笛吹き男


 ある街から若者らが消えた。
 一夜にして、大勢の若者が消えた。
 まるで有名な童話のような話だった。
 街の外から来た先導者の言葉は、心地よい音色のようであった。若者たちは耳障りの良い彼の言葉に惹き付けられ、街を出て行った。
 いったい、その男はどうやって街中の若者たちを消したのだろうか。



 田舎でもないが都会というほどでもない。
「まあ、東京ほどじゃないけど、それなりに遊ぶ場所はあるし」
「人混みとか…特に満員電車!あれに乗らずに済むなら、これぐらいの地方の方が居心地はいいかな」
「同級生もほとんどこの街に残ってるし。わざわざ知らない人ばかりのところで、新しい生活を始める勇気はないかな」
 若者らは口々にこの街の居心地の良さについて語る。
 ほどよい刺激さえあれば、わざわざ東京へ転出する理由にはならない。そう、ここは田舎というほど娯楽に飢えてもいなければ、都会というほど窮屈ではない。
 ショッピングモールはあるし、公共交通機関も不便というほどではない。車移動する分にも問題ない程度に、複雑な車線や混雑もない。都内へは電車を乗り継がずに行けるので、気晴らしにもさほど困らない。なにより実家暮らしは金銭的に安泰だ。

 だが若者らは未来を案じていた。
 就職と昇進は、まるで椅子取りゲームなのだ。
 田舎でも都会でもない街は、居心地が良かった。それゆえに、この街に生まれ、留まる人間が多かった。高校を卒業して、就職ないし進学をし、そのまま地元に根を下ろす。そんな若者が、未来の経済の中心を担うはずに思えた。
福祉もそこそこ充実しているため、老人も元気だ。
 つまり、人口が安定している一方で、働き口という席がなかなか空かないのだ。

 若者らは密かに不安を抱いていた。
 一見、理想的に見えるこの街に、自分たちの居場所が永遠に保証されていないのではないかということを。今はまだいい。だがこの先、十年、二十年経ち、家庭を持ち、それなりの収入を得るための食い扶持が、自分たちにはあるのだろうか。ふとした時に少し先の未来を冷静に見据えると、暗澹とした気分が頭をもたげてしまう。それは伝染病のように、若者も間に広がりつつあった。目に見えない不安は、誰の口から語られるでもなく、若者らの漠然とした共通認識となっていた。不吉な妄想の空気感染は、現在、安心した椅子に座っている、いわゆる団塊世代には空気中の塵よりも気にならない。むしろそんな畏れなど想像すらできなかった。
 しかし、誰も不安を口にはしなかったし、聞かれれば「この街に不自由はない」と口を揃えて言う。
 心の底で眠らせていたい、杞憂であれと願う不安や畏れ。それを言葉に出した途端に、現実味が帯びてしまうことで、この居心地が良いと思い込んでいる生活が終わってしまう気がした。実際にそうあってほしくはないとの願いで蓋をし、何不自由のない生活を演じていた。


 溝之内しおんはカフェで友人と待ち合わせていた。
 待ち合わせの時間よりも十五分早く到着してしまった彼女は、駅前のカフェに入って、友人が来るのを待った。コーヒー一杯を飲み終えるにはちょうど良い時間だ。だから気にせずゆっくり向かってきて。という彼女なりの配慮もあったし、ちょうど電車内で読みかけていた本の続きに目を通したかった。
 友人が到着次第、しおんはカフェを出るつもりだった。だから彼女は、窓際のカウンター席に注文したコーヒーを置いた。しおんが席に座り、バッグから読みかけの小説本を取り出すと、若い男がしおんの隣に座った。そう広くはない店内は、週末ということもあり混んでいた。しおんは隣の席に男が座ったことも気にせず、しおりを挟んでいたページを開き、同時にコーヒーカップを口に運ぶ。
「すみません」
 しおんの左隣から、男の声が聞こえた。しおんはカップをソーサーに戻し、男の方へ顔を向けた。
「あ、はい」
 声をかけられたことに少し警戒はしたが、ナンパ目的のような軽い口調ではなかった。怪訝でもなく、しかし愛想笑いをするでもなく、道を聞かれた相手に向けるような表情で男を見遣った。
「これ、あなたのものですか?椅子の下に落ちていたので」
 女性もののタオルハンカチを手にした男は、三十前後といったところだろうか。中肉中背。だが身にまとっている衣服やその着こなし、ヘアースタイルなどから、どこか都会の雰囲気がした。いわば、この街ではあまり見かけないタイプの男だった。
「いえ、違いますけど」
 しおんはハンカチに視線を落としたあと、目線だけを男に向けた。上目遣いになったしおんの顔を、男は薄い笑みで見下ろした。
「そうですか。読書の邪魔をしてしまってすみません」
 このハンカチは店員に届けてきますと言い、男は再び席を立って注文カウンターの方へと向かって行った。
 しおんはまた本に視線を落とし、コーヒーカップに手を伸ばした。文字を追いながらも、さっきの男の顔が頭の中に浮かんだ。強烈に印象に残るわけでもないが、端正な顔立ちをしていた。少し前に流行った、”塩顔”に近い。背は高くはないが、それに見合った服装を選んでいるようにも思えるほど、彼の着ていた服は上から下まで彼に似合っていた。むしろ彼のために作られたものではないのかと、大袈裟な妄想をしてしまうほどに、全身を黒でまとめながらも清潔感を与えた。などと、一言、二言の無味無臭の会話をしただけで、しおんの脳内に印象を残す男だった。
 しおんは本を閉じた。
 男が落し物のハンカチを店員に届け戻ってきた。左隣に座った彼が気になって、本の内容が頭に入ってこなくなってしまったのだ。本をバッグの中に戻し、目の前の窓ガラスから駅前の通りを眺める振りをし、コーヒーを口にした。途中、何度かスマートフォンを確認し、友人が来るのを待っている間、ここでコーヒーを飲んでいる。と、アピールするかのような動作を、しおんは無意識にしていた。
 気づかれない程度に、しおんが横目で男を見ると、スマートフォンをしきりに眺めていた。時々動く親指はとても素早かった。画面に視線を落としたままで、コーヒーを口にし、ソーサーに戻す。本を閉じたしおんは手持ち無沙汰になり、何度か男を盗み見ていた。
 ようやく、窓の向こう側に友人の、下河原怜の姿が見えた。しおんは彼女に手を振り、トレイを手に席から立ち上がった。トレイを持ち上げたことで拓けたカウンターテーブルの上に、男の手が伸びてきた。しおんは立ち上がったまま男の方へ顔を向けると、男はしおんを見上げて言った。
「もし、お仕事に困ったら、ここに連絡してください」
 男は言い終わるとテーブルの上からスっと手を引いた。カウンターテーブルの上には、名刺が置かれていた。
 しおんは少し困惑しながら、男と名刺を交互に見た。名刺を手にしていいものかと迷っていると、怜がカフェのすぐ目の前まで来ていた。しおんは名刺を手に取り、コートのポケットに突っ込んだ。名刺を受け取ったところで、連絡をしなければ何の問題もない。しおんは端から、たとえ仕事に困ったとしても、どこの誰ともわからない男に頼る気はなかった。そこまでリテラシーの低い人間ではないという自負はある。ここで名刺を突っぱねて、押し問答になるやもしれぬことの方がよっぽど面倒だ。
 しおんは形ばかりに頭を下げて、店の出口へと向かった。



