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「普通」がないことが、やっぱり大切

どうも!スケットビラkeeです。

本日は、
「仕事の上で自分の大切にしてきたこと」

「無意識のうちに出てしまう価値観」
に、ヘダタリがあることに気づき、気を引き締めたよ…
について書いてみます。

普段、シッター先では
・けいちゃん
・◯◯さん(旧姓)
・◯◯せんせい(旧姓+先生呼び)
・けいちゃんせんせい
・けいこせんせい
・くろさわさん

と、まぁ色んな呼び方で呼んでもらっていることからもわかるように
「私に何を求めてくださるのか」は、おうちによって様々なわけです。
自分にとってはそれが心地よく、それこそ、大事にしてきてきた部分です。
「それぞれのニーズに応える」が、この仕事の醍醐味でもあるのだから。

でもですね、ある時、お伺い先の方との雑談中に
(この雑談も貴重かつ、私にとっても知らなかったことを教えてもらえて最高なわけです。大人にいかに笑ってもらえるかが、腕のみせどころ)

その方が「養子をわが子に迎え入れた先輩の話」をしてくださいまして。
素晴らしい覚悟です、本当に。と、その方としみじみお話しをしていたのですが
ちょっと待てよ、と。
少し振り返ると、これまで、いろんな場面で「お母さん似ですね」「お父さん似ですね」と、私は言ってきてなかったか…と。
それによって悪気なく傷つけてきた方もいたのでは、と。

本来、その子はその子であるし、育てる人もその人、ただそれだけのこと。
別に似てようが似てまいがどちらでもいいのです。

でも「〇〇似ですね」と言ってしまうのは、会話の間を埋める?ために
「便利な言葉」だからなのかもしれないな、と気づきまして。
(疲れた、忙しい、もこれに当てはまるのかも?)

「普通」ってなんぞや?と、多様であることこそヨシ、とを大切にしていたのに、自分から無意識に出てくる言葉、間を埋めるために発した言葉はテンプレ、というか、いわゆる画一的なものだったな…と、価値観と発言が全然一致していないじゃないか…と自分が恐ろしくなり。

言葉を口に出して発する前に、脳を通して自分の価値観と照らし合わせることが、ヘダタリをなくしてくれるのだと再認識。

気を引き締め直し、各お家の「それぞれ」を
私は大切にしていこうと思います。

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かなり甘い採点をしてくれたが、あっけなく敗北
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