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潜水艦な青春

 真っ黒な空を潜水艦で泳ぐ。
 真っ黒な空を。
 潜水艦で。
 泳ぐ。
 そんな青春だった。

 制服時代を脱ぎ捨てた。高校を中退したのだ。散らばった言い訳を集めても立派な理由には、なりそうになかった。
 コーヒーをドリップ式で淹れながら喫茶店の開店準備をしているママに、そのことをおちゃらけて告げたら、ママは何も言わず、ただ私を抱きしめた。背中に感じるママの手が怒っているのか、泣いているのか、分からなかった。

 喫茶店の端っこでママを手伝うでもなく、小説を読みふけり、コーヒーの匂いと夜を待つ。夜色が濃くなってから喫茶店のすぐ裏にある家へ帰ると、普段の空気が流れていた。パパとは二年前から話さなくなっていたし、姉妹たちには姉妹たちの生活があって、私の中退は大したニュースではなかった。おばあちゃんは、おはぎを作っていた。
 ベッドに寝転がって天井を見つめる。さっきまで読んでいたアガサ・クリスティーの小説のある一文が頭に浮かんだ。
『悲劇の本質は、若さにつきもののきびしさにある』
 悲劇って、どんなだろう。
 その日から私の夢は、真っ黒な空一色になった。

 田んぼに照りつける太陽は私には眩しすぎた。用水路を透明な水がキラキラキラキラ流れていく。暇な私はママが作ってくれた弁当を手に、用水路に沿って歩いた。先へ先へ流れていく用水たちの水音が、小学生の頃に聞いた話を思い出させる。用水路は危ないって。表面はキラキラ緩やかに水が流れているけれど、底流はそれはそれは激流らしい。遊んでいて足を激流に持っていかれ死んじゃった子もいるって話だった。コワイ。コワイ。
 あっけなく用水路の終わりに辿り着いた。キラキラな用水たちはボッコンボッコン音を奏で、太いパイプを通り、田んぼを潤していく。太いパイプに弾かれた用水たちは盛大な泡となって消えた。
 そばに廃れた農具小屋があった。もう使われていない錆びついた農具に座り、ママの甘い卵焼きを食べる。用水たちが歌う音だけ。心が静まる。今頃、学校では昼休みだろうか。もう、関係ないけれど。
 農具は、長く座ると尻が痛くなりそうだったけれど、私は気に入った。その廃れた農具小屋を私の秘密基地にすることにした。そんな場所が必要に思えた。

 正午まで真っ黒な空の夢に眠り、ムフっと起きるとママの弁当と小説を持って秘密基地へ向かう。太陽が沈み、小説の文字が読めなくなるまで、秘密基地で過ごす。それが私の日常になった。
 廃れた農具小屋は意外に奥行きがあり、中はひんやりと土の匂いがした。秘密基地を深く暗がりまで進んで、湿り気のある冷たい土でいくつもいくつも固くて強い土団子を作った。数えきれないほど土団子を作りながら、用水路の水音をきいていると、ブクブクブクブク海の底にいる気がした。潜水艦で海の底、深く深く。ほら。目を閉じれば深海魚も見える。独りよがりな私が、私を潜水艦に閉じ込めた。

 暗くなると家へ帰った。家に入る前に喫茶店を覗く。ママは私の顔を見ると「お弁当食べた?」と聞いた。何かを確認するみたいに。
 真夜中まで仮眠して、こっそりひっそり起きだし、深夜映画を観るのも好きだ。そんな時は喫茶店から瓶コーラを盗み、飲んだ。
 朝、家族が起きる前にベッドへ潜り眠る。真っ黒な空の夢で私は、黒板消しを手に、必死に黒色と戦っていた。真っ黒な空は大きくて果てしなくて恐かった。        

 毎日、毎日、毎日、ママは弁当を作ってくれた。何にもしないでいる私を好きにさせてくれた。夜、顔を見れば「お弁当食べた?」そう必ず聞いた。パパとは顔を合わすことさえなくなっていた。
 深夜映画を観て、真っ黒な空の夢と正午まで眠り、太陽を浴びず、秘密基地の潜水艦で過ごす。食べるのは、ママの弁当と深夜の瓶コーラだけ。私の身体は変てこになった。体重が減り、目の下にクマが目立ち、生理が止まった。少しずつぷるぷるし始めていた胸も心なしか萎んだ。
 そして汚れてもいないのに、やたらと手を洗った。手を一回洗う度に「グレタ・ガルボ」と三十回、「グレース・ケリー」と三十回、「ローレン・バコール」と三十回唱えた。途中で数が分からなくなったら「グレタ・ガルボ」から、もう一度始めた。
 家の中では、呼吸をしていい場所、八秒なら息を吸っていい場所、笑っていい場所を決めた。なぜ、そんなルールを作るのか。理由は私にも解らなかった。

 私が作ったルールを、私が破らないように、私が監視していた。異常なのは他の誰より、私がよくよく知っていた。

 ボッコンボッコンボッコン。透明な水が用水路を流れていく。私は用水路と田んぼを繋ぐ太いパイプのそばにしゃがんで、ただ見つめていた。田んぼを潤すためにキラキラキラキラ用水路を流れてきたのに、太いパイプに弾かれ、盛大な泡となって消えていく。その様をただ見つめていた。
 どこかで誰かが流したのか、紫色の小さな花たちが列になり、いくつもいくつも用水に乗って運ばれてきた。ボッコン。ボッコン。紫色の小さな花たちは、ボッコンに飲み込まれたと見せかけて、次の瞬間、田んぼにキャアキャアキャアと現れた。紫色の小さな花たちが散らばって、田んぼを色っぽく染める。あんまりに素敵だから、どうか死ぬまで憶えさせていて。

