うちの地元の拉麺屋はどこでもだいたいうまい 鈴木日出家

から月に一度新店開拓するときのわくわくはおいしいかどうかではなく、もう一度来たいか、で食す前から、もう一度来たいか、と思いながら入店する、とは言いながらそもそもが内向的、新しい場所や人への根源的な抵抗感、は拭えずに内在し、であって入店のときにはおずおずして各店ごとのルールや倫理や定型の行動原理に従わねばとビクついていて、四角い店内に迷い込んだ濡れ犬、のように目玉がキョロついて、極端な視野狭窄に陥って、座席は案内されないならば一番最初に目に付いた席を、入店後食券を買わなければいけないところも多いから、券売機を見過ごしにして若い店員に喧噪をまたぐ大きな声で「ショッケンおねがしまース!」と言われなくてもいいように視神経を奮い立たせてスコープする、まるで洞窟の暗闇に当てる懐中電灯の灯りで、この頃電池が切れそう。
そこは半地下で手作りの木製の看板が大きく柔らかく店名を主張している、さびれかえった商店街にありながら地上から半分ずらすことで違いを生み出す、的なセンスが空気として漂う。御水を運んできた主人がさりげない素早さで荷物用のかごを足元に置き、それは店内の色調と掛け違いを起こさない色合いで、主人はたいていうつむいて視線を泳がせているわわわわたしの視線を夜店の金魚すくいでポイを巧みに操る玄人のごとく自然と目を合わせて、いらっしゃいませ、と初めて聞く単語のように、言う。注文の際に粗相のないよう十分に下調べをして入店しているから、メニューを見るともなく、本当はゆっくり見たいけれど、興味もなさそうなスタンス、第3のビールを選ぶときみたいなポーズで、意を決した発語、店員の復唱。よかった、わわわわたしはなにもまちがえていない。

ホスピタリティ! 自転車を踏み出して、横断歩道のおじさんを危うくよけて、速度を上げていくわわわたしの両耳のスピーカーからはグレイテストショーマンのテーマ曲が流れ、たぷたぷとした胃から芳醇な小麦の甘みが全身に浸透していく中、横隔膜の底からわきあがってくるものは、ホスピタリティの居心地の良さであった。拉麺屋における居心地の良さというパラメータをわわたしは知らない。拉麺屋の本質は早く着座し早く注文し(何なら入店と同時に。そのために券売機がある)、なるべく待たずに拉麺が届けられ戦場にあるがごとくに早く食す。これが拉麺屋での鉄の掟であり不変かつ普遍の摂理である。にも関わらず。ホスピタリティ! それは新しい価値観でわたしに再訪を要求する。
早い着座と注文(それはこちらの領分だ)。そのあとはゆっくりと店内を見回し、色の変わった壁に描かれたヘンなロボットの絵を眺めたり、店員同士のやりとりや客の注文の内容を聞いていたり、常連客が迷いなくカウンター席について交わす主人とのやりとりをただ聞いているうちに、分厚い木で造られた椅子が体に馴染んで、わたしはさきほどかごの中にいれておいたトートバッグから詩集を取りだして、読むふりをするのだ。それは待つのは全然苦ではないよという店側へのメッセージ! 待っている時間を楽しんでいますよ、という偽りのないパッセージ! 注文の品が運ばれてその時間が尽きたことが告げられることが半ば残念であるかのように出迎えて、つけ麺は水で締められて艶やか、湯気を立てるつけ汁は魚介粉をちりばめて匂やか、行ったことはないがイタリアの青の洞窟を想起しつつ、啜り上げる廬山大瀑布。麺を昇天せしめたのち、白飯をつけ汁にダイヴさせた瞬間には飲み干す亜空間。唯一無二の時間に言葉を失い、オイシカッタデス。と言おうとしてゴチソウサマデシタ。が言えない。

青い自転車が職場に着く前に、追体験を終える。反芻したつけ麺が体に溶け、体はヨットハーバーの桟橋に立つ金属のポールの照り返しに溶け、拉麺屋は寄港地になる。それはケープタウン。あるいはウラジオストク。もしくは沖洲マリンターミナル。午後は仕事だ。ホスピタリティをまとった体から階段の一歩ごとに滴が垂れる。飲み残したつけ汁のごとき、染みをつける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?