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行徳神輿の繁栄は、江戸川水運と関係ある?

行徳は神輿(みこし)のまちとして知られおり、昭和初期のピーク時には年間数百にも及ぶ神輿が製作され、関東一円に供給されていたとも言われています。

こうした行徳の神輿づくりに興味を持ち、「行徳神輿の繁栄は江戸川水運との関係があるのでは?」と思い、調査したことがあります。
この調査は、2018年度に千葉商科大学から地域志向研究助成金をいただき、発表させていただいております。

大まかな調査の内容は、行徳神輿を所持する神社や町会の拡がりを年代別に地図上に示すことでした。もちろん当初は、神輿が川の流域に分布するだろう、という仮説がありました。

結果は、予想を裏切る結果でした。そもそも、神輿づくりが本格的になりだしたのは大正末から昭和にかけて(1920年前後)であり、トラック輸送が普及を始めた時代なんですね。

とはいうものの、せっかくなので、この調査結果の一部を紹介したいと思います。また、この調査を通じて行徳神輿を所有する方々と繋がることができ、貴重な経験をさせていただきました。何より、行徳の伝統のすごさを持ち主の方々から教わり、私自身刺激を受けることになりました。
この体験が、行徳神輿の凄さをみんなに知ってほしいという想いとなり、2019年12月の「しる・みる・もむ行徳神輿」の開催に繋がります。(このイベントはまた追って紹介します。)

(1)行徳神輿とは

行徳で製作された神輿を行徳神輿と呼んでいます。(行徳のお祭りで担がれる神輿のことを行徳神輿と呼ぶこともあります。)

行徳には「後藤直光」「浅子周慶」「中台祐信」の3つの神輿店がありました。残念ながら「後藤」と「浅子」は平成期に廃業してしまい、「中台」のみが現役で営業しています。

(2)神輿づくりのはじまりと盛衰

調査では、製作者と製作年が一応確認できている神輿の情報を集め、統計と地図上の分布を作りました。

江戸時代や明治時代に作られたものは多数出てくるかと思いきや、数個確認できただけでした。下のグラフは、所有者の方が公開されている情報を集めた行徳神輿の数の製作年推移です。(製作年が定かではない神輿はこのグラフから除かれているので母数は多くはありません。)

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明治から昭和初期にかけて、大きく数が伸び、太平洋戦争(昭和10年代)の前後でピークを迎えています。江戸時代から脈々と神輿づくりが継続していると思ってましたが、全く違っていました。

グラフではピーク時の製作数は10年間で50〜70程度ですが、行徳でつくられた神輿は総計2000にも上るとも言われているので、リアルな神輿数はこんなものではないです。

(3)神輿の輸送方法

次に地図上の分布です。江戸〜大正期に製作された神輿を所有する神社の場所を地図上に表しました。これを見ると、江戸川、荒川(中川)、隅田川沿いに多く分布するのがわかります。当時は水上輸送が主だったことから、これらは水運で運ばれた可能性大ですね。

オレンジ色のマークは大正期の神輿を表しており、西の方へ広がっています。多摩川沿いに2つほど存在してます。多摩川は水運に適さないという話を聞いたことがありますが、確実な情報は今のところ得られてません。

いずれにせよ、西の方の神輿は水上輸送だけでは運べないことは確実で、人力もしくはトラックなど何らかの陸上輸送手段を取られたと思われます。大正10年には、国内の自動車数が1万台を超えていたとの資料がありました。

日本のトラックの歴史(日新出版)より

そして、昭和に入ると数がどっと増えます。旧来の下町だけでなく、世田谷や太田そして杉並などにも広がっていきます。

この時代になるとトラック輸送が普及しており、写真などの証拠までは得られないものの、取材先から「神輿がトラックで到着した」との証言情報が出始めました。

調査結果としてわかったことは、「行徳で神輿が多数つくられるようになったのは昭和になってからであり、すでにトラック輸送がメジャーになっていた。水運の時代につくられた神輿は、ほんの僅かであり、数えるほどしかない。」ということでした。

(4)行徳は神輿師という集合産業を生み出した

実は、煌びやかな神輿の作品で名を世に轟かせた「浅子周慶」も「後藤直光」も江戸時代には神輿を本業にしていたわけではありません。

「浅子周慶」は江戸期には、仏師(仏像専門彫刻師)として活躍し、明治期に政府が打ち立てた廃仏毀釈により仕事を失い、神輿に活路を見出したと言われています。

さらに、「浅子周慶」「後藤直光」は、昭和期には神輿の大量生産を手掛けました。以下のグラフは宮神輿名鑑という書籍に掲載されている神輿の製作者の推移を表しています。

紫の折れ線グラフは、その時期に製作された神輿の総数を示しています。江戸〜明治にかけて神輿の生産はまあまああるものの、地域の宮大工さんやそれらの分業により製作されることが殆どでした。従って、一人で多数の神輿製作を手掛けることはありませんでした。

大正期から昭和期にかけ、「浅子」「後藤」が浅草の「宮本」と共に、神輿製作の半数以上を担うようになります。一人の職人が、多数の神輿製作を手掛けたのは、この三者が初ということになります。

つまり、行徳の「浅子」「後藤」が、神輿師という職業(産業)を産み、行徳は神輿ブランドの聖地になっていったと言えるでしょう。

(5)イベントとしての船渡御

さて、結果として、かつて水運の時代につくられた神輿は少ないことが判明したのですが、江戸川水運により運ばれた神輿は確実にあったようです。

千住(荒川区)にある素盞雄神社は、隅田川沿いにあります。千住といえば水運の拠点でした。また、素盞雄神社の神輿は「浅子周慶」により明治10年につくられました。水運で運ばれたという証拠が残っている訳ではないですが、ほぼ船で運ばれたことは間違いないでしょう。

素盞雄神社の神輿は昭和63年に「浅子周慶」により修復されています。修復された神輿を納品する際に「船渡御」という方法が取られました。十数隻の船団により、行徳から千住まで船で厳かに運ばれたそうです。

また、かの有名な深川の富岡八幡宮の大神輿が納品されたのも船渡御という方法でした。平成3年のことであり、一大イベントとして行われました。

富岡八幡宮の大神輿の船渡御の様子は、行徳ふれあい伝承館で展示されています。行徳ふれあい伝承館は、「浅子周慶」の仕事場であった浅子神輿店の母屋を文化財として保存し、行徳神輿の歴史などを展示しています。ぜひ一度見に行ってみてください。

10隻の船団がさっそうと煌びやかな神輿を運ぶ姿を想像すると、川好きとしてはたまらないワクワク感を覚えます。船渡御には莫大な費用がかかるため、将来リアルな船渡御は実現しないかもしれません。しかし、このような歴史があったことはぜひとも映像として残しておきたいものです。

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