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遠野物語 柳田國男

「鬼滅の刃」が、去年コロナ禍の映画界において、大ヒットしました。
映画の方は見ていませんが、Amazon プライム で、その前年に放映されたテレビ・アニメ・シリーズは見ています。アニメをワンクールまとめて見たのは、久しぶりでした。
時代は大正。人間対鬼のバトルを描いた和風剣戟です。
なぜこのアニメが、ここまでの大ヒットになったのかは、恥ずかしながらイマイチ理解できないところですが、エンタメの王道である、ホラー系異世界ファンタジーに、時代劇を加味したこのアニメを受け入れるレセプターが、日本人にはベーシックに備わっているのだろうという気はしています。

さて、「遠野物語」。
「青空文庫」は、古今東西の古の名著が無料で楽しめるので、真冬の季節の貧乏百姓には願ってもないエンターテイメントです。
本作は、1910年と言いますから、元号で言えば、明治43年に発表された柳田國男による民間伝承をまとめた説話集です。
岩手県遠野市に在住の、佐々木喜善という民話収集家から聞いた話を、柳田國男が119の説話に文章化し編纂した一冊です。
本書を絶賛した三島由紀夫がこう言っています。

「日本民俗学の発祥の記念碑ともいうべき名著であるが、わたしはこれを長年文学として読んできた。採訪された聞書の無数の挿話は、文章の上からいっても、簡潔さの無類のお手本である」

柳田國男といえば、民俗学の開拓者とも言える、この分野のパイオニア。
明治政府の高級官僚でもあった彼は、農務官僚として、全国を歩き回り「日本人とは何か」を、各地に残る伝承からアカデミックに追及していった人です。
したがって、この人は基本的には学者であって、小説家ではありません。
しかし、彼のその学者としてのアプローチこそが、本作を、小説家の三島由紀夫にして、類稀なる傑作短編小説集だといわせしめている訳です。

本作に収録されている説話は多岐にわたります。
河童、座敷童、雪女といった妖怪譚。
山に住むものに対する畏敬。
精霊や、霊界に通じる人々の話。
動物たちを通じての自然界との対話。

それらは、決して全てが、この遠野のオリジナルの物語というわけではありません。
元々は、日本全国に伝わる伝承が、この遠野に伝わってきて根付いたフォークロアです。
そして、遠野の街のロケーションが、その一つ一つの説話に、リアリズムと生命を与えるのに最適であったということは間違いなく言えそうです。
まず、この遠野が周囲を山に囲まれた盆地であったということ。
地図を見ると一目瞭然ですが、盛岡や花巻のような大きな街ではなく、遠野は小さな町です。
従って、大都市よりも、はるか眼前に迫る周囲の山々は、遠野の平地民たちに、畏敬の念を抱かせるには充分で圧倒的な風景だったでしょう。
そしてこの小さな町が、東西の交通の要衝になっていたということも大切なポイント。
東は、釜の石へつづく海への道。
西は、花巻へ続く街への道。
南北は、北上山地を縫う山への道。
この街道を、東北各地の伝承が語り部たちが行き来することによって、遠野の民話が次第に土着して形成されていったのでしょう。
遠野は山間の町で、実際には海に隣接していませんが、「遠野物語」の中には、津波に流された女房の霊と、その夫が海岸で遭遇する説話なども登場してきます。

一つ一つの物語は、寓話であり、ファンタジーであり、怪奇奇譚ですが、筆者はそれが、フィクションであろうとなかろうと、実在の村の人たちから、実際に収集した話であるということと、そこに自分のフィクションは一切持ち込まず、聞いたままをそのまま書き取るという体には、徹底的に拘りました。
なので、本作には、物語を語った人たちの氏素性が、実に詳細に書き込まれています。
そして、柳田自身も、序文で「自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。」と、本作に対する姿勢を宣言しています。

一つ一つの説話は、長くても10行足らず。
ちょっと文章に自信のある人であれば、その一話から話を膨らませて、何十頁、あるいは何百頁のファンタジーにすることが可能なものばかりです。
しかし、著者はそれを潔しとはせず、すべての話を、あくまで日本人のルーツを検証するための学問的な素材提供という姿勢で一貫させています。
一才の装飾美辞麗句を排除した徹底的にシンプルで自由な、筆者の文語体の文章が、本作を歴史に名を残す名著にしていることは間違いなさそうです。

還暦を越えたばかりの僕の世代では、この「遠野物語」をビジュアル変換させるベースになっているのは、やはり漫画家水木しげる氏の妖怪ワールドでしょうか。
氏は、この「遠野物語」も、漫画化してくれています。
そして、もう一つは映画。
本書を読みながら、脳裏に浮かんでいたのは、子供の頃に見た大映映画「妖怪百物語」「妖怪大戦争」のビジュアル。
小泉八雲の原作を映画化した小林正樹監督の「怪談」などなど。
そのものズバリの「遠野物語」という映画も、1982年に作られたいますが、こちらは未見。
これから、本作に触れる若い人たちは、やはり冒頭で触れた「鬼滅の刃」のシーンが脳裏に浮かぶのでしょうか。
そうそう、この「遠野物語」には、不思議なことに「鬼」は登場してきませんでしたね。
秋田には、「ナマハゲ」などの伝承もあったはずなのに、ここへは伝わってこなかったのでしょうか。
もしかしたら、柳田國男か、語り部の佐々木喜善に、個人的に鬼に対するトラウマがあったのかもしれません。

僕には、霊感やスピリチュアルな能力は皆無で、心霊体験などは悲しいくらいに持っていないのですが、たった一つだけ子供の頃の思い出があります。
それは、祖母が亡くなって、遺体が実家に戻って一晩を迎えた翌朝のこと。
叔父の一人がこういいます。
「ねえ、昨日玄関鍵かけた?」
「かけたわよ。私が」
そう答えたのは、叔母。
「これくらい、開いてたぞ。」
顔を見合わせる二人。
すると、我が母親が、顔色ひとつ変えずにこう言ったんですね。
「おばあちゃんが、出ていったんだよ。」
子供心に、これは妙に怖かったですね。
その夜から、祖母の葬式が済むまでの数日間、まだ小学生だった僕は、夜起きて一人でトイレに行くことが出来なかったのを覚えています。

柳田國男は本書の序文でこう言っています。

「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」

こういう世界を、鼻で笑って頭から否定するというようなクールな姿勢を、ともすると現代人はとりがちになってしまいますが、そこはもうグルリと一周して、人知で測りきれない恐怖には素直に「戦慄」できる感性を、改めて持ち直したいと思うところです。

今世界で猛威を奮っている未知のウイルスCOVID-19 だって、きっと自分たちを「ナメている人」を物陰からそっと狙ってますよ。

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