 男は東京から来たと言った。
 たしかに、地元ではあまり見かけないタイプで、都会の雰囲気を身にまとっている。着ている服も、センスという点においては、それが良いのか悪いのかの判断がつかないが、おそらくそれはお洒落という部類に該当するのだろう。この街の住人からすればその程度の認識だ。だから彼のことを皆は都会の象徴のように捉えていた。
 男が着ている服は、地元のショッピングモール内のテナントではまず見かけない。男はいつ見ても上下黒の服だった。サーカスのピエロのような、だぼついたズボンに、首元が広くあいたカットソー。左右の丈の長さがちぐはぐなシャツ。どういった構造になっているのかわからないブーツ。などが彼のスタイルだった。だがそれらは決して安くはないだろうと誰もが見て取れる品だった。

 男は追小野木 (おこのぎ)と名乗った。
 下の名前は充茂と書いて「みつも」と読むらしい。名刺にはそう書かれていた。誰もそれを疑いもせず、仮に偽名だったとしても、SNSで使用するハンドルネームと同様のもの。その程度の疑いしか持たなかった。なんらかの活動をする上で、本人を呼称する記号がそれであり、芸能人が芸名を、キャバ嬢やホストが源氏名を名乗ることと大差ない。皆は彼のことを「追小野木さん」や「充茂さん」と呼ぶことにもなんら抵抗はなかった。


 ある日の追小野木は、これまた黒いハットを被っていた。髪の毛はゆるいパーマをあてていて、顎のあたりまで伸びている。それらもまた、彼の端正な顔立ちによく似合っていた。一見してファッションモデルかとも思える出で立ちの追小野木は、どこに現れても目を引く存在であった。

 そんな風貌の男に、パチンコ店はかなり不釣り合いだった。
 檜山悠吾が座る隣の台に追小野木が座ると、檜山は自然にスロット台から彼に視線を移した。
 こんな洒落た男でも、パチスロに興じるものなんだな。
 檜山はそんなことを考えながらも、また調子の悪いスロット台に目を向け顔をしかめた。
 しばらくしても檜山の台から派手な演出音が流れることはなかった。反対に、追小野木が座った台からは、ひっきりなしに当たったことを表す演出が聞こえてくる。檜山は思わず舌打ちをしたいのをぐっと堪え、席を立とうと椅子から腰を上げた。
「すみません」
 パチンコ店の喧騒の中から声を拾った檜山は、追小野木の方へ振り向いた。
「僕、もう時間がないので、この台、引き継ぎませんか」
 追小野木は調子のいい台を、檜山に譲る提案をだした。
「え?いいんすか?」
 檜山はさっき追小野木に抱いた感情はぶん投げて、遠慮なく追小野木の好意に甘えた。
 追小野木が席を立ち、その席に檜山が座ると、追小野木は檜山の目の前に名刺を差し出した。
「仕事に困ったら、いつでも連絡ください。僕、東京で仕事を斡旋する事業をしてて、ぜひ地方の若い人たちの力になれたらと思って、こうして声をかけているんです。もし興味がおありでしたら連絡ください」
 上体を屈めて檜山の耳元でそれだけを告げると、男はスっと立ち去って行った。名刺から顔を上げた檜山の視界には、追小野木の背中はすでに遠くにあった。


 追小野木のこれらの行動は、一週間もすると街の若者たちの間で広まりつつあった。
 それはSNS上での注意喚起から始まり、自分も追小野木から名刺を手渡されたというコメントが相次いだからだ。
 追小野木の行動は、ほとんどの者には不審に写って当然だったが、中にはほんとうに名刺に記された番号に電話をかけた者もいた。

 そして、最初こそ警戒の意味で彼の噂が広まったのだが、名刺をもらった女性の多くが、彼の容姿を好意的に捉えたのも事実であった。
 都会から来た謎の職業斡旋業者。そのミステリアスな肩書きと、見目麗しい顔立ちに、彼への不信感は興味へと変わっていった。
 彼に好感を持ったのは、なにも女性だけではない。追小野木のルックスは、男性からも地元にはない洗練さを与え、憧れへと変化していった。



