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暴力脱獄 1967年アメリカ


本作の邦題のセンスのなさには、かなり多くの人がブーイングしているようです。

日本の映画会社が、作品のテーマよりも、より扇情的に観客を映画館に呼び込むということの方に、重きを置いた結果ということでしょうね。

僕の知る限り、本作は間違いなく「いかがなものか」邦題のベスト3には入ります。

一つは、ビリー・ワイルター監督の1957年作品「情婦」。

これは、タイトルで、ネタバレさせてどうするんだという噴飯モノ。

アガサ・クリスティの原作通りに「検察側の証人」で何の問題もない作品でした。

もう一つあげれば、「007」シリーズ第二作の「007 危機一発」でしょうか。

「一髪」をわざわざ「一発」にしたのは、当時のユナイテッド・アーティストの宣伝部にいた水野晴郎氏の考案によるものということですが、これも原題の「ロシアより愛をこめて」のままの方が、なんぼかスマートでマシでした。

本作も、”COOL HAND LUKE” のままの方が、どれだけしっくりしていたか。



当時はすでに大スターだったポール・ニューマン。

この人は、アカデミー賞主演男優賞の、ノミネートには常連でも、オスカーには届かず、「無冠の帝王」なんて呼ばれていましたが、本作で演じたルーク・ジャクソン役は、最もオスカーに近づいたと思われる彼の代表作。(この20年後に「ハスラー2」で主演男優賞を取りました)

日本ですと、やはり「明日に向かって撃て」とか「タワーリング・インフェルノ」が代表作のように言われますが、本国アメリカでの評価は、圧倒的にこの役です。

ポール・ニューマンの死を、アメリカの新聞が報道した時の見出しは、”Cool Hands Luke is dead” であったほど。



2003年6月に、AFIが発表した「アメリカ映画100年のヒーロー」の中で、誰もが知っている名だたるアメリカ映画のヒーローに混じって、このルーク・ジャクソンは30位にランクインしていました。

ちなみに、このランキングの一位は、「アラバマ物語」で、グレゴリー・ペックが演じた黒人差別に立ち向かう弁護士アティカス・フィンチ。

インディー・ジョーンズやジェームズ・ボンドを抑えての一位ですが、これは日本人にはなかなかわかりにくい、アメリカ人ならではの感覚なのだと思います。

そして、本作の主人公であるルーク・ジャクソンも、同じように、日本人よりは、アメリカ人に受け入れられやすいヒーローだったと言えるような気がします。

日本だけの投票なら、絶対にこの二人はランクインしていないはず。



映画のテーマとして、日本人には、実感としてなかなか理解できないものの一つは、やはりキリスト教でしょうか。

差別問題もその一つでしょうが、もう一つ。

これは、本作の重要なテーマにもなっているもの。

それは自由に対する権利の主張というやつですね。

とにかく、欧米の人たちは、「自由」には、驚くほどセンシティブです。

これは、良くも悪くも、決定的に、日本人には欠けている感覚だという気がしています。

日本人は、民主国家でありながら、国が自粛しろと言えば、黙ってそれに従い、マスクをしろと言えば、誰も文句も言わずにいうことを聞く、自由には案外鈍感な国民です。

中国のように強権を発動させなくても、国民自らが律することが出来る民度の高さ。

言いたいことがあれば、アメリカのようにすぐにデモを起こすなどということもなく、面倒くさいことは国に匙を投げてしまう挙句に、その要請には黙って従い、そのお偉いさんが、調子に乗って、ノーマスクでどんちゃん騒ぎをしても、文句も言わず、すぐに水に流してあげられる物分かりのいい国民。それが日本人です。

自由を主張して、声をあげ、目をつけられ、押さえつけられるよりも、多少の不満はあっても、黙っていうことを聞いていた方がなんぼか楽だという「お行儀」の良さが、日本人のDNAの中には、しっかりと織り込まれているように思われます。

ですから、一般的な日本人の感覚としては、本作の主人公ルーク・ジャクソンのように、何度捕まって、人間性を破壊されるような拷問を受けても、脱走することを諦めない彼の行動は、かなり理解に苦しむ行動に映るのかもしれません。

