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なめとこ山の熊 宮沢賢治

なめとこ山の熊 宮沢賢治

冬の百姓は、読書でもして、頭に栄養を蓄えます。
そんな貧乏百姓には、「青空文庫」は実に重宝。
学生時代以来、敬遠していた古典の名作も、今の視点で読むとなかなか刺激的です。

今回は宮沢賢治の短編童話。
猟師と熊の切ないお話です。
農作物がろくに出来ない山間に暮らす小十郎と七人の家族。
彼には熊を殺して、熊の胆と毛皮を売ることでしか家族を養う術がありません。
猟銃を熊に向けながら、小十郎は心の中で呟きます。

「悪く思うなよ。俺はお前が憎くて殺すんじゃない。これしか俺にできる商売がねえからだ。因果な商売だが仕方がねえ。この次は熊になんか生まれてくるんじゃねえぞ。」

しかし、殺した熊の胃袋と毛皮を持って町に売りに行っても、荒物屋の親父にはねぎりに値切られて、二束三文にしかなりません。
やむなく、また山に入ってクマを探します。
木の上にいる熊に猟銃を向けて、狙いを定める小十郎。
観念した熊が声をかけてきます。

「わかった。この命はお前さんに進呈しよう。ただ、どうしてもやり残したことがある。それを済ませたら、必ずお前さんの家にこの体を持っていくから、2年間だけ待ってくれないか。」

小十郎は、クマのこの申し出を承諾します。
そして、2年後のある日、家の外で大きな物音を聞いた小十郎が出ていくと、そこにはあの時の熊が、口から血を出して息絶えていました。
熊は、小十郎との約束を、しっかり果たしにきました。

なんだか、この下りが、妙に切なくて、絶句してしまいました。
生きるためにやむなくクマを殺している小十郎。
しかし、そこには、銃を向ける人間にも、向けられる熊にも、お互い自然という生態系の中で生きているということを認め合った、暗黙の相互理解があるわけです。
人間がクマを殺して、肝と毛皮を取ることがあれば、その熊も川を遡上する鮭を捕まえて食べることで、冬籠の栄養分を取る。
これが、全く同じ次元のことであるという了解があるからこそ、小十郎は熊は殺し合うことはあっても、憎み合うことはない。
そこには、決して綺麗事ではない、自然の中で生きるもの同士のシンパシーがあるということです。
とかく、人間様は自然の生態系のそのまた上に君臨して、自由にそれを支配することで、今日の繁栄を謳歌してきましたが、そのしっぺ返しは確実に降りかかってきています。
そして、世界中に巻き起こった環境問題。
しかしこれも、自然を大切にするあまり、保護し過ぎれば、それは人間自身が自然であるということを放棄していることにもなります。
大切なのは、お互いが共生できることを前提とした、そのバランスが取れた関わり方ということでしょう。
人間が、まだ生存本能のみで生きていた時代であれば、そんな難しいことは考える必要もありませんでした。
オーストラロピテクスも、ネアンデルタール人も、みんな食べて、子孫を存続させていくことに必死で、他の動物たちと同じレベルで、自然の生態系を構成していました。
しかし、今や地球の生態系は、ホモサピエンスの一人勝ち。
かつては、生態系の一部だったことは忘れて、今はその王者として君臨しています。
自然との付き合い方なども、とっくに忘れて、地球全体のエントロピーの増加に、日夜拍車をかけているのが実情。
小十郎のように、自分の貧しさは横においてでも、熊の事情にも想いを寄せるくらいの節度がなければ、我が身を捧げる熊など現れる由もないのは当然の話です。
自然との付き合い方の暗黙のルールを、徐々に忘れ始めた感のある人間。
特に、ここ100年ほどは、あるいは、わかっているのに、あえてそれを無視し続けて来た歴史というるかもしれません。
本作から、宮沢賢治の猟師への視線が垣間見れるのは興味深いところ。
そこには、肯定も否定もありませんが、自然はあくまて自然であるということだけは伝わってきます。
さあ、果たして、人間はその中にいるのか、外にいるのか。

物語のラストで、小十郎は、熊に殺されてしまいます。
しかし、その熊たちは・・・

百姓を始めた身としては、色々と身に沁みる短編でした。


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