 追小野木に対しての警戒心が羨望に変化したのは、ある一人の若者の行動によるものだった。
「すげぇ・・・」
「いいなあ、私もこんな生活してみたい」
「あいつ、勇気あるな」
「でもやっぱり、騙されてんじゃない?あいつ馬鹿だから」
 パチンコ店で追小野木から名刺を渡された檜山は、翌日には彼に連絡していた。
 高校を卒業してから一年ほど勤めた建築会社を辞め、停職に就いていなかった檜山は、なんでもいいから仕事にありつきたいと思っていた。そんな時に運良く舞い込んできた追小野木の存在は、彼にローコストで仕事を手に入れられるチャンスだった。
 しかも東京で働くことができる。
 檜山は正直、この街に対していささか不満があった。
 住みやすい街と言われれば違いはない。娯楽もそれなりにある。同級生のほとんどもこの街に住んでいて、遊びに誘うことも簡単だ。だがそれが、檜山にとっては居心地の悪さでもあった。
 意図せずとも耳に入ってくる同級生の近況。逆を言えば檜山の状況も、他の同級生、さらにはその両親から芋づる式に拡散されていく。どこに行っても自分の現状を知る人間がいる。そのことを踏まえると、東京は良い意味で他人には無関心だ。小さな恥や失敗も、酒のつまみ、ティータイムのお茶うけにされずに済む。知られても恥じない生き方をしなければ噂の的にされる息苦しさは、歩道の白線からはみ出さずに歩く緊張感を常に伴っていた。
 檜山は、不自由のない街に不自由さを感じていた。
 だがそれを誰かに話すつもりはなかった。共感してもらえるはずもない。口にせずとも、誰もがこの街に満足している。不満など、誰も持ち合わせているはずがない。そう思っていたからだ。
 そんな檜山は真っ先に追小野木の名刺に書かれていた番号に電話をし、東京での仕事を紹介してもらうだけではなく、住居まで与えてもらっていたのだ。
 檜山の東京での住まいは、新築マンションの一室だった。立地もよい、十階建ての単身用マンションだ。最近、東京で一人暮らしを始める若者向けに建てられたらしいが、生活資金がそれほど多くはない世代が住むとは思えない造りだった。
1LDKと広くはないが、生活用品も必要最低限揃えられていて、玄関はオートロックで、インターネット回線も無料で用意されている。新築なだけに部屋の設備などもすべて真新しい。
 檜山はそれらを一銭の費用も支払うことなく、あまつさえ仕事まで手に入れたのだ。 この東京での暮らしを、檜山は頻繁にSNSにアップした。もちろん写真付きで、だ。いわゆる”映える”写真が、檜山のアカウントから毎日投稿された。都内の新築マンションで、シンプルだが洒落た調度品に囲まれた生活の一部が檜山と共に切り取られている。その様は、檜山を知る同級生らからすると、まるで天と地ほどの差があった。
 檜山は学校の成績が良くないどころか、素行も良くなかった。中学時代から髪の毛を染め、深夜に繁華街を出歩き補導されるなど、この街での印象は”ヤンキー”の部類に入っていた。
 そんな檜山が、東京で人が変わったかのような洗練された生活を送っているのだ。当然ながら、彼に苦渋を味わせられた人間の中には、彼を妬むものもいた。
「どうせなんかやばい仕事でもやらされてんだろ」
 そう言って、彼が街を出て人生を踏み外すことを想像する人間もいた。
 だがそういった妬みの感情が発生してること自体、檜山の生活と自分の現状とを比較し、檜山の方が上だと認めてしまっている証拠でもあるのだ。
 檜山は東京での生活を喜々としてSNSに投稿し続けた。地元の同級生らが感じているであろう妬み僻みなどは、彼の生活がいかに同級生らより優れているかを象徴してくれる。
 建設現場で働いていること。機密上、名前は伏せるが、誰でも知っている建物の建設に関わっていること。そして東京での華やかな暮らしぶり。地元ではただのヤンキーだった檜山が、どんどん垢抜けていく写真からは「なんかやばい仕事でもやらされている」という雰囲気は見当たらなくなっていた。むしろ、自分でもそちら側の生活を得ることができるのでは?檜山でできるのなら、自分ならもっと良い暮らしができるはずだ。という確信に変わっていった。
「彼ですらああなのだから、自分なら東京に行けばもっといい人生が歩めるはずだ」


 追小野木は言った。
「今、お仕事はされているんですね。このお給料で、今は満足できているでしょうが、将来的に、私がこの街を見て回った感じですと、これは失礼な言い方になりますが、もし家族を持って生活するには、厳しいのではないかと。この街って、住みやすくて居心地がとてもいいですよね。だから、みなさんこの街に留まり続ける。そうすると、予め用意された席は、足りなくなってしまいますよね。上の世代の方もお元気でいらっしゃる。となると、昇進の席もなかなか空かないのではないかと思うんです」
 その言葉を聞いた若者は皆、心の底に押し込めていた不安を言い当てられた気分になった。同時に、追小野木の言葉によって表に出してはいけない不安を閉じ込めていた箱の蓋が取り払われた。そしてその不安は煙のように箱の中から心に充満していった。モヤモヤとしたもので心の中が支配されていく。
 そして改めて思い知った。「やはり自分が抱いていた畏れは、遠い現実なのだ」と。

