
 やれやれ、仕方ない。愛らしい子猫の姿に不釣り合いな、気だるげな台詞を吐くロールを、亜美はしげしげと見つめた。
 喋る猫、なんて。
 なんだか本当に……夢でも見ているみたい。
「さあ、では亜美。しゃきっと背筋を伸ばして、堂々となさい。あなたは魔女として学校へ行くのですから」
「え、魔女としてって」
「ロール、頼みましたよ。あなただけが頼りですからね」
 ロールはニャオと鳴いて、亜美の肩に飛び乗った。首筋にふわふわと尻尾があたってくすぐったい。
「先ほども言った通り、古来魔女というのは賢い女性のことを指します。大切なのは、自分の頭でよく考え、結論を導き出すということです」
 自分の頭で考えて、結論を……。
 おばあさんの仰々しい言い方に、亜美はごくりと唾を飲み込んだ。
「……あの、もっと他に何か、道具をもらえたりしないんですか? 例えば……魔女らしく箒とか」
「あなたが箒なんて持ってどうするんです。掃除でもしたいのですか?」
 ウッ。確かに。魔女だなんだと言われても、普通の中学生の自分には箒を手にしたところで飛ぶことなんてできない。
 そうこうしている間に「さあさ」と背中を押されて、鏡の前に立たされた。
 鏡の中に映る、見慣れない格好をした自分に思わず戸惑う。肩に乗るロールは鏡の中でもふてぶてしい顔をしている。
 ぼうっとしながら自分を観察していると、まるで湖に雨が降り注ぎ、水面が揺れるかのように鏡が淡く滲みだした。
「どちらへ?」
 鏡の向こうから声がする。囁くような、美しい女性の声。
 驚いて目を丸くする亜美に代わって、ロールが高々と叫んだ。
「魔法学園!」
 そのとき、背中をポンッと押されて(え!)、亜美はそのまま、鏡の中へと真っ逆さまに落ちて行った。
 
 
   *
 
 
 落ちてる。落ちてる! 
 あたりを見回すと、亜美は自分が雲の合間を縫うようにどんどん下へ落ちて行っていることに気が付いた。ごおごおと風を切る音がすさまじく響いている。
 段々と迫る地面。こんな勢いで叩きつけられたら、間違いなく死ぬ。即死だ。それも、とんでもなく痛いだろう……! 
 しかし、恐れていた事態に陥ることはなかった。亜美の体は地面に叩きつけられる直前でぴたりと制止し、そのままふわふわとしばらく宙に浮いた。そしてゆっくりゆっくり、時間をかけて地面に降ろされる。
「た……」
 助かった、という声は出なかった。あまりに恐ろしくて腰が抜けてしまい、ぺたんと地面に座り込んでしまった。
 私、生きてる……! 
 亜美は思わず、自分の体を固く抱きしめるようにした。
「……ここは」
 見上げるとそこには、見たこともないような光景が広がっていた。
 立派な白いレンガ造りの古い建物。天文塔のようなものがいくつか突出していて、一見してお城のように見える。
 しかし、その建物の中央には、とんでもなく巨大な――そう、大樹が顔を出しているのだ。こんなに大きな樹は見たことがない。百メートルは軽くあるんじゃないだろうか。校舎をぶち抜いて悠々と、まるで大きな傘を広げるかのように根を張っている。
「あれが大樹トネリコです」
 いつの間にか、へたり込む亜美のひざ元にロールがいた。
「世界樹としても有名ですね」
「世界樹?」
「ええ。宇宙の中心に立つ大木のことですよ」
 ロールの言うことは抽象的でわかりづらい。目を白黒させていると、「さっさと行きますよ」と膝のあたりを前足で叩かれた。
「言っておきますが……魔法使いや魔女の中には、人間に対して友好的でないものもいます。その昔、人とは違う力を使える者は迫害の対象になり、酷い場合は処刑されてきた歴史があります。魔女狩りという言葉をご存知ですか」
「う、うん。聞いたことある」
「殺された魔法族の子孫は特に人を嫌います。あなたは魔女のふりを徹底してしなければなりません。無事に元の世界に帰りたいのなら」
「そ……」
 そういうことは早く言ってよお!
 しかし、亜美の心の叫びも空しく、ロールはさっさと歩き出してしまう。亜美はなんとか立ち上がり、ゆらゆら揺れる尻尾を追いかけた。
 てっきり玄関へ向かうのかと思ったが、ロールは壁沿いを歩き、ある一点で立ち止まると「ここです」と何の変哲もない箇所を尻尾で指した。
「ここが何?」
「壁を三度叩いてください。タン、タタンのリズムで。ああ、優しくですよ! 子猫を撫でるような手つきで、さあどうぞ」
「はあ」
 壁に向き直る。
 おそるおそる、言われた通りに叩くと、煉瓦の壁は見る見る形を変えて、素朴な木製の扉が現れた。
「隠し通路です。エドが校舎を抜け出したい時よく使っていました」
 ふふん、と胸を張るロール。亜美はなんだか、段々この非日常なかんじに慣れてきている自分がいること気が付いた。
 ドアノブに手をかけて扉を開くと、亜美の真横を凄い勢いで何かが通り過ぎて行った。振り向いてその影を追うと、自分の横を通り過ぎたのはカラスのようだった。
「……うわあ」
 そして、改めて向き直った扉の向こうに広がっていたのは、見たこともないような景色だった。
 広い廊下を、亜美と似たような服を着た子供たちがわいわと騒がしく歩いている。
 いや、人だけじゃない。犬のような姿なのに、背中に羽の生えた奇妙な生き物とか、下半身が透けている女の人とか、頭に斧が突き刺さった男の人とか……そういう思わずぎょっとしてしまうような出で立ちの者もちらほらいる。
 吹き抜け部分に巨大な木の幹がでんと構えていて、木漏れ日が埃っぽい室内をきらきらと照らしている。あんぐりと口を開けたまま天井を見上げると、流れ星のように小さな光がちらちらと頭上を横切った。
「ロール、天井に流れ星が!」
「え? ああ。そうですね」
「それに、あの人はもしかして幽霊? あと、あの犬みたいな生き物は!?」
「ちょ、ちょっと、落ち着いてください!」
 ロールに窘められて、亜美はようやくハッとした。見慣れない景色に興奮して騒ぐ亜美を、学園の生徒たちが不思議そうに見ながら通りすぎていく。
「君、見かけない顔だけど、どこのクラスの子? 学年は?」
 背後から声をかけられ、振り向くとそこには、こちらをじろりと睨みつける背の高い男の子が立っていた。いかにも優等生ですって感じの、四角い眼鏡をかけて、髪をぴしっとそろえた勤勉そうな立ち振る舞いに、亜美は慌てた。ロールが肩の上で「あちゃあ」と小さく呟く。
「え、ええと……」
「どうしてすぐ答えられない? 自分の所属だよ。もしかして、君……」
 やばい、まずい、どうしよう。
 だらだらと、冷や汗が止まらない。先ほどのロールの言葉が頭をよぎる。人間を良く思わない魔法使いもいる――。もし、もしここで自分が人間だとバレたら、一体どうなるのだろう?
「――あれ。こんなところに居たんだ」
 しかし、問い詰められて言葉を詰まらせる亜美の腕を、少し乱暴にぐいっと引っ張る手があった。
 えっ、と驚いて目をやると、そこにはフードを深く被った、亜美と同じくらいの背丈の女の子が立っていた。
「探したんだよ。ちょっと目を離した隙にすぐどっか行っちゃうんだから」
「え、え」
「レオン。この子転入生なんだ。あたし、案内頼まれてんの。そんじゃね、そういうことだから!」
「あっ、おい!」
 そのまま勢いよく走り出す。「ちょ、ちょっと!」と慌てる亜美とは正反対に、自分を引っ張る女の子は心底楽しそうにけらけら笑っていた。
 長い廊下を抜けて、らせん階段を上り、人気のない教室にたどり着いたところで、ようやく腕から手が離される。
 ぜぇぜぇと肩で息をする亜美と裏腹に、女の子は全然疲れた様子を見せずに相変わらず笑っている。
「ねえ、あなた誰? 魔法使いじゃないでしょ。どうしてここへ来たの?」
 ドキンとした。
 どうしよう、早速バレた! 何も答えられずに目を泳がせる。しかし、女の子はじっと黙って亜美の答えを待っている。
「誤魔化そうとしたってムダよ。だってあたしにはわかるもの」
「え?」
「あたし、人のオーラが見えるの。嘘をついている人のオーラは、何かを隠そうとしてどんより黒くなる。ちょうど、雨雲がお日様を覆うみたいに。そしてまさに今のあなたは、何かを隠そうとして、必死で言い訳を考えている。そうでしょう?」
 オーラ? なにそれ。本当にそんなものが見えるっていうの?
 ロールにそっと目配せをすると、ふるふると首を振っている。なんのことやら、とでも言いたげだ。
「あたし、ドロシー。あなたは?」
「……亜美」
「変わった名前だね。よろしく、亜美」
 ドロシーは亜美の手をぎゅっと握ってぶんぶんと握手をすると、「この教室、はじめて入ったなー」なんて言いながら亜美から離れ、室内を歩き出した。そこら中に誇りを被った古めかしい本や羊皮紙が散乱しており、正面に構える大きな黒板には、いつ書かれたのかわからないような、消えかかった文字(数式?)がそのままにされている。
 亜美はドロシーの目を盗むようにしてしゃがみこみ、ロールに対して小さく囁いた。
「ねえ、あの子誰?」
「確か、エドの同級生です。変わり者で、いつも頓珍漢なことを言うので、仲間内で浮いていたように思いますが……」
「……逃げた方がいいかな?」
「その子、エドの友達でしょ?」
 ぎょっとした。離れたところに居ると思っていたドロシーが、いつの間にか目の前に立っていたのだ。
「何回か見たことあるよ。確か、名前は……」
「ロールです」
「そう、ロール! 可愛いね。確かにあなた、ロールパンみたいな色してる」
「はあ、どうも」
「あの、ドロシーさん」
「ドロシーでいいよ。さん付けなんて、柄じゃないもの」
 言うと、ドロシーは被っていたフードをそっと脱いだ。
 くるくるとカールする黒い髪に、宝石みたいに青い瞳は垂れ目がちで、どこか眠たそうだ。
 そして、顔の右半分が赤黒く変色している。火傷の跡のようだ。額から、上唇のあたりまでをくっきりと覆う傷に、亜美は思わずたじろいだ。
「私の顔になんかついてる?」
「え、その、」
「なーんて。いいんだ。皆同じような反応するから」
 亜美は、自分の頬がわずかに熱くなるのを感じた。情けない、恥ずかしい。自分はなんて幼い奴なんだろう。明るく笑ってくれるドロシーに、気の利いた言葉の一つもかけられないなんて。
「……傷、痛むの?」
「え? ううん。もう痛まないよ。5歳の時についた傷だから。死んだお父さんが癇癪持ちだったんだ」
「そう……驚いてしまって、ごめんなさい」
「謝らないで。心配してくれるんだ。亜美は優しいね」
 ドロシーはそう言って笑った。
「みんなね、見ちゃいけないものでも見たかのように苦笑いするの。そういうのが一番傷つくんだけどね」
「そっか」
 100パーセントとまではいかないが、亜美にもドロシーの気持ちがわかる。
 亜美自身も、周囲の子たちとはちょっと違う容姿をしているから。
「エドも亜美と同じような反応をしてくれたな。痛い? 大丈夫? って訊いてくれた。あたし、嬉しかったんだ」
「そう……ねえドロシー。私、エドを迎えにきたの。どこへ行けば会えるかな?」
「迎えに?」
「うん。エドのおばあさんに頼まれて」
 ドロシーはなんだかふわふわしていて夢見心地といった様子の女の子だが、悪い人というようなかんじはしない。もしかして、協力してくれるかもしれない。
 そう期待して、亜美はここに来るまでの経緯を、洗いざらいドロシーに話した。
 話を聞き終わるとドロシーは「ふうん」と一息をついて、
「でも、どんな職業に就くとしても、学びの場が設けられているのなら、それを利用しない手はないと思うんだけどな」
 と、心底不思議そうな顔で言った。
 自分が求めていた返事(それなら協力するよとか、エドのところまで案内するねとか)が返ってこず、それどころか至極まっとうなことを言われてしまったので、亜美はちょっとだけたじろいだ。
「あたしも将来はママの跡を継ぐって決めているけど、学校で学ぶのを嫌だと思ったことは一度もないよ。だって学ぶってことは、選択肢を増やすってことだもの。エドは、自分で自分の手札を減らすような真似を、どうしてするんだろう」
「……ちなみに、ドロシーのお母さんはどんなお仕事をしているの?」
「レインモーグルの鱗粉から作ったお薬を売っているの。安眠材になるんだよ。あと、リウマチにも効くの」
 ふふん、と誇らしげに笑うドロシー。
 ……レインモーグルってなに? 囁くような小さな声でそうロールに問いかけても、ロールは「さ、さあ」と困ったように言うだけだった。本当にそんなものが存在するのだろうか?
「あたし、エドのことここしばらく見ていないけれど、本当に今学校にいるの?」
「うん。ついさっき、三角の帽子を被った綺麗な女の人がエドを連れて行ったのを見たの」
「ああ、テスター先生だね。厳しくて有名なんだ。いっつも真っ赤な口紅をしていて、前にルイスとビクターの問題児コンビがお化粧を落とす呪文をかけてもとれなかったんだ。皆、唇に真っ赤な刺青をしているんじゃないかって噂してる」
「どこに行けば会える?」
「ルイスとビクターに?」
「テスター先生に!」
「ごめん、冗談だよ。ふふ。先生に会いたいのなら、簡単だよ」
 ドロシーはそう言って、亜美の瞳をそっと見つめて続けた。
「授業を受ければいいんだよ。ここは学校で、テスター先生は、先生なんだから」
 
