見出し画像

車間距離とウィンカーの話

車間距離。

文字のまま意味をとるなら、車と車の間の距離。

それはそうだ。


自分は広めの車間距離が好きだ。

エンジンブレーキも好きだ。

それがよく利く車に乗ると、ペダルを踏まずとも、ある程度の速度は落ち、間隔などの微調整ができる。


だがそれも“車間距離”があってこそだ。

車間距離が短ければ、エンジンブレーキを使う前に先行車両に追いついてしまい、ペダルを踏む必要が出てくる。

車間距離があれば、そんなことはない。


「3秒分の車間距離を開けよう」という啓発を目にしたことがある。

車間距離をとらないことによって、到着時間は早まるものではない、という啓発も見た。

何せ、3秒しか変わらないのだから。

“防衛運転”という語が、最近、腑に落ちた。


最初に述べた、“車間距離”という語。

これは単なる自動車間の距離、という意味に取られないか。


車間距離には様々な役割があると思う。

これが取れていれば、前方で何かあってもすぐに突っ込まないし、

渋滞時の超低速ノーブレーキ走行も車間距離が必要だ。

防衛運転につながる車間距離を、単に“車間距離”と呼ぶのではなく、

安全確保距離”と呼んではどうだろう、と最近よく思っている。


車間距離のことを“安全確保距離”と認識していれば、

煽り運転なんて全く安全確保について意に介していないことがわかるし、

広めの車間距離をとっている車の前に割り込んで来ることもないだろう。

それらは、“安全確保の、また防衛運転のための、車と車の間の距離”であることを気にしていないから出来る行為なのだから。



話は変わるが、ウィンカーを出さない運転を目にして気分が良くないのは、周囲が進行方向を予知できず危ないというだけでなく、

その運転を目にした周囲の存在を無視している感じがするからという点もあるのではないか。


離れた所に歩行者しかいなくとも、方向指示器は情報として、
歩行の際の進み方――このまま関わらずに通り過ぎるのか、それとも停まったり或いは急いだりが必要だろうか――にも影響する。

「関わらないことが判る」ことが、情報でもあるのだ。


車がある地点で曲がるのかそうでないのかは、基本的に運転者にしか解らない。

周りに進行方向の情報を与えること、減速などの心構えをさせられること、
さらにはそれらに対応できる距離を確保していることが、安全な往来につながると感じている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?