 檜山の件があっても、追小野木に連絡した者は半信半疑だった。
 だが追小野木の言葉に揺さぶられた者たちは、もはや追小野木が紹介する仕事が疑わしいなどという理由はどうでもよくなっていた。
 ただ現状から脱却したい。ここに住み続けるよりはマシだ。この男に託せば少なくとも檜山のような生活は保証されるんだ。 そしてなにより、この男は自分たちが胸にしまっていた、理解されないと思っていた不安に気づいてくれた。彼だけが、自分の理解者であると縋った。
「お仕事はたくさんあります。焦らずゆっくりお考えになってからでけっこうですよ。もちろん、お断りしていただいてもかまいません。この街は不便ではないし、お友達もたくさんいらっしゃるでしょう。生まれ親しんだ街を離れることは、勇気がいりますし」
 追小野木は仕事を斡旋することを生業としていながら、強く勧めることは決してしなかった。誰に対しても、だ。
「もし向こうでの生活やお仕事が合わなかった場合は、遠慮なく仰ってください。契約といっても、年単位で縛りのあるものではないので。試しに三ヶ月だけ。という方も多いですよ」
 もしかしたら追小野木は個人で、このワークアドバイザーという仕事をしているわけではなく、会社ぐるみでいろんな地方へ出向いているのでは?
 追小野木のこの言葉を聞いた者の中には、そう勘ぐる者もいた。
 いくら仕事はたくさんあるとはいえ、住居にも限度があるだろう。檜山のように良いマンションを与えてもらえるのは、早い者勝ちなのかもしれない。だからこの街で一番最初に追小野木に仕事を斡旋してもらった檜山は、あんな信じられないくらい良いマンションに住むことができたのではないか。
 考えてみればそうだ。檜山が住んでいるのは、いわば社宅だ。仕事のために地方から移住してきた者に与える住居なのだ。そう考えると待遇がよすぎる。どうしてあんなやつが。ついこの間まで無職でパチンコ店に入り浸っていたあいつが、東京の新築マンションに住んで、仕事も得て、楽しそうに暮らしていやがるんだ。おかしい。俺、私のほうが地元で正社員として頑張って働いてきたんだ。それなのに、檜山の方が良い生活を送っているなんて・・・。



「これは・・・いったいどいうことだね!」
「私に聞かれてもわかりません。とにかく、今は受付に人員を回してください」
 役場の市民課は朝から大騒ぎだった。受付窓口の後方では、課長の怒号が飛んだが、それを間に受けている余裕もないほどに。
 市民課の受付フロアは、年度末でもない時期にも関わらず、転居届けを提出するために訪れた若者で溢れかえっていた。待合席に座れず、立ったまま自分の受付番号が呼ばれるのを待っている若者もいる。
 当然、窓口業務はパニックだった。市民課の課長は事態を把握できずに、右往左往するばかりで、なぜ年度末でもないこの時期に、多くの若者が一斉に、それも東京都内への転出届を依頼してきたのか。さっぱりわからなかった。
 それでも役場側は転出を拒否できる立場にはない。
 この若者による突然の転出ラッシュは、一週間ほど続いた。
 閉庁後に疲弊しきった窓口職員が、住民票のデータを整理していると声をあげた。
「嘘でしょ・・・」
 思わず声に出ていたことに、本人も驚いていた。はっとして口元を手で抑えたが、声を聞いた隣の席の職員が、パーテーションから何事かと顔を覗かせた。
「もしかして、ひとりしか、残っていないんじゃないの・・・」
 声を上げたのは三十代後半の女性職員だった。彼女は住民データを開いたモニターを見つめたまま呟いた。隣から様子を伺う職員は、彼女の先輩でもある四十代の女性だった。その先輩職員も、彼女のただならぬ様子に、モニターへと視線を向けた。
「うそ・・・。久遠君しか、残っていないじゃない・・・。この街の二十代の住民、久遠君しかいないじゃない!」
 先輩職員は言い終わるかどうかの瞬間に、椅子から立ち上がった。
 まるで、なにか恐ろしいものを見てしまったかのように、顔が青ざめていく。  だがモニターに表示された、二十代の住民が久遠ひとりを残して転出してしまった現実から、目を逸らせないでいる。そこに映る情報が、どうか嘘であってほしいとの願いはあるものの、残念ながらそんなバグは起こるはずはないことを、長年役場に勤めてきた彼女はよく知っている。