   *
 
「では、教科書の百六十ページを開いてください。ガマガエルの内臓を用いた昏睡薬の調合方法ですね。レオン、この薬を調合するにあたって、必要な材料があといくつかあります。それは何でしょう?」
「はい! 巨人族の爪と、猫の髭を三本、それから……白樺の木の枝です」
「よろしい! しっかり予習をしていて素晴らしいですね。では次……」
 こつん、こつんとテスター先生のハイヒールが鳴り響く広い教室。亜美は俯いて、時折視線だけをきょろきょろと動かしてエドの姿を探した。
 亜美がドロシーに連れられてやってきたのは、円形に椅子がずらりと並ぶ広い教室だった。
 階段状にテーブルが並び、その中央に教卓が置いてある。教室には、百人近くの学生が大人しく椅子に座り、授業を受けていた。
 テスター先生は教科書をふわふわと指先で浮かせながら、時折机と机の間の階段を上ってこちらに近づいてくる。
「……あら?」
 不意に、至近距離から声が響いたので、亜美はびくんと肩を揺らした。
「ドロシー、あなたの横にいるのは誰?」
「あ、その、」
「転入生の亜美です。校長先生に、私が案内を頼まれたんです。まさか先生、ご存知ないんですか?」
 慌てる亜美とは正反対に、飄々とした態度でそう言ってのけるドロシー。するとテスター先生は「なっ……!」と一瞬口ごもり、
「い、いいえ? もちろん知っていましたとも! 私に知らないことがあるとでも思っているの? だとしたらあなたはとんだお馬鹿さんですよ」
 と、言った。
 ざわざわと、教室中が騒がしくなる。そして大勢の生徒の視線は、“転入生”だという亜美に注がれていた。
「転入生はどこの学校から来たんですかー?」
 亜美の席から少し離れた、出入り口付近に座っていた男の子が、不意に亜美にそう訊いた。ふわふわの金髪に、気の強そうな切れ長の瞳。耳元でドロシーが「あれがルイスよ」と囁いた。そうか、彼が問題児その一、ルイスか。
「私は……ここから離れた学校から来ました」
「だから、なんて学校?」
「えーと……」
「あっ俺わかった!」
 今度はルイスの横に座る、黒髪の少年がそう言って立ち上がった。ルイスと同じように、気の強そうな瞳をしている。もしかして、あの子がビクター? とドロシーに対して囁くと、ドロシーは無言でこくんと頷いた。
「セントドローズだろ、落ちこぼれ学校!」
「こら、ビクター! 滅多なことを言うもんじゃありませんよ!」
 ルイスとビクターは目を見合わせて、けらけらと笑い声を上げた。亜美は、自分がばかにされているのだ、ということを理解して、カッと顏が赤くなるのを感じた。無言で二人へ向かって睨みつけるように視線を送ると、「なんだよ、やんのかよ!」「ケンカなら買うぜ?」とまたしても笑い声が飛んでくる。
「やめなさい、二人とも! えーと……マミ、だったかしら」
「亜美です、先生」
「あ、ああ、そう。変わった名前ね。今二人が言ったことは、気にしなくていいのよ。セントドローズは、そりゃ確かに頭のおかしい……いえ、野蛮な……いえ、えーと、個性的な子たちの更生施設として有名ですが。だからと言って、自分の出身を卑下する必要はありません」
「えっ!? いや、あの!」
「何か悪事を働いてあそこへ入学させられて、更生してこちらの学校へ転入してきたのでしょう? 素晴らしいじゃありませんか! 過去のことは水に流して、未来を生きましょう。わが校は、例えどんな困ったさんでも大歓迎ですわ!」
 くすくすと、教室中から笑い声が上がる。みんなが“困ったさん”である亜美をあざ笑っているのだ。
 セントドローズとかいうところのことなんて何一つ知らないし、自分はエドを探しにきただけっ! 
 そう訂正したかったけれど、これ以上目立ってもしょうがないし、なによりテスター先生が自分を“落ちこぼれの転入生”と認識してくれたことは、この状況では好都合だ。うん……不本意だけど……。
 テスター先生が「では仕切りなおして……」と咳ばらいをして身を翻す。亜美は、もう一度ルイスとビクターの方へ鋭い視線を送った。すると、二人は声を出さずに唇だけをそっと動かした。
 “まぬけ”
「なっ!」
「亜美、あなた自分が置かれている状況をわかっていますか」
 ひそひそと、膝上で丸まっていたロールが囁くように亜美に言う。
「わ、わかってるけど」
「そうだよ、亜美。あんな奴らに構ってる場合じゃないよ。エドを探すんでしょ。……まあ、どうやらこの授業には出ていないみたいだけど」
 ドロシーにまでたしなめられて、亜美は大人しく前に向き直った。ドロシーの言う通り、一通り教室を見回してみても、エドの姿は見当たらない。
 それから一時間ほどの間、ちんぷんかんぷんな内容の授業は続いた。
 ――最も効果的な忘却剤の作り方――黄昏時に現れる姿の見えない“ダッダー・ドー”という幽霊の追い払い方――言うことを聞かない使い魔の服従のさせ方(この説明を聞いている間、ロールが機嫌を悪そうにしていた)。
 ようやく授業が終わって解放される頃には、亜美はげっそりと疲れ果てていた。
 わけのわからない言葉の数々を、じっと座って聞いているのって、けっこう疲れるものだ。
「亜美、お昼食べに行こうよ。あたしお腹ぺこぺこ」
「ドロシー、そんなことしている場合じゃ、」 
 ない、と言いかけた亜美の言葉を、グゥ、という間の抜けた音が遮って、亜美は顔を赤くさせた。
 ……そういえば今日は、まだお昼ごはんを食べていない。
「決まり。行こ! 腹が減ってはなんとやら、でしょ」
 ドロシーが上機嫌にそう言って、すたすたと歩き出す。
 らせん階段を下りて、広い廊下を歩いている間、たくさんの視線が二人に注がれた。
 
