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マチネの終わりに 2019年

還暦を超えた爺さんが、果たして、恋愛映画を楽しめるものか。

20代の頃は、さんざん見てきた恋愛映画ですが、この30年間は、とんと遠ざかっておりました。

とにかく、こればかりはしょうがない。

なんと言われようと、こちらは10代の頃に見た恋愛映画のようには、もう胸がときめかないわけです。

もちろん、この30年の間にも、恋愛映画の名作がなかったわけではありません。

しかし、「プリティ・ウーマン」を見ても、「恋人たちの予感」を見ても、「ゴースト ニューヨークの幻」を見ても、「ロミオとジュリエット」「卒業」「カサブランカ」のようには、胸がキュンとならないのは致し方がない。



もちろん、2004年にブームになった「世界の中心で愛をさけぶ」のようなコテコテの恋愛映画も見はしましたが、この映画の頃には、こちらもいい加減中年オヤジになっておりまして、どこか評論家気分。

なるほど、今の時代にこれが当たるのは一体何が原因なのだろうか。

この映画の純愛性を、長澤まさみのナイスバディは邪魔していないか。

そんな、どうでもいい事ばかり考えていましたね。

なにせ、こちらは昔から筋金入りのスケベですから、男女の恋愛は、映画においては、際どいエッチシーンを提供してくれる惣菜的色付けでよろしい。

そんなトホホなエロオヤジに、いつしか成り果ててしまいました。

それよりも、やはり映画にとって必要不可欠なものは、なんといってもアクションだ、SFだ、ミステリーだ、ホラーだ!

大人が楽しむエンターテイメントは、やはりこちらだ。

恋愛感情なんてものは、もともと男と女のドロドロした性欲を美しく処理したいための、オブラードみたいなもの。

それを「きれいごと」として昇華させようとするから、恋愛映画は何処か嘘くさい。

恋愛映画には、悲劇的結末になるケースに、良質の作品が多くなるのは、おそらく作る方にも、見る方にも、その後ろめたさがあるからだろう。

どうにも、実も蓋もない話で恐縮ですが、長らくどこかでそう思っていました。



しかし、感性の劣化というのは悲しいもの。

いつまでも、そんなことを言っていないで、世の中の多くの人たちが、胸を締め付けられたという恋愛映画で、こちらもそろそろリハビリしていかないといかんという気にはなっていました。

その手始めが、先日鑑賞した岩井俊二監督の「Love Letter」でしたが、今回は Amazon プライムのラインナップにこの作品を見つけました。



原作は、平野啓一郎の小説。

毎日新聞の朝刊に連載された他に、note にも連載されたとのこと。

ちなみに、この note を、実は先週から使い始めています。

なにせ幼少の頃からの作文オタクでしたので、ブログにはやたら長いだけの駄文がごっそり。

使い始めてからは、これをセッセと引っ越ししていました。

しかし、使い始めてみると、ブログにアップするよりも、圧倒的にこちらの方がリアクションがよろしい。

これは、嬉しくなってしまいます。

しかも、単なるユーザーを「クリエイター」と言ってくれる心遣いもまた心地良い。

調子に乗って、こちらは、映画感想、読書感想文、紀行文などをどんどんと投稿していますが、なるほど小説の連載というのもありなわけですな。

読者がつけば、購読もできるという仕組みですから、世の中に数多いる趣味の延長の自称作家たちには、願ってもないプラットフォームな訳です。

強者の中には、これで生計を立てている人もいるらしい。



おっと、「ちなみに」が長くなり過ぎました。



閑話休題。



話を映画に戻しましょう。



ストーリーは、クラシックギタリストとジャーナリストという、ともに40代になった男女の、運命に翻弄される6年間にわたるすれ違いの恋愛ドラマ。

演じるのは、福山雅治と石田ゆり子。

このキャスティングで、ある程度のヒットは約束されているのでしょうが、こちらとしても、やはりこれくらいの年齢でやってくれないと、ついていけない恐れがありました。

お二人とも既に実年齢では、50歳。

映画では、38歳と、40歳という設定でしたが、さすがにお二人とも若々しくそこは無理がない。

福山雅治のギター演奏シーンも大したもので、画面で見る限り、指づかいはかなり音色とシンクロしていましたので、相当な特訓はしたと思われます。

彼は、ミュージシャンでもありますから、それほど無理はないか。

石田ゆり子も、パリ、ニューヨーク、日本をまたにかけるジャーナリスト。

英語やフランス語でも、ちゃんと芝居をしていました。

この6年間で、この二人が会うのはたった三度だけというドラマ設定。

後はことごとくすれ違いの恋愛模様が描かれます。

しかし、そのたった三度だけで、40代になろうとする大人の二人に、果たして命をかけた恋愛が可能か。

それがこの作品のテーマとなります。



この物語に観客を引き摺り込むには、当然のことながら、この主人公たちのバックグラウンドや、日常生活に、見るものを納得させるリアリズムが必要です。

そうでないと感情移入はなかなか難しい。

しかも、二人の設定は、どちらも市井の一般市民とは大きくかけ離れています。

この二人の感情の機微に、説得力を持たせられるかどうか。

どうしてもこの辺りが、この映画の肝になってくるわけです。

原作者である平野啓一郎のブロフィールをWiki してみると、2005年に文化庁の特使に任命されて、パリに1年間滞在したとありました。

この辺りの経験があれば、世界をまたにかける二人のキャラクターのリアルな肉付けは、小説では可能だったでしょう。(こちらは未読)

これが、映画になってしまうと、その辺りの説得力は、主演の二人の演技の膨らませ方にかかってしまいます。

しかし、そこは映画です。

お二人が、男性の観客にとっても、女性の観客にとっても、魅力的でありさえすれば、映画としては成立します。

男子目線で行きますと、個人的には、石田ゆり子は好きな女優ですので、そこは特に問題なし。

十分楽しませていただきました。



ただこの映画で拾い物をしたのは、桜井ユキという女優さん。

先日見た「ひかりをあててしぼる」にも出演していたので、チラリと覚えていました。

福山雅治を思う気持ちから、主人公二人の東京での再会をすれ違わせてしまうという女性マネージャー役が彼女。

こういう役回りを演じたら、恋愛映画のラストでは、必ずその報いを受けるというのが、みているこちら側の常識。

「嫌な女」は「不幸な女」になって締め括られるというのがパターンなのですが、この映画の彼女の役はちょっと違っていました。

映画を観終わってみれば、彼女に対する嫌悪感は皆無。

その強烈な、「目ん玉演技」の迫力に、主演の二人も霞んでおりましたね。



というわけで、ふと気がつけば、またしても恋愛映画を、無粋にも微分解析している自分に気が付きます。

こういうのを野暮と言いますね。

まだまだ、リハビリは足りないようです。



始めたばかりの note ですが、いっそのこと、これに恋愛小説でも執筆してみましょうか。

すると途端に、誰かの声が聞こえてきます。



それはちょっとマチネ。

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