 久遠[[rb:土師萌 > はじめ]]。二十五歳。両親ともにこの役場の職員である彼は、いわゆるコネで公務員になった。
 彼は現在、納税支援課に席を置いているが、この異様な事態は彼の耳にも届いていた。
 そして彼にはこの若者が一斉に東京都内へ転出した奇妙な件について、心当たりもあった。
「追小野木という男です」
 町長室に呼ばれた久遠はそう口にした。
「噂では聞いたことはあったが、まさかそんな男が、たったひとりでこの街の二十代全員・・・いや、君以外の全員を東京に移住させたと言うのかね」
 革張りの椅子に腰掛けた町長、三本木努は、テーブルの上で手を組み前のめった。町長自らが、一職員である久遠を呼びつけた程度には、三本木もこの事態を危惧していた。
「おそらく。というか、その男しか考えられません。ぼく・・・私も、あの男から名刺を渡されました」
 久遠は胸ポケットから追小野木の名刺を取り出した。三本木の前のテーブルに、指で滑らせるように名刺を置いた。
 三本木はテーブルから名刺を手にし、目を細めて眺めた。
「追小野木充茂。ワークアドバイザー、か。見るからに怪しげな肩書きだな。これを信じて、皆、東京へ転出したと?」
 三本木は視線を名刺から久遠に戻した。
「可能性としては、それしかありえないと思います。その男が、若者を誘惑して東京に連れて行ってしまったんです。これはもしかすると、誘拐事件かもしれません。町長、今すぐ警察へ連絡を・・・」
「なに馬鹿なことを言っているんだ。仮に誘拐事件だとしたら、わざわざ自分の足で役所に転出届を出しにはこないだろう」
 三本木の言っていることはもっともだった。久遠は唇の裏を噛んだ。たしかに誘拐事件は大袈裟だった。皆、自発的にこの街を出て行ってしまったのだから。しかしその中には当然ながら、久遠の同級生もいる。親しくしていた友人もいる。彼ら、彼女らがなんの不満もなく過ごしていた街から急に出ていくことが、久遠には信じ難かった。転出に関して、すべてが自分の意思の元で行われたとは思えなかった。
 あの、追小野木という男が、この街から友人たちを連れ去った。
 久遠にはどうしても、そうとしか考えられなかった。追小野木が、口八丁で皆を誘惑し、騙し、東京に連れ去ったのだ。
 童話『ハーメルンの笛吹き男』のように、うまい話で若者を釣って、この街から消してしまったのだ。そうなると追小野木は、若者たちを利用するために連れ去った可能性もある。何かの事件に関係していることも否定はできない。
久遠以外の二十代、中には高校を卒業したばかりの十代後半の者もいる。およそ四千八百人。これだけの人数を短期間でほとんど一斉に移住させる男。
久遠も名刺を渡された時に、彼に会っている。
 色白で端正な顔立ち。男の久遠から見ても、思わず見とれてしまいそうなほどだ。どちらかというと女性のような美しさのある男で、物腰も柔らかだった。他人をたぶらかして悪さをするような人間には、とても見えなかった。名刺を差し出したあともすぐに久遠の前から立ち去り、しつこく勧誘してくることもなかった。
 その時の久遠は、踵を返し遠ざかっていく追小野木の後ろ姿と、名刺とを交互に眺めた。なぜかはわからないが、あとを引く人物だった。うっかりすれば、、その背中を目がけて追いかけてしまいそうな雰囲気があった。彼の黒い背中に、端正な顔立ちに、物腰の柔らかい態度に、あなたの扱う仕事とはなんなのですか?と聞かずにはいられなくなる衝動が湧き上がりかけていた。久遠自身もそれを認めていた。だからこそ、あの男が街の若者を誘惑したとすれば、その誘いに乗ってしまう者も少なくはないと、久遠は考えるのだ。

「町長、これは、誘拐事件です」
 久遠はもう一度”誘拐”という単語を口にした。そしていささか声を張り上げ、三本木の机へと一歩踏み出した。
 三本木は久遠の勢いに目を丸くした。
「だから言っているだろう。約四千八百人の人間を、この男がたった一人で誘拐したというのかね?」
 指で名刺を叩きながら、三本木は続けた。
「子供でもあるまいし、どんなに耳障りのいい話を持ちかけられたとして、いい大人がそう簡単に誘拐されるなど・・・」
「誘拐ではないなら、拉致です!これは拉致事件です!今すぐ警察の協力を仰ぐべきです」
 三本木の言葉を遮って久遠は声を荒らげた。
「久遠君、落ち着いて」
 取り乱した久遠を、隣に立っていた納税支援課の上司が慌てて宥めた。しかしそんな上司の気遣いは、今の久遠には無意味だった。久遠はこの一件を、ただならぬ事件だと危惧する気持ちに支配されていた。そのことを理解してもらうためならば、たとえ相手が町長であろうと、いや、この街を統べる立場にある人間にこそ、危機感を抱いてもらわねばならないのだ。
 しかし久遠の必死の訴えは、三本木の低く怒りの混じった声を前に跳ね除けられた。
「久遠君・・・。君のご両親には長年この役所で大変活躍してもらっている。私が町長に就任してからも、ご両親や君を含め、この役所の職員にはとても助けられているし、頼りしもしてる。もちろん住民あってのこの街だ。その多くが転出してしまい、その中には君の同級生や友人もいただろう。悔しい気持ちがわからないわけではない」
 三本木は机の上で組んでいた手を離し、椅子の背にもたれた。両腕を革張りの椅子の肘掛に乗せ、遠くを見るような視線を久遠に向けた。
「しかしだね、君の言っていることは映画や小説のような突飛な話にすぎん。どうか冷静になって考えてみてくれ。転出した者たちは自分の意思で出て行った。仮にそれがこの、追小野木という男の誘惑があったにしても、事件など、めったなことを軽々しく口にするもんじゃない」
 反論のために口を開きかけた久遠の肩を、上司が掴んだ。久遠ははっとしてその手を見た。普段の上司からは想像もつかなかった。人の肩を、こんなにも力強く握るような人物だったことに。
「それでは、ご報告は以上、ということで。我々は業務に戻らせていただきます」
 上司につられて久遠も反射的に頭を下げた。ここで退出することに納得しているはずもないが、久遠もただのサラリーマンにすぎない。組織のルールに倣うしかなかった。三本木につむじを向けながら、久遠は奥歯を割れんばかりに噛むことしかできなかった。


 久遠の考えは、協力どころか理解すら得られなかった。
 それどころか、皆、久遠はショックにより興奮し過剰な被害妄想を抱いてしまった。とすら同情する声もあった。
 なんにせよ、誰もが追小野木が、街の若者をたぶらかし、東京に連れ出したとは思っていなかった。それも事件性があるなどと、それこそ映画の見すぎではないかと揶揄する声さえあった。たったひとりの男にそんなことができるはずがない。言われてみればそうなのであるが、久遠はどうしても釈然としなかった。
 それは、自分だけがなぜこの街に残ったのか。どうして自分以外の若者が東京へ出て行ってしまったのか。
 久遠も追小野木から名刺をもらった。彼のような人間が紹介してくれる仕事は、どんなものなのか興味を惹かれたのは事実だったが、久遠には役所の職員としての仕事がある。
 両親共に役所に務める公務員一家の久遠家で、一人息子の土師萌が公務員になることは、子供の頃から当然だと自分でも思っていた。蛙の子が蛙になるのが当たり前のように。それ以外の選択肢など、久遠には一切なかった。