 ――変人のドロシーが落ちこぼれの転校生をつれている――ていうかあの猫、どこかで見たことあるような――ほらあの子、セントドローズから来たっていう――
「みんな、お腹すかないのかなあ」
 心底不思議そうに、ドロシーが言った。ひそひそ話の渦中にいるというのに、全然気にしていません、とでもいうような声色だったので、亜美は驚いた。
「ドロシーは、噂話されたりするの、嫌じゃないの? ムカつかないの?」
「だってあたし、なあーにも悪いことしていないもの。それに、そういうことを気にして暗い顔でいるより、お昼ごはんのメニューのことを考えている方が、ずっと楽しいでしょ」
「……すごいなあ」
 亜美にとってドロシーの言葉は、前に授業で習った言葉、なんだっけ……そう、“青天の霹靂”ってやつだった。
 元の世界の学校で亜美は、一日に最低でも三回はいらいらしていた。
 自分の耳に届く範囲で繰り広げられる噂話にはもちろん、じろりとこちらを窺うような無遠慮な視線とか、そういうものも全部、等しく嫌だった。
「僕、サンドイッチがいいなあ。サーモンが入っているやつ。エドはあれが昼食に出た日は、中身をお皿に取り出して、僕にわけてくれたんです。もちろん亜美もそうしてくれますよね?」
「えっ、それってエドは、サンドイッチのパンの部分だけを食べていたってこと?」
「エドは学校にいる時は小食でしたから。あまり食欲が湧かないのだと言っていました。優秀な使い魔である僕は、そんなエドを手助けしてあげていたってわけです」
「あっそう……でも私には手助けは無用だから」
 つーんとそう言い捨てると、ロールはこの世の終わりみたいにショックを受けた顔をして、「そんなぁ、この黒魔女、東の悪い魔女の妹!」と独特の言葉で亜美をののしった。
 食堂は、教室の比じゃないくらい広かった。
 木製の丸テーブルがいくつも並び、窓際にもぴったりと細長い机と椅子が置いてある。丸テーブルには複数人で一緒に食事をしに来た生徒たちが、窓際の席には一人でゆっくりと食事をしに来たであろう生徒たちが、等間隔に座っている。
 頭上を見上げると、植物の蔦が絡まりあってびっしりと天井を埋め尽くし、そこからカボチャのような凹凸のある実がいくつも成っていた。その実はまるでランプのように光を放ち、食堂全体を照らしている。お祭りでぶら下がる提灯みたいだな、と亜美は思った。
「亜美、丸テーブルに座ろうよ」
「え、あ、うん」
 ドロシーは、心なしかきらきらと嬉しそうに瞳を輝かせながら亜美の腕を引いた。
 言われるがままに、席につく。そういえば、注文はどうやってやるんだろう? 辺りを見回しても、券売機とか、厨房とか、そういうものは一切見当たらない。ただ広い部屋に机が並んでいるだけだ。
 不思議に思っていると、ドロシーがどこからともなく棒状のもの――マジックでよく使われているステッキにそっくりなものを取り出し、とんとん、と合図をするように二度机を叩いた。
 するとどうだろう、先ほどまで何もなかった机の上に、まだ湯気のたちのぼる、できたてほやほやのクリームパスタと飲み物、ボウルに入ったサラダと、それを取り分ける用の小皿が三枚現れた。
「あたし、ボウルに入ったサラダを食べるのって、はじめて! いつも最初から小皿で出てくるから……」
 ドロシーが、夢を見るように上機嫌にそう言った。それは暗に、いつも一人で食べています、と言っているのと同じだった。
「えーっ、なんだあ、今日はクリームパスタですかあ……」
「猫って確か、乳製品ダメだったよね」
「僕はただの猫じゃないのでまあ平気ですが……あーあ、魚が食べたかったなあ」
「サラダ食べる?」
「たまねぎ入ってないですか?」
「入ってないみたい。ていうか、ただの猫じゃないから平気なんでしょ」
 そう言いながら、亜美は小皿にサラダを取り分けて、ロールの前に置いてやった。むしゃむしゃと音をたてながら咀嚼し始めるロール。こうしてみれば、ただの可愛い猫なのになあ……。そんなことを考えながら、今度は自分用と、ドロシーにも取り分けて、ボウルの中を空にする。
 するとその時、妙に芝居がかった大きな声が、食堂中に響き渡った。
「うわ、見ろよルイス、俺たちの特等席に誰かが座っているぞ!」
「え? そんな不届きものがいたなんて、驚いたなあ! ビクター、一体全体誰が座っているっていうんだい?」
「それが驚くなよ、どうやらあれは、変人ドロシーと落ちこぼれ転入生のマミのようだ!」
「なんだって!? それが本当だというのなら、僕はお二方に敬意を示したいね! この多才なる僕らの特等席に、恐れ多くも腰を下ろすなんて、並大抵の魔女じゃできないだろう!」
 亜美は、げえっ、と思いながらおそるおそる振り向いた。
 そこにはやはり、先ほどの授業中に絡んできたら嫌なヤツら――ルイスとビクターの問題児コンビが立っていた。にやにやと、心底楽しそうな笑みを浮かべている。
「こんにちは、ルイス、ビクター。あなたたちも一緒に座る?」
「やあやあドロシー嬢、冗談はやめていただきたいね。僕らが、君たちと食事? なあビクター、今の聞いたかい?」
「ああ、聞いたぜ、ルイス。そんな恐ろしいこと、誰が言えるっていうんだ?」
「席なら他にもたくさん空いているんだから、そっちに座ればいいでしょ」
 あと私はマミじゃなくて亜美! 
 そう続けようか迷ったが、やめておいた。こいつらに正しく名前を呼んでもらいたいとは思わないし、一いえば百返ってくるのが目に見えてる。
 しかし、亜美のその反論を待っていましたとでも言うように、二人は顔を見合わせてにんまりと笑った。
「いいや、マミ。さっきも言っただろう? ここは僕らの特等席なんだ。勝手に座ってもらっちゃ困るね」
「特等席って、何? そんなにここがいいの? お気に入りのおもちゃをとられてわあわあ喚く子供みたいなこと言うんだね」
「なんだと、テメェ!」
 黒髪で、乱暴な口調の方のビクターが、カッと目を見開いて亜美につっかかる。しかし、金髪の方のルイスが「まあまあ、ビクター」とたしなめた。
「言うじゃないか、転校生。よし、そんなに言うなら、この席をかけて僕らと勝負をしないかい?」
「勝負?」
「ああ。なに、簡単さ。僕らは魔法使いなんだから、魔法で勝負をしようじゃないか。僕とビクター、君とドロシーのペアで、二体二の真剣勝負」
「……なにそれ」
 ばかみたい。
 亜美は呆れて肩を落とし、それから頭の片隅でぼんやりと考えた。
 ――多分、自分とドロシーが今座るテーブル席は、この二人の“特等席”なんかじゃないのだろう。
 自分たちが座るのは、べつに特別日当たりが良いわけでも、外の景色が良く見えるわけでもない、むしろちょっと騒がしくて落ち着かない、中途半端な位置にあるテーブル席なのだから。
 この二人はおそらく、単純に自分たちをからかいたいだけなのだ。
「おい、ルイスのことを無視してんじゃねーよ! お前みたいなヤツ……!」
 怒ったビクターが唸り声にも似た声をあげる。いつの間にか彼の右手には、木でできた杖が握られている。杖はすらりと細長く、先端部分が丸くなっていて、真ん中に彼の瞳と同じ鮮やかな青色の宝石がはめ込まれていた。
「危ない、亜美!」
 ドロシーが悲鳴をあげた。えっ、と思った時にはもう遅い。
 頭上で、バーン! という破裂音が響いて、亜美は思わず頭を抱えるようにして身を守った。
「……はっ?」
 しかし、身構える亜美をよそに、次に聞こえてきたのは、ビクターの間の抜けたような声だった。
 おそるおそる目を開くと、亜美の目前を、ひらひらといくつもの花びらが落ちて行った。
 愛らしいピンク色、真昼の空をうつしたかのような青色。
 ――そして、いつかあの森で見た、目の冴えるような黄色。
「な、なんでだよ! 俺、煮え湯をぶちまける魔法をかけたのに……!」
 茫然とそう呟くビクター。
 ルイスも、ドロシーもロールも驚いた顔をしている。
 次第に、ざわざわと、食堂中が騒がしくなる。――なに? 喧嘩? またルイスとビクターか。ていうかあれ、転校生? どうしてお花だらけになっているの? ――
 亜美はその時、徐々に集まるギャラリーたちの間に、探していた後ろ姿を見つけた。燃えるような赤いくせ毛を持ったその背中は、ぱたぱたと逃げるように食堂から出て行ってしまう。
「エド!」
 亜美の声に、成り行きを黙って見守っていたロールがぎょっとした顔で飛び起きた。亜美は「ごめんなさい、どいて!」と叫び、不思議そうな顔の生徒たちの間をかき分けて、エドの背中を追いかける。
「エド、待って、エド!」
 さっきのは、きっと――いや、絶対に、エドが助けてくれたのだ。
 そう胸の中で確信しながら、亜美は必死で赤い髪を追いかける。
「な、なんで、逃げ、るのっ!?」
 せっかく迎えにきたのに!
 ぜぇぜぇと、呼吸が苦しい。亜美は走った。吹き抜け構造の広い廊下を、美しいステンド硝子に見守られるらせん階段を。しかし、一向にエドには追い付かない。それどころか、どんどん距離を離されていってしまう。
 しばらく走り続けて、もうすっかりエドの姿を見失ってしまい、それどころか自分が今どこにいるのかさえわからなくなってしまった。当然だ。亜美が通う中学校の十倍はありそうな広い校舎の中をジグザグに駆け回ったのだから。
「……ここ、どこ?」
 気づけばロールの姿も見当たらない。途中までは一緒に居たように思えたが、はぐれてしまったのだろうか?
 亜美は、広い校舎の最奥――“絢爛豪華”って言葉がぴったり当てはまる、きらびやかな扉の前に立っていた。
 大きな開口部を二枚の扉によって仕切られた、両開きタイプのそのドアには、白いドレスを身にまとい、花冠を被った美しい女性の絵が描かれていて、こちらにむかって微笑みかけてきている。
 ドアノブ部分は眩しいくらいの金色で、亜美は思わず、そっとそのノブ部分に手を伸ばした――すると、もう少しで指先が触れる、というタイミングで、ガチャン、と鍵が開くような音が派手に響いた。驚いて思わず手を引っ込め、一歩後ろへ下がる。
 ゆっくり、ゆっくりと扉は開き、完全に開け放されると、室内が露わになった。
「――あら? 随分可愛らしいお客さまがいらしたようね」
 どこからか聞こえてきたのは、鈴が転がるような美しい声だった。
「どうぞ、遠慮せずに入って頂戴。小さな魔女さん」
「え、あ……お邪魔、シマス」
 しっかりと存在を認識されたうえで声をかけられては断れまい。亜美は、おそるおそる室内に足を踏み入れた。
 部屋の左右の壁は本棚になっており、ぎっしりと本が並んでいる。中央にでんと構える古めかしいデスクの上に、子牛くらいはありそうな、大きな黒猫がふてぶてしく座り込んで亜美を睨んでいた。
 もしかして、この猫が自分を呼んだの……? ロールの姿を脳裏にちらつかせながら、そんな考えがよぎったが、すぐに打ち消されることになる。
「いらっしゃい。散らかっていてごめんなさいね」
「あ、い、いえっ!」
 ……この人、どこから現れたんだ?
 女の人は、部屋の中ではなく、外から姿を現した。つまり、亜美の後に部屋に入ってきたことになる。
「あら? ……あなた、前にもここへ来たことがあるでしょう?」
「え?」
「確か、五十年くらい前に……」
「そ、そんなはずありません! 第一私、まだ十三歳です!」
 亜美が言うと、女の人はきょとんと目を丸くさせた後、「あらそう。ごめんなさい、人違いだったみたい」とそっと笑った。
「偉大な魔女にとって、年齢なんてあってないようなものだから、あなたもそうかなって思ったの」
「偉大な魔女……」
 そこで亜美はハッとした。
 美しい白いドレスに花冠。ふわふわとなびく赤みがかった長い髪。
 目の前の女の人は、この部屋の扉に描かれていた絵の中の女性とそっくりだった。
「あの、扉に描かれていた絵はあなたですか?」
「そう。あの絵はまさしく“私”よ」
「は、はあ」
「学校中の壁や扉を、好きに行き来できるのよ。よく言うでしょう? 壁に耳あり、障子に……」
 えっ。亜美は目を白黒させた。
 それから、「ちょっとすみませんっ」と一言断って、大急ぎで部屋の扉を見に戻る。するとどうだろう、先ほどまで女性の絵が描かれていたはずの扉は、今は何の変哲もない、ただの無地の扉になっている。
「これでも校長ですもの。何かあれば、いつでもどこでも駆け付けられるようにしているの」
「こ、校長先生っ!?」
「ええ。この学校のことで、私に知らぬことはない! ――もちろん、あなたもこともね。魔女さん」
 にこにこと浮かべる柔らかい笑みが、亜美には恐ろしく見えた。背中に冷たい汗が流れる。
 ――やばい。ということは、自分が魔女なんかじゃなくて、違う世界から来たこととか、エドのことを連れ戻しにきたこととか――そういうことが、この人には全部バレているということだ。
「大丈夫、安心して。なにもあなたに危害を加える気はないわ。それどころか、むしろ歓迎しているのよ」
「え……」
「ここへ来たのには、来たなりの理由があるんでしょうからね。どんな些細な物事にも、必ず理由があるってものでしょう?」
 なんだか、似たようなことをつい最近聞いたような……、と亜美は思った。そう言えばどことなく、目の前の女性はエドのおばあさんに似ている気がする。同じ赤毛だし。
 でも、そういう外見の要素だけじゃなくて、本質的な何かというか――
「それに、あなたが悪いことをたくらむような侵入者だったのなら、この学校へ足を踏み入れたと同時に消し炭になっていたでしょうからね」
「消し炭!?」
「そういう魔法がかけられているのよ。知らなかった?」
 全然知らなかった。亜美は思わずゾォッとした。
「エドを連れ戻しに来たのね? あの子も困ったものだわ。素晴らしい才能を持っているのに、家業を継ぐことしか考えていないんだもの。まあ、それが一概に悪いことだとは言わないけれど……教師としては、もっと広い世界を見てほしいのよ」
「……エドが、それを望んでいないとしても、ですか?」
「子供が望んでもいないようなことを押し付けるのも、教師の仕事ですからね。押し付けられたものの中から、自分に必要なものを上手に選択できるかどうかはあなたたち次第よ。うっとうしいと思うでしょうけど」
 そう言って、校長先生は困ったように笑った。
「さあ、引き留めてしまってごめんなさいね。もうお行きなさい。ああそう、それから、うちのかわいい孫によろしく」
「……孫?」
 誰のことだろう、と首をひねる。そもそも、目の前の女性はどう見てもまだ二十代前半くらいにしか見えないし、どう考えても孫がいるようには見えない。
 戸惑っていると、校長先生は助け船を出すように口を開いた。
「あなたがここへ来るきっかけを作った魔女のことよ」
「……えっ!? え、エドのおばあさん!? でも、あなたは若くて、おばあさんはおばあさんで……!」
「言ったでしょう」
 ニャオ、と机上の黒猫が賛同するように鳴き声をあげる。
「偉大な魔女にとって、年齢なんてあってないようなものだって」
「……魔女って、」
 ずるい。
 素直にそうこぼすと、校長先生は「ほほ」と上品に笑った。
 
