人間失格 太宰治
正月早々、なんとも暗い本を選んだものです。
太宰治の「人間失格」
本屋の息子ではありましたが、決して文学青年ではありませんでしたので、これまで読んだ太宰治の小説は、本作を含めて3冊だけ。
中学校(高校?)の教科書の教材となっていたお馴染みの「走れメロス」。
「ヴィヨンの妻」、そして本作です。
太宰治が、玉川上水に入水したのが昭和23年6月。
本作は同じ年の5月に脱稿されています。
彼はこの後、「グッド・バイ」という小説を書き始めますが、それは未完であったため、事実上完成した形の小説としては、本作が遺作ということになります。
3枚の写真と、手記を手にしている「私」のモノローグが「はしがき」
そして、その手記を書いた大庭葉蔵の「少年期」「中高校生期」「成人期」が3部構成。
最後に、手記に登場するバーのマダムの店に、「私」(たぶん職業は作家)が訪れ、葉蔵からマダムに送られてきたという、その写真と手記を託されるというのが「あとがき」です。
太宰治の破滅的人生の経過は、知識としては知っていますので、本作の主人公・大庭葉蔵の人生は、読んでいるこちらとしては、どうしても著者とオーバーラップしてしまいます。
頭の中でいちいちビジュアルに変換して小説を読むという、ややっこしい作業をするので速読はできませんが、読んでいる間中、頭の中の主人公は、写真で見た少年時代の太宰治のイガグリ頭でしたね。
物語は、手記を書いた大庭葉蔵の少年時代から始まります。
葉蔵少年は、家族や友人とのコミュニケーションに違和感を感じていましたが、自分が「道化」をサービスすることで、自分が疎まれない要領を覚えていきます。
しかし、それを中学時代の友人に見抜かれ、動揺する葉蔵少年。
高校になると、東京に出ますが、ここで歳上の悪友に、酒、タバコ、女の手解きを受け、自堕落な生活へ。
その後、一緒に暮らした女と入水自殺を図るも、死んだのは相手だけ。
それからも、女にはモテるものの、生活は荒んでいき、依存するのはモルヒネ。
最後は実家からの手配で、精神病院に入れられてしまい、自らに「人間失格」を告げ、廃人のようになって故郷に戻るという展開。
読んでいて、ちょっと驚いてしまうのは、葉蔵の虐待体験。
少年時代には、家の下男や女中から。
そして、廃人のようになって戻った故郷でも、老女中から。
これが、なんの感慨もないようにサラリと描かれていることです。
彼と束の間の幸せな時間を共にした無垢な若い妻が、出入りの商人に犯されるという事件も起こるのですが、彼の行動は、「ヨシコを助ける事も忘れ、階段に立ち尽くしていた」というもの。
少なくとも、これらの出来事は、主人公を「人間失格」させる要因としては大したことではなかったという扱いなのか。
それとも、この時代には、そう珍しいことではないのか。
今時の小説なら、この辺りの描写には、不幸に誘うトラウマとして、もっとページを使いそうなところですが、太宰治の表現は実にアッサリしていました。
思わず、何が起こっていたのか、読み返してしまったほどです。
数々の女性といい関係になるのも、そうなるのが、まるで当たり前のように描かれていて、そうはいかないこちらとしては、この辺りちょっとイラっとしてしまいます。
女にモテるということが、人生の幸せには、まるで貢献しないよという扱いなのが、なんとも憎らしい限り。
あたしなんざ、多少お金がなくても、いい女が隣にいさえすれば、それでそこそこ幸せになれる自信ありますからね。
基本的に、こちらは本書の葉蔵少年と同様、お茶らけることを至上の武器として、人とコミュニケーションをやりくりしてきた軽薄人間です。
これを自覚する身としては、なかなか、太宰治の心の闇の深層は遠い。
なかなか手が届きません。
ある大学のゼミのアンケートの、「幸せになりたいか?」という問に対して、「いや、自分はそれを望まない」と言った人が一人だけいたそうです。
文学部に席を置く彼が、そう答えた理由。
「幸せになってしまうと、太宰の文学が理解できなくなる。」
なるほど。
死後、80年たった今でも、熱烈な太宰治のファンは多いですね。
そのファンの多くが、自分の抱えた闇の部分を、太宰には理解してもらえる、そして、彼の不幸を、自分だけは理解してあげられるという強烈なシンパシーと仲間意識を持っているような気がします。
太宰治の入水自殺に関して、坂口安吾が書いた小文を読んだことがあります。
これによれば、心中の常習犯だった太宰は、この時もそれほど本気ではなかったけれど、相手の山崎という女性が、その心中に自分の女としてのプライドと意地をかけていたことで、彼は道連れにされたというようなことが書いてありました。
不幸であること、或いは不幸に見えることは、もしかしたら、彼の小説家としての重要な武器だったのではないかという気がすることがあります。
自分が破滅していくことが、そのまま小説のネタになっていくとしたら、彼の心中癖はある意味で職業病なのかもしれません。
小説のラストで、自分に人間失格のレッテルを貼った葉蔵をかばうように、「私」に向かって、バーのマダムが言います。
「私たちの知っている葉ちゃんは・・・神様みたいないい子でした。」
自分を不幸だと思っている人達の努力は、周りから見れば、案外すでに報われているのかもしれません。
たとえ不幸でも、不幸に見えなければ立派なもんです。
そういう人たちの努力に、太宰治の小説は、大いに貢献しているのかもしれません。
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