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茶の本 岡倉天心

1906年と言いますから、明治39年に発表された本です。
日露戦争で、大方の予想を覆して、日本が勝利したのが1904年のことでしたから、言ってみれば、欧米列強が、極東アジアの小国日本を、無視できなくなってきた頃に、岡倉天心によって書かれた本を翻訳したのが本書。
「翻訳」と書いたのは、実は本書は、元々英語で書かれた本でした。
“The Book of Tea” というのが原題です。
岡倉天心は、当時、米国ボストン美術館で、日本美術部長を務めており、日本の茶道を中心に、日本文化の奥深さを、欧米に知ってもらうことが目的で書かれたガイドブックのつもりで書かれたのが本書です。
「茶の本」ではありますが、内容は、禅などの仏教文化や華道、芸術鑑賞における美意識、自然を愛でる感性、飾らず質素な生活スタイルに至るまで、幅広く日本文化全般に及んでいます。
とにかく、読んでいて、胸躍るのは、著者の堂々とした物言いです。
日本文化に対する絶対的なプライドが論拠の根底に感じられ、それが、時に西洋文化の品のなさを揶揄するようにも書かれていて、溜飲が下がる思いが度々。
個人的には、茶道も華道も嗜みませんが、今の日本が国際的地位と評価を、軒並み下げまくっている現状を考えると、明治時代の日本人の気骨には、羨ましさすら感じました。

「血なまぐさい戦争の栄光に頼らなければ文明国と名乗ることができないと言うのなら、日本は喜んで野蛮国のままでいよう。そして喜んで待つ。わが国の芸術や理想にしかるべき敬意が払われるときを。」

日本が、世界から文明国として認められ始めたのは、日清日露戦争に勝利して以降のこと。
しかし、著者は、首を横に振ります。
「冗談じゃない。我が国は、あなたたちの国が文明国になるはるか以前から、すでに文明国でしたよ。」と。

「茶にはワインのような傲慢さがなく、コーヒーのような自意識もなく、またココアのような見せかけの無邪気さもない。」

自宅から、青梅市にある畑な向かう途中、入間市の一面に広がる茶畑をよく通ります。
そろそろ暖かくなってきましたが、冬の間は、茶葉に降りる霜除けのために、立てられた送風機が回っているのがこの季節の風物詩。
元務めていた会社の周辺には、茶畑が点在していましたので、これはよく見慣れた風景です。
本書には、茶の名産地として、京都の宇治は登場しますが、残念ながら、日本三大名産地の一つである「狭山茶」(実際は、かなりの量が入間市で作られています)は、触れてくれませんでしたね。残念。
そんな、地域で働いてはいましたが、僕自身は日本茶は、あまり飲みません。
「自意識」はそれほどありませんが、コーヒーなら、ほぼ毎日飲んでいる生活です。
しかし、百姓を始めてから、そのコーヒーをさしおいて、圧倒的に飲む量が増えたのがハーブ茶。
畑で栽培したものを、干して乾かし、ドライハーブにして煎じで飲みますから、地産地消です。
畑に遊びに来るゲストにも、これを振る舞うのが習慣ですので、どこか「茶道」のおもてなし精神と通じるところはあるかもしれません。

「茶室は、簡素で俗悪さがないことによって、俗世間のわずらわしさから切り離された聖域となりえた。茶室においては、そして茶室においてのみ、人は何ものにも邪魔されることなく心ゆくまで美にひたることができる。」

書院作りの茶室の空間には、できる限り削ぎ落とした簡素な形の自然が、一期一会の感性でデザインされます。
そこは、身分の差も、世間の喧騒も一切取っ払われている空間。
幸か不幸か、日々野菜づくりをしていると、人と会うことはほとんどありません。
「俗世間の煩わしさ」からは、自然に距離を置ける暮らしになっていますので、自分の場合は、わざわざ茶室を作って俗世間から隔離する必要はなさそうです。
自然そのものが、そこにありますので。

優れた芸術について、著者はこう語っています。

「偉大な芸術家は、洋の東西を問わず、暗示の効用を肝に銘じていた。暗示を使って自分しか知らないことを見る者に打ち明けるのである。傑作を前にしたとき、目の前に提示され「考えよ」と迫る巨大な思考のパノラマに畏敬の念を覚えないものはいないであろう。」

突然で申し訳ありませんが、これを読んでスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を思い浮かべました。
誰もが知っているSF映画の金字塔です。
難解な映画としてもつとに有名ですが、あの映画は「暗示の効用」だらけの映画でしたね。
猿人が空に放り上げた骨。
月のクレーターに立つ黒板モノリス。
そして、宇宙空間にその姿を表すスター・チャイルド。
その全てに、明確な回答を提示しないのが、キューブリック監督の演出でした。
つまり「考えよ」です。
この映画の撮影段階の台本は、もう少しわかりやすかったのだそうです。
異星人の姿も、撮影では撮られていたそうです。
しかし、キューブリック監督は、編集の段階で、「回答」にあたる部分は、どんどん削除していき、この映画を、意識的に理解不能な映画にしていったとのこと。
隠して、この映画は大傑作となりました。
どうやら、この監督は、明治時代に岡倉天心が示した「優れた芸術」の心得というものを、しっかりと理解していたと言えそうです。
古今東西問わず、優れた芸術作品には、答えをドーンと提示するものよりも、「考えろ」と迫ってくるものに、より傑作が多いというのは、映画ファンとしては、大いに納得のいくところです。

「どちらを向いてもそこには破壊がある。上にも下にも破壊があり、前にも後ろにも破壊がある。変化だけが唯一永遠である。」

これを読んで、すぐ思い出したのは、生物学者・福岡伸一氏の書いた「動的平衡」です。
すべてのものは、秩序ある状態から、無秩序な状態に変化していくというのが、エントロピーの法則です。
これに対して、生命のとった対抗生存手段が、エントロピーの法則によって破壊される前に、自らが自らを破壊して、分子レベルでは、常時絶え間なく入れ替わりながら、生命を維持していくという方法です。
これが、すなわち動的平衡ですね。
これを、科学的ではなく、ほぼ直感的に理解していた歴史上の人物もいます。
「方丈記」を書いた鴨長明がその人。
あの冒頭の有名な一文。

「行く川のながれは絕えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」

まさに、福岡氏のいう動的平衡のエッセンスを確実に捉えていたと言えます。
そして、この岡倉天心もまた、日本文化の教養を深めていく過程で、この神髄に、直感的ににたどり着いていた一人だと言えます。

「茶道の本質は「不完全さ」を崇拝することにある。」

思えば、恥じ入ることの多き、この62年間。(本日がその誕生日)
どう考えても、永遠に「完全」には辿り着くことのないのは承知の上で、自らの「不完全」さを愛おしみながら、これからも付き合っていきたいと思います。

では、ここらで茶を一杯。

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