 
   *
 
 
 狐につままれたような気持ちで、人気のない長い廊下を歩く。
 あの女の人が、エドのおばあさんの、そのまたおばあさん――ということは、エドは校長先生の孫の孫、ということになる。
「あっ、いた、亜美!」
 背後から、パタパタと世話しない足音が聞こえてきた。振り向くとそこには、肩にロールを乗せたドロシーがいた。
「探したんだよ。どこに行っていたの?」
「あ、いや、エドの姿を見つけて、追いかけたら、校長先生に会って……」
「えっ……校長先生に会ったの?」
「え? うん」
「そそそそれ、本当ですか!?」
 大声を上げたのはドロシーではなく、ロールの方だった。ぴんっ、と尻尾をたて、興奮したように瞳孔を開いている。
「ほ、本当だけど……」
「それは凄いことですよ、亜美! メアリー校長は偉大なお方ですが、多忙ゆえに滅多に人前に姿を現さないんです!」
「そうなの?」
「ええ! 僕でさえ、まだ一度も姿をお見掛けしたことはありませんっ。多分、在学中の生徒たちの中にも、実際に校長とお会いしたことがある者はいないでしょう!」
 ああ、うらやましいなあ! ロールはうっとりと前足で口元を抑えながらそう言った。
 そうか、そんなに希少な体験をしたのか……。でも、どうして自分なんかの前に、わざわざ姿を現してくれたのだろう? 
「そんなことより亜美、あなたが走り去って行った後の食堂ったら、面白いことになったんだよ」
「え? なに、何があったの?」
「それがね、」

「――ほら――エド――を――しているんです――なさい」
 
 ドロシーと並んで歩いている最中、わずかに聞こえてきた声に、亜美はハッとした。
 きょろりと辺りを見回す。ドロシーとロールにも聞こえたのか、亜美と同じように、周囲を見回していた。
 しかし、見晴らしの良い長い廊下を歩いているというのに、人影は見当たらない。

