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新刊「行徳の歴史と神輿と祭り」のススメ



(1)「行徳の歴史と神輿と祭り」が2022年に刊行されました。

半年もたってしまったが、2022年7月に「行徳の歴史と神輿と祭り」が刊行されました。この書籍、「行徳まちづくり協議会」が企画・製作したもの。イベントが制限されるコロナ禍中、行徳の歴史や文化に関心をもってもらえるよう知恵を絞って考えた結果、書籍の製作を決めたそうです。
この書籍、普通の歴史本と違い、写真やイラストをふんだんに使い、見るだけでも視覚的に楽しい内容になってます。小学校などにもこの書籍をおいていただいているようで、お子さんも楽しめるでしょう。

実は、私も協力者として名前を入れていただいており、感激のあまり紹介記事を書くことにしました。(書籍作成はお手伝いできず、ホントごめんなさい。)

大御所の先生方に並び、協力者に名前を入れていただいた。

書籍は「行徳ふれあい伝承館」で購入いただけます。また図書館などでも閲覧できますので、記事を立ち読み感覚で眺めていただき、実際の書籍をぜひ手にとってみていただきたいと思います。

(2)最初の江戸川放水路はこうやって開削された。

市川市を南北に分断する江戸川放水路。ハゼ釣りやバーベキューなど市民の憩いの場だが、この川のせいで南北の往来をどうしても難しくしている。行徳在住市民でも、何年も本八幡に行っていないという人も多いのではないか。

この江戸川放水路は、この地域の洪水対策のため、大正期に掘削されたものである。大正期なのでもちろん重機もない。スコップなどを使い人力で掘削されたらしい。

大正期の開削当時の江戸川放水路の様子

そして、大正期の川は、こんな感じだったらしい。川幅は500mであったものの、通常時の水の流れは小川のせせらぎのごとし。大雨で増水すると500mめいっぱいになるのだろうが、いつもはこんなのどかな様子だったのですね。こんな様子なら、南北の往来もあったのかもしれませんね。

今のような大河になったのは昭和に入ってからのようです。

(3)旧江戸川のほとりにあった行徳小学校。旧江戸川が生活の中心だった。

そして、今の旧江戸川。江戸川放水路ができたため、今や「旧」という不本意な接頭語をつけられてしまった。旧江戸川は、本家本元の江戸川だ。江戸~明治にかけ、江戸川は江戸と地方をつなぐ物流の大動脈だった。

行徳はそんな大動脈の要衝だったのだ。東海道新幹線でいうと関西から東京入る直前、すなわち横浜のような位置づけであろうか。

今や生活や経済圏は東西線を中心に形成されているが、当時は旧江戸川を中心としてつくられた。行徳小学校も旧江戸川沿いにあったのだ。

この写真は旧江戸川沿いにあったころの行徳小学校。後者のすぐ裏側には川が流れており、しかも船が係留しているのが見える。校庭から川が見え船が見えるなんて羨ましい。

ちなみに、旧江戸川沿いから、今のバイパス通り沿いの位置に移転したのは戦後間もない1950年代だそうです。

つい先日、行徳小学校は創立150周年を迎えたそうです。鉄道開業150周年の翌年に創立150周年を迎えるとは光栄なこと。明治維新の文明開化とともに近代教育を整備し、その当時から行徳小はあったのだと思うと行徳の歴史の深さに畏れ入ります。

お次の写真は渡し船。旧江戸川の生活基盤だったようです。自転車も積んでくれた時代もあったらしい。毎日ピストン輸送してたんでしょうね。

今ではコンクリートで固められた護岸になり、一部の場所を除き水辺に近づくこともできなくなってますが、これを見ると、人は川の流れやさざ波を感じ、それに癒されながら生活していたんだ、と。川は生活の一部だったんだろうなと、思います。

(4)旧江戸川沿いにあった商業都市。旅館まであった。

旧江戸川は生活の中心であり、そして商業の中心であったわけで、川から一本入った行徳街道沿いには様々なお店が軒を連ねていたようです。

今でも、旧家や、よく見ると看板のある商店も残っていて、その面影を感じる場所はあったりします。

この地図は、明治時代の行徳街道の商店の再現図です。図の上側に「常夜灯」と書かれており、今の常夜灯のある場所と一致します。

地図には今も現存するものが多く書かれてます。
「加藤塩屋」・・・加藤家住宅(国登録文化財)
「笹屋うどん」・・・笹屋うどん跡
「仏師屋浅子」・・・旧浅子神輿店・現ふれあい伝承館(国登録文化財)
「畳屋」・・・藤井畳店

ちなみに、Google mapで現代地図を見てみるとこうなっています。

今や住宅がひしめきあっている閑静な場所ですが、ひと昔前までは、船場だったわけで、下船した人たちがたむろする場所、つまり行徳駅前のような、人がひしめきあう、経済の中心地だったのでしょう。

地図にある「旅館信楽」の写真も載っていました。かなり貴重な写真です。瓦屋根の2階建てだったことがうかがえます。

写真後方には巨木が見えてますが、これは、行徳3丁目にあるお宮(神明宮)の巨木ではないでしょうか。今も巨木がありますよね。

数年前に佐原にある木の下旅館という老舗の旅館に泊まったことがあります。残念ながら最近旅館業はやめてしまったそうです。2階には狭い寝床があり、2階から中庭を眺めたり、床をキシキシ鳴らせながら1階の共同浴場にいったり、食堂にいったり、した記憶があります。まさにそんな旅館が脳裡に浮かびます。

(5)行徳の海苔づくり

行徳ではひと昔前までは海苔づくりが盛んだったそうです。妙典あたりでは今でも海苔づくり業者はいくつか残っています。私も工場を見学させていただいたことがあります。試食もさせていただいたのですが、かなり旨味があっておいしかったです。江戸前海苔として各所で販売されているそうですが、パッケージに入ってしまうと、行徳産であることはわからなくなってしまってます。

写真は行徳での海苔干しの様子を撮ったものです。こうやってひとつひとつ干していたのですね。毎日こうやって海苔を漉いては、こうやって干して手作業で海苔をつくっていたのでしょう。

おばさんのかっぽう着姿が昔の日本の風景を映し出しています。自分が小学校くらいのときは、全国いたるところまだこんな姿があったのだと思います。

最後は、航空写真。海苔干しの模様が空から判別できるというもののようです。

海苔の原料は海藻なので、海が近く、また海辺に平地が広がり、おまけに安価に塩も手に入る行徳ではうってつけの産業だったのでしょう。

今回紹介した写真は、書籍の中のほんのわずかでした。書籍を販売している「行徳ふれあい伝承館」はこちらです。ぜひ足を運んでお買い上げください。


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