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行徳と木下街道でつながる布佐・木下(きおろし)

ひさしぶりに利根川に再会するために木下(きおろし)、布佐(ふさ)に行ってきた。木下は千葉県印西市、布佐は千葉県我孫子市にあり、行徳から電車で約1時間強なのでふらっと行ける距離にある。

木下(きおろし)、布佐の位置(Google map

私の住む市川では、木下街道(きおろしかいどう)という街道がよく話題に登場する。狭く渋滞でひどいことで有名だ。今は起点が市川市の鬼越あたりだが、昔は行徳まで伸びていたらしい。

江戸時代には、銚子で取れた魚介類を木下まで利根川伝いに舟で運び、そして木下で荷馬に乗せ換え、木下街道で行徳まで運び、そしてまた舟に乗せ、江戸まで届けたとのことである。

行徳とも繋がりがあったという、そんな話をきいて、この利根川沿いの町を初めて訪れてみることにした。

2.木下河岸
JR成田線の木下駅でおりると、まっさきに古風なせんべい屋さんが目に付く。どなたもいらっしゃらないようで、買うのはあきらめ、写真だけとってスタートすることにした。

木下(きおろし)駅前のせんべい屋さん

まずは利根川との再会。下流の銚子側を眺めると夏空に映え、利根川がブルーだ。白い雲がのどかにつながり、北海道を彷彿させるような風景だ。電車で1時間でこんな風景に出会えるなら気軽に来たいものだ。

利根川の河川敷(木下河岸跡)

そして、ここが木下河岸があった場所らしく、看板がたっている。看板の解説によると江戸時代は「甚だ繁栄の地」だったそうだ。「利根川図志」の挿絵を見ても、舟が集まり、人が集まる賑やかな場所であったことが伺える。

河川敷にあった立て看板

今昔マップで木下を見ると面白い場所であることがわかる。利根川が大きく屈曲している。また手賀沼があって、手賀沼からの流路が利根川と木下で交わっていることである。
また、右の明治時代の地図の手賀沼が巨大であるのに対し、現代地図では沼がなくなっている。これは明治以降の干拓事業により沼を畑に変えたとのことである。なかなか面白い場所である。

木下、布佐を今昔マップ on the webで(左が明治時代、右が現代)

素人ながらの考察として、木下が繁栄したのはこれらの地形的な要因もあるように思う。ちょっとした仮説風にまとめると、
①利根川が大きく曲がっている場所に位置し、流れが比較的ゆるやかになっていて河岸として機能しやすかった?
②手賀沼と利根川の結ぶ手賀川の起点になっていて水上交通の要衝として機能した?
③利根川流域としては、直線距離で都心に近く陸上輸送とつながりやすかった?

木下には、「吉岡まちかど博物館」なるものがあり、木下の歴史の伝承拠点となっているそうである。今度来るときは、ここにも立ち寄って聴いてみたい。
もうちょっと調べてみたい。

https://www.machijuku.info/%E5%90%89%E5%B2%A1%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%A9%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

3.手賀川の魅力

木下を歩いていて面白いと思ったのが手賀川である。手賀川は利根川と手賀沼を結ぶ川である。

今昔マップで明治時代の地図を見ると、手賀川は利根川に直接に流れていた。地図からするに舟も行き来できるような分岐にも見える。
しかし、その流路は今は無くなり、現在はおそらく水門(現代地図の左側)から流すのみとなっているのであろう。

左が明治後期、右が現代(今昔マップ on the web)

昔の流路の痕跡がわかる場所があった。「銚子屋旅館」の裏にある空地である。利根川沿いにずっとこのような空地が続いている。木下まち育て塾https://www.machijuku.info/membersでも「「銚子屋旅館」の裏玄関は「利根水郷ライン」に面しており、そこには昭和31年頃に埋め立てられた利根川と手賀沼を繋ぐ内川が流れていました。」との記述あるので間違いなさそうだ。

銚子屋旅館の裏の空地。川の痕跡のような空地が利根川沿いに続く。

この空地(旧手賀川の痕跡)に沿って歩くと手賀排水機場にぶつかる。これが今の手賀川と利根川の交差点であろう。さきほどの地図の左端にあった利根川へ垂直に交わる交差点だ。
そして、この先、手賀川は手賀沼に向けて遡上していくわけであるが、非常にのどかな民家沿いの流れになっている。民家の庭から川に触れ合えるようなところもあった。ここから先はまた別の投稿で紹介したいと思う。

手賀排水機場

それにしても、これまで紹介してきた明治時代の地図からわかるのは、この地域は明治時代、人口密集地域であったことである。
これまで紹介した地図の右側が明治時代の地図である。河川流域が真っ黒になっているのが民家が密集していることを表している。

私は、手賀川沿いの民家を抜けたあと、利根川沿いに上流に向けて歩いた。お隣の街、布佐で泊まることにした。布佐は木下の隣の駅でもあり、ここも水運で発達した街である。
今でこそ、布佐は駅の周りに民家、マンションなどが建ち並んでおり、郊外のベッドタウン的な街を形成している。
しかし、明治の地図を眺めていると面白いことに気が付いた。明治の地図では駅の周りに民家が全く見られないのである。以下の左の地図が明治、右が昭和初期の地図である。左側の明治時代の地図によると川沿いに民家が密集している。そして昭和にかけて少しずつ駅までの間に民家が建つようになってきていることがわかる。
明治から昭和にかけて、水運から陸運への変化が非常によくわかる。つまり昔は、利根川沿いが生活の中心点であったということであろう。明治以前の賑やかな街の様子に思いを馳せつつ、布佐の川沿いの街を歩いて今晩お世話になるホテルに向かった。

左が明治後期、右が昭和(1960年代)(今昔マップ on the web

5.ビジネスホテル布佐

今回一晩お世話になったのが、このビジネスホテル布佐である。古いホテルだそうであるが、非常に清潔なホテルだった。食事も充実してて、お風呂も24時間。なによりも料金がリーゾナブルだ。https://www.hotel-fusa.com/
朝、チェックアウトのときに女将とお話することができた。このホテル、利根川の近くにあるのだが、昔は利根川の河川敷にあったとのことだ。昔の利根川には堤防がなかった。今からはなかなか想像つかないが、川と生活はくっついていた。堤防なく河川敷に家や商家、旅館などが立ち並んでいたのであろう。昭和にかけて治水対策が盛んになり河川改修、堤防工事のさなか立ち退きになったということらしい。
立ち退き後、建物は新しくなり今に至っている。なにより感銘受けたのは、建物はかわったとはいえ、そんな老舗旅館に泊まれたということ。また、今度ゆっくり話しを伺いに来たい。

お風呂も食事もリーゾナブルにいただけるビジネスホテル布佐

6.おまけ(居酒屋)

今回は、晩御飯は「居魚家いがらし」というお店にお世話になりました。
https://tabelog.com/chiba/A1203/A120304/12014858/
「たかべ」という変わった名前のおさかながメニューにあり、塩焼でいただきました。おいしかったです。

「たかべ」


カウンターでご一緒させていただいた二組の夫婦からもいろんな布佐・木下ばなしを伺うことができました。
そして飲みすぎて、翌日は胃腸の調子もすぐれずさっさとかえってしまいました。
また、ゆっくり来たい。

居魚家いがらし

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