「でも――嫌だ――僕は――に――」

「こっちから聞こえる」
 そっと、囁くような声でドロシーが亜美に耳打ちした。
 ドロシーが指さしたのは、廊下の端にポツンと佇む、木製の細長いロッカーだった。亜美の学校にも似たようなものがあるが、当たり前だが人が入るようなものではない。しかし、声は確かにそこから聞こえてくる。
 亜美はドロシーと目配せをして、そっとロッカーに手をかけて手前に引き扉を開いた。
 するとどうだろう。本来なら塵取りや、箒や、バケツが入っているその空間は、地下室へ繋がる階段になっていた。亜美は、エドの家に繋がる階段を脳裏に思い浮かべた。
「……エド?」
 声をかけても、返事はない。
 亜美はおそるおそる階段を下った。石でできた、冷たくて、薄暗い階段を下りきると、またしても扉が現れる。
 扉は不用心にも、わずかに開いていた。
 心臓が、ドキドキと早く波打っている。そっと室内を覗き見ると、そこは何もない、ただ薄暗くて広いだけの部屋だった。中央部分に巨大な鍋窯のようなものだけが構えていて、そしてそれを取り囲むかのように、二人の人影が立っている。一人はすらりと背の高い、美しい女性――テスター先生で、もう一人は、ふわふわの赤毛を持つ少年――
 エド! と叫びそうになる亜美の口を、背後からドロシーが手を伸ばしてふさいだ。なにするの!? という意味を込めて振り向くと、ドロシーはちょっと怯えたような顔で、真っすぐに室内の方を向きながら囁いた。
「なんか、様子がおかしいよ。……テスター先生、悪い人みたいに見える」
「え……」
 そうか……ドロシーには人のオーラが見えるんだ。
 亜美は注意深く視線を二人に戻した。鍋窯はぐつぐつと煮えたっていて、それをテスター先生が棒で引っ掻き回す。するとエドは怯えたように一歩後ずさる。
「せ、先生。僕には、先生が期待するようなことはできません。もう僕を家に帰してください。何もせず、ただ静かに暮らすと約束します」
「静かに暮らすなんて、とんでもないことですわ、エド! あなたには偉大な力があるはずです。なんたってあの校長の血縁者なんですからね」
「僕にはあの方のような力はありません!」
「いいえ、そんなはずはありません!」
 テスター先生が鋭く叫び、エドの手首を掴んで、自分の近くへ引き寄せる。エドは泣き出してしまいそうだった。
「よく見なさい。何が見えますか?」
「な、何も見えません。本当です」
「嘘おっしゃい!」
 テスター先生は顔を真っ赤にしてエドに詰め寄る。亜美には、一体何が起きているのかさっぱりだった。ただ、エドがとても怖がっている、というだけはわかった。どうしよう、どうすればいいんだろう――
「おい、お前たち! やっと見つけたぞ!」
 ――その時、背後から、心底怒ったような声が響いた。
 亜美は、思わずひっと悲鳴をあげて、その拍子に前につんのめってしまった。ドミノ倒しのように扉は開け放たれ、そして当たり前だが室内の二人と目が合う。
「なんですか、あなたたちは! この部屋に生徒の立ち入りは禁止ですよ!」
 叫ぶテスター先生の横で、エドがぎょっとした顏でこちらを見ている。
「あ、あの、私、まだ転入してきたばかりなので、だから……その、探検をしていたんです、先生。そうしたらここに迷い込んでしまって、それで……」
「おい、マミ!」
 やっかいなヤツのやっかいな声だ。亜美は、あーもう! といっそイライラしながら振り向いた。
 そこにはやはり、ルイスとビクターの二人が居た。しかし、なぜか顔を真っ赤にさせるビクターと打って変わって、ルイスの方はこの部屋の異常さのようなものに感づいたのか、怪訝そうな顔で辺りを見回している。
「お前のせいでとんだ赤っ恥だ! 杖を出せ、決闘だ!」
「うるさいな、今それどころじゃないのわかるでしょ!?」
「口ごたえするんじゃねえ! お前のせいで俺は、“転入生に一目ぼれして、大勢の前で花を送ったロマンチスト”、なんて噂される羽目になったんだ!」
「はあ!? なにそれ、私何も悪くないじゃない!」
「あー……コホン、あの、テスター先生?」
 声をあげたのは、意外なことにもルイスだった。にこにこと、人好きのする柔らかい笑みを浮かべている。
「このうるさい奴らは僕とドロシーが責任を持って連れていきます。すみませんでした」
「おいルイス、誰がうるさい奴だよ!?」
「ビクター、ちょっと黙っていてくれ。……あー、それで、もちろんエドも一緒に行きたいのですが、いいでしょうか? 実は、魔道具の授業を担任されているデレス先生が、彼のことを探していて。見つけたら連れてくるようにと頼まれていまして……」
「……いいえ。エドはここに残りなさい」
「でも、デレス先生は不審がっているようでしたよ。復学したはずのエドの姿が、どこにも見当たらないことを。もう少し探しても見つからないようだったら、校長先生に訊きに行くつもりだとも仰っていましたが……」
 校長先生、という言葉に、テスター先生はぴくりと眉根を動かした。それから、イライラしたように髪を掻く仕草をして、
「……いいでしょう。エド、用事が終わったらすぐに戻ってきなさい」
 と、言った。
「では僕らはこれで。失礼します、先生」
 さあ行こう、諸君。ルイスはそう続けて、憤慨した顔のビクターの背中をぐいぐい押しながら、やや速足で階段を駆け上がった。
「エド、ようやく見つけましたよ!」
 ロールが、ぴょんっ、とエドに飛びついて、ごろごろと喉を鳴らした。エドはホッとしたような顔でロールの頭を撫で、それから今度は亜美の方を見た。亜美は、ようやくエドに会えた安心感で、なんだか泣きそうな気持になったし、ロールみたいにエドに飛びつきたくなった。もちろん、そんなことはしないけれど。
「そうだ、亜美! どうしてここに……?」
「おばあさんに頼まれて、あなたを迎えに来たの。ねえ、さっきのなんだったの? 私、なんか怖かったよ。早く一緒に帰ろう、エド」
「はっ? 迎えにきたって……お前、セントドローズからの転入生じゃなかったのかよ」
 ビクターの声に、ドロシーが「それはあなたが勝手に言い出したんでしょ」と呆れたように肩をすくめた。
「でも、お前がこいつを転入生だって言っていたのは確かだろ?」
「うん。あたし、嘘ついたの。騙してごめんね」
「はあ!?」
「君たち、今はそんなことを言っている場合じゃないだろう」
 ルイスがこめかみのあたりを人差し指で撫でながらそう言って、エドの方に向き直る。エドは一瞬、びくりと肩を揺らした後、「あ、デレス先生のこと、ありがとう……」と思い出したかのように言った。
「ああ。あんなの嘘に決まっているだろ」
「えっ、そうなの? 僕てっきり……」
「君、あの部屋でテスター先生と何をしていたんだい?」
 エドの灰色の瞳が、ぐらりと揺らぐ。
「な、何も。ただ、進路の相談をしていたんだ」
「嘘。エド、嘘ついてる」
 すかさずドロシーがそう言い放つ。
 でも、オーラなんか見えなくても、亜美にだってわかる。今のエドは何かを隠している。
「エド、何か酷いことをされたの? 私、力になるよ。そのためにここへ来たんだもの。何があったの?」
「ぼ、僕は……」
 バンッ、と乱暴に扉が開く音がして、五人と一匹は驚いて肩を揺らした。
 振り向くと、先ほどのロッカーからテスター先生が姿を現して、じろりとこちらを睨んでいる。
「ルイス。デレス先生のところへエドを連れていくんじゃなかったのかしら」
「え……あー。今から行こうとしていたんです。さあ行こう、諸君」
「いいえ、もう結構です」
 ぴしゃりと、テスター先生は言い放った。
「私が連れて行きます。この子とは話の途中でしたから。あなたたちは次の授業の支度をなさい。あと十分で午後の授業がはじまりますよ」
「で、でも、それならエドも一緒に行かなくちゃ。そうですよね? 先生」
 ドロシーがすかさず言った。
「いいえ。この子は授業に出る必要はありませんわ」
「それってどういう……」
「エド、いらっしゃい」
 有無を言わさない口調の先生に、エドは一瞬怯えた顔をした。けれど、一度小さく頷いたかと思うと、そっと一歩を踏み出す――
「ま、待って!」
 踏み出したエドの足が、ぴたりと止まる。亜美が止めたのだ。
 亜美は怯えるような表情のエドに、たまらない気持ちになって、思わずその手首を掴んだ。エドも亜美の方を向く。不安げに揺れる灰色の瞳が、亜美をとらえる。
「なあに、転入生の亜美さん。……そういえば、あなた、その制服……ひと昔前のもののようだけれど、何故かしら?」
「え」
「見てご覧なさい、スカートの色が、ドロシーのものと少し違うでしょう。……誰にその服をもらったのかしら。もしかして、大昔にこの学校の生徒だった誰か、とか? もしかして、あなたは、本当は魔女じゃなくて、ただの部外者で、侵入者なんじゃないかしら。もしそうだとしたら……あなたは私に罰せられるだけの理由を、十分に持っているということになるわ。あなた――」
 じりじりと詰め寄ってくるテスター先生。亜美は、エドを背中に隠すように一歩前に出ながら、冷や汗をかいた。
 やばい。よくわからないけど、すごくやばいような気がする――
「「――風よ、吹け!」」
 ――その時、突如として強い風が吹いた。
 顔を上げる。いつの間にかそれぞれの杖を取り出し天に突き上げるようにしていたルイスとビクターの姿が目に入った。竜巻のように激しい風に、思わずくらりと倒れそうになる。
「なんだかよくわかんないけどまずそうだ! 行け! ここは僕とビクターでなんとかしてやる!」
「え……」
「ルイスの言う通りだ! 亜美、お前のためじゃなくて、クラスメートのエドのためだからな!」
「や、やめなさい、あなたたち! この風を止めなさい!」
 この風は二人の仕業なのだ。
 亜美はハッとして、掴んだままのエドの手首にさらに力を込め、二人に対して「ありがとう!」と叫び、そのまま大急ぎで駆け出した。その後ろを、ドロシーとロールも慌ててついてくる。
 走る、走る。大理石でできた広い講堂を、石畳が敷かれた中庭を、大樹が見下ろす渡り廊下を。
「君たち、何しているんだい!? 廊下で魔法を使うなんて、校則違反だよ、止まりなさい!」
 次に亜美たちの前に立ちふさがったのは、この学校へやってきて最初に出会った真面目そうな少年・レオンだった。めらめらと、正義に燃えた瞳で亜美たちのことを見ている。何人たりともここは通さないとでもいうような気迫だ。
「あ、あの、私たち今それどころじゃなくて……」
「こんにちは、レオン。あっ、ねえそうだ。あたし、さっきの授業でわかんないとこがあったんだ。レオンならわかるでしょう? なにせ、学年で一番優秀で、そして親切で、皆の憧れなんだから」
「え……え? なんだい、急に」
「あのね、ダッダー・ドーの追い払い方なんだけど。あれってつまり、一度“ねこだまし”魔法をかけなくちゃいけないんでしょう? あたしね、実はあの呪文ってすごく苦手で――」
 レオンに詰め寄るドロシーが、後ろで組んだ手でやじるしを作って“行け”と伝えている。
 亜美は頷いて、そろりとその場を抜け出した。レオンは頼られて気分が良いのか、先ほどまでの気迫をすっかり取り払って、得意げな顔をしている。
 亜美とエドはそのまま、しばらく走った。
 午後の授業がはじまる時間になり、周囲から生徒たちの姿が消えて行く。どこへ行けばいいのか迷っていると、今まで黙って引っ張られていただけのエドがすっと亜美の前に立ち、「こっちへ」と囁いた。
 エドは校舎を抜け出して、温室へと亜美を導いた。
 ガラス張りのその小屋の中は薄暗く、しんと静まり返っている。巨大なヤシの木やパキラやポトスなどがそこら中に生えていて、二人は一番奥に位置するベンチにたどり着くと、ホッと一息をついた。
「……ここ、」
「綺麗でしょう。授業に出たくないときは、よくここへ来ていたんだ」
 ロールと一緒にね。
 そう言って、エドはロールを膝上にのせ、背中をそっと撫でた。ロールは嬉しそうに喉を鳴らしている。本当にエドに懐いているのだ。
「エド、おばあ様が心配していますよ。あなたが望むなら連れ戻すようにと、僕と亜美は託されたんです」
「うん……そうだよね。僕も、できるなら帰りたいんだけど……」
「ねえエド。あの……私たち、あなたがあの部屋で、テスター先生に怒鳴られているのを見たの」
 亜美が言うと、エドはロールを撫でていた手をぴたりと止めた。
「何があったの? エドが学校へ行きたがらなかったのって、もしかして、あの先生に関係があるんじゃないの?」
「……ぼ、僕が悪いんだ」
「え……」
「僕が、弱虫だったから」
 温室の外で、餌をねだる雛鳥が騒がしく鳴いている。そういうのを聞きながら亜美は、俯くエドの赤い髪をじっと見つめた。
「どういうこと?」
 沈黙を破るように亜美が囁くと、エドはちらりと一度亜美に視線をやって、それから気持ちを落ち着かせるように浅く息を吐いてから口を開いた。
「あの人の娘は元々、僕らと同級生だったんだ。レイチェルっていう、テスター先生によく似た綺麗な女の子。彼女は人気者だったけど、その……傲慢で、言葉遣いが乱暴だったから、僕は正直苦手だった」
 エドは言った。
「ある日レイチェルは、僕に“外の世界”へ行くにはどうしたらいいか尋ねてきた。外の世界っていうのは、亜美が暮らしている世界のこと。あのね、本来なら、魔法使いと人間の世界が交わることはないんだよ。魔法界の偉い人が、強力な“線引き魔法”をこの世界にかけているから」
「え……そうなの? でも、私はエドと出会ったじゃない」
「うん、そう……不思議だよね。僕も正直最初は、亜美が普通の人間だとは思わなかった。出会った日の晩、おばあさまが『あの子はもしかしたら、人間の子どもかもしれませんね』っておっしゃって、その時はじめて気づいたんだ。君は、世界に引かれたラインを越えてきた人間なんだって」
 亜美は驚いて、目を丸めた。
 そんな亜美を気遣うように、エドがそっと微笑む。
「おばあさまは昔からよく言っていた。あの森は、何十年かに一度の周期で、人と魔法使いを交わらせるって。自分も昔、一人の人間の女の子と友達になって、冒険をしたことがあるんだって」
「じゃあ、レイチェルはその噂を知っていて、エドに話を聞いてきたってこと?」
「おそらくね」
 ため息をついて、肩をすくめるようにするエド。
 すると、今まで静かにしていたロールが、おずおずと口を開いた。
「あの、エド、いいですか?」
「うん。どうしたの?」
「僕はエドとずっと一緒に学校へ通っていましたが……レイチェルなんていう女生徒のことは記憶にありませんよ」
「……そうだろうね。彼女のことを覚えているのは、僕と先生の二人だけなんだ」
 ロールは、口をへの字にして、わけがわからない、というような顔をした。
「レイチェルは消されたんだ。この世界からも、皆の記憶からも」
「……消された?」
「うん。……“線引き魔法”を破ろうとして、失敗した。僕の目の前で」
 エドは、苦しそうに眉根を寄せながらそう言った。
「僕は彼女を止めることができなかった。あの森で、無理やり世界の線引きを破ろうとした彼女が、跳ね返ってきた自分の魔法に撃ち抜かれて、光の玉のようになって消えていく姿をこの目で見た」
 しん、と一瞬の沈黙の後、
「……助けられなかった」
 今にも泣き出しそうな声が、その場に静かにこだました。
「僕が、もっと強く止めていれば、あんなことにはならなかった」
 だから僕は、学校へ来て学びを得る資格なんてない。
 エドはそう続けて、きゅっと口を一文字に結んだ。亜美は何も言えなくなってしまって、ロールの目を見た。ロールも亜美と同じように、困った顔をしている。
「じゃあ、テスター先生は、レイチェルを取り戻すためにエドに協力させようとしているってこと?」
「うん。……僕が、メアリー校長の孫の孫だから、すごい力があるって思っているみたい。実際には僕なんて、大したことない奴なのに……」
「うーん……」
 亜美は、ううむ、と腕を組んで首をひねった。
 レイチェルが消えたのは自分のせいだとエドは落ち込んでいるが、話を聞いている限りでは自業自得なように思える。でもきっと、優しいエドはどうしたってそういう風には考えられないのだろう。
「僕、不思議なんですけど、レイチェルは皆の記憶から消えたはずなのに、どうしてテスター先生とエドは彼女のことを覚えているんですか?」
「たぶん、僕は目の前で彼女が消えるのを見てしまったからで、先生は――家族だからじゃないかな」
「家族だから?」
「そう」
 エドは言った。
「家族のことは、忘れられるはずないんだ。……例え、この世から消えてしまったとしても」
 その横顔が、しょんぼりと寂しそうに見えたので、亜美は何も言えなくなってしまった。
 家族のこと。……そういえば、父と母は元気だろうか。真世の家に来てしばらく経つが、なんとなく連絡を取るのが億劫で、向こうからどれだけ着信がきても無視していた。
 知らない世界に放り出された今、亜美ははじめて家族が恋しいような、切ないような、心細い気持ちになった。あれだけ憂鬱だった学校のことだって、今じゃすっかり懐かしい。
「ねえ……でもさ、レイチェルは消えちゃっただけで、死んだって決まったわけじゃないんでしょ?」
「え……」
「探そうよ、私たちで! 連れ戻そう。そうしたらエド、もう何も悩まなくて済むでしょ?」
 エドは、大きな瞳をぱちくりと丸めて亜美を見た。そんなこと、思いもよらなかったとでもいうような顔だ。
「で、でも、どうやって……」
「そうだなあ……」
  うーん、と再び首をひねって考える。
 亜美は、何気なく視線を温室の外へ外した。そよそよと風に揺れるのは、真世の家にも咲いていた背の高い花――ヒヤシンスだ。
 どこかへ向かって、まるで道筋を示すかのように等間隔に生え、校舎の脇にある小さな森のなかへ続いている。
 
 ――植物は皆、同じ種類同士で、土の奥深いところで世界中繋がっている。
 ――見知った顔を増やしていけば、どこを歩いていても、迷わないでいられる。

 ――植物があなたの友達になって、導いてくれる――

「……真世ちゃん?」
 頭の中に響くのは、飄々とした叔母の声だった。
 
 
   *
 
 
 森の中はどこか湿っぽく、そしてどんよりと薄暗かった。
 ぐんと背の高い木々が陽の光を遮り、目に痛い色のキノコや花々がそこら中に咲いている。ギェー、と甲高い声で鳴くのはなんの鳥だろう? 想像もつかない。
 亜美は、森には二種類あるんだな……と思った。
 エドと出会ったあの森は、木漏れ日が心地よくて、草花は生き生きと輝いていて、美しい声で小鳥が囀っていた。でも、今いる森はあの森とまさしく真逆ってかんじだ。おどろおどろしいというか、不気味というか……
「あ、亜美、ここ、べからずの森だよ」
「べからずの森……?」
 なんじゃそれ。
「見るべからず、入るべからず、関わるべからず。とにかく、この森には誰一人として近づきたがらないんだ。生徒だけでなく、先生方だって!」
「そ、」
 そんな危険な場所の隣に、学校なんて建てちゃだめじゃん!
 思わず口から飛び出そうになった言葉を飲み込む。ケタケタと笑い声のようなものが聞こえて、驚いて顔をあげると、真っ黒い鳥が群れを成して空へ羽ばたいていって、それを見たロールがぽそりと「なんだか不吉な場所ですねえ」と囁いた。
「と、とにかく行こう」
「で、でも……どうして急に、森へ入ろうなんて、」
「魔女が教えてくれたの。知り合いの植物を見かけたら、素晴らしい場所へ導いてくれるって」
「魔女……?」
「うん。実はね、私の親戚には魔女がいるんだ。まあ……本当の魔女じゃなくて、魔女みたいな人、ってだけだけど」
 亜美には、真世ならきっとこうしたはずだ、という妙な自信があった。
 真世ちゃんならきっと、ためらいなく森へ入った。だから私も――
「……ねえ亜美」
 エドが、囁くようにそっと語り掛けてきた。
「僕……本当に嫌な奴なんだ。レイチェルが消えた後、僕なりに色々調べたり、取り戻すためにあれこれ試してみたりもした。でも駄目だった。それで、テスター先生は僕を恨んでいるんだって思うと、たまらなく怖くて……家業を継ぐから、なんてもっともらしい理由をつけて、逃げたんだ」
 エドは言った。
「僕は臆病で、卑怯者だ」
 俯いて、ぎゅっと拳を握りしめ、わずかに唇を震えさせる。きっと本心で、心の底からそう思っているのだ。  