 久遠はポケットから追小野木の名刺を取り出し、彼の顔を思い浮かべた。


 駅前のコーヒーショップは混雑していた。
 土曜日の昼。客は高校生とおぼしき男女や、話しの尽きない中年女性の集まり、ひとりでコーヒーを啜る老人、ノートパソコンをテーブルに広げる中年男性など、様々だった。だがその中に、久遠と同年代の客はひとりもいなかった。
 久遠はカウンターでコーヒーを注文し、二人がけの席にトレイを置いた。椅子の背に脱いだコートをかけると、人の気配がして久遠は顔をあげた。
「お久しぶりです」
 美しく整った顔が破顔している。久遠から連絡があり、会おうと提案してくれたことが心底嬉しいといった様子に見えた。
 久遠は自分の警戒心や憎しみが揺らぐのをなんとか堪えた。モデルのようなスタイルと容姿から、散歩の気配にはしゃぐ犬のような笑顔をされると、誰だって面食らってしまう。きっとそうだ。これは、あの男の手練手管のひとつなのだ。
「もしかして、お仕事の件ですか」
 席に座り、まず一口、カップに口をつけるまでは、久遠は一言も話さなかった。沈黙のテーブルで、口火を切ったのは追小野木の方だった。彼は相変わらず、端正で色の白い顔に、柔らかいベールのような笑みを湛えている。顔、スタイル、センス、何もかもを持っていながら、それを鼻にかける言動が一切見当たらない。妬む気にもなれないほど、同じ人間なのかと疑いたくなるような、それでいて腰が低い。まるで神が地に降りてきて、民と同じ目線で語りかけている。そんな肥大した妄想さえも浮かんでしまう。久遠は自分が追小野木の術中に足を掬われそうになっていることが、恐ろしくてたまらなかった。
  久遠はコーヒーカップの中に視線を落としたまま、追小野木の質問に答えた。
「ええ、あなたが紹介してくれるという、仕事の話を聞きに来ました」
 久遠は追小野木とは対照的に、無表情で話した。緊張を悟られたくはなかった。追小野木と対等であるという立場を、久遠は相手にも知らしめたかった。決して、おまえに怯えたりなどしていない。久遠は、役所の一職員として、多くの住民、それも二十代の若者ばかりが目の前の男によって連れ去られた事実を確認せねばならない。そういった使命感が久遠にはあった。毅然とした態度で持ちこたえねばならなかった。この、魔術師のような男に。
「ほんとうですか?ええと、じゃあ久遠さん、今こちらでお仕事はされていますか」
 追小野木はバッグからノートパソコンを取り出し、テーブルの上で開いた。久遠の情報を、端末に記録するためだろう。
 皆、こういうやり取りを経て、彼の口車に乗せられたのだろうか。彼はこれから、どんな甘い言葉で自分を懐柔するのだろうか。
 久遠は追小野木の簡単な質問に答えながら、心の内側から、ドアを破られまいと必死に押さえているような状態だった。全身が強張り、少しでも気が緩めば、皆と同じになってしまう。まるで催眠術師の前で、自分だけは絶対に催眠にかかるものかと、目をかっぴらいて耐えているようだった。
 しかし追小野木は質問を終えると、ノートパソコンの向きをくるりと変え、モニターが久遠の目の前に映るようにした。
「久遠さん、現在は役所の公務員ということですが、こういったお仕事などはいかがでしょうか。転出の際にご用意させて頂く都内のマンションは・・・こちらですね。先月完成したばかりで、まだ住民も半分しか埋まってしないので、今なら割とお好きな部屋が選べるかと思いますよ」
 追小野木は、警戒した久遠などまるでそこに存在していないかのような態度だった。
 相手がどんな心境にあるのか。そんなことにはまったく構いもせず、あくまで自分のペースを崩すことはなかった。相手の表情、仕草。わずかな変化にすら、大抵の人間は相手が自分の話に不信感を抱いてはいないか、退屈になっていないか。そんなことを気にするものだ。そしてそれによって、話し方を変えたり、別の切り口で話題を変えたりするものなのだが、この男は壁に向かって話でもしているかのように、徹底して変化がない。
 そう、たとえばこちらが彼の話に難色を示そうとも、彼にはお構いなしなのだ。だからだんだんと、こちらが不信に思うこと自体が間違っているのではないか。そんな気にさえなってくる。
 
