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映画の構造分析 内田樹

2003年に書かれた内田樹氏の著作です。

久しぶり内田氏の本を拝読いたしましたが、我がiPadに、自炊在庫されていた一冊。

あれ?

これ読んだかな?

記憶が定かでなく、読んでいて思い出したら途中でやめようと思いながら、読み進めていて、結局最後まで読んでしまいました。

完全に忘れていたのか、それとも未読だったのか?

これは今でも不明。

年はとりたくないと言うよりも、昔読んだものを忘れているなら、また改めて、新鮮な気持ちで、新しい本を買わなくても、古い本で読書できるので、かえってラッキーではないかと

思えてしまいます。

しかし、これくらい教養のある人の本を読ませていただくと、なんだか読んでいる間は、こちらもそこそこの教養を持っているように錯覚させてもらえるので、嬉しくなってしまいます。

氏の専門分野であるフランス文学や哲学の知識は、残念ながら当方には皆無。

しかし、氏がテキストとしてあげる「エイリアン」や「裏窓」や「北北西に進路をとれ」や「ゴースト・バスター」ならば、そこそこ話にはついていけます。

「エイリアン」から展開されるジェンダー論。

「裏窓」や小津作品から展開される、カメラの視点問題。

「ゴースト・バスターズ」や「黄色いリボン」から展開される「アメリカ女性嫌悪論」。

「北北西に進路をとれ」と、エドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」に見る類似性。

いやいや。

映画は、これくらいの高次元の知識と教養をベースにして鑑賞すれば、僕のようなミーハーには到底出来ない楽しみ方もできるのだと、改めて思い知りました。

映画の深読み、ここに極まれり。

恐れ入りました。

今度いつかこれらの映画話見る時に、改めて内田氏の論考が脳裏の端にでもよぎればしめたもの。

僕も、一端の知識人の末席に座れているかもしれません。

あるいは、「おっ、まだ読んでいない本があったぞ」と、認知症と闘いながら、再度この本を読んでいるかな。



「映画は中立的な観客に向けて発信されているのではありません。映画のうちに進んで意味を 書き加える観客の参与があって、映画を媒介としたコミュニケーションは成立しているのです」



「何かを選択的に誇示するということは、裏返しにすれば、何かを選択的に排除するというこ とです。物語はそのようにして、同時に二つの水準で「合図」をしています。」



「より巧妙に「騙されたふりをした」者、あ らゆる局面で「裏をかかれたふりをした」者、それによって、敵に「状況を完全にコントロールしているのは私だ」と思わせた者、それがゲームの勝者です。」



「わたくしたちは自分の過去について、記憶について、欲望について、おのれ自身が何ものであるか について、宿命的に嘘をつきます。」



「「裏窓」は「人間は『自分がほんとうは何を見ていないのか」を見ていない」という二重化された無知のうちに観客を追い込む映画である。」



よし。

どこかで、このフレーズを蘊蓄として使ってやろうなどと思って読了しましたが、はて、この意味を自分は本当に理解しているのか。



それは、甚だ心許ない限りです。

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