 ――自分のことを、臆病で、卑怯な奴だと軽蔑しながら生きるのって、とてもしんどいことだ。

 亜美にはそれがわかる。
 亜美自身も、そうだから。 

「……あのさ、エド。実はエドを迎えにくる時に、エドのおばあさんに条件を出されたんだ」
「え……」
「無事にエドを連れ帰ってきてくれたら、私のお願いをなんでも一つ叶えてくれる、って」
 たった数時間前の話なはずなのに、もうずいぶん懐かしいことのように思える。
「私ね、消してほしい過去があるんだ。……最初に出会った時、エド、私に訊いたよね。学校は? って。私もエドと同じ。逃げたの。逃げ出したの」
 亜美は言った。
 この話を、誰かにするのははじめてだ。
 父にも母にも――真世にだって、自分が学校へ行かない本当の理由を話したことはない。
「三月二十九日。私、あの春休みの一日のこと、きっとずっと忘れない」
 とんでもなくツイていない日だったから。
 亜美はそう続けて、瞼の裏にはっきりと、あの日、あの時の情景を思い浮かべた。
 ああいやだ……。
 思い出すだけで、お腹の底にずしんと鉛がのしかかったかのような気分になってくる。
 
 
 
 あの日のことを語ろうとするのなら、起床前のベッドの中のことから話す必要がある。
 
 まず、スマホが充電コードにきちんとささっていなくて、なおかつ充電切れで機能しなくなっていた。
 そうすると、毎朝スマホのアラームで目を覚ます亜美は、当然のように寝過ごす羽目になり、友人二人との待ち合わせに遅刻をしてしまった。
 目が覚めた時には、時計の針は待ち合わせの時刻の二十分前を指しており、サァッと血の気が引くのを感じた。大慌てで身支度をして家を飛び出す。髪も服装もしっちゃかめっちゃかだったが、この際どうでもよかった。
 亜美はどうしても、どうしても友人二人を怒らせたくなかった。
「遅いっ。五分も遅刻だよ、亜美! なに考えて生きてんの!?」
「ホントホント。良い席とれなかったらどうしてくれんの?」
 到着した待ち合わせ場所で、二人は心底イライラした表情で亜美を見た。亜美は、ごめんと何度も謝りながらも、普段は二人とも、もっと遅刻してくるのに、どうして今日に限って……と暗い気持ちになった。いつもなら、亜美は遅刻なんて絶対にしないのに。むしろ、平気で遅れてくるこの二人を、文句も言わず待っててあげるくらいなのに。
「あー! 真ん中の席、うまっちゃってる、サイアク!」
「うわ、ほんとだ。……あーあ、折角初日に来たのに」
 二人は、口にこそ出さないが、良い席が埋まってしまったのは亜美のせいだ、と言いたげだった。まあ、それは確かにそうなのかもしれないけど、でも、そんな言い方しなくても……。
 悶々とそんな風に思いながら、亜美は俯いて、「本当にごめんね」とまた謝った。自分が悪いとは理解しつつも、なんだかすごく、惨めな気分だった。
 亜美自身はさして興味があるわけでもない、今話題の俳優が出ている恋愛映画を、座席に座って約二時間、鑑賞した。
 友人二人は、ルールとして禁止されているのに市販のペットボトルとかお菓子を平気な顔して飲み食いしていて、その無神経なかんじを亜美はちょっと嫌だなと思った。近くに座った女の人が、亜美たちをちらっと見ていかにも「あーあ、この席にしなきゃよかった」というような顔をしたのを見て、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。
 でも、そんなこと口には出せない。
 亜美は二人に、嫌われたくなかった。
 
 映画を鑑賞し終わって、興奮さめやらぬ様子の二人と一緒に、映画館の入っているショッピングモールを練り歩く。
 広い施設内を三人でぶらぶらと歩いていると、不意に一人が口を開いた。
「あのさあ、今日もやんない?」
 やる、って?
 きょとんと目を丸める亜美に対して、もう一人は「いいね、やろっか」とにやりと笑う。そして、今度は二人して、状況がつかめず困った顔をしている亜美のことをばかにするようにせせら笑った。
「二組の大蔵くん、わかるでしょ? あいつらのグループ、大学生と繋がっててさ、お店で盗った商品を安値で売ったりしているらしいんだ」
「で、うちらも大蔵くんたちに盗ったものを流して、お金貰ってるってわけ」
「それって……万引きするってこと?」
 亜美の言葉を肯定するでも否定するでもなく、二人はまた笑った。楽しくてたまらない、とでもいうような笑い声だった。
「大丈夫、けっこー簡単だから。亜美は外国人のふりして、店員さんに話しかけて道でも聞いてよ。その隙にあたしたちが物を盗るから」
 亜美はその言葉に、心臓を直接切り付けられたような気持ちになった。
 外国人のふり、という言葉に、二人が亜美の容姿をばかにしているかのような冷たさを感じたのだ。
 あれよあれよという間にお店につれていかれた。
 そこは、化粧品やらアクセサリーやらが並ぶ雑貨屋で、教室くらいの広さしかない、小さなテナントだった。レジには一人だけ女性の店員さんが居て、帳簿のようなものをつけている。
「よし、亜美、先に行って」
 とん、と押された背中に、じわりと嫌な汗をかいた。
 亜美は、あの時の嫌な感触を、きっとずっと覚えているだろう。
「あ、アノ、」
 わざとカタコトの日本語で話しかけると、お店の店員さんはパッと顔を上げて、優しく微笑み、「どうされましたか?」と訊いてきた。
 亜美が「ミチニ、マヨッテ……」と耳を赤くして“外国人ぽく”ふるまうと、店員さんはハッとしたように「そうですか。ご家族は? 案内所に行きましょうか? えーと……フー、ディドゥ、ユー、カム、ウィズ?」とたどたどしく英語で返してくれて、その真摯な対応に申し訳なくて泣きそうになってしまった。
 背後に二人分の気配がする。亜美は今置かれている状況があまりに嫌で、逃げ出したくて、思わず視線を泳がせてしまった。
 すると店員さんは一瞬不思議そうな顔をして、それから背後に意識を向けて――
 ああ、ダメ! 
 あの時の、心臓がはちきれんばかりに高鳴る胸の鼓動を思い出すと、亜美はとても苦しくなってしまう。
「あなたたち、何をしているの!?」
 ――そこから先は、あっという間だった。
 逃げ出した二人の後を店員さんが「待ちなさい!」と叫んで追う。あっという間に警備員さんが駆け付けて、二人は捕まった。亜美はその間、店の中で茫然と立ち尽くすしかできなかった。
「君も、この二人の仲間?」
 青い顔をした二人を連れて店に戻ってきた、厳しい顔の警備員さんが亜美にそう訊く。
 ――仲間? それに対して亜美は、焦りや恐怖のあまり、即答できずに固まった。
 すると、お店のお姉さんがすかさず「いえ、この子は違います」と真っすぐに言った。
「外国のお客様で、日本語が喋れないようなので」
 その一言に、亜美はカッと顏が真っ赤になるのを感じて、そのまま俯き唇を一文字に結んだ。
 恥ずかしい。
 恥ずかしくて、情けなくて――消えてしまいたい。
 二人はそのまま、亜美の横を通り過ぎて、お店の裏手にある事務所に連れて行かれた。
 その際一人が、亜美にしか聞こえないくらいの小さな――しかし心底軽蔑したとでもいうような鋭い声で、こう言った。

「――亜美の裏切者!」




「それで……その後、学校でいくら謝っても二人は許してくれなくて。私、孤立してしまったの。皆私を、まるで関わってはいけないものみたいに遠巻きに見るようになって、それがしんどくて、休むようになった」
「そっか……そんなことがあったんだね」
 一気に話し終えると、エドは気遣うような優し気な声で「大変だったね」と亜美に言った。
 その誠実なかんじがじんと胸に沁みて、亜美はなんだか満たされたような気持ちになったし、人に打ち明けたことで胸の重みが少し軽くなったような気がした。
「でもですよお、亜美! そもそもどうしてそんなロクでもない奴らと関わっていたんです? 僕にはそれがよくわかりませんが。ルイスやビクターに対しては、あんなに勇敢に食って掛かっていたのに!」
「……しょうがないじゃない。女の子どうしにはいろいろあるんだよ。一度所属してしまったグループから抜けるのって、一大事なんだから。それに、あいつらは別の世界の人間だから、あんなに強気に出られたの」
 ロールのもっともな指摘に、はぁ、と思わずため息が漏れてしまう。
 入学当初は二人とも、ただ面白くて明るくて、純粋に一緒に居て楽しかった。亜美はその目立つ容姿のせいで、周囲から一目置かれがちで、そのことが本当に嫌だったが、二人は亜美を決して特別扱いしてこなかったので、それが心地よかったのだ。
 だからなおさらあの時――外国人のふりをしろ、なんて言われて、心底傷ついた。
「私……弱くて、臆病で、卑怯だったと思う。悪いことをしている友達に、やめなよって注意をすることができなかったし、そのくせ二人が捕まったら自分だけ知らんふりして逃げたの。最低だよ。私……」
「亜美は最低なんかじゃないよ!」
 俯く亜美に、エドは力いっぱいそう叫んだ。歩みを止めて、一歩先を進む亜美を見る。亜美はびっくりして足を止め、エドの顔をまじまじと見た。
「確かに、物を盗ろうとする友達を止められなかったのは、勇気がなかったからかもしれないけれど……でもそれが悪いことだって、ちゃんとわかっているし、今だって後悔してる。だったら亜美は最低なんかじゃない!」
「でも、結局、全部悪い方へ転がっていっちゃったし。こんなヤツ、周りから煙たがられるようになって当然っていうか……」
「僕、あの森で亜美を見つけた時、嬉しかったんだよ」
 エドは言った。あまりにも真っすぐな声だったので、亜美は思わずハッとした。
「なんだか、僕と同じ気配がしたっていうか……すぐにわかったんだ。僕らきっと、わかりあえるって」
「……なにそれ」
 亜美はなんだか泣きそうになってしまって、けれど絶対に泣きたくなくて、フイッと顔を逸らした。歩みを進める。エドは亜美の横をそっと歩く。何かを確かめるかのようにゆっくりと。
「きっと、森の神様が僕らをあそこで出会うように仕向けてくれたんだね。……と、友達に、なれるようにって」
 最後の言葉はちょっと照れ臭そうに、顔を赤くして、早口になりながら、エドは言った。
 友達。
 そんなこと言われたの、いつ以来だろう? 亜美はなんだかむずがゆくなって、でも嬉しくて、さっきまで胸に浮かんでいた憂鬱さがどこかへ行ってしまったような気がした。
 エドの言葉は不思議だ。
 胸の中に真っすぐ入ってきて、じんわりとなじんでいくみたい。
「あのね、昔かあさまが言っていたんだ。友達がいれば、大丈夫、って」
 エドは言った。
「その友達に恥じないように生きて行こうって、思えるようになるから。だから、本当に大切な友達がいれば、悪い方へ転がっていったりは決してしないって。僕、人見知りで、友達なんて全然作れなくて、この先もきっとそうだって思っていたんだけど、えっと、その……」
 たどたどしく、それでも懸命に「だから、つまり、」と亜美になにかを伝えようとするエド。
 亜美は、なんだか胸がじんとなって、油断すると涙が出てしまいそうになった。“本当に大切な友達”なんて言ってもらうのは、うまれてはじめてのことだった。
「……じゃあ、きっと私たちはもう“大丈夫”、だね」
 耳たぶが熱い。きっと赤くなっていることだろう。でも、一生懸命言葉をつむいでくれたエドにお返しをしたくて、なんとかそう返事をしてみせる。こんなに真っすぐ、誰かと心を通わせたのははじめてだ。
 冷たい風が二人の間をザァッと音をたてて流れ、森の奥へ静かに消えた。エドはパッと表情を明るくさせて、心底嬉しい、というような顔で、
「――うん!」
 と、頷いた。
「あのお、僕のこと忘れないでもらえますかね!?」
 拗ねたようにロールが声をあげたので、二人は顔を見合わせて、けらけらと笑い声を上げた。
 友達がいれば、大丈夫。
 その言葉は魔法のように、亜美の胸にじんと広がった。
 