 久遠は彼が多数の若者を意のままに転出させられたトリックがわかった気がした。自分だけは、この男の術中に嵌らない自信さえ湧いてきた。
「追小野木さん」
 久遠は、唐突に追小野木の話を遮った。
「どうしました?なにか、気になる点でもありましたか?なんでも質問してくださって構いませんよ。久遠さんが納得がいくよう、私は精一杯努めさせていただくつもりです。久遠さんに安心して東京での生活を送っていただくけることが、私の喜びでもありますか・・・」
「そうやって、あなたはたった一人でこの街の若者をたぶらかしたんですか」
 久遠は追小野木が微笑みを浮かべて話す言葉に耐えられなくなった。
 嘘だ、この男はそういった甘言を並びたててみんなを騙したんだ。こんな、胃もたれを起こしそうな甘ったるい言葉を腹いっぱい食わせて、何が正しいかさえ判断できなくなった頃合を見計らって、誘拐したのだ。
 久遠はそう思うと、いてもたってもいられなかった。腹の底から怒りがマグマのように噴出し、喉を焼き、口から煮えたぎった言葉が次々と流れた。
「そうやって、うまいこと言いくるめて、この街の若者を騙したんだろ!あんたは何がしたいんだ。あんたがやっていることは詐欺の類だ。犯罪だ!誘拐事件だ!他の誰もが認めなくても、僕が、おまえが犯罪者だって証拠を見つけてやる!」
 テーブルを叩く音に、周りの客が一瞬、久遠たちの方へ視線を向けた。だが久遠にはそれすら視界に入っていなかった。久遠の目には、誘拐犯、詐欺師としての追小野木だけが映っている。久遠の怒号に少しだけ目を見開いただけの、この状況下ですらまだ自分のペースを保ち続けている男。目の前の相手が怒鳴ろうが、彼は端正な顔に人の良さそうな笑みを浮かべ、久遠を見つめている。その瞳には、癇癪を起こした子供を宥める母親のようなものすら感じた。自分に怒りを向ける相手すら慈しむような。聖母でもない限りは、こんな表情ができるはずがない。この男は、人間ですらないのかもしれない。
 久遠は怒りを露わにした自分を前にしても尚、微笑んでいる追小野木に寒気すら感じた。全身が泡立つ。人間ではない何者かによって、この街の若者たちは、自分以外全員、消されてしまった。
 怒りで赤くなった顔面から、見る間に血の気が引いていった久遠に対し、追小野木はテーブルの上のノートパソコンを脇に寄せた。そしてテーブルの上で両手を組んで、宣教師が罪人に聖書の一部を読んで聞かせるかのような口調で言った。
「私はただ、彼らに仕事と東京での住居を与えたに過ぎません。彼らは自発的に選んだのです。そして私は、選択肢のひとつを提示しただけです」
 刺の一つすら見当たらない、柔らかな球体のような声音だった。しかし久遠にはそれが恐ろしかった。追小野木という男に、人間味が感じられなくなっていた。感情を持たない、人の道理の外にある男。だからこの男は、自分に犯罪者の疑いをかけられてもこんなふうに平静でいられるのだ。いや、平静どころではない。この男はいかなる時も、微笑みを絶やしていない。
 しかし久遠とて、このまま引き下がるわけにはいかなかった。なんとか恐怖を抗いながら、震える喉元に力を入れる。
「でも、誘導したのは確かだ。この街を破綻させるために、あなたは若者たちを誘惑した」
「この街を破綻させても、私にはなんの得もありませんよ」
 追小野木は花が咲くように笑った。久遠に怒りを向けられても尚、彼はまったくと言っていいほど、自分には非がなく決定打すら与えてもいない。そんな無関心さからくる表情にも思え、久遠はさらに背筋に悪寒が流れた。
 そんな久遠の状況もお構いなしといった様子で、追小野木は人の良さそうな笑みを浮かべて続けた。久遠が彼の言葉に即座に続く反論を持ち合わせていないことをわかっていたのか。追小野木は久遠の言葉を待たずに続けた。
「人類の集団は、百五十人が限界だとされていました。これはホモサピエンスによって滅ぼされたネアンデルタール人がそうでした。それ以上の集団になると、秩序が保てなくなるらしいです。つまり、統率するには難しい。ではなぜ、ホモサピエンスよりも優れていたとされるネアンデルタール人は滅ぼされたのでしょう」
 そこまで話すと、追小野木は別人のような冷えた目で久遠を見つめた。
 全身が寒い。寒すぎて痛い。もうこの身体は、指先ひとつ動かすことができないかもしれない。久遠は震えることすらできなかった。追小野木の目は久遠を恐怖させたのではなく、凍りつかせたのだ。
 そんな久遠は、もちろん追小野木の質問に答えることすらできなかった。唇を動かすどころか、喉の奥から言葉がどのように発せられていたかすら、忘れてしまった感覚だった。追小野木の、この場にそぐわない、無意味にすら思える質問だけが、久遠の頭の中でイメージとして浮かんだ。
 かつて他数種いた、人類の祖。その一種であるネアンデルタール人が、現代の人類の祖と言われているホモサピエンスに襲われている映像が、久遠の脳内で再生された。
「ホモサピエンスは、突然変異によって言語能力が進化していたんです。それまで単純的な、”近くに敵がいるぞ”、のような、危機を知らせるための言語しか使用できなかった。しかしホモサピエンスは、”誰が獲物を仕留めた”、”俺が一番獲物を仕留めた”といった、噂と虚構を話すようになった。これにより、集団というのはより大きくなることができた。優秀な人間の噂が広まれば、種族は彼を筆頭とし、もしくは神でも崇めるかのように結束力を増す。虚構も同じですよ。人は都合のいい虚構を信じたがるし、恐ろしいデマは真意も確かめずに広まっていく。恐ろしいデマの正体を敵と認識した人類は、より結束を強める。私は種を落としただけです。発芽し茎を伸ばし、大樹を成したのは、彼らが漠然とした不安から逃れるために、噂と希望的な虚構を信じ、それが水や肥料となって成長しただけに過ぎません」
 追小野木は冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
「おかわり、頼みましょうか」
 当然、同時に運ばれてきた久遠のコーヒーも冷めてしまっていた。久遠はそこでようやく身体が動かせる状態にあることに気がついた。追小野木の表情も、それまでの柔和なものに戻っていた。いや、もしかすると久遠が目にした冷徹な目は、久遠の妄想が生み出した虚構だったのかもしれない。
 久遠はどうにか落ち着きを取り戻し、また毅然とした態度を振舞うよう努めた。
「いえ。けっこうです。あなたはそうして、僕たちの友人を、同郷の人間を洗脳して楽しんでいた、ということなんですね」
 久遠は椅子にかけたコートを手に立ち上がった。もうこれ以上、この男の前にいたくはなかった。
「だからそれは誤解ですよ。洗脳だなんて。私が洗脳して、彼らをひとつの場所に転出させることに、なんの得もありませんと、さっきも言ったじゃないですか」
 追小野木はテーブルの上に前のめり、久遠を上目遣いで見上げた。子供が母親におもちゃをねだる時のような表情に、久遠は怖気がした。なぜそんな表情を自分に向けられるのか。理解が頭の中で遥か彼方の遠い場所に存在し、追いつくことが不可能だと悟る。それこそが久遠にとって恐怖であった。
 久遠は追小野木に無邪気で甘えた視線を向けられながら、喉が震えていた。ここに来るまでには確かにあった己の正義を、なんとか引きずり出す。
「損か得かじゃない。違うでしょう。あんたは、ただこの街の若者たちを自分の意のままに操るとが、楽しいからやってたんだ。そうじゃなかったら、こんな大規模で大胆なこと、思いつくはずがない。だいたい、何棟ものマンションまで用意して、あんたには得がひとつもないどころか、明らかに損だということぐらいわかってる。あんたは自分の欲求を満たすために、ハーメルンの笛吹き男になったんだ。いや違うな。ハーメルンの笛吹き男になれるかどうかを試したんだ。この街で」
 言い終わってからしばらく、二人は無言で目を合わせていた。
 久遠は怒りに揺れる瞳を、追小野木は慈悲に満ちた聖母のような眼差しを。相反する視線はぶつかることも交わることもなく、久遠は奪うようにテーブルの上の伝票を手にし、立ち去って行った。




