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大下剛史

初優勝を手繰り寄せた『44個の執念』

大下剛史330

野球中継を観ているとする。

バッターが鋭く弾き返したボールがピッチャーの足元を転がり、センターに抜けようかという、まさにそのとき、画面の右隅からスルスルと二塁手があらわれる。

「あっ」と思う間もなく二塁手は伸びるように逆シングルで捕球し、振り向きざま一塁に送球する。
ボールはランナーが一塁に走り込む寸前に一塁手のミットにおさまり、間一髪「アウト!」。

これがテレビ観戦の醍醐味のひとつだ。
このプレイを見せ場にしていたのが大下剛史。同じカープの後輩・菊池涼介ほどの派手さはなかったが、いぶし銀タイプの名手だった。

プロ野球が見せることを前提としているからには、プロ野球選手には個々のに売り物というものがある。またそれがなければ、プロでおまんまは食ってはいけない。

豪球・豪打をウリにする選手がいれば、攻守・巧打をアピールする選手もいる。大下の場合は走攻守の巧みさだった。
その売り物の守備が大下の運命を大きく変え、カープというチームに栄光をもたらすことになる。

ときは昭和49年。当時東映の二塁手だった大下は、大阪球場での南海戦で、自慢の守備を見せた。ランナー一塁でゴロを捕球したショートからの送球を受けた大下は、いつものように走者に軽くタッチするや、その反動で一塁に送球した。ダブル・プレイの完成だ。

ところが二塁の塁審はランナーを「セーフ」とコールした。完全にタッチしていたが、塁審は見逃していた。
激昂した大下は抗議したが判定はかわらない。しかも、このタッチプレイをめぐって、味方チームのコーチと険悪なムードになってしまった。

「お前のタッチが甘いから、セーフになったんだ」守備コーチは大下を責めた。
日ごろからコーチは大下のプレイを「基本に反する」といって批判していた。もっともスピーディな流れるようなプレイ。この自分のプレイに自信とプライドを持っていてる大下との間には、いつからか修復できない溝ができていた。

その日からふたりの確執は決定的となり、たぶんそのことが原因で大下はシーズンオフに広島カープにトレードされた。
電話一本で「トレードに出す」という球団の姿勢に立腹したが、郷里の広島であったことは救いだった。
「やってやろう。広島で見返してやる」大下はそう誓った。

この事件が起こったのが昭和49年というところが面白い。いうまでもなく、翌50年のカープ初優勝に大下が果たした役割は少くない。いや、もし大下がトレードで移籍してこなければペナントレースの帰趨はどうなっていたかわからない。
とすればカープ球団にとって、この事件が幸いしたといえるだろうし、当のの大下にとっても吉とでた。
災いは転じて、いつか福となるものだ。

新監督のジョー・ルーツによるチームの意識改革。前年に大バケした山本浩二衣笠祥雄。成長著しい脇役たち。
ペナントを狙うための要素は揃った。そこに大下というピースが加わって『カープ初優勝物語』のキャスティングはできあがった。

そのシーズンの開幕戦。
「1番、セカンドでスタメン出場した大下は、ヤクルトのエース、松岡弘の快速球を巧みに軽打したかと思えば、スタンドへもぶち込んで見せた。
「これでいけれる」という自信をつかんだ大下は、シーズンを通して随所で快打を放ち、塁に出れば果敢に盗塁し、ダイヤモンドを駆け回った。大下は走ることで得点に結びつけ、チームに喝を入れけん引した。

カープに初優勝をもたらした盗塁は44個。これで大下ははじめてのタイトルとなる盗塁王を獲得した。
この3年後に引退してしまう選手が、確実に衰えている脚でひたすらつぎの塁を狙った執念。それがカープ初優勝をたぐりよせたともいえる。(敬称略)

❋禁無断転載


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手作り野球場DREAMFIELD元管理人。ホーリー農園オーナー兼物書き。主な著書に『わしらのフィールド・オブ・ドリームス』(メディアファクトリー)、『衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?』(文工舎)、『初優勝』(プレジデント社)、『ズムスタ、本日も満員御礼!』(毎日新聞出版)など。
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