 
   *
 
 
 それからしばらく雑談をしながら歩みを進めると、森の奥に泉を発見した。
 
 その泉は不思議なことに、巨大な宝石のようにきらきらと光り輝いて見えて、直視していると目が痛いくらいだった。周辺は木やごつごつした岩が転がっており、チチチと鳥が囀っては水を飲みに水面に嘴を滑らせる。
「ちょうどいい。僕らも喉を潤そうか」
「ああ、僕、もう喉カラカラですよ!」
 エドとロールが口々にそう言い、跪いて水面に手を伸ばす。その間亜美は、妙な胸騒ぎを覚えてきょろりと周囲を見回した。
 ざぁ、と撫でつけるような風が足元から吹いて抜けてゆく。
 ……なんだろう? この、嫌なかんじ。
 何か、何かとても大きなものに見られているような……
 その時、水を飲んでいた小鳥が羽ばたこうとして――失敗した。
 水面から透明な手がにょきりと手が伸びて鳥を掴み、静かに引きずり込んだのだ。
 一瞬の出来事に亜美は放心したが、すぐにハッと顔を上げ、エドとロールに向かって叫んだ。
「飲んじゃダメ!」
「え……?」
 振り向いたエドとロールの背後に、巨大な水の手が揺らめくのを、亜美は見た。
 考えるより先に足が動いていて、亜美は二人を押しのけ、水の手に向かって突進する。全身が水浸しになるような不快さの次に、息苦しさが襲ってきた。
「亜美!」
 エドの声が聞こえる。手首を掴まれる。ダメ、そんなことしたらエドまで引っ張られちゃう! 
 亜美の恐れは的中して、二人はそのまま真っ逆さまに泉へと落ちて行った。
 巨大な手は水中で分裂し、いくつもの生白い、死体のような手が二人を掴んだ。そのままずっと、奥深い場所へ引っ張られる。
 息が苦しい。
 ああ、失敗した。やっぱり私は、真世ちゃんみたいにはできないし、真世ちゃんみたいにはなれないんだ。
 私ってば――このまま――死んじゃうの?
 

「……外の世界って、どんなところ?」
   

 目が覚める。
 そこは真白い空間だった。
 大広間、という言葉がしっくりくる。深紅のビロードのカーテンが窓を覆っている。床は大理石のようで、亜美の顏がうつるほどにはつるつるだ。そして、壁にそって背の高い椅子が一つ堂々と置かれていて――そこに美しい女の子が座っていた。
 亜美は自分から少し離れたところに、ぐったりと横たわる赤毛の少年を見つけて、サッと血の気が引いた。しかし、「エド!」と叫んで駆け寄るとすると、「勝手に動き回らないで!」とキーキー声が響く。
 女の子は椅子に座って足を組み、ひじ掛け部分で頬杖をつくようにしながら亜美を睨んでいた。片手には、魔法使いの杖が握られている。
 うっとりするようなふわふわのブランドヘアに、宝石みたいに輝く青色の瞳。気の強さを表すかのようにつり上がった瞳。
「あなた……もしかしてレイチェル?」
 亜美が訊くと、女の子はフン、と鼻で笑うようにした。
「あたし、あなたが来てくれてとっても嬉しいわ。どうしてだかわかる?」
 言葉のわりに、あまり嬉しくなさそうな、それどころか意地悪そうな響きを含めながら、女の子は言った。
 亜美が無言で首を振ると、またしてもばかにしたような笑みを浮かべて、
「だって、これであたしはめでたく外の世界へ行けるんだもの。もうばかなヘマなんてしないわ」
 と、言った。
「……外の世界へ行って、一体なにをしたいの?」
「そんなこと、あなたには関係ないでしょっ」
 立ち上がり、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
 女の子――レイチェルは、気を失うエドの傍まで近寄ったかと思うと、そっと膝を折って顔を覗きこみ、頬をつんつんとつついた。しかしエドは目を覚まさない。
「間抜けなエド。偉大な血筋を引いているのに、できそこないの愚図やろう。こいつさえ上手く立ち回ってくれたなら、あたし、こんなことにはならなかったのに」
「エドのこと、悪く言わないで!」
「フーン。あんたたち友達なんだ? それとも恋人? どっちにしろお似合いね」
 せせら笑う意地悪な横顔。亜美はカッと顏が赤くなるのを感じた。
 なんとかしなくちゃ。エドをつれて、ここを出なくちゃ。
 でも――どうすればいいんだろう? ここはいったいどこ? どうすれば元の場所へ帰れるの?
「あたし、あんたの恐れを知ってるよ。心を見たもの。友達のこと裏切って仲間外れにされたんでしょ? ばっかみたい、あんたってくだらない、とるにたらない存在で、そのうえまぬけ――」
「……さっきから、ペラペラよく喋るけど、あなた結局何がしたいの?」
 話を遮りそう訊くと、レイチェルは一瞬むっとした顔になったが、すぐにフフンと笑みを浮かべた。
「簡単よ。あたしとあんたを交換するの」
「交換?」
「そう」
 それって一体、どういうこと――?
 その時、エドが苦しそうに「う……」と唸り声を上げて、ややってぱっちりと瞼を開いた。
 灰色の瞳がゆっくりと、現実を刷り込ませるかのようにレイチェルの姿を映し出す。やがて、信じられない、というように目を丸める。
「れ……レイチェル?」
「ごきげんよう、エド。久しぶり」
「無事だったんだね!」
 エドは、もう耐えきれなくなってぼろぼろと涙を流してレイチェルの手を握った。が、すぐに「うん、まあね」なんて言いながら振り払われてしまう。それでもエドは懸命に目元をぬぐいながら、「本当によかった」「君のことを考えなかった日はない」と胸のうちを話している。
 亜美は、そんな二人の様子を注意深く見つめた。
 レイチェルはいったい、何を考えているのだろう?
 ややあって、涙を流すエドに対してレイチェルは、
「まぬけのあんたがあたしを消した日からずっと、ずーっとあたしは一人だったのよ。そのうえあんた、あたしのこと早々に諦めていたでしょう? 薄情者」
 と。氷のように冷たい声でそう言い放った。
 エドはぴたりと動きを止めて、「あ……その、僕……」と唇を震えさせる。
「ちょっと! あなたがこんな目にあったのは、エドのせいなんかじゃない! あなたの自業自得でしょ!?」
「そうね。そして亜美。あんたが独りぼっちになったのも、自業自得ってわけ」
 ふわふわの髪をかき分けるようにしながら、レイチェルは言った。その仕草はテスター先生によく似ていた。
「あたし、ずっと力を蓄えていたの。魂だけになったあたしは、この泉の底にたどり着いて、そしてそこで小さな生き物の生き血をすすって生き延びた。どんなに惨めだったか、あんたたちにわかる? ――でも、それも今日で終わりよ」
「……どういうこと?」
「大丈夫、そう悪い話でもないわよ」
 いつの間にか、息がかかるほどの近い距離まで近づいてきていたレイチェルは、美しい瞳で真っすぐに亜美を見つめた。それどころか、まるで恋人同士様に亜美の頭をそっと抱き、甘い声で囁きかける。
「……ねえ亜美。外の世界から来た女の子。あたしとあんたを、交換しない? あたしはあんたとして外の世界で過ごして、あんたはあたしとしてここで過ごすの」
 亜美はぱちくりと目を丸めて、レイチェルの声を聞いた。
「あたし、その方法を見つけたの。簡単な話だったんだわ。一方の世界へ行く線を破るには、もう一方の世界の者と入れ替わりにならなければいけない――。外の世界へ行きたければ、外の世界の人間と入れ替わりにならなければいけないの」
「で、でも、そんなの……」
「いいじゃない。だってあんたはうんざりしていたんでしょう? 向こうの世界でのニンゲンカンケイってやつに。ここで、エドや変わり者のドロシーや、くそうるさいルイスとビクターと一緒に暮らせばいいわ。それがお似合いよ。ね、エド。あんただってこの子がこの世界に来れば、嬉しいでしょ?」
 頬を染めて、おそろしいほどの熱量で語り掛けてくるレイチェル。
 亜美は頭の隅で、エドやドロシーや、ルイスやビクターとここで生活を送る姿を想像した。
 元の学校へは戻らず、ここで過ごす――。
 魔法の学校は、あらゆる見た目をした人がそこら中にいるから、怪訝な目で見られたりすることだってない。それってどんなに楽だろう? それに、ここにいればあの日あった出来事の後ろめたさに怯えなくて済むのだ。
 一瞬、ぐらりと気持ちが揺れる。
 でも。
「私、元の世界へ帰るよ」
 亜美はそう、レイチェルに向って真っすぐに言った。すると、たちま、レイチェルの表情が凍り付いていく。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのか、どこか呆然とした様子でもあった
「あなたも帰るの。あなたの、家族の元に」
「わっかんないかなあ……そうしたいから、外の世界へ行きたいって言っているんじゃない!」
 至近距離で怒鳴られ、亜美はびくりと肩を揺らした。レイチェルは俯き、怒りで顔を真っ赤にさせながら、「どいつも、こいつも、バカ、ばっかり!」と叫んだ。
 ぱりん! とどこかで、ガラスが割れたような音がする。ぱりん、ぱりん! 音はどんどん大きくなってゆく。
「いいわ。優しくしてあげようと思っていたけど、やめた。あんたが悪いのよ。あんたが――あたしをいらつかせたから」
「ねえ、レイチェル、落ち着いて。外の世界に一体何があるっていうの? あなたの望むものは、この世界には無いって、本当にそう思う? あなたを心配している家族がいるのに――」
「でもパパはここにいない!」
 叫ぶと同時に、ものすごい地響きと共に床全体が揺れ出した。
 それどころか、ガラガラと音をたてて壁が崩れてくる。立っていられないほどの強い揺れに、亜美は思わずしりもちをついた。
「亜美! や、やめて、レイチェル! こんなことしたって何にもならない!」
「うるさい、うるさい、うるさい! パパに会いたい、抱きしめてほしい、ただそれだけなのに、どうしてみんな邪魔するの? どうして――」
 崩れ行く世界の中心で、レイチェルは蹲ってわんわんと泣いた。赤ん坊のような泣き声だった。急いで駆け寄ってきたエドが、亜美の背中にそっと手を回して、瓦礫から守るように覆いかぶさってくる。
 ひと際大きな地鳴りの後、頭上のシャンデリアがぐらりと揺れ、キィキィと不吉な音を鳴らしたかと思うと、そのまま真っすぐに落ちてきた。
 あ、死ぬんだ、私……。
 思わずぎゅっと目を瞑る。
 ――しかし、痛みは一向に襲ってこない。
「……もう一度言うわ、亜美」
 シャンデリアは、亜美とエドのすぐ真上でピタリと動きを止めていた。おそるおそる目を開くと、レイチェルが杖をこちらに真っすぐ向けて、冷たい声で囁きかけてくる。
「あたしに、協力しろ。じゃないとあんたもエドも、ここで終わり」
 憎しみのこもった眼差しが、こちらを見下ろす。
 でも、不思議と怖くない。
「何度言われても、同じだよ」
 はっきりと、世界に向って宣言するように、亜美はそう答えた。
「私、自分の世界へ帰る。あなたも、お母さんの元へ帰ろう。しんどくても、向き合わなくちゃいけないの」
 亜美は言った。
「そういうことがきっと、大いなる努力ってやつだと思うから」
 