 久遠の頭の中に音楽が流れた。
 中学の文化祭の閉会式で、生徒全員で合唱した『マイ・ウェイ』だ。
ーそして今、終りがここにある。そしてそう、俺は終幕に向かっている。

 街から転出した若者たちが住むマンションの一棟。追小野木が用意した新築マンションは、だいたいどれも十階建ての、高層マンションと呼ばれる部類に入る。遠方からの住み込み就職希望の労働者に与える住まいにしては、ずいぶんと立派だ。追小野木が言ったように、このよなマンションを四千八百人分が居住できるだけ用意すると、彼には得など一切ないどころか、マイナスだ。そこまでして、追小野木という男はあの街から久遠以外の若者を転居させ、あまつさえ仕事を斡旋し、いったい何が目的だったのだろうか。
 しかし久遠には、追小野木の目的などはもうどうでもよかった。
 取り返すことさえができればよかった。追小野木にそそのかされた若者たちを。
 久遠は今、転出した若者たちが住むマンションの前に立っていた。数十分前にも、別のマンションの前に立っていた。
 頭の中には相変わらず『マイ・ウェイ』が流れえいる。一度終えてもまた頭から流れ始める。
 彼は炎に包まれていくマンションを、目の前の通りから見上げていた。歌がまた、出だしに戻る。
 その日は久遠にとって都合のいいことに風が強かった。久遠がマンションのエントランス脇に設置されたゴミ置き場に放った火は、勢いよく建物へ燃え移った。そしてあっという間にマンションの上層階まで昇っていった。
 火花が弾ける音も、窓ガラスが次々に割れていく音も、久遠には届いていなかった。ただ、あの時みんなで歌った『マイ・ウェイ』だけがゆっくりと流れる。    真っ赤な炎がまるでメロディーに合わせて揺れているように、久遠の目に映っていた。火は迷いも恐れもなく、建物を昇る。 終幕は船出なのだと歌うように。ここからまた、新たな人生を始めようと、炎は歌う。
「みんな!早くここから出ろ!こんなとこから出るんだ!帰ろう!」
 久遠は叫んだ。途中、煙を吸い込みむせながらも、喉から血が出るくらい叫んだ。それはもはや、絶叫だった。
「早く!早くこんなところから出ろよ!僕たちの街へ帰るんだよ!みんな、騙されてるんだ!あの男に、騙されているんだ!こんなところにいたら危ない!」
 煙が目に染みただけではない涙が、久遠の目から溢れ出した。泣きじゃくりながら叫ぶ久遠の声は、むなしく炎の中に吸い込まれ、誰の耳にも届くことはない。煌々と深夜の住宅街を照らすオレンジ色を滲ませた赤い光。久遠が放つ絶叫を現したような、狂気の赤に呑まれたマンションに向かって、久遠は上体を折り曲げて力の限り叫んでいた。祈りにも似た叫び。願いを込めた言葉。
 彼は燃え盛る炎の中に閉じ込められた同郷の民が戻ってくることを、ただただ願い喉を擦り切らせた。

「あーあ。消えちゃったじゃないの」
 一件目の火事の連絡を受けた追小野木は、まっすぐに久遠が今、火を放った二件目のマンションに向かった。
 案の定、一件目のマンションから一番近いマンションの前に、久遠はいた。そして、久遠の前には風に煽られた炎が、龍のように巻き付いた一棟のマンションがあった。
 
 深夜二時。皆が寝静まっている時間だった。
 非常階段はもちろんあったし、火災報知機も設置されていた。それでも、時間帯が悪かった。目が覚めて、すぐに冷静な判断で避難できた者は少なかった。脱出を試みようと窓から飛び降り、死亡した者もいた、
 どちらにせよ、そのあと三件目の放火で久遠が現行犯逮捕されるまでに、転出した若者の三分の一は亡くなってしまった。

 ある街から、突然、多数の若者が消えた。
 ある男によって。
 

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