しかも、本作のルークには、脱獄するための目的すらないのです。

日本でこの手の物語が作られるとするなら、必ず家族のためとか、恋人のためとか、友人のためとか、脱走するための、お涙頂戴の動機なり、バックボーンが描かれるはず。

しかし、ルークは、そうではありません。ただ体制に反発するためだけに、脱走を繰り返します。

そこにあるのは、それをやめてしまったら、もう自分は自分でなくなるという切実な思いがあるだけ。

ただそれだけのために、非人間的な、刑務所の管理体制に、たった一人で立ち向かっていくわけです。

そして、特筆すべきは、ルークのその戦いには、悲壮感が、カケラもないこと。

どんなに、過酷な体罰を与えられようと、彼はいつでも「笑って」いるわけです。

そんな彼の魅力に触れながら、刑務所の囚人たちは、一人一人が徐々に人間性を取り戻していきます。

刑務所というところは、シャバで犯罪を犯した悪党が罪を悔い改める場所です。

本来ならば、そこで行われる苦役も、非人間的管理生活も、辛く苦しい罰でなければ意味がありません。

しかし、そこに閉じ込められた囚人たちは、このルークという、一人の型破りな男のために、その生活を楽しみ始め、次第に笑顔になっていくのです。

これは、管理する側から見れば、ある意味では恐怖です。

当然、このルークは彼らにとっては、目の上のたんこぶ。

やがて、彼らにとって、ルークは看過できない存在となっていき・・・

そんな彼の魅力に、真っ先にやられてしまったのが、刑務所の囚人たちのボス的存在だったドラッグライン。演じたのは、ジョージ・ケネディ。

日本では、「人間の証明」「復活の日」にも出演していたお馴染みの俳優ですが、彼はこの作品の演技で、アカデミー賞助演男優賞を獲得しています。



本作には、このルークを、イエス・キリストとシンクロするように演出するシーンが随所に見られます。

けれど、当のルーク自身は、脱走した先の教会で、その神を「親父」と呼びながら、自分は見捨てられているのかどうかを問いかけます。

しかし、彼は余裕綽々。



「まあ、どうでもいい。悪いが、俺はあんたは信用していないぜ。」



そんなセリフがあった訳ではありませんが、やはりその背後にあるのは、ニーチェのあの有名な言葉。



「神は死んだ」



脚本家のドン・ピアースという人は、強盗容疑で実際に刑務所に収監された経験を持つ人でした。

その彼が、この脚本に、ニーチェの「実存主義」を意識したのかどうかは分かりませんが、ただキリスト教的な背景は、かなり周到に意識的に織り込んだことは伺えます。

この「神」というテーマも、正直に申して、日本人にはなかなか理解が難しいところ。

そりゃあ、そうです。

なんと言っても、八百万の神の国ですので。



映画の冒頭で、このルークが犯した犯罪というのも、やや理解に苦しみます。

彼は、ビールを飲んで酔っ払いながら、駐車場のパーキング・メーターを次々に破壊するわけです。

そして、逃げるわけでもなく、その場で現行犯逮捕。

その程度の罪ですから、彼に課せられた刑期もほんの2年間。

普通に考えれば、たった2年なら黙ってお行儀良く服役していればすぐに社会復帰できます。

しかし、ルークは、その2年間を待つことを潔しとしません。

これは、いったいどういうことだと考えます。

彼は、先の戦争では、たくさんの勲章を受けた戦場の英雄という設定でした。

よくよく考えれば、彼のこの不可解な犯罪は、その戦争体験によって、PDSDになっていることを暗示していたのかもしれません。

奇しくも、この時期は、アメリカが、次第にベトナム戦争の泥沼にハマっていく時期と重なります。

母親の死をきっかけに、彼は何かに取り憑かれたように、脱走を繰り返し始めます。

その先のことは何も考えず、ただ脱走することだけに、自分の生きがいを見い出していくわけです。

「体制に飲み込まれるということ」は、死ぬことと同じ。

反体制の狼煙をあげない奴は、飼い慣らされて尻尾を振るポチ同然。

日本人的感覚では、ややもすれば、空気を読めない、わきまえない、面倒くさいやつと思われがちなこんなヒーローが、「自由を愛する国」アメリカでは、永遠のヒーローになるというわけです。

そして、ヒーローは、何をする時にでも、常に快心の笑顔なのです。



この映画がなければ、間違いなく「ショーシャンクの空に」は作られていません。

1974年にジャック・ニコルソンがオスカーを獲得した、ミロス・フォアマン監督の「カッコーの巣の上で」も、病院という管理社会に反発する患者の物語でしたが、映画の奥に流れるテーマは同じものでしょう。

映画俳優として、常にポール・ニューマンを意識していたスティーヴ・マックウィーンが、本作の彼のカッコ良さに、焦りを感じて、同じく脱走を繰り返す囚人を演じたのが「パピヨン」だったのではないかという気にもさせられます。



日本人的感覚ですと、ただむやみに体制に反抗すればいいというものでもないだろうという気持ちがなくはありませんが、国がどんなにコロナ政策の失敗を繰り返しても、自分たちの利権だけを守ることに執心していても、モラルハザードを崩壊させ、虚偽、隠蔽、改竄を繰り返しても、結局のところそれを許してしまうことで、気がつけば自分の首を締めて青息吐息しているという我々の現状を考えれば、今日本に必要なヒーローは、こんな男かもしれません。



しかし、残念ながら、ゆで卵を1時間で、50個食べてみせる政治家は、我が国にはいそうもありません。

気がつけば、政治家も官僚も、自分の保身のために、権力に媚びへつらい、忖度する輩たちだけ。

そして彼らは、こちらが文句を言おうものなら、したり顔でこういうんでしょうね。



What we've got here is failure to communicate.



「こいつはコミュニケーションのとれん男だ!」

あちゃー! こりゃポール・ニューマンには見えない。
ジョージ・ブッシユだあ!!!

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