   *
 
 
 騒がしい声が聞こえる。
 誰……? お母さん? もう少し寝かせてよ。それとも、お父さんがまた無駄遣いして叱られているのかな。今度は一体、何を買ってきたんだろう? 何か、面白いものだといいな――
「――み、亜美、亜美ってば!」
 冷たい手で頬を撫でられ、亜美はハッと瞼を開いた。
 そこにはエドが居た。灰色の瞳が涙を浮かべて、心底ホッとしたように亜美を見下ろしている。
 エド、ずぶ濡れじゃん。
 そう言おうとして気が付いた。亜美自身も全身水浸しで、吹き抜ける風が体を冷やしてとても寒かった。
「大丈夫? どこか痛いところは? ああ、どうしよう、僕!」
「エド、落ち着いてください! 亜美、僕がわかりますか? 高貴な使い魔ロールですよ!」
「亜美、あたしがわかる? 大丈夫、例えどこか悪くても、ママの薬をわけてあげるからね。あ、でもママ、風邪薬は作れないんだった……おできに効く薬ならあるんだけど、」
「ドロシー、彼女に今必要なのは、ひとまず薬じゃなくて、あたたかい毛布や着がえじゃないかな……」
「おいお前、目ぇ覚めてんならなんとか言ったらどうなんだよ」
「……ここは?」
 四方八方から聞こえてきた騒がしい声の数々に、ゆっくりと体を起こす。
 そこは、森の中の泉のほとりだった。
 しかし、来た時と違って眩いばかりの光は失われ、何の変哲もない、ただの大きな水の塊がそこにある。
「そ、そうだ、レイチェル!」
「彼女なら、テスター先生が医務室につれていきましたよ」
 懐かしい、落ち着いた声に、ハッとして顔をあげる。
「お……おばあさま!」
 エドが叫ぶと、そこに立っていた女性――エドのおばあさんが微笑みを浮かべた。亜美は突然の出来事に混乱して、目を白黒とさせた。
 どういうこと? 
 ……どうしてここにおばあさんが?
「亜美、孫を救ってくれてありがとうございます。あなたに心から感謝を申し上げます」
 茫然とする亜美に、おばあさんがそっと近づいてそう言い、亜美の頬を撫でた。あたたかくてしわしわの手に触れられると、じんと胸が熱くなる。
「あの、レイチェルはどうなったんですか?」
「無事ですよ。母親の元に戻りました。――あの子の父親はね、人間なのですよ」
「え……」
 美しいエメラルドの瞳が、そっと亜美を覗き込む。
 その場にいた全員が、思わず息を呑んだ。レイチェルの父親が、人間。
 でも、人間と魔法使いの間には、“線引き魔法”があるはずで――
 ぐるぐると考えを巡らせていると、答え合わせをするように、エドのおばあさんがそっと口を開いた。
「あなたとエドが出会ったように、テスター先生はある日、あの森で人間の男性と出会い、やがて恋に落ちました。しかし……世界は気まぐれですね。それまで、会いたいと願えばその通りに会うことができていた二人は、ある日ぴたりと、お互いの世界を行き来することはできなくなりました。そしてその頃にはもう、彼女のお腹は大きくなっていたんですね」
「……それで、レイチェルは、」
「あなたが気に病むことは何一つありませんよ。世界は時に厳しく、残酷なのです」
 そういうものだろうか?
 パパに会いたい、と蹲って泣いていたレイチェル。最初はわがままで、嫌な奴だと思ったけれど、でももし自分がレイチェルと同じ境遇だったら、やっぱり同じように父親に会いたいと思うだろう。 
 亜美はなんだか切なくなって、俯いた。ぽたりと、冷たい水滴が顎を伝って零れ落ちる。
 しん、と数秒の沈黙が辺りを包む。エドやドロシーやルイスやビクターも、亜美と同じようにレイチェルを思って胸を痛めているようだった。
 すると不意に、エドのおばあさんが両手をぱんっ、と叩いた。
 場の空気を塗り替えるように。
「さあ亜美」
 亜美はゆっくり、顔を上げる。
「約束通り、あなたのお願いを一つ叶えてさしあげます。何を願いますか」
 その言葉に、頬を打たれたような気持になった。
 
 ――亜美の裏切者!
 
 そうだ、自分はあの瞬間をなかったことにしたかったんだ。
 思い出すだけで胸がキリキリと痛む、あの瞬間を、なかったことに。
 そうしたらもう、あんな憂鬱を抱えて過ごさなくて良くなるのだ。
 ……でも、
「私……私、願いはありません」
 亜美は言った。
「しいていうなら、とても寒いし、お腹がすいたので、着がえと、食べるものがほしいです」
 それが、今の亜美の、心からの願いだった。
 亜美の答えに、おばあさんは可笑しそうにくすくす笑うと、「ええ、ええ、喜んで」と囁いた。
 まるで、以前にも同じ答えを聞いたことがあるかのような――懐かしむかのような声色だった。
 
 
 寂しそうな顔のドロシーや、存外残念そうに「なんだ、ここに留まればいいのに」「一緒に悪さしようぜ」とか声をかけてくるルイスとビクターに見送られながら、亜美はエドと共に来た時と同じように鏡をくぐり、あの森の中にある小さな、しかし不思議に満ちた美しい家に戻ってきていた。
 来た時に着ていた服に着替え、おばあさん特性のケーキを食べて、地上へと繋がる扉の前に立つ。
 この先に待っているのは、亜美にとってどうしようもなく憂鬱で、しんどくて、逃げ出したくなることがたくさん待ち受けている場所だ――。学校のことを思うと、やっぱりどうしても、ずしんと気分が重くなる。
「ねえ亜美」
 エドが言った。
「僕ら、また会える……かな」
 どうだろう。亜美にはわからなかった。御伽噺のようにおかしなことばかりが起こって、あっという間に過ぎて行った時間のことを思うと、夢でも見ていたんじゃないかとさえ思うのだ。
「うん、きっと」
 でも、答えがどうあれ、現実がどうあれ、亜美はそう答えたかった。
 亜美の言葉に対して、エドは何か言いたそうに、でもそれを言葉にする力を持っていなくてもどかしい、というような顔をした。

「さようなら。」

 エドに思い切り抱き着いてそう告げ、ロールやおばあさんに手を振って、よおし、と胸を張り、亜美は勢いよく扉を開けた。
 
 
 ――薄暗い階段を、一人で上る。
 ゆらゆらと揺れるロウソクの灯りはどこか不気味だ。やがて現れた行き止まりに対して、そっと手を伸ばすと、天井部分の蓋が外に向かって開け放される。
 鳥の鳴き声。頬を撫でる風。草葉の青臭い匂い――ああ、帰ってきたんだ。
 地上に出て、ぐるりと辺りを見回すとひと際大きな風が吹いて、亜美は思わず目を瞑った。
 次に目を開けた時、世界がひっくり返った、というような、奇妙な予感がした。
 振り向くと、亜美が確かに上ってきた地下への扉は消えていて、そこには何の変哲もない土の地面と、そこに根付くアカシアの木がただ静かに佇んでいる。
 亜美は泣きたいくらい寂しい気持ちになったが、ぐっと堪えてずんずんと森の中を歩き出した。
 森をぬけると、何の変哲もない、湖とボート乗り場が亜美を待ち受けていた。
 今、一体何時だろう? 
 ボート乗り場の掘立小屋から、若い男の人が出てきて、亜美の顏を見てぎょっとしたような表情になった。
「君、もしかして、」
 しかし、男の人はそれ以上何も言わなかった。
 気の強そうな切れ長の瞳は、誰かに似ているような気がしたが、亜美はとにかく眠くて、だるくて、一刻も早くベッドに入ってしまいたかった。
 
 家に帰ると、深刻そうな顔の真世がリビングに立っていた。「真世ちゃん」と声をかけると、ハッとしたように振り向き、
「亜美! あんた――あんた丸一日、どこに行っていたの!?」
 と、真世にしては珍しく取り乱して叫びながら、ひしと亜美を抱きしめた。
 丸一日? いや、そんなはずはない――せいぜい半日程度の冒険だったと思う。ああ、それにしてもすごく疲れた。
「真世ちゃん、私、明日帰る」
「え……」
「送ってくれる?」
 そう言うと、真世は目を丸めて、困惑したように亜美を見た。
 そして、心底疲れた様子でぽつぽつと言葉を発する亜美を見て、今度は何かを悟ったような顔になり「ええ、もちろん」と優しく囁く。
「あなたも、あそこへ行ったのね」
「え?」
 なにか言った?
 聞き返すと、真世は「なんでもない!」と、なぜだかとても嬉しそうに笑いながら言った。
 
 自分の部屋に直行して、着がえもせずにベッドに飛び込む。
 考えれば考えるほど、夢を見ていたとしか思えない。 

 森の中――赤い髪の男の子――魔法使いのおばあさん――喋る猫――魔法の学校――

 ごろん、と寝返りをうつと、ポケットに違和感があった。なんだろう、と手をつっこんでその正体をさぐる。
「……あ」
 出てきたのは、黒い小さなきんちゃく袋だった。
 亜美はなんだか心細いような気持ちになって、ベッドから起き上がり、窓際に椅子を置いて外の景色を眺めた。陽は沈み、辺りはすっかり夜の静寂に包まれている。この暗闇の向こうに、あの森がある。
 かさかさと音をたててフィルムを剥がし、口の中に飴玉を放り込む。
 すっぱくて、鼻の頭のあたりがツンとして、思わずほろりと涙がこぼれた。
 あの森の中の家で、エドのおばあさんに言われた言葉を、胸のうちでそっと唱える。

 ――あなたには、魔女の素質があるわ。

 ふう、と大きく息を吐いて、気合を入れるようにぐっと両腕を伸ばす。そうすると、なんだか体中からムクムクと力が湧いてくるようだった。
 亜美は、ぱしんと自分の両頬を軽く叩いて、その勢いのまま口の中の飴玉をがりっと噛み砕いた。

 やっぱりとても酸っぱかったけれど、もう、涙は出なかった。

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