 黒板消しを握りしめて、真っ黒な空の夢と戦う私。逃げているのか。立ち向かっているのか。逃げているのか。立ち向かっているのか。息切れして、ハァハァして、まとわりつくひんやり汗と、現実に目覚める。眠りの世界に入るのが恐くなる真夜中は、そーっと起きだし、テレビに逃避だ。
 テレビ画面は色んな現実と非現実を映す。遠い国の戦争。近い国の戦争。魅惑的に歌い踊るアイドルたち。チャンネルを変えると、一人の少女が黒い練習着に身を包み、氷の上を滑っていた。華麗に強く舞う。彼女はフィギュアスケートの選手で、公開練習の様子をスポーツニュースが伝えていた。
 テレビの中、何度もジャンプし身体を反らして滑る彼女は、ハァハァな顔をしている。チャンネルを変えれば、歌い踊るアイドルたちもハァハァな顔をしている。戦場で兵士たちもハァハァな顔をしている。みんなハァハァしている。ほっぺたをほてらせて。のどをヒリヒリさせて。ハァハァして。それでもそこに何かしらを見つけて、生きてる。

 胸がきゅっとして深呼吸がしたくて外へ出た。白い月の下、田んぼが海のように広がっているのがうっすら見える。用水路の水音も波のよう。
 電信柱の電灯が静かに照らす夜道を深呼吸しながら歩く。スー。ハァー。スー。ハァー。しんっとしている夜。田んぼの海。用水路の波音。ひんやり白い月が泳ぐ夜空を見上げた。夜が去って、明日が来て。また夜が来て。去って。明日が来て。満ち欠けしても変わらない月。私は、不変の存在を漠然と感じた。変わるものと、変わらないもの。
 電信柱の電灯が私の影をぼんやり作っている。静かな夜道、電灯の下を通る度に、私の影はぼわぁんと現れた。暗がりに入ると消えてしまったように見えても、夜色に溶けているだけで、ほら。電灯がまた影を現す。   
 ひんやり白い月が私を見下ろし、心地よい夜の風がほっぺたを触って行った。

 容赦ない雨が昨日の夜から降り続いていた。空気を全部洗うみたいに、ざぁざぁざぁざぁ止む気配がない。田んぼはまるで湖と化して、潤す必要もないのに、用水路は溢れゴォーーっと田んぼへ突進する。
 いつものキラキラな用水路は濁って、狂気漂う。その変貌ぶりを秘密基地の穴ぼこから眺めていた。
 さほど丈夫な造りではない農具小屋は凄まじい雨に打たれ、壊れやしないかと怪しんだ。ママの弁当のカッパ巻きを心細さと一緒に飲み込む。のどを感じる。のどの存在を。秘密基地の潜水艦は浮上して、難破船になってしまったようだった。

 秘密基地の屋根も壁も全部、大粒の雨が打つ。絶え間ない雨音が他の一切の音を遮断した。私は、奇麗に固まったままの土団子を見つめ、これから先、少し先、どうしたものか。思案した。頭に冷静な私を。心に強がりと不安を宿して。
 何はともあれ、呼吸のできる空間が必要だ。そして、私を私で生きていく凛とした逞しさが。
 家を出よう。
 大粒の雨音が心配げに耳を打つ。フレーフレーと背中を叩く。

 はしゃぐような子ども時代を過ごした。ママもパパも姉妹たちもおばあちゃんも、私に優しかった。
 はみ出しちゃったな。私。

 夜が近づくにつれ、弱まった雨の中を、ぐしょんぐしょん長靴を鳴らして帰った。喫茶店を覗くと、ママがカウンターの向こうから言う。
「お弁当食べた?」
「ママ、カッパ巻き、酢飯じゃなかったよ」
「あららら」
 ママのおどけた顔に、幼い私が泣きそうになって、急いで家に入った。
 ママ。ママの深緑色のエプロンはコーヒーの匂いがいっぱいして、ぎゅうって抱きつくのが大好きだったの。

「家を……出たいんだけど」
 一言のセリフに声が掠れる。
 ママはちょっぴり泣いた。
「お父さんに電話でもいいから、自分の口から言いなさい」
 ママの声が、私を優しくぶった気がした。喫茶店の電話機から家へ電話した。パパは言葉少なに私が家を出ることを許した。
 お姉ちゃんが仕事の合間に素晴らしく適当なアパートを見つけてくれた。敷金や礼金やひと月分の家賃をママが払ってくれた。家を出たらバイトして私が自分で払わなきゃ。一万円札を一枚一枚数えながら払うママの姿を忘れてはいけない。そう思った。結局、私ひとりでは何ひとつできなかった。私は、子どもだった。

 太陽もまだ眠そうな夜明け。大きなかばんに本と下着だけ詰め込んで、駅へ向かった。ママが庭先から私を見送っているのを背中で感じた。振り返らない。振り返れない。
 田んぼに飾られた道を私はずんずん進んだ。

 古風で小ぢんまりしたアパート。外階段を上り、手にした鍵でドアを開ける。大きな窓を全部開け放ち、畳の上に寝転んだ。土手から吹く風と畳の匂いが、私を迎えてくれる。どうぞよろしく。深く大胆に深呼吸した。

 不安を数えて積み上げたら、宇宙まで行っちゃう。大丈夫。泣きそうになったら潜水艦な日を想おう。チョコレートの箱に大切に詰めた過去として。
 真っ黒な空の夢が完璧に消えた訳ではないけれど、ハァハァするのも悪くない。はみ出した私を愛する術を、教えてくれるから。

 果てしない空が深海色に染まっていく。もうすぐ夜がくる。やがて朝を迎えるために。 

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